打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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エンリケ物語 その16

最終回


準備
1459年、既に死期の近いことを悟っていたのか、エンリケは遺言状と相続の準備を始め、関わる多くの人々へ依頼・手配を行います。生涯結婚しなかったエンリケでしたが、養子としてポルトガル王アフォンソ5世の弟で甥に当たるフェルナンドを迎えており、エンリケの有する領地のうち、ヴィセヴ公爵領・アソーレス諸島のうち2島を彼に相続させるよう、ポルトガル王など幾人かに委託して行きました。そして残りの、といってもマディラ諸島・アソーレス諸島の5島・そしてアフリカ事業におけるエンリケの独占権などのほぼすべてはポルトガル王アフォンソ5世に遺贈される事となりました。


ポルトガルのその後
この決定はポルトガル王家に莫大な収益力をもたらします。
後の1460~1470年代のモロッコ攻撃や1470~1480年代のサン・ジョルジュ建設を象徴とするアフリカ西~南部の開発に大きな影響を与えたのはもちろん、15世紀初頭の時点ではイベリア半島西端の小国に過ぎなかったポルトガルの勢力圏が、これによって西アフリカ沿岸からギニア湾を経てコンゴ王国近くにまで及び、しかもその権益の大部分がポルトガル王家の直轄となるのですから。

これにより、当初は民衆・騎士階級・そして旧貴族の支持によって成立した連合政権の色合いが強かったジョアン1世に始まるポルトガルのアヴィシュ王朝は、エンリケのアフリカ事業を継承し、同時に対外戦争を乗り切り領土を拡大する過程で他の大貴族とは一段飛びぬけた実力を付けるようになってゆきます。この後ポルトガルは1480~1520年代にアフリカ南端から一気に東南アジアにまで到達するという驚くべき結果を残しますが、ポルトガル王家に実力がなければ強力な艦隊を編成する事もできませんよね。こうして、アフリカ事業の収益はポルトガル王国が中央集権化してゆく基盤となったのでした。

一方、当初よりだいぶ少ない遺産しか与えられなかったアフォンソ5世の弟のフェルナンドですが、この家が後に意外な展開から再び歴史の表舞台に立ってくることになります。1493年、つまり大航海時代ONLINEの始まる正にその時代、ポルトガル王ジョアン2世の嫡子アフォンソが亡くなると、アフォンソ5世直系の嫡出男子が途絶えてしまいます。この時新たにポルトガルの皇太子に選出されたのが、ヴィセヴ公フェルナンドの6男マヌエルでした。この王子が、後に喜望峰発見・インド到達・マラッカ発見・香料諸島到達・ブラジル発見と立て続けに業績を挙げてゆくポルトガル王マヌエル1世となったのです。という事で、いまDOL世界のポルトガル王はエンリケ航海王子の養子・後継者の系統が即位しているんですね。


最後の発見
1460年、
エンリケの元にアフリカ事業における最も遠い場所に関する発見報告が成されます。

シエラレオネ到達。


エンリケの家臣シントラによって、ポルトガルの支配領域はこの『ライオンの土地』と名付けられたシエラレオネ地方の東端にあるレド岬まで記録されたのでした。

※一応、1447年の時点でアルヴァロ・フェルナンデスがシエラレオネ近くで上陸しているという話も有りますし、シントラの到達は1461または1462年到達という説もありますが、ここでは1460年説に基づいて記述しています。

