打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

続・蒼き狼の末裔たち その10

文永の役-1


またしても久々に書く事にしたモンゴル帝国編の続きです。
そろそろ中国実装が近づいてきたのでちゃんと書こうかと・・・。

前回までに中国では1276年に南宋が滅ぼされており、今回書く元寇についての記述は正にその前後の事となりますね。


(陸/海複合国家への変貌)
さて長いこと書いてきたこのモンゴル編ですが、クビライの大元ウルス(元朝)が国号を定めた1271年前後から、モンゴルは陸の巨大連合国家から海上へ、東アジアのあらゆるものを飲み込んだ陸海複合国家へとその性格を変えて行きます。モンゴル帝国を単なる草原の大帝国と認識していると、東方見聞録に出てくる超巨大ジャンクを建造して西アジアまで繋がる航路を開発している、まさに世界屈指の海洋国家としての姿にだいぶ違和感を覚えると思います。そしてその海洋国家としての矛先が最初に向けられたのが、日本・そして鎌倉幕府だったのはかなり注目すべき点な気がしますね。


(対南宋戦略?)
ところで今回の元寇編、つまり1274年の文永の役と1281年の弘安の役の詳細そのものについては日本史の範囲で結構知られている部分ですので、ここでは概略程度に留めるつもりです。できれば「アジア史/モンゴル史視点での日本侵攻」という事象として見れたら良いかなと。そもそも資料が少なすぎるし定説すら固まってなかったりしますので。

で、まず文永の役について東アジア情勢全体でみると、これはどう見ても対南宋を意識しての行動としか思えなかったりします。例えば対南宋攻略戦の最終段階となる1274年、クビライは正月に10万人の追加動員令を出しており、左丞相バヤンに出征の命令を出したのが同1274年の3月。ヒンドゥと洪茶丘に日本遠征の命令を出したのは、バヤンへ命令が出た実にその前日でした。

この一連の命令、時期的にはどう見てもどちらかに関連しての戦略ですよね。
ではどちらが主なのか?
それはまあ、どう考えても攻略戦が一番重要な時期に来ている対南宋戦略でしょう。

そもそもアジア全体での情勢を見ると、中央アジアで一門との対立が続いて主力を草原に振り向けていた1270年代のクビライには、本気で日本を攻める余裕など全くありませんでした。この時期、クビライの王子のほとんど、それからバヤンより上位となる右丞相はモンゴル高原から回廊一帯の前線に張り付いていたのですから。

次に文永の役の遠征メンバーを見ても、それほど高位のモンゴル人指揮官はおりません。主将のヒンドゥはともかく、副将の洪茶丘は元々は高麗出身でモンゴルに仕えた将軍、水軍の主力である高麗軍の司令官・金方慶は当然ながら現役の高麗軍人でした。

しかもクビライというか当時のモンゴルは相当に情報収集能力に長けていましたから、日本と南宋とはかなり前から文化・経済両面で交流があった事は承知していたでしょう。高麗もやる気だし南宋と同時に日本へ攻撃を掛けることで側面から南宋を圧迫する事になる、クビライがそれくらいの事を考えていて不思議ではありませんね。

日本がそれなりの人口がいる(少なくともモンゴル人の数倍はいる)島国で、資源的にも金属・鉱石の産出が豊富、そしてそこに軍人の政権が生まれていた事くらいは把握していたかなと思います。(まあ、東方見聞録の記述全てをそのまま信じていたらえらい事になりますがw)
そうですね、東方見聞録については次回か次々回で抜粋します。
あれの前半はそれなりに資料として読める物になっていますので。


(日本遠征計画)

さてこうして命令が下された対日本遠征軍。この時の日本向けの陣容はというと、蒙古、満州(女真族を含む)と漢人兵を合わせて兵15000~25000人。これに支配下に置いていた高麗から兵6000~8000人+水夫が数千人、合計3~4万人と言われる大規模な遠征軍だったのです。

