打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

祝☆歴史ファン4周年

DOLに登場する好きなNPCを一人あげ、その人物について書いてみよう


歴史ファンの4周年企画で行っている上記の共通テーマ募集。
私にとって好きな、と言われればやはりこの人。


バルタザール。


架空の人物ではありますが、やはりイスパ人としてはバルタザールの名が真っ先に浮かびました。まあ、イスパ27~30章での彼のかっこ良さはちょっと形容しがたいですね。生き方そのものは不器用すぎる気がしないでもないけど・・。ともあれ他の国のイベントは全部をやっているわけではないので比較しようがありませんが、国イベントNPCとしては抜けた存在と思ってます。実力的にも戦闘用ガレオン乗りなのでゲーム開始初年あたりだと圧倒的に頼りになる存在で、この点に付いては他の国別NPCの追随を許さないでしょう。いわんや某軽ガレオン娘など・・・。まあとにかく書いてて止まらなくなりそうなくらい、バルタザールは別格の存在。それだけに、以前のオスマンイベントでヨーロッパ側の窮地で復活してきた時は素直に感動があり、いい演出だったと思っています。



いっぽう彼との対比で見るたびに複雑な気持ちになる、
ありていに言って 『このへたれが!』 と思わずにいられないのが、
バレンシア~マラガ間あたりをウロウロしている、

メディナ・シドニア公。


個体としての第七代シドニア公は別に劣悪な人物と思っていませんが、海事の経験と適正の無さ、そしてそれがもたらした結果についてはもう、歴史への影響が大き過ぎてため息すら出てくるものが。
しかもこのシドニア公がDOL内で乗ってるのは、史実を反映してかイスパニアNPCとしては非常に珍しいガレアスだったりしますので、なんかもう余計にトホホ感が・・・w
彼とアルマダ海戦に付いては歴史ファン内でも何回かに分けたシリーズ記事を組んでいますので、
そちらを見るといいですね。(あー、なんか記念記事らしくなったかも)


取りあえずお題の答えはこんなとこでしょうか。
4周年おめっと~す。




おしまい。

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  1. 2009/04/17(金) 21:30:48|
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ハンガリーの黄金時代

東欧の英主


古代から書き始めた人物シリーズ、ようやく中世末期~大航海時代の人物へ着手できそうなところまで来ました。ここ数回は割りとメジャーな人物を取り上げることが多かったのですがこれから数回は 『それ誰だっけ?』 っていうくらいの所まで若干知名度引き下げて書いていこうと思います。
ところで、この人物伝シリーズ立ち上げた本来の目的は、大航海時代Onlineにクエストで登場している・またはこれから登場しそうな少々マニアックな人物やNPC関係者を追って見ようと思っていたのですが、どうも脱線して行ってるようです。今回も内陸の人だから登場しないかも・・・ですが、取りあえず今まで書いていない地方の人ですのでやってみます。


マーチャーシュ・コルヴィヌス (1441~1490、1458~1490年ハンガリー王)

1458年、わずか17~18歳のマーチャーシュはハンガリー王に選出されます。
この時期、世界は激動の中にあり、わずか5年前には東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルがオスマンの包囲攻撃を受けて陥落、東ローマが滅亡してしまいます。これによって後にオスマンの攻勢を直接受ける形となってしまったのが大陸ではハンガリー方面でした。更に西ではハプスブルク家のフリードリッヒ3世が次第に領地をあちこち獲得して行き始めたり、フランスは百年戦争に勝利し、南のイタリアではルネッサンスの息吹が、イベリアではエンリケ航海王子によるアフリカ大西洋岸の開発が真っ最中・・・。マーチャーシュはそんな激動の時代の(ちょうど中世と近世の転換期ですからねぇ)辺境の王として立ったのでした。