15世紀始めのセウタ攻略から45年、ポルトガルの、そしてエンリケのアフリカ事業は実に4000kmを航海して来ていました。この間、最初に開拓されたマディラ諸島の開発はこの時代には砂糖の生産も始まるなど完全に軌道に乗り、西アフリカではアルギン島に内陸との交易ルートが確立され、莫大な量の金・そして奴隷が輸出され始めるようになっていました。
惜しむらくはシエラレオネの先に広がる、穀物海岸・黄金海岸・奴隷海岸・象牙海岸などと呼ばれた豊かなギニア湾沿岸の一帯まで到達できなかったことで、この事業はエンリケ死後の1470~1480年代まで待たなければなりませんでした。
しかし、エンリケが死の床についた1460年代には、リスボンの繁栄は素晴しいものがありました。リスボンからは年間何十隻ものキャラベル船、更にその数倍もの数の大型商船が出港し、マディラ・モロッコ・アフリカ、そして北海・地中海からは豊かな物産が多く集積する、ヨーロッパでも屈指の港に育っていたのですから。実力を蓄え、海洋国家として更に飛躍する、そんな活力溢れるリスボンの繁栄のなか、エンリケは最期を迎えます。


アフリカ図1460年



最期
1460年11月13日深夜、
エンリケは息を引き取ります。

その遺体は父ジョアン1世も眠る、
サンタ・マリア・ダ・ヴィトリア修道院に埋葬されます。
エンリケは生前、1500回以上に上るミサを行うよう手配するなど、
宗教心に篤いエンリケらしい逸話を残しています。
また、マヌエル1世などは後々までエンリケの業績を忘れず、
ギニアのプリンシペ島でミサを行うなど多くの後継者が慕う存在となっていました。

エンリケ航海王子は、恐らく兄ペドロのようなグローバルな視点も中央集権化を目指すなどと言った時代を先取りする先見的な視点も持ち合わせていない、それでいて正義感と信仰心の篤い人という至って中世的な人物だったかも知れません。
しかし、その行動力と信念、そして統率力などは中世を突き抜けるだけの力を持っていました。
彼の存在・業績がなければ、恐らく15世紀後半~16世紀のポルトガルはイベリア半島の小国から抜け出せず、早い段階でカスティーリャ王国、そして後にアラゴンと連合して成立するイスパニアの圧力に飲み込まれていたかも知れません。またヨーロッパのインド・東南アジア到達も数十年遅れていた可能性もあります。そう言う意味ではエンリケは後世のヨーロッパ、そしてその影響によって大きく変動した世界史の中でも結構重要な人物だったんじゃないでしょうか。



これで、エンリケ航海王子に焦点を当てつつ見ていった
大航海時代初期のポルトガルを巡る話は終わりとします。






追記)
エンリケ物語でカテゴリ1個作ることにします。


おしまい。


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  1. 2008/11/30(日) 10:14:42|
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エンリケ物語 その15

あるヴェネツィア商人の記録


スカウト
1454年、エンリケに残された時間はあと数年に迫っていました。
そしてこの年、ポルトガル南部のアルガルヴェにいたエンリケの元を、
あるヴェネツィア商人の若者が訪ねてきます。
この男の名はアルヴィーゼ・カダモスト。
当時まだ22歳で、フランドル行きの商船に乗ってサン・ヴィセンテ岬の近くで停泊していたところを、エンリケの家臣のアントン・ゴンサルヴェス(第10回でキャラヴェル船長として登場した人)のスカウトを受けてエンリケのアフリカ行き船に乗る事にしたのでした。このカダモストが、アズララの 『ギネー発見征服誌』 と共に当時の貴重な資料となる 『航海の記録』 を残す事になります。

又聞きの記録であるアズララの書は資料としては膨大で非常に優れていたものの、現場の雰囲気などには乏しかった一方で、カダモストの航海記録は自分で体験したものがかなり反映されていて非常に活き活きとした表現に溢れており、分量こそやや少ないですが読む者を楽しませる面白い内容になっています。


カダモストの航海
さて、ゴンサルヴェスのスカウトを受けてエンリケに面会したカダモストは、船と商品を自前で調達した航海で得た利益の1/4をエンリケに収める(商品だけ積むものは利益の1/2を収める)条件に承知し、1455年春、ヴィセンテ・ディアスの船に乗ってマディラに向かいます。この時ディアスの船に積まれていたのは毛織物・絹織物・そして馬でした。恐らくエンリケは、これらの商品と交換することで、商才豊かなヴェネツィア人が何か面白い商材を見つけてこないか期待していたらしいのですね。

