打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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草原の興亡 その31

カタラウヌム以後


4回に渡って見てきたアッティラ編も今回で最後です。
週末に一気に書き上げた分で3日連続の更新。

さて、戦闘自体は両軍合わせて5万人程度だったカタラウヌムの戦い、
結果として古代末期のヨーロッパにとって大きな影響を及ぼします。
なにしろここの参加者の多くが次の時代の主役となって来るのですから。
しかしそれは、アッティラでもアエティウスでもありませんでした。


フランク王国
まず、ローマ側でこの戦いに参加していたフランク族の指導者メロヴィク。この人物、実はこの戦いの30年後にメロヴィング朝フランク王国を建てる事になるクローヴィスの祖父でした。この戦いに功績の大きかったメロヴィクはライン川河口付近の領有を正式に認められてフランク族内での地位を確立すると共に、ライン川下流域で勢力を拡大するなどして、後のフランク王国成立の基礎を作ります。


西ゴート
次に西ゴート王国。テオドリック王が戦死したとは言え、ローマの同盟者としての役割を十二分に果たした彼らに対しローマ側は信頼を篤くします。この状況を利用してか、テオドリックの跡を継いだトリスモンドの系統は西ローマ末期~滅亡後にはボルドー周辺からイベリア半島へも勢力を伸ばします。この西ゴート勢力は後にイスラム勢が侵入してイベリア半島の大部分を制圧してからも一部は北に逃れるなどして存続し、この西ゴート勢力の流れが後世のカスティーリャ王国の淵源となったのでした。カスティーリャ王国はレコンキスタを勝ち抜いて大航海時代にはスペイン王国成立時の一方となるのですから、大航海時代としての視点からも無視できないですね。


ヴェネツィア誕生
一方、ガリアから撤退した後のアッティラですが、まだまだ余力を残していました。
この戦い直後の452年に北イタリアを狙ってアドリア海の最奥部にある重要都市アクィレイアを包囲したあと、北イタリア全域を荒らし回ります。ミラノ・ヴェローナ・クレモナ・ピアツェンツァなど後世にも残る諸都市が次々と陥落し、首都ラヴェンナはローマ司教のレオ(教皇レオ1世)が交渉に赴いてなんとか逃れたのでした。(教皇レオの徳の高さと熱弁によって、ではなくたぶん賠償金を払うことで)
そしてこの時、アッティラの包囲から逃れたアクィレイアと周辺の住民は、
アドリア海上の浅瀬というか干潟地帯に避難し、次第に住みつくようになります。
そう、この集落が後のヴェネツィアの原型となったのでした。


東ゴート
さて、451年にガリアから撤退した後もフン族は広大な版図を維持していました。
翌452年には北イタリアを襲っているのですからカタラウヌムの戦いが大して痛手ではなかったのが伺えますが、翌453年にアッティラが急死すると急速にその勢力を衰えさせます。455年に跡を継いだエラック率いるフン族がネダオの戦いで東ゴート・ゲピート連合軍に大敗したのは北イタリア遠征で疫病と飢えで大きく消耗しているのも影響しているでしょうが、結局アッティラという英傑を失った事で政治勢力としてのフン族の王国は事実上瓦解し、これ以後は歴史上から姿を消します。恐らくフン人そのものはハンガリーを中心とした東欧の広い地域に生活していたと思われますが、その足取りをたどるのはちょっと無理ですね。

それからこの戦いの後のヨーロッパ情勢ですが、まず西ローマを救ったアエティウスはこの戦いの3年後に皇帝ヴァレンティニアヌスに暗殺され、名将アエティウスを失った西ローマはその22年後、ゲルマン系の傭兵オドアケルに皇帝ロムルスが廃位させられて滅亡します。一方東ローマでは、最初にフン族に制圧された東ゴート族が勢力を伸ばして東ローマの脅威となってくるのですが、これはまあヨーロッパ史ですし、東ゴート関連は商会長のめけさんが詳しく書いてますのでそちらを参考にして下さい。



あとがき
こうして、はるか東からやってきたフン族の侵入により、西ヨーロッパは古代ローマ体制が崩壊して中世へと転換してゆきます。同時にフン族の勢力がその核を失った地中海沿岸を除く東ヨーロッパでは政治的な空白地帯が生じ、東ゴート・アヴァール・ハザール・ブルガールなどいくつかの騎馬遊牧民が興隆を繰り返してゆきました。

