打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

オスマン家の肖像 最終回

オスマン家の系譜

およそ半年に渡って書いてきたオスマン家の話もこれが最終回となります。
征服活動によって地中海沿岸のほぼ2/3を、更に海賊たちの支援と海戦の勝利によって地中海のほぼ全域を制圧するに至ったオスマン帝国、その興隆期の終わりはどのような物だったのでしょうか。
今回はその後も含めて確認してゆく事とします。


(充実と転機)
1530~40年代に地中海の覇権をほぼ確立したスレイマン1世。
その後もクレタ島やキプロス島・チュニスへの攻撃を企図するなど相変わらず軍事行動は見せていましたが、これ以降の彼には他にもやる事が数多く残っていました。
そう、彼の跡を継ぐ者たちが円滑にオスマン帝国を運営するための国づくりという大仕事が。
40年以上に渡る彼の治世の後半は、こうした基盤整備で次々とその成果を挙げて行きます。

まず最も大きな事業は、国家と人民の活動の基本となるイスラムの法整備だったでしょう。
そして官僚機構の整備や人材登用の仕組みを完成させるなどのオスマン帝国の中央集権化。
更には中央を強化する事で必要となって来る首都イスタンブールの整備など。

このうちのどれか1個を取っても大事業なのですが、
これを主導・実現させたスレイマンのこれはもう本領発揮というべきでしょう。
元々思慮深く文人肌と見られていた彼でなければ、
恐らくこれを成し遂げられる者はオスマン家に居なかったと思います。
1566年に彼が亡くなった時、その成果は既に明らかでした。
首都イスタンブールのこの当時の人口は少なく見て20万、多くて40万人とも言われ、
現代にも残存している大バザールの原型も既に始まっていたのですから。

そして彼が亡くなった際に後継のセリム2世が速やかに統治を引き継ぐ事の出来たのも、
彼が残した大宰相をトップとする官僚機構がそのまま活かされたからだったのですから。
しかしこれらの国家機構の整備、
オスマン帝国としては大成功というべきでしょうが、
片やオスマン家として見た場合は微妙なものを孕んでいたのです。


(官僚と傀儡)
法整備を行ない、中央集権化が成功して強固な官僚組織ができる。
これは統治者の資質によらず国の運営が安定化する近代化の傾向とも見えるのですが、
その一方でこれは最高権力者に依存する比重が劇的に低下することも意味していたのです。
そびえ立つオスマン帝国という巨大な山で頂点だけが陥没する、そんなイメージでしょうか。

実際1566年の第10代スレイマンの死後、
オスマン家のスルタンは極端に言えば官僚機構の上に立つ血統保存役に変化します。
時折英明な資質を持ったスルタンも登場するのですが、
中には全く政務をかえりみないでハーレムに篭もってしまう異常者の時代すら現れるのですから。
それでもオスマン家そのものを保存しようとする姿勢は代わらなかったものの、
これ以後たびたびスルタンが臣下によって廃位させられるようになるのはその現れでしょう。

そして官僚主導による統治活動は、
これは個人的感想ですがある意味で意思決定の硬直化にも繋がっていた気がします。
ちょっとスレイマン以後の主な年表を上げて見ます。

1570 キプロス島征服
1571 レパント海戦に敗戦
1572 オスマン艦隊再建
1573 ヴェネツィアと和約・キプロス確保
1574 チュニス奪還
1578 カフカス戦役の開始
1590 カフカス戦役の終結(アゼルバイジャン征服)
1603 タブリーズ失陥
1607 カフカス・アゼルバイジャン完全撤退

この年表で見ると、1571年のレパント海戦に破れた事は別として、スレイマンの死後も息子のセリム2世が健在だった1574年までは順調に成果を挙げていた事が分かりますね。特にレパント海戦で壊滅的な打撃を受けたオスマン海軍が翌年の夏には再建されてキプロス島を含む東地中海の制圧に派遣されているのですから、その活力が衰えて居なかったことがよく分かります。

しかし1578~1590年のカフカス戦役あたりから雲行きが怪しくなって来ます。
この1578年はスレイマン1世・セリム2世・ムラト3世と3代に渡って大宰相であった名臣ソコルル・メフメト・パシャが暗殺された年にあたり、スレイマンの黄金期を知る彼が亡くなった後のオスマンは完全に軍事国家から官僚国家へと変容していました。