予定地であるマディラ諸島のポルト・サント島に着いたカダモストは小麦・大麦・竜血(医薬品となる樹脂)を積む際に、この地で代官を務めるマディラ発見者の1人であるペレストレロと面会します。ちなみに、このペレストレロの娘か孫に当たる女性が、後にクリストバル・コロン、つまりコロンブスの妻となります。コロンは一時期マディラのポルト・サント島に住んでいたのですね。

翌1456年、カダモストは再びアフリカを南下します。
マディラ諸島を経由したカダモストの船はその後カナリア諸島→ブランコ岬と南下してゆき、最初の目的地アルギンに到着します。既にこの時点でアルギン島にはエンリケの命によって城塞と商館が建設されており、交易・探検の一大拠点として急速に発展しつつ有りました。
ここでカダモストは、ポルトガル人がアフリカ内陸の現地人と既に接触を始め、小麦や織物・馬を提供する代わりに金の延べ棒や敵対するアフリカ人を奴隷として捕まえさせ、取引する事に成功しているのを知ります。特に馬はアフリカの黒人世界にとって希少品だった様で、馬1頭が奴隷10~15人に相当したと言います。
この辺はさすがにヴェネツィア商人であるカダモスト、交易に関する部分がかなり詳細に残しています。例えばアルギンからポルトガル商人が内陸の町ワダンまで陸路で行き、そこから現地アフリカ商人が隊商ルートを通って岩塩の町タガーザや金や宝石の集積するトンブクトゥやガオから運んでくる物資との交易を行っている様子など、現地に行っている者の生の感想が活き活きと描かれています。
中には現地の黒人がヨーロッパから来た白人の肌の色を見て 『何か塗っているのではないか?』 と疑い、白人の腕を取って指でこすって見たら地肌と知って驚いたなんて逸話も残っていて非常に面白いものが有りますよ。


さて、その後再び南への航海に出たカダモストの船は途中ヴェルデ岬の沖にいくつかの島がある事を確認し、まだ未発見だった南西側の群島も発見します。これが現在カーボヴェルデを中核とするヴェルデ諸島でした。
このヴェルデ諸島、実はカナリア諸島から沿岸沿いに流れる海流(カナリア海流)の終着点であり、同時にすぐ沖からはるか西の小アンティル諸島に向かって流れる強い海流(北赤道海流)の始点でもありました。
このカナリア諸島→ヴェルデ諸島→アンティル諸島→北米東岸→ヨーロッパ西岸という北大西洋における海流のサイクルが確認されてくると、ヴェルデ諸島は新大陸へ向かう船にとっての最終補給地として再び登場してくる事になります。
その後、16世紀になるとカーボヴェルデはポルトガルの重要港となりますが、1585年にあのフランシス・ドレイクの攻撃により壊滅的な被害を受けて以降、その地位を徐々に失ってゆきます。


こうして、最終的にカダモストによる1455~1456年の2期に渡る航海では、ガンビア川とその南にあるギニアのビジャゴース諸島まで到達します。ここからシエラレオネまではあと5~600km、ポルトガルによる大航海時代初期の探検事業はいよいよ海岸線も南から南東方向に延び、多くの河川が入り組むギニア高地の沿岸まで来ていました。


いよいよ最終回へ。
それにしても、
一ヶ月で全部書き切る事になるとは思いもしなかったなぁ・・・。



おしまい。


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  1. 2008/11/29(土) 15:03:09|
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エンリケ物語 その14

アフリカ王の登場


エンリケ航海王子の晩年となる1450年代に入り、西アフリカの探検事業の南下速度は目に見えて低下していました。1444年の時点でヴェルデ岬を発見してから、エンリケが亡くなる1460年までに到達したのはシエラレオネまでですから、17年間でその距離約1000km。いっぽう1415年のセウタ攻略から1443年のヴェルデ到達までが28年でその距離約3000km。1年あたりの南下速度で言うと59対107kmですから6割弱に留まっています。それも、最終的にシエラレオネに到達したのが1460年ですから、交易面の活発化とは裏腹に探検面での動きはかなり鈍かった事になりますね。