さて、草原の興亡シリーズもようやく古代編が終了に。
このあとちょっと時間を置いて歴史に消えたフン族とそのルーツ、
そして現代との関連など、
いまだに良く分かっていない謎な部分に言及できたらと思いますが、
いったんここで一区切りとします。
このあと中世期の中央アジアについてはもう少し資料当たってから構成考えようと思います。
一応ソグド人あたりから書こうかなと考えてますが・・・。
んー、DOLで内陸実装してくれたらなー。

とりあえずここまでお付き合い下さった読者の方々、お疲れさまでした。



おしまい。


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  1. 2008/10/06(月) 07:48:48|
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草原の興亡 その30

カタラウヌムの戦い 後編


半年くらい掛かったこのシリーズも、あと2回でようやく前半のひと区切りになりそうです。
では前回の続きからどうぞ。

(分岐点)
戦闘開始から数時間が経ったころ、ローマ軍司令官アエティウスが動きます。
最初に中央の丘を占拠したままここを守備していた西ゴートのトリスモンド王子率いる騎兵隊に、フン族右翼の側面を突くよう命令を下したのでした。
更にこれと同時に、既に押され気味だったフン族側の左翼にいた東ゴート軍がほぼ崩壊してしまいます。これに驚いたフン族連合軍の右翼に配されていたブルグンド族・ゲピート族などの混成部隊も動揺・後退した事でフン族側は更に大きな損害を出します。これにより、左からローマ騎兵と西ゴート騎兵・そしてフランク族が、右からは西ゴート軍がそれぞれフン族連合軍の中央を包囲しかかる形となり、一気にローマ軍優位の状況となったのでした。

カタラウヌム経過図04

しかし、フン族にはまだ中央の後方にアッティラ率いる本隊が残っていました。両翼から包囲に掛かるアエティウスと西ゴート軍の攻撃を迎え撃ち、乱戦の中で逆にアエティウスの退路を断つように逆包囲を行います。危機に陥ったアエティウスは戦場を横断して西ゴートの陣営に逃げ込むのがやっとといった具合で、結局この日の戦いは決着がつかず、アッティラは夜になってなんとか後方の陣地へ引き上げ、決死の思いでローマ軍の追撃に備えたのでした。


(ワゴン陣地)
ここで、このフン族の陣地についても一言。
彼らは遊牧民ですから、ローマ軍のように堅固な宿営地を作ったりしません。
その代わりに普段荷物を積んだり子供など家族を乗せているワゴン(馬車の一種)を陣地の周りに円形に配置して即席の囲いとし、敵が攻めてきた場合はそこから弓で反撃するようにしていました。このワゴン陣地(ワゴン円陣)は西ゴート軍なども使用していますから騎馬遊牧民の間では既に広まっていたのでしょう。中でも弓術に優れたフン族がここに篭って防備に備えたらちょっと破るのは困難だったと思われます。

実際、後世これの発展型と思える戦術が近世東ヨーロッパを席巻します。
15世紀にボヘミアで起こったフス戦争では、フス派のヤン・ジシュカが編み出した 『鉄板で装甲され銃眼の付いた馬車を並べて、銃眼からマスケット銃で狙撃する』 という新兵器を組み合わせた戦術により、ヨーロッパ中を敵に回しながら当時最強とすら見られている強さを発揮しています。騎兵による突撃ではフス派の民衆軍によるこの『火器+車両陣地』を突破できなかったあたり、日本の長篠の合戦にやや似ていて興味深い所ですね。(日本の場合は火器の集中運用という点でもう一段進化した戦術に思えますが)