そして1590年まで13年も続いたペルシアとのカフカス戦役、これは一応勝利してこの地域を割譲させる事には成功しますが、戦費の増大によってこの時期のオスマン帝国の財政が赤字に転落する原因の一つになってしまいます。更にこの方面の統治に気を取られたオスマン帝国はこの後1603年にタブリーズを失陥し、更に1607年にはカフカス・アゼルバイジャンから完全撤退をするのですから、莫大な戦費と時間を投入したこの戦いは完全に徒労に終わったのでした。

恐らくカフカス戦役は途中から労多くして得るものの少ない、割に合わない行動である事が誰にでも分かる状態になっていたでしょう。それでもオスマン帝国の官僚たちは完全撤退に追い込まれるまで止めようとしなかったのです。決断力が掛けていたのか、軍人の行動を止めるだけの力がなかったのか分かりませんが、動き出した歯車を止めるのが容易でないのは現代にも通じる所があってちょっと考えさせられるものが有りますね。


(破綻と再生)
1580年以降、オスマン帝国の収支は赤字に転落します。
一つにはヨーロッパ勢の進出でインド洋方面の貿易が競争力を失っていった事もあるでしょう。
またこの時代、先ほど見たように戦費を浪費し続けたペルシアとの戦争だけでなく、
西でもヨーロッパ勢・特にスペイン・オーストリアとの戦争は続いており、
火器の大量投入・長期戦が恒常化した近代型の戦争は莫大な戦費を必要としていました。
同時代のスペインが何度も破産したのを見ても負担が大きすぎたのは明らかなのですが、
オスマン帝国は実は全く別の所からも経済面の打撃を受け始めていました。

その一つが、新大陸からの銀。

16~17世紀当時、ペルーやメキシコでは大規模な貴金属鉱山が発見され、
莫大な量の金銀がヨーロッパに流入するようになります。
これによってヨーロッパではかつてない規模のインフレが発生して経済面・政治面共に大きな変動の時代を迎えるのですが、この波は当然同じ地中海の経済圏を抱えるオスマン帝国にも押し寄せていたのです。
中でも特に大きな影響を受けたのが銀の流入。
オスマン帝国時代の貨幣を見ると良く分かるのですが、
彼らは自国の通貨以外にもヨーロッパの主要通貨をそのまま通用させていました。

この銀貨が大量にイスタンブールの大バザールに流入したのですから、
ヨーロッパ諸国と同じくインフレに見舞われたのは想像に難くありませんね。
これ以外にもこの時代は黒海沿岸の異常気象・不作が発生しており、
経済面では黒海の不振も大きく影響していたでしょう。
こうして経済・財政状況が悪化した結果、
オスマン帝国はある古典的な打開策を取ります。

それは、貨幣の改鋳。
それも、高品位の銀貨を集めて含有量を落とした劣悪な銀貨を増やすという・・・。

当然ながら市場でこのオスマン銀貨の価値は暴落します。
しかもスルタンはこの貨幣で軍人の給与をそのままの俸給で支払ったのです。
この措置によって実質的な大幅収入減となった軍人たちからは不満が噴出。
特に常設されていた騎兵団では暴動すら起こり、
州の軍政官と財務長官を処刑することでなんとか治まったほどの深刻なものでした。

この後、オスマン帝国では、税制の改革と徴税方法に大きな変更が見られるようになります。
これは貨幣をいじるような表面的な策では財政赤字を改善できないと気付いた彼らが、
なんとか財政を再建するために取った措置だったのでしょう。

具体的には、
1.人頭税の台帳整備(国勢調査)とそれに伴う人頭税の強化・増額
2.旧来のティマール制に代わって徴税請負人制度を導入
3.戦費調達用の臨時税を恒久化

このあたりでしょうか。
台帳整備は古代中国の国勢調査や日本の検地も同種の狙いがあったでしょうし、
徴税請負制度は古代ローマでもありましたから実際それなりに効果は上がりました。
しかしこの17世紀の税制改正、オスマンの身分制度そのものも変容させることに繋がります。