では、摂政ペドロの死後、ブラガンサ公が政権を掌握してからエンリケが亡くなる1449~1460年まで、ポルトガルは一体どういう動きをしていたのでしょうか? ここに、エンリケの甥に当たるポルトガル王アフォンソ5世が関係してきます。


アフォンソ5世
1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国の攻撃により陥落すると、教皇は直ちに十字軍の呼びかけを行います。ポルトガル王アフォンソ5世も即座にこれに反応するなどいったんこれは実現しそうな気配を見せるのですが、熱意を持っていたのはポルトガル王とイングランド王くらいで、結局このときの直接的な反撃は立ち消えになってしまっていました。事実上、もはや十字軍の名の元にヨーロッパ諸国が結束するなど中世期に見せた突発的な行動力はもう政治的にも実力的にも困難になっていたのでしょうか。

一方、そんな動きの鈍いヨーロッパ諸国を尻目に、
20代に成長していたアフォンソはこれと前後して目に見える外交成果を挙げてゆきます。

まず1452年、アフォンソの妹レオノールが神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世と結婚します。そしてこの両者から後の皇帝マクシミリアン1世が生まれます。この人はアフォンソの叔母イザベルが結婚したブルゴーニュ公フィリップの息子であるシャルル突進公の娘と結婚しますから、この頃からポルトガル王家はブルゴーニュ公家・ハプスブルク家と二重三重の婚姻関係を結んでゆく事になりますね。
そして1456年、教皇より西アフリカにおけるポルトガルの権益が確定する勅書が出されます。ボジャドール岬以南におけるポルトガルの領有権・裁判権・宗教的な権益・交易や漁業などの経済権益・更には航行の独占権など、かなり大きな影響力を持つ決定でした。
またこれはモロッコに対して触手を伸ばし始めていたカスティーリャに対しての外交上の勝利を意味していました。
これを受けて、アフォンソはボジャドール岬に至る地域の権益を確実なものとするため、東地中海への十字軍の代わりにモロッコ方面への攻略作戦を提案します。
1450年代から1470年代に掛けて行われたポルトガルのモロッコ方面への軍事的な動きはこのあたりの政治情勢が深く関わっていたんじゃないかと思います。

1458年、アルカセル・セゲールを攻略
1474年、アルジラ、タンジールを攻略

このうちアルカセル・セゲール攻略にはエンリケも出陣しておりますが、元々小都市ですから攻略自体は準備の整っていたポルトガル軍にとってはそれほど困難ではなかったようです。しかし、セウタ、タンジール、アルカセル・セゲール、アルジラというジブラルタル海峡からモロッコ沿岸の諸都市を攻略したポルトガルは、こうして西アフリカに至るルート上の拠点を得る事になり、上の3都市の攻略を成功させたアフォンソ5世は『アフリカ王』の異名をもって呼ばれたのでした。
アフォンソの死後、その息子ジョアン2世の時代でポルトガルはいよいよアフリカ南端~インドへの道を切り開いてゆく事になりますが、その下地となる部分は探検事業が停滞していた1450~70年代に整えられつつあったと見るべきなのかも知れませんね。



ポルトガルの強み
こうしてみると、ヨーロッパ辺境の小国に過ぎないポルトガル一国だけがなぜ大航海時代の初期に突出した成果が出せたのか、なんとなく伺える気がします。15世紀前半の時点では、ポルトガルだけが、『時期・地勢・人材』 の各面でそれを満たすだけの要件が揃っていたんじゃないかと。

まず時期としては、競合となる可能性のあったヨーロッパ各国では、百年戦争を始めとした長期の対外戦争や王位争いなどの内戦など紛争が絶えませんでした。これに対してポルトガルはレコンキスタが完了し、同時に強い王が立って国内が安定し、更に唯一の仮想敵であるカスティーリャとの和平が実現した事でその国力・活力を外洋に向けるだけの余裕がありました。