カタラウヌム経過図05

カタラウヌムの話に戻りますね。
このワゴン円陣を前にしては、勢いに乗るアエティウス率いるローマ連合軍の攻撃も分が悪く、戦死した父の敵を取ろうとした西ゴートのトリスモンド王子の突撃も跳ね返されてしまいます。(アエティウスが引き止めたともいわれますが詳細は不明)
夜が明け、アッティラは自軍の損害が余りに大きい事に嫌気して戦闘の継続を断念します。ローマ側の一部にはまだ戦闘意欲がありましたがこちらも損害が大きく、ここでアエティウスはアッティラに使者を送って『ガリアから引き上げるなら戦闘を停止する』と伝えます。アッティラはその後ライン川の東へ軍を引き、こうしてカタラウヌムの戦いは両者痛み分けに終わったのでした。
後世この戦いはローマ側の勝利と一般に言われますが、確かにアエティウスはガリア防衛には成功したものの、やればかなりの成果が出たと予想される追撃戦を行ってない事から、このときはローマ側にもフン族と同じく甚大な損害が出ていたと思われます。まあ、この時同盟関係をとった西ゴートがこの先どうなるか微妙ですから、アエティウスが敢えてフン族戦力の温存を図ったという見方もありますね。

ところで、この結果を 『ローマ人の物語』 を書いた塩野氏は最終15巻の作中で、

『あれほど恐れられていたフン族も、戦闘らしい戦闘をしたとたんに敗れたのである。蛮族とは、防衛も充分でない民間人を襲う場合だけ強かったのか、とさえ思ってしまう。そしてこの会戦も、もしもアエティウスさえその気になっていたならば、「神の鞭」アッティラもシャンパーニュの野の露と消えていたのである。 ~~中略~~ これで無事にライン川を渡って、ゲルマニアに戻れたのである。アエティウスが、救ってやったようなものであった』

と記していますね。
逆の立場から書いてる者からすると、この一方的な記述はどうなんだとw
まあローマ好きな人にとってはローマ人15巻は楽しめる所少ないからなあ・・・。

さて、脱線しかかりましたが次回はカタラウヌム以後のヨーロッパ情勢などを。
実はまだアッティラはローマ領内への野心を捨てていませんでした。


おしまい。


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  1. 2008/10/05(日) 18:02:11|
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草原の興亡 その29

カタラウヌムの戦い 中編


今回から2回に分けてカタラウヌムの戦いの経過とその後を書いてゆきます。
この戦いを下書きしてたらテキスト5000字以上(原稿用紙20枚分)とかになってたので3分割&圧縮気味に書き直しました・・。あと適宜経過図を入れつつ進めますね。

このカタラウヌムの戦場、地形としては、両軍の側面を流れるセーヌ川と中央部の横にある丘が特徴となります。特に中央の丘を先に制した方が明らかに有利になると見えますから、両軍はここを中心に対峙します。また東側は川があるためこちらから回り込まれて側面攻撃や包囲を受ける心配は少なく、戦術的には正面か西側を崩す必要がありそうです。(ただし近世ヨーロッパではこの裏をかいて川のほうから突破した作戦もありますね)
地形と戦闘開始前の布陣はこんな感じ。

カタラウヌム経過図02

ローマ連合軍
(左翼)
アエティウス率いるローマ軍の騎兵
フランク族のメロヴィク率いるフランク歩兵

(中央)
前衛にシンギバン率いるアラン族の部隊
後衛にローマ重装歩兵

(右翼)
テオドリック王の率いる西ゴート軍

※これに、予備としてテオドリック王の息子トリスモンドが率いる西ゴート騎兵を左翼後方に置いていました。そして全体の陣形はやや右下がりの斜行陣に。


フン族連合軍
(左翼)
東ゴート族らの混成部隊。つまり正面で西ゴート族と対峙することに。

(中央)
アッティラ率いるフン族の本隊。
アッティラ自身はやや後方にいる形の、この中央部は数段もの分厚い横隊を作っていました。

(右翼)
ブルグンド族・ゲピート族・フランク族の一部・フン族らの混成部隊。

更に、先に戦場に着いたフン族側はこの後方に円形の陣地を作ってあります。
またアッティラ率いるフン族連合軍はアエティウスのローマ軍の1.6倍もの兵力があり、3隊に分けた全体が厚い横隊を形成して隙がない陣形を取っていました。後から戦場に着いたアエティウスが斜行陣を作ったのも、この状況を見てまともに正面から当たっても勝機は少なく、まず相手を崩す事が必要だと考えての布陣と思われます。

この戦いの推移は、陸上自衛隊の陸将補だった松村氏の研究資料を参考にしています。
両軍の編成・陣形などウィキペディアなどの表現とは異なる部分がありますのでご注意下さい。