(変容と終末)
まず、在郷の騎士たちを地域の徴税役、兼軍事奉仕者としていたティマール制度の崩壊。
これによって在地の騎士階級は徐々に没落したり官僚機構の中に取り込まれたり、はたまたイェニチェリ層へと転身するようになります。またイェニチェリ層が徴税請負人に割り当てられたり新規参入者が大幅に拡大されるようになり、今度はイェニチェリ軍団そのものがスルタンの奴隷から、世襲化されたイスラム教徒のトルコ人が流入する、政治的な影響力を持った軍事集団に変化してゆきます。
17~18世紀に4人のスルタンがイェニチェリによって廃位されたのはその変化の現れでしょう。
しかし17世紀中盤以降、30年戦争を経て大幅に近代化されたヨーロッパの諸国兵に対し、
イェニチェリ軍団は徐々にその優位性を失って行きます。
1683年の第二次ウィーン包囲は成功していても不思議ではなかったものの、
司令官の無能さもあって敗退。
以後もイェニチェリ軍団は政治的な影響力を持った集団として君臨し続けますが、1826年6月16日、マフムット2世は別に創設した近代装備の砲兵隊でイェニチェリの兵舎を急襲。
かつてオスマン興隆期に最強を誇ったイェニチェリ軍団は遂に壊滅したのです。


(オスマン家の系譜)
さて、最終回もかなり長くなってきましたね。
最後に現代のお話を。

実はオスマン家は現在も存続しています。
先月オスマン家に関してあるニュースが流れましたが、
お気づきの方いましたでしょうか?

2009年9月23日・ニューヨーク。
ここに在住していたオスマン家の第43代家長、
エルトゥールル・オスマン氏が死去されました。
彼は1912年生まれで、
オスマン家がまだ帝国の統治者だった時代に生まれた最後の人物でした。

それにしてもエルトゥールルという名前、初代オスマン1世の父の名であることに、このシリーズを読み続けてくれていた人は気付いたでしょうか。日本でエルトゥールルと言えば明治中期に紀伊半島沖で座礁したトルコ海軍の同名艦を指す事もあり、結構身近だったりもしますが(エルトゥールル号事件の話をどれだけの日本人が知っているのか不明ですが)両国の歴史においては相当に重要な名前なのは間違いないでしょうね。



2009年10月13日、
草原の民トゥルクマンより生まれし偉大なるオスマンの血脈に思いを馳せつつ。





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最後までお付き合い頂き、ありがとうございました(ペコリ

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  1. 2009/10/13(火) 21:16:21|
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オスマン家の肖像 その25

プレヴェザの海戦

興隆期のオスマン家を見てゆくシリーズも残り2回。
春から始めてもう秋になる所まで引っ張ってしまいましたね。
今回は拡大路線を続けたスレイマン大帝のひとつのトピックとなる出来事を見て行きます。


(1538年夏・イオニア海にて)
この年、イオニア海ではヨーロッパ諸国の連合艦隊とオスマン艦隊が激突したプレヴェザの海戦が起こります。双方合せて300隻以上・兵員合せて8万人という、16世紀の前半では最大規模のこの戦い、そこに至るまでと経過に焦点を合せて見て行きます。

この前年にオスマン帝国は陸と海からイオニア海沿岸の諸島、特にヴェネツィアの要衝コルフ島を攻略すべく、大宰相アヤース率いる陸軍と大提督に昇進していたハイレディン率いる艦隊とで荒らし回っており、数千人の捕虜と莫大な財貨を得る成果を挙げていました。この年彼らはコルフ島側の反撃があるや無理せず兵を引いていた為、翌年の再侵攻はほぼ確実な情勢と言えたでしょう。

一方これに脅威を感じたのが神聖ローマ皇帝カール5世以下のヨーロッパ諸侯。
ローマ教皇パウルス3世を動かして今まで非協力的と言うか独自路線を取っていたヴェネツィアをも動かして同盟を結び、オスマンの脅威に備えたのです。

翌1538年、各国の艦隊がシチリア島のメッシーナからコルフ島へと向かいます。
数にして200隻・6万人以上の大艦隊がハイレディンを迎え撃つべく集結したのですね。
そしてこの神聖同盟の艦隊司令官となったのが、当時もう71歳にならんとしていた老将アンドレア・ドーリア。ジェノヴァの名門ドーリア家から傭兵に転身し、1520年代以降はフランスからスペインの傭兵となっていた当時ヨーロッパ世界最高の海将というべき彼が、この同盟と言えば聞こえはいいですがその実雑多な寄せ集めに近い連合艦隊の指揮を取る事になったのでした。


(プレヴェザ)
イオニア海に面したギリシアの西海岸側。
ここは特徴として海上に大小の島が浮かんでいるだけでなく、
いくつかの湾を含む天然の良港が点在しており、古来より幾多の争覇戦が行なわれてきた地でも有りました。例えばBC31年9月のアクティウム海戦では、ユリウス・カエサルの後継者オクタヴィアヌス配下のアグリッパとマルクス・アントニウスによる決戦が行なわれており、この海戦に勝利したオクタヴィアヌスはカエサルの後継争いに勝利して後の帝政ローマの礎を築くに至っています。
そして今回ヨーロッパの連合艦隊とオスマン艦隊の焦点となったのが、コルフ島のやや南にあるアルタ湾とその出口近くに有るプレヴェザの一帯だったのですね。