地勢面ではもちろんアフリカ・大西洋に最も近いヨーロッパの西端であった事、そして南と北の経済圏が交差する関係で、もともと中継港として海運が発展する潜在的な優位性があった事でしょうか。また、大航海時代序盤の最優秀船というべきキャラベル船を開発できたのも、こうした経済圏の交差する所に位置していたのも大きいと思います。

そして人材面では、この時代には珍しく、ポルトガル王家の人々が優秀で、かつ比較的に皆長寿だったことでしょうか。王位に就くものが短命だったり突然死んだりしますと、当然ながら王位相続の争いや政権交代後の混乱で活力を損ねたり政策に一貫性を欠いたりする事になりがちですから。
この点、ポルトガル(アヴィシュ朝)の歴代の王を見ると、1・3・4代目のジョアン1世、アフォンソ5世、ジョアン2世の3人だけで在位年数が実に105年を数えます。しかもジョアン1世の息子で2代目のドゥアルテだけがやや若死にしていますが、これも弟の摂政ペドロとエンリケ航海王子という優秀な兄弟によって完全にサポートされていました。
まだ中央集権化する前の、官僚機構などのない中世末期の事ですから、指導者は直接臣下の揉め事・相談などに携わる必要があります。必然的に人と人の関係が重要であり、王様が長命な事はそれだけで長所となりえたでしょう。人口100万そこそこの小国ポルトガルで指導者が優秀かつ長命というのは実際かなり大きかったと思います。国王が短命で後継者を決めないで亡くなってゆく16世紀後半のポルトガルの運命をみると余計にそう思わずにいられませんね。


なんだか脱線気味の回なのにまとめに近い事を書いちゃってますね。
次回は新たな冒険者の登場と西アフリカ事業の到達点を見てみます。
たぶんあと2回。



おしまい。


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  1. 2008/11/27(木) 17:26:57|
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エンリケ物語 その13

金と十字架

11月頭から書き出したこのシリーズも今回でもう13回目。
やたら速いペースで進んで恐らくあと4~5回ほど、ここから終盤に入ってゆきます。


内陸探検
1449年にエンリケの最大の後援者であった兄ペドロが権力闘争の末に敗死したことは、エンリケだけでなくポルトガルの西アフリカ事業そのものにも変化をもたらします。南へ南へと進んでいたアフリカ事業はより商業的に、実利的な探求へと移って行ったのでした。
確かに、サハラ砂漠の広がる西アフリカを越えてギニア沿岸まで到達した事で、既に商業的には目途がつく段階に来ていました。西サハラと違ってギニアは豊かな土地であり、人口もそれなりに多く、なによりここには金を始めとしたヨーロッパ人が渇望していた富がありましたから。

そして、ヴェルデ岬の北を流れるセネガル川と南を流れるガンビア川を発見したことで、ポルトガル人はここを遡行して内陸に至るルートを発見します。地図を見れば分かりますが、ガンビア川を上流へさかのぼって行くといったんギニア高地で源流部に達した後、そこから今度は東にニジェール川が流れています。このニジェール川を今度は下ってゆくとアフリカ内陸に至るわけですが、中でも途中にある町の名は、かつて大航海時代シリーズをプレーしたことのある方なら懐かしい響きがあるかと思います。

トンブクトゥ。

ニジェール川伝いに続く、あの幻の町を始めとした内陸の諸都市へと続く事になるギニアの隊商ルートの存在は、それを知ったポルトガル人に莫大な富をもたらし始めます。
1450年代ころから、アルギンの商館では輸出用の小麦と織物などがヨーロッパから運ばれ、それと交換でスーダンの隊商から買い付けた金と奴隷が流れ込むようになったのですから。これによってこれまで北アフリカのイスラム商人が現地の隊商を通じて買い入れていたアフリカ内陸のスーダン(サハラ砂漠以南の黒人が住む地)で算出する金が、現地に非常に近いルートでアルギンにも流入するようになり、ポルトガルは非常に安価に、そして結構大量に金をヨーロッパへ持ち込むようになったのでした。