このように当時のハンガリーは危機的状況、特に東のオスマンの脅威はじわじわと領土を割譲される絶望的状況で、せっかく国内に金銀銅の各大規模鉱山が発見されて光が見えていただけにかえって各国の標的となってしまっていた感がありました。
摂政フニャディ・ヤーノシュによって一身に支えられていたこの頃のハンガリーは、この危機的状況で若い息子マーチャーシュ・ヤーノシュを王に据えます。果たして王となったマーチャーシュは覇気と知性のバランスが取れた英邁な国王で、絶望的状況のハンガリーをヨーロッパ諸国にその名を知られる大国へと育て上げます。
王となったマーチャーシュはまず割拠していた国内諸侯の力を弱めると同時に巧みに取り込み、小領主と国王との関係をも強化・更に民間人も積極的に登用して国内の活力を高めることに成功します。財政的には直接税の導入と鉱山開発で安定的な収入が見込めるようになったマーチャーシュは軍の強化にも着手します。外人傭兵部隊を主力に編成されて暗黒軍と各国に恐れられた常備軍を創設し、1470年には貴族その他で構成された身分会の承認なしでも重要事項の決定が可能となるほどの絶対王権を完成させます。またさかのぼって1463年には敵対していたフリードリッヒ3世にもハンガリー王の権威を正式に認めさせます。

マーチャーシュを単なる軍事的英雄と見ていたのでは恐らく近視眼的な評価となってしまうでしょう。彼は文芸の保護と振興にも力を注ぎ、図書館には所蔵する書籍2000巻以上を進呈し、ハンガリー最初の印刷物と言われる『ハンガリー年代記』も納められていたといいます。またナポリ王の娘を后に迎えた関係でイタリアから流入した文人を保護したルネッサンス君主としても知られ、王宮にはヴェロッキオの彫刻やボティチェリのフレスコ画に彩られていたと言います。またコルヴィヌスという名称自体、古代ローマのヴァレリウス・コルウィヌスを系図上の先祖として付けたものですので、その傾斜振りが伺えます。

内政・外交・軍事・文化と同時にあっちこっち頑張っているマーチャーシュは即位当時から軍事的成功を収めます。まずハンガリー北部を平定し、1463年にはボスニア方面をトルコ人から奪回、1465年から教皇の要請を受けて出兵したボヘミア地方では、当時最強クラスの武力を誇ったフス派の残存勢力などを撃破して、だいたい1470年代前半までにはモラヴィア・シレジア・ラウジッツと主要地を領有し、ボヘミア王を自称します。更に強敵ハプスブルク家に宣戦布告、次第にオーストリアの支配権を勝ち取って行き、1479年にはオロモウツの和約で実質的なオーストリア大公に、更に1485年にはウィーンすら占領してしまいます。

こうしてハンガリーの最大版図を築き、東ヨーロッパで確固たる地位を占めて諸国に名声を轟かせたハンガリー王マーチャーシュはもう、神聖ローマ皇帝位すらうかがえるかも!というところまで来ていました。実際、ハプスブルク対抗で彼に帝位をと言う可能性はあったと思いますが、残念ながらマーチャーシュは1490年、惜しくも50歳で亡くなってしまいます。



マーチャーシュ王の死後、オスマンの攻勢にさらされ続けたハンガリーは1526年のモハーチの戦いで国王ラヨシュ1世が戦死、更に1541年にブダが陥落してしまい、これ以降は東をオスマンに、西の一部をオーストリアのハプスブルク家に分割されてしまいます。勇敢なるマジャール人の独立は1867年のオーストリア=ハンガリーという2重君主帝国の成立、更に第二次大戦後のハンガリー人民共和国の成立まで待たなければなりませんでした。

ポーランドなどもそうですが、陸続きの平野部で東西を大国に挟まれた地方では、いったん大国が出現してもパワーバランスの変化であっという間に消滅してしまうことがままあります。地政学的には面白いんでしょうけど、住んでいる人はたまったものではありません・・・。ハンガリーもヨーロッパとイスラム世界の境界に当たる微妙すぎる地方、もっと言うと東方の騎馬民族の影響すら受ける地帯のため、古代からたびたび歴史の波に揺らされ続けたのではないでしょうか。
ちなみに現代のハンガリー紙幣にもマーチャーシュの肖像が印刷される程、彼はハンガリーの栄光の時代の象徴として永く国民の尊敬を受けてきたのでした。


おしまい。

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  1. 2006/10/22(日) 10:53:35|
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スルタン・バヤジットの悲劇