戦闘開始。
と同時にアエティウスが予備として置いていたトリスモンド王子率いるの西ゴート騎兵が中央の丘を先取します。しかしアッティラ率いるフン族連合軍の前進は止まらず、この中央の丘を置き去りにして両軍は激突します。
まず、中央のフン族前衛がローマ軍前衛のアラン族を攻撃し、数と装備の劣るアラン族はほとんど崩壊寸前まで押し込まれますが、後ろに控えていたローマ重装歩兵がこれを支えて中央突破を防ぎます。
次に、斜行陣の中央が押された事で今度はローマ軍右翼の西ゴート軍とフン族左翼の東ゴート軍がぶつかり激戦となります。こちらは西ゴート軍が優勢で次第に東ゴート軍を押してゆきました。
更にアエティウス率いるローマ軍左翼は相手より少数ながらもさすがに精鋭で、戦闘開始と共に次第にフン族右翼を圧迫して中央の丘を守っている西ゴート騎兵との連携を目指します。ここまでの戦局は数で勝るはずのフン族連合軍の左右の働きがやや悪く、まだ五分といった所。例えばここで中央のローマ歩兵が敗れればフン族連合軍は一気に優勢になった可能性もあったでしょう。

数時間後、両軍の被害は甚大なものとなっていました。
特にフン族弓兵の射撃力はやはり驚異的で、防御力に優れているはずの中央のローマ軍歩兵と前衛のアラン族の部隊は大きな損害を出していました。
更にこの時点で既に西ゴート王テオドリックが戦死。
開始から半日足らずの戦闘で両軍ともに1割以上の損害を出しており、この戦いは翌日に持ち越すかと思われた頃、アエティウスが動きます。
この時点ではだいたいこんな形になっていました。

カタラウヌム経過図03


次回はこの戦いの終盤とその後を見る予定です。
原稿はもう書けてるので、明日は経過図が出来次第更新します。


おしまい。


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  1. 2008/10/04(土) 18:34:41|
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草原の興亡 その28

カタラウヌムの戦い 前編


西暦434年、新たにフン族の王として跡を継いだのは、前王の甥に当たる兄弟、
ブレダとアッティラでした。まだ20代そこそこだった二人は、西をアッティラ・東はブレダが担当する形で共同統治を始めます。しかし444年頃には兄ブレダが亡くなり、アッティラがハンガリーからカスピ海に達する広大な地域に王として立ちます。こうして王となったアッティラは非常に攻撃的な対外政策を取ります。444~446年、アッティラはドナウ川を越えてローマの軍団基地があったベオグラードを占領するやそのまま東に向かい、コンスタンティノープルの近郊100km付近にまで侵攻します。そしてこれまで毎年一定の金額だったローマからの同盟料に対して大幅な増額を要求したのでした。この要求に東ローマは一旦は反攻したものの、結局アッティラ配下の騎兵隊に簡単に破れ、毎年の支払いのほか賠償金の支払いにも従うなど完全に屈します。この時の東ローマの賠償金が6000リブレ(金塊2250kg)、更に年次の同盟料が金2100リブレ(約790kg)と言う莫大なものでした。

その後、東ローマで新皇帝マルキアヌスが即位して軍の強化に着手し、フン族に対して支払い協定の破棄を伝えると、アッティラは一転して西ローマへの野心を露わにしてきます。この背景には西ローマ皇帝の姉ホノリアがアッティラに対して指輪と共に手紙を送り、『自分と結婚すれば西ローマの半分を得るだろう』と伝えたという事もありますが、とにかくアッティラは軍の本拠地をドナウ川流域からライン川流域へ移したのでした。
この間、西ローマの軍司令官アエティウスや皇帝ヴァレンティニアヌスは協議の上この申し出を否定したものの、既にアッティラは止まろうとしませんでした。
そして451年、遂にアッティラはライン川を越えます。
ここでまたちょっと参考図を。


ヨーロッパ地図_5世紀前半02
(446~451年の西ヨーロッパ情勢 800×584ピクセル)