1538年9月、ドーリア率いる神聖同盟艦隊はコルフ島から南下してこのプレヴェザ攻略を目指しに掛かります。この時の神聖同盟側には既に一部の船に大砲が搭載されており、ガレー船だけでなく帆船も参加しての混成艦隊となっていました。
その後、プレヴェザに迫ったドーリアの元へ一報が入ります。

『ハイレディン率いるオスマン艦隊接近中』 と。

アルタ湾は非常に狭く、また水深が浅い為に帆船が取り回しをするにはやや不向きな地形で、
これを嫌ったドーリアは一度包囲を解いて一旦コルフ島方面へと艦隊を動かし、オスマン艦隊をかわします。しかしこの結果、ハイレディン率いるオスマン艦隊は何の抵抗も受けることなくアルタ湾内に侵入、喫水の浅いガレー船主体の艦隊の為悠々とこの湾内で待機することに成功したのでした。


9月25日、ドーリア率いる神聖同盟艦隊は再びアルタ湾に接近しますが、
またしても湾内へ侵入できずに撤退。
この情勢を受けてのオスマン艦隊内、優勢なヨーロッパ艦隊がいるうちはプレヴェザ防衛に専念するべしという意見が多かったようなのですが、司令官ハイレディンは逆に撃って出ることを決断します。元々常に少数でのゲリラ戦術に長けた海賊出身の将らしく、ハイレディンはヨーロッパ艦隊にも隙は有ることを見抜いていたのでしょうか。

そして9月28日に掛けてのこと、数十隻の哨戒艇を出していたハイレディンの元に、撤退した神聖同盟艦隊をアルタ湾の南にある島の付近で発見したとの報が入ります。
この報を受けたハイレディン、ガレー艦隊約120隻を率いてアルタ湾を出撃するや、
天候が悪化していたのも構わず直ちに南下して神聖同盟艦隊を風上から急襲したのです。
これが、後世プレヴェザの海戦と呼ばれた戦闘となります。

とは言えこの時の神聖同盟艦隊、主力のヴェネツィア艦隊はけっこうやる気になっていたようですが、豪雨の中を先手を取られて風上から急襲された事もあってか、肝心の司令官であるアンドレア・ドーリアがどうにもその気を見せず、最初の衝突で拿捕船が出てしまったあたりで早々と撤退の指令が飛んでしまいます。(この時ドーリアには雇い主であるカール5世から積極的には戦わないようにとの密命を受けていたとも言われますが真相は不明)
結局、神聖同盟艦隊はコルフ島まで撤退しつつ戦わざるを得なくなった主力のヴェネツィア船を中心に、結構な損害を出して敗退。なんだかややアッサリではありますが、これがわすか数日で終わった海戦の顛末でした。


(戦後)
動員した規模のわりにガチでやり合わなかったこのプレヴェザの海戦。
たいした損害は双方とも出てなかったようですが、
一方でその後の影響は途轍もなく大きな物を残す事になります。

まずこの戦いでカール5世に見切りを付けたかのように、2年後の1540年にヴェネツィアがさっさとオスマン帝国と和平/通商条約を結んでしまって同盟離脱。更に元々反スペインであるフランスはこの直前にオスマンとの同盟関係が公となっており、ヴェネツィアとオスマンの和平の仲介をしたりイスタンブールとの通商が始まるなど、短期間ではありますが実質オスマンの影響下に入ります。

そして海戦の勝者であるハイレディンはというと、戦果以上に得た名声・そしてその名の持つ影響力は絶大なものがありました。また実質的に西地中海の制海権を得た事もあって、これまで以上に根拠地であるアルジェから悠々と海賊業に精を出すようになります。
更に1541年頃にはフランス王からマルセイユ近傍のトゥーロン港に招聘?され、その後長い事居座った挙げくに手を焼いたフランス王から莫大な保証金をせしめ、今度は東のニースに移動してプロヴァンス~イタリア沿岸を襲いまくったのですからもう、それこそ手が付けられませんでした。

その後、アルジェ攻略を目指したカール5世の征討軍がアフリカで惨敗するなど、ハイレディンが存命だった1540年代までは西地中海が、そしてレパントでヨーロッパ側が雪辱する1570年代までは地中海中央~東部がイスラム勢の海であり続けます。地中海に暮らすヨーロッパの人々にとっては16世紀の後半になってもまったく安心して暮らせるようにはなっていなかったのですね。