稀有な悲劇の王者


今回取り上げた人物は史上でも稀な形での最後を迎えます。
洋の東西を問わず、歴史上の人物や国家の興隆~衰亡にはいくつかの一定のパターンがあり、そう外れたケースでの推移は見られないと思っているのですが、この人の代でのオスマン・トルコは稀なサンプルと云える推移を見せました。




バヤジット1世 (1354~1403 1389年~オスマンの第4代)


(オスマンの興隆)
バヤジットは1354年、既にある程度拡大していたオスマンの君主ムラト1世の子として生まれます。
オスマン朝の起こりは、13世紀のモンゴルの拡大によって周辺遊牧民の玉突き移動が発生した流れの中の事でした。そのうち、中央アジアから移動してきたオグズ族の中の分家とも云えるオスマン部族は、当初はアナトリア地方(トルコ)の北西ソウト地方の小国でしかありませんでしたが、13世紀末の族長オスマン1世の登場により、次第に周辺部族や領主を支配下に置いて行きます。
こうして1326年頃までにはオスマン君侯国と呼ばれる中規模の国家が成立します。更に2代目のオルハンはビザンティン帝国の皇帝ヨハネス6世との同盟に成功し、その後オスマンの軍事力に頼るビザンティンの窮状にも付け込んで、バルカン半島北部のトラキアや小アジア半島のニケーア・ブルサといった諸地方をじわじわと侵食し始めます。また、コンスタンティノープルの至近、ダーダネルス海峡~マルマラ海の沿岸部に要塞を築いて影響力を拡大させてゆきます。
更にオスマンの拡大が決定的になるのが3代目のムラト1世の時代で、アドリアノーブル・マケドニア・ブルガリアなどを奪取し、更に精強で知られたイェニチェリ軍団の創設など、彼の代でいよいよ帝国と呼べる陣容が整ってきます。バヤジットが生まれたのは、正にそんな活力にあふれた拡大期のオスマンでした。またムラトの代で中央集権・行政管理も整備されてゆき、質実共に国力を固めてゆきました。
ところが、1389年のコソヴォの戦いにおいて、バヤジットの父ムラト1世は、セルビア王国を始めとしたバルカン諸国・周辺諸侯の連合軍を撃破しその優位を決定的にしますが、残念ながらムラトは終戦直後にセルビア人貴族によって暗殺されてしまいます。

(バヤジットの即位)
こうして既に35歳になっていたバヤジットが跡を継ぐ事になります。
ここまで優秀な君主を続けて輩出し、拡大基調に乗ってさぁこれから!といった感のあるオスマン帝国。しかもバヤジットは更に輪を掛けて優秀な軍人でした。
即位後のバヤジットは小アジア内の諸侯国をほぼ制圧し、更にセルビア・ボスニア・ブルガリアにとどめを刺します。また1391年にはコンスタンティノープルを包囲するまでになっていました。バヤジットのその豪気にして迅速な戦いぶりは 『稲妻・雷光王』 と恐れられ、遂に境を接することになったヨーロッパ諸侯は震撼します。特に隣国のハンガリー王ジギスムントの怖れは大きく、彼は西欧諸侯に救援を求めます。

(ニコポリスの戦い)
こうしてハンガリー王の要請に応じて参集した連合軍、主力はフランスのブルゴーニュ公ジャン率いるおよそ2万のブルグンド軍団に、ドイツ・イングランド・バルカン諸国と当然ハンガリー王ジギスムントの軍勢で構成された、もはや十字軍でした。またフランスの著名な元帥ブシコーもこの戦いに参加しています。
こうして1396年、ブルガリア北部ニコポリスの戦いで両軍は激突します。
この戦いで川を背負った形で布陣した十字軍は、左右からオスマンの騎兵団に撃破されてゆき、最後は中央のハンガリー王の陣も破られて敗走し、その豪気さで『無怖侯』と呼ばれたブルゴーニュ公ジャンすら捕虜に取られる完敗を喫することになります。
最終的にバルカン諸国はオスマンの勢力下に入り、バヤジットはイスラムのカリフからスルタンの称号を得ます。