この時アッティラ率いるフン族と共にフランス北部を荒らし回った者達の中には、東ゴート族・ブルグンド族・フランク族などゲルマン系の有力部族からの参加者も含まれていました。こうしてローマ領内へ侵入したフン族連合軍は、ライン川沿いの軍団基地があったストラスブール・ウォルムス・マインツ・ケルンを次々と攻略したあとだいたい3つの集団に分かれます。アッティラ率いる本隊はフランス中部のトリアー・メッツ・レイム・パリと西に進んでオルレアンを目指します。残りの2部隊はフランス北部のアミアンを経てオルレアンに向かった部隊とフランス中南部からオルレアンを目指した部隊だったようです。総兵力はおよそ10万。遊牧民の場合は多くが家族も共に連れての移動ですから、総勢では30~50万近い人数になっていたと思われます。

その後、フン族連合軍はロアーヌ川中流の主要都市オルレアン付近を目指して集結する動きを見せ、先に到着したアッティラの本隊がこの町を包囲しに掛かります。しかしこのオルレアンの町、1000年後の百年戦争では地形を利用してほとんど要塞化され、イングランド勢が包囲しても落ちなかった要衝です。古代においても防備は堅く、短期間でのオルレアン攻略を諦めたアッティラはローマ軍の接近を知ると東に引き返しつつ、残る部隊へ本隊への合流を命じます。

一方これを迎え撃ったのは、ローマの将軍アエティウス。
若い頃にはフン族へ人質に出されていた経歴を持ち、たびたびフン族傭兵を使ってゲルマン系部族からの侵略を撃退していた名将でした。これに、同盟関係にあった西ゴート王国のテオドリック王、かつてフン族によってカスピ海北部から追われてきたアラン族・そしてフランク族の指導者メロヴィクなども参加します。こうして防衛体制を整えたローマ連合軍、オルレアンにフン族の大軍が集結しているとの報を受けるとこれを追尾しに掛かったのでした。

両者が遭遇したのは、パリの東150kmほどの地点にあるカタラウヌム(現シャロン・アン・シャンパーニュ市)近郊の丘陵地帯。ローマ軍との戦闘が避けられないと知ったアッティラは先にここで陣を敷き、アエティウスを迎え撃つ体勢を整えます。
これが、後世カタラウヌムの戦い(またはシャロンの戦い)と呼ばれる事になる、
東方勢力のフン族と西方世界のローマとの決戦の場となったのでした。

次回はこの戦いの経過を追ってみます。



おしまい。


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  1. 2008/10/01(水) 23:33:15|
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草原の興亡 その27

大移動の余波


定住
フン族編は今回から5世紀のアッティラ時代へ入ってゆきます。
紀元400年頃までにだいたい現在のルーマニアからハンガリー付近にまで到達していたフン族に対し、5世紀に入るとこれまで完全に蛮族中の蛮族というような捉え方をしていたローマ帝国側の対応が変化してきます。一言で表現すると 『敵対者から警戒すべき同盟者へ』
結局ローマ側からすると自分たちを襲っているゴート族を更に西へ西へと追い払ってゆくフン族は、敵とするよりも少なくとも非敵対的な存在としていたほうが賢明だと考えたのでしょう。
422年頃にはフン族に対してパンノニア(現在のハンガリー西部)の地に居住することを追認し、かつ毎年同盟料として黄金・織物・食料その他の物資を提供することを約束したのでした。言ってみれば安全保障費、もしくは強者への貢納のようなものですね。フン族にとってもハンガリーの平原は放牧地として最適であり、遠く東から遠征してきてようやく安住の地を得たのかもしれません。このハンガリーについてはあとで書く予定。んでまあ、フン族が再び動き出すのはこの後440年代以降ですので、その前に侵入する先のヨーロッパ情勢をさらっと書いておきます。