しかしこの間外洋では、大航海時代の到来によるヨーロッパ勢の拡大に続く拡大で世界は多くの地域が海でつながり、文化・流通上の革新が起こり、地中海でもその流れは押し寄せようとしていました。
恐らく次回はシリーズ最終回、オスマンを帝国巡るこうした世界情勢などを見る予定です。


おしまい。

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  1. 2009/10/08(木) 06:57:31|
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オスマン家の肖像 その24

海将の時代


およそ半年に渡る長丁場となったオスマン家のシリーズもいよいよ最終章へ。
ここからは地中海に舞台を戻して海を巡る攻防に焦点を当ててゆきます。
もうこの辺になると完全に大航海時代の話そのものなので承知してる人も多いと思いますが、
まあ確認も兼ねて進めてゆきますね。


(赤ひげ登場)
この時代のオスマン側の人物として絶対に書いておかないといけない存在といったら、
やはり「赤ひげ」と異名を取ったあの兄弟に関してでしょう。
エーゲ海東のレスボス島にギリシア系の軍人の子として生まれたとも言われる、
後の「赤ひげ=バルバロッサ」ことウルージとハイレディンの兄弟。

1504年頃にチュニスに渡り、若い頃に教皇庁の船2隻に小型船ガリオットで突っ込んでこれを見事鹵獲するなどして武名を挙げたこの兄弟、1510年頃になると10隻近い小艦隊の頭目となってジェルバ島を根拠地として活動を本格化させます。しかしこの初期の活動は、無謀にもジェノバ船に手を出した事から当時西地中海最強の海将として知られ始めていたあのアンドレア・ドーリアの反撃に遭い、ウルージの負傷とゴレッタ砦を失う惨敗を喫してしまいます。これが、後にお互い100隻単位での大艦隊を率いて戦う事になる16世紀の地中海を代表する二人の海将、ドーリアとハイレディンの初対決となったのでした。

1516年、再起を伺うウルージとハイレディンの兄弟に、アルジェから救援要請が舞い込みます。
この要請、当時のスペイン両王であるフェルナンドの死を好機と見てのアルジェ決起を狙ったものだったのです。この時ウルージは驚くべき事に海賊衆6000人、海賊船団16隻を率いて北アフリカ沿岸を西進しながら付近の海賊衆・拠点を制圧して行きアルジェに到達。そして援軍に来た数千のスペイン軍を撃退する事で、アルジェの実権をも手中にする事に成功したのでした。

同年、スペインに強力な新王が生まれます。
後の神聖ローマ皇帝カール5世となるカルロス1世ですね。
カルロス自身がスペイン入りし実権を握るのは1517~19年ごろでしたが、
即位の年に早くも1万のスペイン軍をアルジェに派遣し、
ウルージを追い詰めて戦死に至らしめます。
そしてこのウルージの死後、その後継者となったのが弟のハイレディンでした。


(ハイレディン・バルバロッサ)
ハイレディンは兄ウルージよりも戦略眼に秀でていたのでしょう。
この時ハイレディンはアルジェとバルバリア海賊ごとオスマンに献上・帰順し、
当時のオスマン家のセリム1世(スレイマンの父)によりアルジェの代官としての地位を得たのでした。
ここに、アルジェ一帯を制圧していた海賊衆は形式的とは言えオスマン帝国の構成員となり、
オスマンの版図はエジプトに先がけて北アフリカに及ぶようになったのです。

こうなるとスペインと言えどもアルジェを単なる海賊の拠点と捉える事は出来ません。
しかもアルジェは当時のスペインの海の玄関口だったバレンシア・バルセロナの対岸にあたり、
ごく至近に海賊の、そしてオスマン帝国の前線基地を目にする事になってしまったのでした。
実際、1519年に再びアルジェに侵攻して来たスペイン艦隊はハイレディンにより撃退されており、
その勢力は日に日に侮りがたいものへと成長を遂げつつあったのです。