この内陸との交易を通じて、ポルトガルはサハラ砂漠の南側に広がるスーダン内陸にはタガーザ・ジェンネ・トンブクトゥ・ガオ・カノなどの都市があり、それらを結ぶ隊商ルートがある事を知ります。そしてアフリカ内陸は決して未開の土人が住む土地ではなく、ある程度イスラムの影響が及んだいくつかの国家がある事も。

それにしても、これらのアフリカ内陸への探検というかアプローチがもう少し進んでいたら面白い事になったと思います。アズララはどうもニジェール川がナイル川に続いてると勘違いしているようですが、スーダンの東端は確かにナイル川の流域に至ります。そしてその先には、古いキリスト教国のエチオピアが存在していたのですから、もしエンリケがこれを知っていたらプレステジョアンの伝説と結びつけてどういう動きを見せたでしょうか・・・。


アフリカ図1449年


大事件
ところで、これまで基礎資料として使用していたアズララの 『ギネー発見征服誌』 ですが、残念ながらこの本の記述は1453年で終了しています。この本も記述の後半では 『誰それがキャラベル何隻を率いてモーロ人を何人捕まえた云々』 というような内容が非常に多くなってきており、エンリケの西アフリカ事業の焦点がそこに移って来ている事をうかがわせます。
しかしこの1453年という年は、ヨーロッパ世界では西アフリカ事業の進展などよりはるかに重大な事件が起こり、ヨーロッパ世界に激震が走っていました。

この年の5月、
コンスタンティノープルがオスマン帝国の攻撃により陥落し、
遂に東ローマ帝国が滅亡したのです。
諸国に十字軍の要請が飛び、キリスト騎士団長でもあるエンリケにとっても捨て置けない事態となりつつあったのでした。


おしまい。


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  1. 2008/11/25(火) 23:41:46|
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エンリケ物語 その12

権力闘争


1440年代後半の時点でサハラ砂漠を越えてギニアに入るなど順調に進んでいたポルトガルの西アフリカ事業。民間からも多数のキャラベル船が建造されて大規模な交易・探索が行われるようになるなど活況を呈していた一方で、ポルトガル本国では静かに・そして根深い反感が生まれつつありました。

今回はこの1440年代におけるポルトガル本国での権力闘争を見る事にします。というのも、この結果が史実はもちろん、現在のDOL世界でのポルトガルの登場人物にも直結する重要な契機となっていたからです。


アフォンソ5世
エンリケの父ジョアン1世、兄のドゥアルテ1世が亡くなった後、ポルトガルの王位に就いたのは当時わずか5歳だったドゥアルテの遺児アフォンソでした。これがアヴィシュ朝第3代の王アフォンソ5世となります。幼少のアフォンソ5世の摂政となったのは始め母のレオノール、次いで叔父のペドロが就いていました。このペドロが摂政となった事で、エンリケはアフリカ事業における支援と権限を与えられ、その結果が1440年代の進展に繋がっていたのです。また、これに先立ってエンリケはアフォンソ5世の弟フェルナンドを養子に迎え入れています。


反感
エンリケの父ジョアン1世に始まるアヴィシュ王朝が、旧来の貴族だけでなく民衆と新しい騎士階級を取り込んで成立したのは以前書きましたね。このうちエンリケのアフリカ事業で成功し・利益を得ていたのは、主にリスボンなど都市の商人と新たに取り立てられた比較的身分の低い騎士階級でした。

一方、旧来の土地領主である古い貴族たちは、アフリカ事業の成功によって外部から流入する資本・商品とそれを支持する摂政ペドロの商業優先の政策により、商品・貨幣経済の進展の中で危機感を募らせてゆきます。これらの旧貴族派の領袖が、エンリケやペドロの異母兄であるバルセロス伯でした。