(東方の英傑)
この頃、東方のイラン方面ではバヤジットにも負けない英傑が出現していました。
ティムール。
既にチャガタイ・ハン国、イラン高原、次いでバグダードを制圧していたティムールは、バヤジットの勢力拡大に恐怖していた小アジア東部の諸侯の要請に応じる形で西進を始めます。
こうして、バヤジットとティムール、この時代の軍事的天才同士の直接対決という史上でも屈指の戦いに発展してゆくことになりました。

(アンカラの戦い)

1402年、バヤジットとティムールの両軍はトルコ高原中央部のアンカラで激突します。
兵力はバヤジット軍12万、ティムール軍20万とも言われますが定かではありません。とにかく、この時代では僻地でしかないヨーロッパなどでは不可能な、大軍同士の決戦だったことは間違いなさそうです。しかも、双方共に興隆もしくは最盛期という活力溢れる時期での激突ですから大変なことでした。この戦いの推移ですが、バヤジット側に立てば残念ながら戦略段階から既にティムール優勢に進みます。まずコンスタンティノープル包囲軍を解いたバヤジットはティムールの進軍に合わせてアナトリアへ渡り、ティムールを迎撃しようとします。ところがティムールは目前で進路を南に変えて、機動力に優れた騎馬軍団の利点を生かして先にアンカラ北方に布陣します。歩兵主体のバヤジットは遅れて向かい合う形で到着しますが、途中で離脱が出るくらいに疲労感の大きい状態でした。数・機動力・士気に劣り、更に随伴した諸侯に裏切りが出て、それでもティムール相手に炎天下でほぼ丸一日戦い続けるバヤジットの軍はさすがですが、さしものバヤジットも最終的には後退を余儀なくされました。そして左に布陣した軍団の壊滅という局面でも近衛のイェニチェリ軍団は最後まで戦い続けますが最後には壊滅し、バヤジットも撤退途中で捕虜に取られてしまいます。
そして残念ながら翌年バヤジットは捕虜のまま死去し、オスマンは内紛もあって、一時的ですが滅亡と呼んでも良いくらいに停滞を余儀なくされます。




普通、興隆期の国家、それも英雄クラスの君主が率いた状態で直接外敵の侵入を受けて壊滅するというケースはめったに起こりません。逆に大国でも斜陽期であれば格下の軍に惨敗するというのはよくあるのです。そういう点ではこの時点では拡大期にいったん滅亡し、更に10年後に復活してより大帝国を築くオスマンは偉大ですが、そのオスマンを一度は挫折させたティムールの存在は驚くべきものがあります。
ですが、ティムールの死後急速に瓦解してゆくティムール帝国と、バヤジットの跡を継いで復興させたバヤジットの子メフメト1世・更に孫の代で遂にビザンティン帝国を滅亡させるオスマンは組織としての継続性に決定的な差が見られると思います。




おしまい。

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  1. 2006/10/08(日) 12:07:13|
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英主カール4世

偉大なるチェコ人の王


古代世界から始めて、やっと14世紀の人物に話が向かいつつあるかな~といった段階のこのシリーズ。いったいいつになったら 『大航海な』 時代の本番に登場する、あんな人やこんな人を紹介できるのか、甚だ不安なのですか・・・。さぁ気を取り直して、と言いつつまた14世紀の人物伝からの登場ですw 但し大物中の大物ではありますが。


カール4世 
 (1316~1378年、1355~1378年神聖ローマ皇帝)


(フランス育ちのチェコ人)
神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世を祖父に持ち、ベーメン王国の王子としてプラハに生まれたヴェンツェル(カール4世)は、7歳の時からフランスの王宮に預けられて育ちます。当時のフランス王はシャルル4世(端麗王)で、ヴェンツェル少年はここでシャルルから自分の名をとってカールと名付けられます。カールの兄弟姉妹はヨーロッパのあちこちの王侯と結婚しますが、そのうち妹のボンヌはフランス王ジャン2世に嫁ぎ、ある聡明な王太子を生みます。その王太子こそが、前回までご紹介した賢王シャルル5世になるわけで、カール4世はシャルル5世の伯父に当たることになります。
そんなこんなでフランスで育ったカール少年は、優秀な家庭教師が付けられてその英才を伸ばしてゆくことになります。こうして1329年に教育を終える頃には、ラテン語・フランス語・イタリア語・ドイツ語・チェコ語の5ヶ国語を操るまでになっていたのでした。