その後、セリムからスレイマン大帝の時代となり、ハイレディンの勢力は北アフリカのバルバリア海岸(アルジェ~チュニス沿岸)で最大の勢力を誇るに至り、1530年にはアルジェの城外に建設されていたスペインのベノン要塞を攻略、更にバレンシアを襲って当時まだ貴重な火器を多数奪うなど積極的に攻撃に出るまでになっていました。
こうした功績を喜んだスレイマンにより、ハイレディンはまずアルジェの首長に追認された他、
イェニチェリ軍団の一部を貸し与えられる待遇を得ます。
更に1533年夏、スレイマンに謁見した際にハイレディンはエーゲ海諸島の軍管区長兼トルコ海軍の提督の1人に抜擢され、併せて直ちにトルコ海軍の建造・育成・指揮を任されます。
これは、この当時のオスマン海軍の提督たちが続けて不甲斐ない成果しか上げていなかった事も側面としてありますが、海賊に対してこれほどの厚遇と責任ある地位に就けたあたり、ハイレディンを高く評価したスレイマンの方も流石に人を見る目があったのでしょうね。


ハイレディン_DOL  
1.超美化されたハイレディン


2.それから10数年後? 腹の出てきた実際のハイレディン
 (実際のハイレディンの髭は赤くない事に注目!)


(プレヴェザへの序曲)
そして翌1534年、
ハイレディンはイスタンブールの金角湾に建造したばかりの80余隻の大艦隊を浮かべ、
艦隊の慣熟を兼ねてエーゲ海を南下し始めます。
遂にオスマン帝国は強大な陸海軍に加え、更に優秀な指揮官を得る事になったのですね。

事実この年、出撃したオスマン艦隊はその後イタリア南部の諸都市を襲いまくり、スペイン海軍の基地メッシーナを横目に略奪・住民の拉致を繰り返した後、ついでにハフス朝の首都チュニスをも制圧する大戦果を挙げます。ただこのチュニス制圧、ここの太守ハッサン・ムラーグが救援と保護をカール5世に依頼した事から話が更に大きくなってしまうのですが・・・。

翌1535年、神聖ローマ皇帝カール5世は諸国・諸都市に命じてチュニス攻略の軍を起こします。
この時の遠征では皇帝カール自身が親征したほか、陸軍の司令官にはスペイン最高の将軍として知られていたアフォンソ・ダバロス、及び各国の王弟クラスの諸将、更に艦隊を率いるのがアンドレア・ドーリア、他にもイタリア諸都市や教皇庁、更に聖ヨハネ騎士団の艦隊も参加しての超豪華な編成でもってチュニスを攻略したのです。
ですがこの遠征、なぜかそのままハサンに攻略したチュニスの自治を許したほか、
肝心のハイレディンにも逃げられる不十分な成果で、更にその後の火種を残してしまいます。

事実、ハイレディンとその艦隊は攻略戦の途中の段階で脱出していたため、まだ30隻近くが温存されていました。そしてハイレディンはこの戦いの後チュニスから更に沿岸で海賊行為を続けた後、無事イスタンブールに帰還します。
帰還したハイレディンを迎えたスレイマン、これは寛大と言うかもう良く分かりません。
ここで遂にハイレディンに大提督の地位・つまり全トルコ海軍の司令官に任じる大抜擢のうえ、
再び海軍を建造する命を与えたのでした。

1536年以降、ハイレディンの手により再びトルコ海軍が増強されます。
最終的に大小130隻以上の艦隊を築き上げたハイレディン、
イタリア・チュニス・アルジェへの連絡上重要な海域へその手を伸ばし始めます。
そう、ギリシャ~クレタ島~イタリアを結ぶ線上にある海域、つまりイオニア海に。
しかしこの海域は同時にヴェネツィアの基地が点在する場所でも有りました。
当時のオスマンとヴェネツィアには通商条約などの密約があったとされ、
本来ならば攻撃対象にはならなかったでしょう。
それが、この当時ともなるとオスマンの勢力がイオニア海にも及んできた事もあり、
遂にそれが崩れる時が来ていました。

翌1537年の遠征で沿岸の拠点を攻略し莫大な財宝と2~3000人の住民を拉致したハイレディン、確かにロードス島・ネグロポンテ島・レスボス島を落としてエーゲ海~東地中海の制海権を握りつつあったオスマン帝国にとって、残る海上の脅威は当時の地中海で最大級の海軍力を誇っていたヴェネツィアだったでしょう。
特にギリシアの西岸プレヴェザの北にあるコルフ島はヴェネツィアが古来より要塞化していて、この海域に進出する際は真っ先に目標となる拠点となっていました。事実、ハイレディンも最初にこのコルフ島に手を付けようとしており、防備が固いことを悟ってこの年は周辺の略奪に専念した経緯があったのです。