元々バルセロス伯はアフォンソ5世の摂政だった母レオノールに近く、都市階級の代表であるペドロとは反目する関係にありました。ペドロとレオノールの権力闘争の際にはペドロ優勢と見ていったんは和睦したものの、レオノールが引退した後はこのバルセロス伯が反ペドロ陣営の代表と見られるようになって行ったのでした。

また摂政となっていたペドロは当時のヨーロッパの王侯の中でもかなり優秀な人物だったでしょうが、それだけに物事の決定にはやや専横的な所があり、その姿勢もまた旧来の貴族の反感を買う一因だったかもしれません。
ただ、このペドロもいたずらな反目は望んでいなかったようで、バルセロス伯との当面の対決を避けるべく、1442~43年頃にはバルセロス伯にある公爵位を授けて懐柔を図っていました。
その爵位とは、

ブラガンサ公爵。

聞き覚えありますよね?
そう、このエンリケとペドロの異母兄であるバルセロス伯とは、
今DOL世界でポルトガルのリスボン王宮の真ん中で爵位をくれたり海戦時には『その方の進言を聞こうか』 とか言ってるあのブラガンサ公爵の直系の先祖だったのでした。


ブラガンサ公爵家
エンリケの異母兄バルセロス伯を初代とするブラガンサ公爵家は、15世紀末のジョアン1世の時代にいったん衰退するものの、16世紀になると勢力を回復してポルトガル屈指の大貴族として権勢を振るいます。そして16世紀後半にポルトガルがイスパニアとの同君連合となっていったんアヴィシュ王朝が滅んだ後、1640年に再独立した際にはブラガンサ王朝を開いて自ら王家となります。
このブラガンサ王朝は19世紀にナポレオンに侵攻されていったんブラジルに亡命した後も命脈を保ち、ブラジル帝国の君主として、また20世紀まで続いたポルトガル王家の最後の王朝として、第一次世界大戦の直前まで存続していました。


ブラガンサ公の謀略
1446年、アフォンソ5世は14歳となり成人を迎えます。
普通ならこの時をもって摂政役のペドロは役割を終えるのでしょうが、若年のアフォンソ5世にとってはいきなり親政しろと言っても無理な話で、ペドロに引き続き側近として助言を与えてくれるよう要請します。そしてこの若年のアフォンソ5世に、ブラガンサ公爵が親族衆として接近して来たのでした。
ブラガンサ公の最初の狙いはアフォンソ5世に王妃として自分の孫娘を嫁がせることでしたが、これはペドロの娘(つまりアフォンソのいとこ)が決定する事で断念します。(まあこれで更にペドロを恨むわけですが・・・)
更にブラガンサ公はアフォンソに対し、母レオノールの死にペドロが関わっていたと吹き込みます。恐らく全く無関係ではなかったのでしょうが、こんな感じでアフォンソとペドロを引き離そうとするブラガンサ公の策謀は次第に効果を上げてゆきます。

1448年、遂にアフォンソ5世は摂政ペドロを解任します。
その命令の影にはブラガンサ公の策謀があった事をペドロは感づいていましたが、賢明なペドロはむやみに反抗することなく、この時おとなしく領地コインブラに戻って引退します。
しかしブラガンサ公の策謀はこれで終わりませんでした。
『親王ペドロに謀反の気配あり』 
ペドロが去って旧貴族派が発言権を強めていったポルトガル王宮でこんな噂が流布し始めます。これを疑ったアフォンソはペドロに出頭命令を出しますが、このいわれのない嫌疑に対してもペドロは従い、リスボンの王宮に出頭しようとします。ただ、この時はさすがに無実の罪に落とされようとしているペドロの窮地を救う為に両者の仲裁としてエンリケが動き、ペドロとブラガンサ公は共に引いて領内に戻ったといいます。

この後、ブラガンサ公によるペドロ離反の謀略はアフォンソだけでなくエンリケにも及びます。ペドロが翻意を抱いているから注意するようにと言う文書をエンリケに送るのですが、元々ペドロと仲の良いエンリケがこれを信じるはずもなく、逆にペドロの元に赴いてその手紙を見せたといいます。