ちなみに、遥か後代となる1588年のスペイン・アルマダ艦隊は、規模で言うと精々130隻・2~2.7万人くらい。
陸上で待機していた兵も合わせれば5万人規模ですが、3万と言うのは13世紀当時としては相当な大艦隊という他ありませんでした。こうして見ると南宋艦隊が如何に強大だったか分かりますね。

この遠征軍の進発はクビライによって1274年7月と定められ、高麗では軍船・輸送船・小型船、計900隻を突貫とも言える建造で完成させます。このように元寇において高麗の果たした役割はかなり大きく、船だけでなく陸上戦力でも後の旧南宋艦隊などより日本にとっては余程強敵でした。これは特に高麗の忠烈王がこの作戦に積極的だった事も大きく影響しているでしょう。

遠征軍の侵攻拠点となったのは、朝鮮半島南部の月浦(現在の合浦)。大航海時代ONLINEで実装されている釜山から西へ50kmほどにある港で、現在では馬山市の一部。まあ合浦または月浦のほうが歴史上の地名としては知られた存在と思います。ともかくここから進発したモンゴル・高麗の混成軍、対馬海峡を渡って諸島部から北九州へと押し寄せつつありました。しかしこの 「モンゴル襲来近し」 という情勢そのものは、実は当時の日本でもそれなりの精度でキャッチしていたのでした。


次回は実際に侵攻してきたモンゴル軍と、応戦した鎌倉幕府の御家人たちの模様を。


おしまい。

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  1. 2010/09/23(木) 16:55:37|
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続・蒼き狼の末裔たち その9

バヤン登場


前回からだいぶ開いてしまいましたね。
その間にDOL世界はCP2から3へ入ろうとしてますので、
時期的には今回から取り上げる話は丁度リンクしてくることに。

前回までにクビライによる南宋攻略戦は最前線の襄陽が落ちており、
ここからだいたい一直線に南宋は滅亡へと向かいます。
ただ、同時にこの頃、既に後の東アジア史に大きな影響を及ぼす人物・歴史事象が
その兆候を現して来ていました。
そんな訳で今回は当事者であるモンゴルだけでなく、周辺各国の動向も併せて追ってみます。


(足音)
南宋の滅亡について書く前に当時の東アジアについて見ておく必要があるというのは、
日本史を覚えている方なら年号だけでピンと来るかもしれません。
何しろ襄陽が陥落した1273年と言えば、実に蒙古襲来(文永の役)の前年。

実はこれに先立つ1266年の時点で、
既にクビライは鎌倉幕府に最初の通交の書簡を送る準備をしていたのです。
そして実際に最初の使者が鎌倉幕府へ送られたのが1268年。
更に具体的な警告が来たのが1271年と、
正に襄陽攻略戦の最中に日本とモンゴル帝国との接触が始まっていたのでした。

いっぽう1260~1270年までの日本はと言うと、
第5代の名執権・北条時頼が亡くなったあと息子の時宗がまだ若年。
6~7代目の執権は一時的に親族の者が就いて時宗をサポートしていた時代にありました。
そして時宗が当年18歳となった1268年、モンゴルからの最初の使者が送られてきます。

北条時宗と言えば後に蒙古の二度に渡る襲来という国難のなか、全国の御家人たちを指揮統率し之を切り抜けた人物としてかなり高い評価が与えられる事の多いものの、さすがにまだ10代のうちから絶大な権力を振るう人物として見るのは無理と言うもの。むしろ鎌倉幕府成立から80年程が経ち、承久の乱を経てその勢威が西国・九州一帯にしっかり根付いていた事のほうが結果に対する影響としては大きかったかも知れません。


(高麗)
そしてこのモンゴル・日本両国の間で微妙な位置にあるのが、
当時いち早くクビライの庇護下にあった朝鮮半島の高麗。
13世紀の高麗はモンゴルに対する40年程に及ぶすさまじい徹底抗戦の時代のあと、
1259年の崔氏政権の打倒を経てモンゴルに服属。
その後は高麗の太子がモンゴルの宮廷に入朝するようになり、モンゴルと関係の深い人物が次代の王となると両国の関係は大きな変化を迎えてゆきます。
特に1259~60年頃には高麗の太子テン(後の元宗1259-1274)が、クビライがアリクブケと大ハーン位の継承戦争を繰り広げていた際にクビライの近くにあり、恐らくここで人間関係が築かれたのでしょう。クビライが勝利して以後、高麗に戻ったテン(元宗)はその影響力を背景に親モンゴル路線を掲げ、反対勢力を駆逐しつつ朝鮮半島内での地位を固めていました。