(皇帝への道)
1346年、父でベーメン王のヨハンが、従軍したクレシーの戦いで戦死すると、カールは跡を継いでベーメン王、更にドイツ王に選出されます。この前後のドイツ国内の乱を制圧したカールはドイツ王に再選出され、1354年にイタリアへ向かってミラノでランゴバルド王となり、更に1355年にローマへ下って神聖ローマ皇帝として戴冠します。即位後のカール4世はハンガリー・オーストリア・ポーランドとの関係改善に努めることになります。

(金印勅書)
1356年、カールは独立を図ろうとする領邦内の君主に対して強烈なメッセージを送ります。それが帝国初の大規模な帝国法= 『金印勅書』 と呼ばれる、選帝侯による皇帝選出の手続きを定めた成文法でした。7名の選帝侯による多数決と決められたこの法律の精神は、帝国が滅亡する1806年まで生き続けることとなります。
このうち、カールはベーメン王も選帝侯となるよう尽力し、祖国の独立性と地位の向上を図り、チェコ人からは国の祖父と見られています。
金印勅書


(文芸と学術の保護者)
1348年、カール4世はプラハに帝国初の大学を設立し、他にも合わせて10都市で大学を創立するなど学術と文芸の保護・向上に尽力します。彼は自身でも文筆活動を行い、ラテン語で自省録を残したと言われています。こうしてプラハは学問の一大拠点となり、現代まで続く人文主義の聖地としてその名を高めてゆくことになります。



カール4世はこの時代の君主としては相当に英邁・高潔な人物として挙げられる存在で、単純に軍事的成果を残した人物ではないだけに、今後更に評価が高まる人かもしれません。



おしまい。

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  1. 2006/10/05(木) 23:25:32|
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賢王シャルル5世 その4

税金の父 本領発揮す

ひょっとすると今回の記事がこのシリーズで最も基幹となる話なのかも知れません。
百年戦争の前半の1370年代、フランスがイングランドの大陸での勢力をほぼ追い出すのに成功した背景として忘れてならないのは、何も軍事面の人材だけではありませんでした。今回は、デュ・ゲクラン将軍の戦略を後方から支えた『お金』にまつわるお話です。この面に画期的な業績を残した主君の支援があったからこそ、名将もその軍才を存分に振るえることが出来たのだと思います。


(年貢と副収入)
従来の封建領主にとっては、直轄領から上がってくる農地経営などからの年貢収入が主体でしょう。あとはせいぜい下級領主からの貢納、裁判による手数料、官職や聖職叙任の口利きによる手数料と言うか礼金(売官行為ですが)、関所や市場の利用手数料なども場所によってはと言ったところ。

※ここまではどこの国でも見られる、一般的な封建君主の財政のうち歳入にあたる部分です。ただこれは王でも小領主でも、極端に言えば規模の差でしかありません。これでは、王家の直轄領が他の諸侯に対してよほど広大でなければ圧倒的な力の差は生まれないでしょう。  (封建制とはそういうものでしょうが)
この場合の軍事力は、日本で言うところの『御恩と奉公』つまり領地を安堵してもらう代わりに有事に兵力を提供する事に大きく依存する形でした。実際、この時代の動員兵力と、後世例えばナポレオン戦争時代の兵力では10倍からの開きがあります。人口ベースではせいぜい2~3倍なのにも関わらず、です。
ところがシャルル5世が成し遂げた、全く違う体系の収入は、これを大きく転換させて行きます。
後世の人がそれを中央集権の先鞭と見たのも、実質的にシャルルの代でほぼ道筋がついたからだと思います。