ペドロの最期
あの手この手を使っても謀略に乗ってこないペドロに対し、
ブラガンサ公はいよいよ強引な手段に出始めます。
『コインブラ公領へポルトガル軍が通過するから認めるように』
ポルトガル軍と言っても実際はブラガンサ公の手勢です。そもそも公爵領は最高裁判権など一部の王権を例外としてその公爵にすべての権限を認めた特別領であり、一個の国に近い自立権を有していました。そこに謀反の嫌疑が掛かっていたとは言えブラガンサ公の息の掛かった軍隊を通過させろと言うのですから、これはペドロにとってもかなりギリギリの命令だったと思います。

おとなしく従えば事故に見せかけて襲われる危険がありますし、
拒否すればそれを謀反の証拠として逮捕されるのが目に見えていました。
この命令に対し、ペドロは遂に兵を挙げます。
ブラガンサ公としてはしてやったりでしょうが、ポルトガル国内の権力闘争は遂に内戦にまで発展してしまったのでした。

それにしても、ブラガンサ公爵のこの辺の余りにもミエミエで強引な謀略ぶりは、徳川家康が秀吉亡き後の豊臣家を滅亡させるまでのプロセスに酷似していて日本人としてはちょっと興味深いところ。

1449年5月、ポルトガル軍とペドロのコインブラ軍は現アルヴェロカ近郊のアルファルロベイラまで進軍し対峙します。
緊張感が高まる中、突如ペドロの手勢とポルトガル軍の間で戦闘が始まってしまいます。しかし元々少数に過ぎないコインブラ公軍はポルトガル軍に押され、ペドロの周辺は彼が意図しないまま戦場となっていました。
そしてこの混乱の中、一本の矢がペドロを貫きます。
57歳のあっけない死。
主君を失ったコインブラ公軍は離散し、戦場に放置されたペドロの遺体はその後近くの小屋に運ばれますが、初夏にも関わらず3日以上もそのままだったので腐敗して悲惨な事になったといいます・・・。


戦後
ペドロに掛けられていた嫌疑は全く根拠のないものだったことが明らかになります。
そしてこの内戦によるペドロの死に対して、彼を知るヨーロッパ諸国では非難の声が上がります。
中でも激怒していたのが、ペドロの妹を妻としていた 『善良侯』 ことブールゴーニュ侯フィリップ。
ペドロの遺児2人をブールゴーニュ侯領内に保護すると、
一人はキプロス島の王女と結婚させてアンティオキア公に、
もう一人をリスボン司教から枢機卿にまで育て上げたと言います。

一方、権力闘争に勝利したブラガンサ公爵家。
ペドロの死後アフォンソ5世の摂政として権勢を振るいます。
エンリケに対しては特別敵意をもたなかったブラガンサ公はエンリケのアフリカに置ける権益には手を付けませんでしたが、最大の支援者だったペドロを失ったエンリケのアフリカ事業は1449年以降やや停滞を余儀なくされます。その方向は新規の探検よりも収益性が重要視され、冒険者より商人の時代に入りつつありました。

尚、ポルトガルがアフォンソ5世から母方の祖父にペドロを持つジョアン2世の時代に移ると、祖父ペドロを謀略をもって死に追いやったブラガンサ公爵家は粛清の対象となります。そして、ブラガンサ公爵家が再び親族衆の重鎮として政権内に復帰するのがちょうどいまDOL世界が展開している16世紀前半だったのでした。


いかがだったでしょうか。
ブラガンサ公、極悪ですね。
ちょっと長くなりましたが、リスボン王宮内の真ん中にいるあのお方の先祖と、
エンリケ航海王子の世代のポルトガル王家の間には、これほどの抗争があったのでした。



おしまい。


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  1. 2008/11/22(土) 18:43:40|
  2. エンリケ物語
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