更にその子である忠烈王はクビライの公主を妻に迎えます。
忠烈王は親・元政策のもと対日本侵攻に積極的であったと云われ、
実際その後の文永・弘安の役ではそれぞれ1万もの兵を日本に送っています。
当時の世界情勢からして見れば大陸とつながった朝鮮半島で親モンゴル路線を取るのはごく自然な流れだったかとは思いますが、その結果として侵攻される日本にとってはさすがに厳しいものがありました。


(バヤン登場)
さて、こんな感じで緊張の度を深めつつあった極東アジア。
この頃大陸の戦いは終盤を迎えるところで新たな英傑が参戦してきます。
そう、この後クビライ、テムルと続くおよそ20年以上に渡り、
大元ウルスの大黒柱として君臨した名将バヤンが歴史の表舞台に姿を現して来たのです。

バヤンの出身はモンゴル族バアリン部に属する生粋のモンゴル貴族。
バヤン自身は1253年のフレグの征西遠征軍に参加しており、その後フレグ・ウルス(イル・ハン国)が成立する頃には出自の良さもあって若年ながらも既に将軍職にありました。
その後成立したイル・ハン国から使者として送られたバヤンをクビライが見出し、直臣のそれも中書左丞相に任命した(今で言う内閣官房長官に相当する職でしょうか)あたりで南宋攻略戦が開始されたのです。

そして1273年に襄陽が陥落して実質的な掃討段階に移ったところで、
クビライは左丞相のバヤンを南宋攻略の総司令官に任命して襄陽に送り込んできたのですね。
襄陽が落ちた時点で趨勢は大きくモンゴル側に傾いていたとは云え、
そこは流石に東アジアの超大国・南宋。
いまだ残存戦力は兵20万余、水軍に至っては数千隻が残されていました。
これに正面から当たってはいくら精強なモンゴル軍でも消耗は避けられなかったでしょう。
しかも当時のクビライは背面の草原地帯に強敵(同族ですが)を残しており、
バヤンには丞相という立場からもこうしたモンゴル全体の戦局を見据えた対応が求められる局面でした。
後にカイドゥの乱、ナヤンの反乱、シリギの乱と続くモンゴル高原周辺での内戦で正に獅子奮迅の働きを見せるバヤン、この南宋攻略戦においてもその優れた智謀と統率力の片鱗を見せる事になります。


(勝敗分岐点)
1274年、長江と漢水との合流点に位置する南宋の大都市・武漢に迫ったバヤン。
ここには残存していた南宋の艦隊が集められており、
これを見て取ったバヤンは自ら中央で南宋艦隊と対峙しつつ、アジュ率いる騎馬主体の陸戦隊を組織して陸地を迂回させる事で挟撃の動きを見せるとともに、襄陽城の守将で降伏してきた呂文煥を使って後方にあった武漢周辺の諸城を調略してしまいます。

この結果、包囲された南宋艦隊は次々に離脱・壊走してしまい、更に長江中流域に残っていた武漢守備隊を含む南宋の残存戦力も抵抗する気を失って降伏しまったため、バヤンはこの後ほとんど無傷で長江下流に至る一帯を制圧することが出来たのでした。

恐らくここが南宋攻略戦の勝敗分岐点だったのでしょう。
まだ南宋は経済でも人口でも周辺を圧倒していた江南地域を保持してはいましたが、
長江の南岸にまでモンゴル軍が至った事が結局抵抗する人々の気力を失わせてしまったのです。
またこの南宋攻略戦では後背地となる各地域に一斉にモンゴル軍が展開しており、四川方面にはカラ軍が、黄河下流~淮水方面からはボルゴン率いる漢人混成の部隊が一斉に楊州・臨安(現・杭州)に向けて進んでおり、完全に点(都市)の攻略から面(領土)での征服戦となっていました。