玉突き
さて、フン族に押し出されるようにして西へ西へと移動していったゴート族、当然ながら移動した先でヨーロッパのほかの部族と干渉することになり、更にヴァンダル・フランク・ブルグンドなどゲルマン系の諸部族が西へと移動する要因となります。中には最初にフン族に征服されたカスピ海のアラン族などもこれに混じっており、こうしてフン族に押し出されたゲルマン系の諸部族は今度はガリアや北イタリア・南フランス方面などローマ領内へ侵入します。
406年、ヴァンダル・スヴェヴィ・アラン族などの集団がライン川を渡り、北フランスのトリエル・アミアン・パリなどを襲って南へ向かいます。この頃にはフランク族がライン川の下流域で勢力を拡大していましたから、恐らくその南から渡ったのでしょう。そしてガリア中部ではライン川中流付近にいたアラマン族もこれに同調してライン川を渡って侵入してきており、広範囲に侵入を受けたガリアのローマ帝国は面から点(都市)だけの存在になりつつありました。そしてこの西暦406年という年は、フン族にアッティラが生まれた年でもあったのです。
また、この406年にライン川を渡ってきたゲルマン系部族のうち、ヴァンダル族はガリアに留まりませんでした。409年にはスペインに到達、更に428年には北アフリカへ渡って西から順に制圧してゆき、最終的には当時北アフリカ最大の港を持っていたカルタゴをも陥落させてヴァンダル王国を建設します。


西ゴート王国
一方、フン族に追われた西ゴート族はこの間どうしていたかというと、黒海西岸>ハンガリー及びルーマニア一帯>アドリア沿岸と移動してきて、400年頃にはもう北イタリアと隣接するあたりまで勢力圏を伸ばし、当時ラヴェンナにいた西ローマ皇帝を脅迫してガリア・北イタリアでの領地を要求するまでになっていました。
そして410年、西ゴート族がローマに侵入し、3日間に渡って略奪を行います。その後、412年には西ゴートの王アタウルフがガリアに侵入してナルボンヌ・トゥールーズ・ボルドーの三都市を制圧してアクィータニア(現フランス南西部)に割拠します。アタウルフはその後、人質としていたプラキディア(皇帝ホノリウスの妹)と結婚してローマ風の行政府を設けるなど親ローマ路線に転換し、ローマ最大の同盟者として418年に西ゴート王国(トゥールーズ王国)を建てます。


ブルグンド王国
406年にライン川を渡った部族のうち、もうひとつ重要な部族を書くのを忘れていました。ブルグンド族です。413年にローマと盟約を結んだブルグンド族はライン川西岸の中~下流域でその後20年近くローマとは良好な関係を続けていたのですが、436年にフン族の傭兵を使ったアエティウスの攻撃によって南に逃げ、現スイスで再びローマと盟約を結んで定着します。彼らはその後西に勢力を伸ばして西ローマが滅亡する476年頃にローヌ川一帯を制圧しブルグンド王国を作ります。
さてこのブルグンド族を重要と書いたのは、この一連の経過が後に叙事詩『二ーベルンゲンの歌』の題材となったからです。ブルグンドの王女クリームヒルトとネーデルラントの王子ジークフリート、そしてフン族の王エッツェルにゴート王テオドリックなどが登場するこの叙事詩、DOLでも前半の主人公ジークフリートが持っている剣バルムンクを入手する連続クエとして登場しますよね。ブルグンド族の名は後にフランク王国の伸張によって埋没してゆきますが、王国としての名はその後も長く受け継がれてゆきます。

ヨーロッパ地図_5世紀前半01
ここでちょっと430年頃までの地図をだいたいで書いてみました。
(原寸はW800×H584ピクセルありますのでクリックして見てください。)

こんな感じで、360年頃にカスピ海の北部で始まった玉突き現象の余波は、いつの間にかヨーロッパ全体に及ぶ大変動へと拡大していたのでした。ライン川沿いに建設されていたケルン・マインツなど後世まで都市として残るローマの軍団基地が既にゲルマン系の部族に制圧されているのが分かりますね。ただ、戦乱の中の均衡とでもいうのか、420~430年代に掛けてローマを軸とした西ヨーロッパの勢力バランスは意外に安定していたのも事実です。


しかし440年代に入ると、事態は一変します。
これまで毎年の支払いを要求しつつもローマ帝国と比較的良好な関係を持っていたフン族に、
その一生を反ローマに費やした男が指導者として立ちます。
そう、アッティラの登場でした。
兄のブレダと共に後を継いだ彼の代で、フン族は短期間にその最大版図を築く事となります。
次回はアッティラの西ヨーロッパ侵攻と歴史上のポイントとなる戦いを紹介します。


おしまい。


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