(定期的な臨時収入?)
1356年に父ジャン2世がポワティエの戦いで捕虜となった時、王太子で摂政となったシャルルはその身代金・賠償の財源確保の為として1358年に全国3部会を開きます。3部会とは、聖職者・貴族・市民の3身分で構成された、全体会議というか国民側の王への支持母体と思えば良いでしょうか。これは常時設立された組織ではなく、一般的には国王の臨時の費用(例えば十字軍の参戦費や天災への支出・教会の再建など)をまかなう為の審議の場などでした。但し、いつでも自由に資金を引き出せるわけでなく、上記のような正当でかつ必要と認められる案件に対しての臨時措置としての収入でした。
これを、当初パリで開いた王太子シャルルに対してパリ市民、特に商工組合員が支払いに対して強硬に反対し、武力行使に至ります。いわゆるエティエンヌ・マルセルの乱と呼ばれる民衆反乱の勃発でした。これに驚いたシャルルはパリを脱してコンピエーニュで臨時にもう一つの三部会を召集します。この地では王家の支持が厚く、また大都市パリの専横に対する反感もあったでしょう。熱弁を振るったシャルルに対して、3部会の返事はYESでした。後にパリの反乱は、マルセルの暗殺を持って鎮圧され、シャルルは無事にパリに帰還しました。
ところが、本来一時的な支出に対する徴収へのYESのはずが、シャルルはこの決定をいつでも引き出せる『定期的な臨時聴取へのYES』へと認めさせてしまいます。定期的な臨時収入というのはヘンな表現ではありますが、その徴収項目はとても一時的とは思えない腰の入った物に整備されて行きます。

(税制の整備)
シャルルは本来臨時的なはずの徴収項目を、その政治手腕で恒常的な租税収入に育ててしまいました。
代表的なのがコレ。

①タイユ (人頭税)
②エード (消費税/20分の1税など)
③ガベル  (塩税)

しっかし、これだけカバーしてりゃもういいだろw 
しかも念入りに、この税を全国からきっちり徴収・管理する役人・出先機関を、ほぼシャルルの治世1代で整備してしまいます。こういう事に才能ある人っているんですねえw シャルルの元には、これを法律面でも宗教面でもサポートする人材が参集していた好例でもあると思います。そして、これらの税の導入は、結果として王家に桁違いの資金力を与える事になり、その資本を背景に他の諸侯とは一線を画した実力を有するようになっていきます。特にタイユとガベルは後の絶対王政の象徴的存在として怨嗟の対象になってくるのではありますが・・・


(常備軍の創設)
定期的に収入が見込めるようになったシャルルには、賠償金や身代金へ使うよりももっと積極的な使途がありました。それが、王家直属の常備軍の創設と整備です。当時、フランスへ攻め込んだイングランド軍の主力は、騎士団の他に農民層から構成した歩兵と長弓兵部隊がありました。
特に長弓兵は選抜されて常備していた為に速射率・命中率共に高く、フランスの旧式な弓兵と重い甲冑の中世騎士では対抗できませんでした。ここでシャルルは最も信頼の置ける将軍デュ・ゲクランにこの新編成の部隊を預けます。ゲクランは部隊を率いて各地を転戦して回り、わずか数千の部隊ではありましたがゲリラ戦・包囲戦では圧倒的な強さを誇る精鋭に育って行きます。わずか数千人とはいってもプロの職業軍人ですから、農閑期に徴収された鍬を槍に持ち替えただけの農民兵とは質が違う事は明白です。また傭兵と違って忠誠心や規律にも優れていますから、ちょっとの事では負けにくい部隊だったと思われます。

こうした経済面の充実を背景に、着実に国土を建て直してゆくフランスとは対照的に、アキテーヌのイングランド軍は次第に劣勢となります。その中には奇しくも戦費調達のために税制を導入しようとして反感を買うと言った面もあり、運用者の実力がはっきり差が出たと言えるかもしれません。


シャルル5世の死後、フランスは内紛とイングランドの介入により再び混迷の時代を迎えてしまいます。しかしシャルルが1374年に発した大勅令で残した行財政改革と軍制改革の機構と原理は受け継がれ、後のフランスの基本設計図もしくはグランドデザインとなります。そして百年余り後の名君の登場により、ヨーロッパでいち早い中央集権国家・更に絶対王政への礎となったと言えるのではないでしょうか。


どうもこのシリーズ、一回が長すぎたかも・・・ 
読んでくれている方々スミマセン。




おしまい。

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