この状況で最後に立ちはだかったのが、
賈似道自ら率いる南宋で最後に残っていた戦船2500隻にも及ぶ守備艦隊。
数だけで言えば開戦当初のモンゴル軍とほぼ互角だったのですが、この時点までにバヤンは南宋側から降伏した将兵・水軍をほとんど処罰せずに味方に加えていたため、賈似道率いる南宋軍の将兵にはもうほとんど戦う気力は残っていなかったのでしょう。


(南宋の滅亡、そして・・)
1275年3月、賈似道率いる南宋艦隊は建業の上流にある蕪湖まで迎撃に出ます。
しかしこの艦隊もモンゴル水軍が開戦の銅鑼を鳴らして砲撃を始めるや、
ほとんど抵抗することなく逃走を始めてしまったのでした。
賈似道は戻った所で処刑されてしまいますが、もはや余禄の事象と言うべきでしょうか。

翌1276年1月、南宋の首都臨安はバヤンの前に無血開城します。
南宋そのものはここを脱出した一部の軍人と王子たちによって亡命政権があと3年ほど続きます。
しかし事実上この1276年をもって南宋滅亡とするべきなのでしょう。

そしてこの戦役の結果、
またしてもバヤンはほぼ無傷で南宋の艦隊戦力を手中にします。
数千隻・十数万人もの南宋艦隊がその造船技術と共に消耗することなく残存していた事が、
この後の東アジア史に大きな影響を及ぼすことになるのですが・・・。


次回から、
いよいよ鎌倉幕府とモンゴル軍の攻防が始まります。

この東アジアに誕生していたもう一つの軍事政権が、
これまでほとんど他を圧していたモンゴル帝国とどう相対する事になるのか、
周辺情勢も絡めて見てゆく事とします。



おしまい。

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  1. 2010/07/12(月) 08:08:03|
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続・蒼き狼の末裔たち その8

襄陽・樊城包囲戦 その2


(名将の系譜)
今回のモンゴル軍で司令官を務めているアジュ。
いきなり名前が出てきて何者?と思うかもなので一応紹介しておきます。
アジュの父親は、モンケの代で南宋に侵攻していた際に最先鋒を務め、モンケ死後の撤退戦でも最後まで踏ん張っていてクビライに救出されたウリャンカダイ。
そして、あの時の記事で紹介したように、ウリャンカダイの父はチンギス・ハーンの『四狗』と呼ばれた名将スブタイです。
つまりアジュはモンゴル帝国史上でも最高の将であるスブタイの孫に当たる人物。
当然そこにはスブタイ家が統括していた千戸集団の精鋭や、彼らの出身であるウリャンカイ部の者も参加していたでしょう。また既にアジュ自身も父と共にベトナム方面や内戦時に従軍して功績を立てており、この時の司令官職任命も特に抜擢とは言えないくらいの立場にあったと思われます。

南宋攻略戦において確かにモンゴル兵はごく少数しか参加させられませんでしたが、トゥルイ家にとっては切り札と言うべきスブタイ家の最精鋭を投入していた一事を取ってもクビライが二線級の将兵で何とかなる戦場と考えていなかったことが伺えますね。


(襄陽南郊の決戦)
1271年6月、
南宋の水軍を含む10万の機動部隊が長江から漢水を遡って包囲されていた襄陽の救援に現れます。守備していた呂文煥にとっては待望の援軍ですが、実はこれはモンゴル側も待っていた増援部隊の到着でした。

実は開戦からこれまでの3年間、モンゴル軍はただ漫然と過ごしていたわけでは無かったのです。
包囲網を構築する際にモンゴル軍は漢水に杭を打ち、水中に鉄鎖を張らせて南宋船の進入を阻んでいたのですが、その一方で自らは上流部で軍船を建造すると共に漢人部隊ら参加していた将兵の訓練を行っており、援軍が到着した1271年の時点で既に5000隻・7万人規模の水軍を完成させていました。