(1538年・初夏)
そして1538年、この時点でハイレディンによる再度の遠征の狙いがこのコルフ島を含む海域であるとの情報がヨーロッパ諸国にも流れ、カール5世は今度は教皇をも動かしてキリスト教徒による連合艦隊が成立します。

まあ実際の所、事前の打合せで目標や指揮権を巡っての争いが起こるなどもめた末の対オスマン連合で、やや結束に不安はありましたが、ともかくスペイン・ジェノヴァ・教皇庁・ヨハネ騎士団に加えてヴェネツィア海軍にも召集を掛けてシチリア島北東部のメッシーナ港を経て最終的にコルフ島への集結が始まります。

こうしてオスマン艦隊の再襲来が確実視され、決戦の機運がイオニア海全域に流れる中、対するハイレディンもまた堂々とエーゲ海を南下し始めたのでした。



おしまい。


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  1. 2009/09/28(月) 22:27:19|
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オスマン家の肖像 その23

オスマン対ポルトガル


興隆期のオスマン家を見て行くシリーズの23回目。
今回は舞台をインド洋に移しての彼らの動きを見ます。


(ペルシャ湾到達!)
ヨーロッパ方面でハプスブルク家との和議が成立した1533年、
その一方でオスマン帝国は東で既に動き出していました。

この年からオスマン帝国により3次に渡る対サファヴィー朝戦役が始まったのです。
スレイマン自身は翌1534年からこの戦役に参加。
1535年までのあいだにオスマン軍はイラク南部にまで達し、
首都タブリーズを始め、バクダッド、バスラなどの主要都市を手中にしたのでした。
この第一次遠征では大宰相イブラヒム・パシャの功績が大きく、スレイマン1世が参加する前年から軍を率いて先行してサファビー朝の主要都市を叩くなどした結果がわずか2年での終結に繋がっていました。結果としてスレイマンはこの遠征で遂にペルシャ湾にまでその勢力を到達させており、これは1530年には手にしていたスエズと併せて紅海・ペルシャ湾の双方に出口を得た事になりますね。

ただ、この遠征を成功させた立役者のイブラヒム・パシャですが、
帰国して早々になぜか死を賜っています。
天地ほどの開きはあるものの事実上のオスマン帝国ナンバー2の失脚、
これ未だにその真相が不明なんですよね。
そして結果としてスレイマン期の、いやオスマン朝の拡大は、
このイブラヒム・パシャが失脚したこの時を持って終息に向かいます。
この後もいくつか小さいところの領土拡大はありますが、
明らかにそのペースは興隆期のそれでは既になくなっていました。


(インド洋の激突)
1530年代にスエズとバスラを取った事により、
オスマン帝国の伸張はインド洋へも伸びようとしていました。
しかしこれは、
当時既にいち早くこの地域での海路を切り開いていた勢力との衝突をも意味していたのです。
そう、ポルトガルですね。

この大航海時代初期の雄というべきポルトガル、
1500年代初頭に早くもホルムズ・マスカット・ジェッダやアデンなどを攻撃しています。
そして1520年代の時点では既にインド洋に確固とした拠点を設けており、
ホルムズ・コチン・ゴアなどは東方への前線基地としてポルトガル艦隊が集結したり、
また交易品の一大センターとして機能を始めていました。

これに対してオスマンは1530年よりスエズで造船を開始。
紅海ではジェッダの後背に控える聖地メッカの守護を行うなどその活動を始めていました。
そして数年後、遂にオスマン艦隊がインド洋を渡る時が来ます。

1538年、インド西部の港町ディヴに70隻以上のオスマン艦隊が姿を現します。
当時この地域を治めていたグジャラートの王はポルトガルの攻撃を受けて港町ディヴを失っており、
現地からオスマン帝国へ救援要請が飛んでいたのですね。そしてこの救援要請に応えるべく、スエズ港より提督ハーディム・パシャが72隻の艦隊を率いて遠征する事になったのでした。

結果、オスマン艦隊はディヴを一時包囲するものの、その後現地のグジャラート王が亡くなった事を受けてハーディム・パシャはディヴの包囲を解き、救援に向かっていたポルトガル艦隊の主力が到着する前に撤退したのでした。

ともあれこの遠征で見せたように70隻もの艦隊がこの方面に存在する事は、
この海域におけるオスマン帝国の地位の向上を促しました。
特に帰国の途中で立ち寄ったイェメンの主要港アデンがオスマンに降っており、
以後オスマンはこのアデンを前線基地としてインド洋沿岸を荒らしまわる事になります。