実に3年にも渡る長期包囲戦、双方ともここが緒戦にして最大の山場である事を理解していたのでしょう。特に南宋側にしてみれば、もしここで漢水の要衝・襄陽が落ちれば、南宋は長江の中流域にある武漢まで押し戻される事は確実で、これは長江の上流域にある四川地方も含めて国土の半分近くが奪われることを意味していました。
逆にモンゴル側にしてみれば拠点を叩くだけでなく、やはり当時世界でも最大規模を有していた南宋の水上戦力を本拠地から引きずり出して叩く必要を感じていたのでしょう。

こうして開戦から3年目、南宋の援軍はモンゴルが構築していた長大な防御線に敢えて強襲を掛けたのですが、万全の防備をしていたモンゴル軍の反撃にあった結果、この虎の子の艦隊はほとんど壊滅してしまったのでした。

3年もの篭城に耐え、更にようやく来援した援軍の壊滅。
並の将兵であれば恐らくこの時点で心が折れても仕方がないところでしょう。
しかし守将の呂文煥はここから更に2年を持ちこたえたのです。


(落城)

後の歴史に残るほどの粘りを見せる呂文煥以下の樊襄両守備隊に対し、
モンゴル軍が最終的に樊城・襄陽の両城を陥落させるには更に強力な一手が必要でした。

開戦から4年半後の1273年1月、樊城の近郊に巨大な工作物が出現します。
この年、クビライの弟フレグが建国したイル・ハン国から送られたペルシアの技術者、アラー・アッディーンやイスマイールらによって攻城戦用の兵器が伝えられ、早くもこの地で製作・投入されます。

この兵器・マンジャニークは後にペルシアから伝えられた事から『回回砲』と呼ばれ、
梃子と振り子の原理を応用して巨大な石弾を飛ばす投石器の一種。
当時のもので実に90kg近い石弾を飛ばすことができ、
命中精度も高かったために城壁や防御施設の破壊に絶大な威力を発揮したと言います。

最初に使用された樊城ではあっけなく城壁が崩された結果、
そこからモンゴル兵の侵入を許して投入から間もなく守備兵が降伏。
次にこの回回砲が樊城に据え付けられ、樊城から襄陽城へ向けておよそ7~800mもの距離を飛んだ回回砲の石弾により、強大な城壁を誇っていたはずの襄陽もまた砲撃によって成すすべなく沈黙させられてしまったのでした。

1273年2月、
遂に襄陽の守将・呂文煥が降伏し、襄陽は5年近い篭城の末に陥落します。
モンゴル・南宋ともに双方の物資・兵力を集中させたこの包囲戦にモンゴルが勝利したことで、事実上南宋の運命はこの時点で決まったかも知れません。実力的な部分もありますが、心理的な面で遥かに大きな影響を与えることになったのです。

特に10万の大軍を引き付けて5年近くも襄陽を守り切った呂文煥をクビライは高く評価しており、その後クビライは彼を取り立てて最前線の司令官の一人、それも漢水流域の指揮権を持つ『襄漢大都督』に抜擢します。
彼のもつ影響力も考慮したのでしょうが、最後まで抵抗していた呂文煥が許され、しかもモンゴルの先鋒となって侵攻してくる状況に長江流域の南宋側の軍閥・諸将は動揺します。呂文煥による南宋諸将への調略によって長江中流域では寝返りが相次ぎ、これが南宋が比較的短時間に抵抗を弱めた一因となったのでした。


ただし、そこは東アジアの大国・南宋。
この国を完全に攻略するにあたり、
クビライは更にもう一手を必要としていました。

次回、ここにクビライ時代のモンゴルを支えた若き大黒柱が登場します。



おしまい。

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  1. 2010/04/29(木) 19:41:48|
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続・蒼き狼の末裔たち その7

襄陽・樊城包囲戦


(両面作戦)
1268年より再開された、南宋攻略戦。
この戦いにおいてクビライは最精鋭であるモンゴル族の騎馬軍団をほとんど動員していません。
むしろ主役は華北・華南の漢人軍閥や周辺諸民族の混成部隊だったのです。

これは前回書いたように長江流域での作戦に騎馬兵は向いておらず、むしろ水軍や歩兵・工兵主体の構成の方が水上戦や攻城戦には向いていたというのは確かにあるでしょう。事実、この戦いを決したのは土木建築と工作の技術力、そして兵站でした。

しかし実際のところクビライには、南宋に騎馬軍団を投入する余裕は有りませんでした。
何しろ1260年代以降、中央アジアでは事実上のモンゴル宗家であるトゥルイ家に反目する勢力が後を絶たず、クビライの王子たちは皇太子チンキムを除いてほぼ全員が北・西・南西方面の守備を担当しており、モンゴルの支配・軍制単位であり、モンゴル騎兵の供給源である千戸集団をそれぞれ統括していました。

彼らが相手にしていたのは同じモンゴル王家のアリクブケであり、チャガタイ家のアルグであり、そして台頭しつつあったオゴデイ家のカイドゥらでした。そして抗争の地となったのはモンゴル~中央アジアの草原地帯やオアシス帯なのですから、どう考えてもここにはモンゴル騎兵を投入さざるを得ません。
そんな訳で西と南の両面作戦を常に強いられていたクビライには、政治的にも軍事的にも南宋へモンゴル兵の主力を振り向けることが出来なかったのですね。

そういう条件下での最良の初手が、この襄陽・樊城包囲戦だったのかも知れませんね。


(樊城の攻防)
1268年9月、主将・アジュ、副将・史天沢が率いる10万ものモンゴル軍は、開封から河南平原を進んで漢水の左岸にある樊城に迫り、まず双子都市の北側にあるこの樊城を包囲します。
樊城と言うと、三国志ファンならかつて曹仁が水攻めに遭いながらも関羽の猛攻を退けた地といえば、
あー、と思い当たるでしょうか。

いっぽう、このモンゴル軍の動きはかなり早い段階から南宋側に察知されていました。
そもそも数年をかけた準備ですから、相手にもその時間がある事になりますよね。
モンゴル軍を迎え撃ったのは、この地方を守る荊湖制置司という職にあった軍閥の首領・呂文徳。
呂文徳は当時の南宋で独裁政権を築いていた賈似道と親しく、
最前線になると予想された襄陽に弟の呂文煥を派遣したのでした。

こうして襄陽の守備に着いた呂文煥、この城塞都市へ呂家が集めた最精鋭の手勢と膨大な物資装備を積み上げてモンゴル勢の来襲に備えたのですが、ここで彼はモンゴル軍の思わぬ動きを目の当たりにすることに成ります。

樊城に着いたモンゴル軍が始めたこと、それは土木工事そのものでした。
城のはるか外周で土を掘り返し・壕を作っては手前に積み上げて土塁とする、そんな単純な作業を延々と続けたのです。しかしそれをやっているのが10万もの大軍ですから、仕事は早い。守備兵が気付いたときには既に樊城だけでなく南岸の襄陽城までもが周りをモンゴル軍が築いた土塁で囲われてしまっていました。

しかも後の資料で『環城』と呼ばれたこの土塁、囲いが完成したところで完了したわけでは有りませんでした。更に土塁の所々に守備用の保塁と付け城のような拠点施設が設けられ、そこから更にこの土塁を二重に構築して行き、総延長が100kmにも達したのですから呆れるほどの大工事でした。
また漢水には水中に杭と鉄鎖が張り巡らされて船による物資の供給も遮断したため、篭城中の樊城と襄陽の両都市は水陸共に完全に外界と遮断されてしまったのです。

個人的にはこの戦い、紀元前1世紀のガリアで行われたユリウス・カエサルとウェルキンゲトリクスによるアレシア攻防戦を思わせるものがあります。
どちらも拠点を包囲中に長大な壕を築いた点、包囲中に相手の大軍が増援に来たところ、それから包囲した方が勝ったという結果、そして歴史に与えた影響などなど、かぶる所が多いのです。
ただまあ、恐らく規模としては襄陽戦の方が遥かに大きかったでしょうが、カエサルの方は包囲した更に外側を逆包囲されても尚勝ったところ、それから後の歴史に与えた影響の度合いという点では彼の方が偉大だったかも知れませんね。


(持久戦)
さてこうなるとモンゴル側の意図は明らかでした。
完全に持久戦です。
守備側が時おり兵を出して戦闘を仕掛けようとしてもこれに応じず、逆に環城に拠って守りを固めているのですからこれではどちらが攻め手なのか分かりません。とは言え、いくら襄陽が膨大な物資を貯め込んでいても限界がありますから、ただ守っているわけにも行かなかったでしょう。しかも司令官の呂文煥はたびたび臨安の南宋政府に援軍を要請するのですが、これを宰相の賈似道はなぜかほぼ黙殺して少数の部隊しか送ろうとしませんでした。

しかしこの戦いが始まって3年目の1271年、遂に南宋本国が動きます。
賈似道の親族に当たる将軍・氾文虎を司令官とする南宋の水軍・陸軍混成の機動部隊10万が、長江から漢水へと遡上して襄陽城の南側近郊に現れたのでした。

しかしこの敵増援の到着こそが、モンゴル軍が待っていた本当の狙いだったのです。



おしまい。

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  1. 2010/04/24(土) 07:24:42|
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続・蒼き狼の末裔たち その6

対南宋戦 その1


前回が3月でしたから、もう1ヶ月以上開いてしまいましたね。
ここからはモンゴル宗家の争いに勝利したクビライのその後を見てゆきます。

1264年、実弟アリクブケを降してモンゴル帝国東方における覇権を確立したクビライ。
まだまだ中央アジアや西方へ影響を及ぼすまでに至りませんでしたが、一部を除き諸王家の多くが彼を承認する事で、これまで自称に過ぎなかった大ハーン位は実質的にも彼が継承する事になったのです。
そしてこの、成立時の経緯から武断的なものを多分に含んでいたクビライ政権は、その矛先を再び外部へ向けてゆく事になります。

最初に計画されたのは、内戦により中断していた南宋攻略。
元々1240年代から始まっていたこの攻略戦ですが、度々起こる内部の問題により実は正面切って・両者が全力でぶつかる事のなかった戦線でも有りました。
そこにクビライは、当時のモンゴルが持つ力のかなりのものを注ぎ込む決意をしたのですね。

攻略目標は、長江支流の大河・漢水流域に立ちはだかる大都市、襄陽。
ここは対岸にある樊城と対を成す双子都市で現在では合併して襄樊市となっており、
この地方が荊州と呼ばれた漢代より城壁が巡らされ、長江中流域では武漢と並ぶ屈指の城塞都市でした。

内戦が終結して間もない頃から準備に着手していたクビライ、この戦いが超長期戦になる事を始めから読んでいたのか、実際に開戦するずっと前から動いており、物資の集積と補給線の確保にかなりの時間を費やして臨む事になります。


こうして周到な準備を持って開始された南宋攻略戦、
8年に渡る長期戦は開戦がそのまま天王山の戦いとなったのでした。


(開戦)
内戦終結から4年後の1268年、
部将アジュを司令官とするモンゴルの混成軍が樊城を包囲します。
この包囲戦におけるモンゴル軍、これまでの騎兵主体の編成を捨て、漢人・満人の部隊を多用してそこに工兵とモンゴル騎兵を展開させると言う3重の包囲陣をもって臨んでいました。

モンゴル軍と言うと騎兵がまず頭に浮かぶと思いますが、実際の彼らはもっと柔軟な思考と合理的な気質を持っていたのでしょう。騎兵が展開するのに長江流域の、それも攻城戦では甚だ不利なのをこれまでの戦いで熟知しており、この戦いでは華北・華南の中国人軍閥を重用して中国の水運・造船・攻城技術、更にはアジア西方の技術をも取り込んで戦略に織り込んで来たのです。

こうして南宋攻略戦、特に天王山となった襄陽・樊城包囲戦はお互い相手にしている者の文化レベル・国力の高さからか、水運・造船・土木建築技術を惜しみなく投入した、それこそ国力をぶつけ合う大規模な物量戦が展開される事になります。
次回は襄陽包囲戦の顛末とその後の展開を。

南宋滅亡まで、あと8年。


おしまい。

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