そしてもうひとつ、1538年と言う年を考えるとこれはちょっと興味深いところ。
何しろ地中海では同じ1538年にプレヴェザの海戦が発生しているのです。
次回からここへ向けて書いてゆきますが、こちらではハイレディン率いる約120隻のオスマン艦隊がドーリア率いるヨーロッパの連合艦隊を破っており、オスマン帝国はこの時期、協力していた海賊衆も含めると地中海とインド洋方面の両方に100~150隻前後のまとまった艦隊を有していた事になります。
1530年代と言う時代を考えると、これはちょっと他の国との国力差を感じずにはいられませんね。


オスマン図1534-52
※1534~52年頃のインド洋での動き


(その後のインド洋)
この後、オスマン艦隊は1552年にはポルトガルの拠点ホルムズを攻撃に出ますがこれは失敗。
この作戦でなにより痛かったことは、敗戦そのものよりも艦隊を率いていた当時世界最高の航海者・地図製作者でもあるピリー・レイス提督が、この敗戦の責任を問われて死罪となったことかも知れません。
以後のオスマン帝国はアラブ方面では陸上重視の戦略に移っていきますが、それでも1560年代には東アフリカに遠征してモガディシオを攻略しモンバサも支配下とするなど、ポルトガルとの対決姿勢を崩しませんでした。
これ背景としては香辛料の買付けを抑えられたオスマンの東方交易の収支が赤字に転落したのも大きな理由となっているでしょうが、ポルトガルの東方交易もまたその後イギリスやオランダの登場で衰退期に入る以前から少なくない被害を受けていたのでした。



おしまい。


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  1. 2009/09/20(日) 12:31:33|
  2. オスマン家の肖像
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オスマン家の肖像 その22

第一次ウィーン包囲

興隆期のオスマン家を見て行くシリーズの22回目。
今回はオスマン帝国とヨーロッパを巡る数百年の歴史の中でも、
恐らく最大級のトピックとなった出来事について振り返ります。


(ハンガリーの混乱)
1526年に前王ラヨシュ2世がモハーチの戦いで戦死してしまった後、
ハンガリー王位には2人の人物が名乗りを上げていました。

1人はハプスブルク家のフェルナンド。
神聖ローマ皇帝カール5世の実弟で、スペインのマドリード近郊の生まれではありますが、本国オーストリアとの関係でハンガリー西部に多く支援者を持っていました。
もう1人はトランシルヴァニア侯のヤーノシュ。
トランシルヴァニア侯はハンガリー東部では最大規模の諸侯で、代々軍事に秀でた英傑を出してきた事から新興ながらも声望は高い家門でした。

このハンガリーの王位争い、トランシルヴァニア侯ヤーノシュが先に立ったようですが、これまでのラヨシュ王との血縁関係からフェルナンドの支持者も多く(ラヨシュの王妃マリアはフェルナンドの妹、姉マリアがフェルナンドの妻→つまり二重の義兄弟)、この争いはほぼハンガリーを二分する騒乱となってしまっていました。
そして、片方にハプスブルク家が付いている以上、対立するヤーノシュとしては支援者を必要としていました。
それが、当時ヤーノシュ側に手を伸ばしていたオスマン皇帝スレイマン1世。
そもそも1526年のモハーチ会戦以降、ハンガリーでは東部をオスマン帝国が事実上支配下においており、トランシルヴァニア侯は従属する代わりに自治を許されていたのです。
こうして、フェルナンドとヤーノシュが共に立つハンガリー国内の政争は、いつしかハプスブルク家とオスマン家という、ユーラシア大陸西部における最大の支配者同士による抗争に発展して行ったのでした。


(オスマン、再度ハンガリーへ)
1528年、ヤーノシュ側がこの王位争いで劣勢に立たされると、フェルナンドの脅威を除くようスレイマンに要請の使者を飛ばします。そしてハンガリー情勢を注視していたスレイマン1世、要請を受けるや直ちに軍備に入り、翌年5月にはイスタンブールとバルカン方面にいた配下の諸将に命じて再び西進を開始します。

これに対していったんはハンガリー西部で軍を集めていたフェルナンド側ですが、
オスマン側の軍勢が10万人規模にまで達している事を知ると本国オーストリアまで撤退してしまいます。
自国を守らないというのは君主の覚悟としてどうなのかって話は有りますが、ともかくオーストリアまで引いたフェルナンドを追う形で、1529年夏にはオスマン軍もまたドナウ川を遡上するようにしてオーストリアに侵入して行ったのでした。

ところでこのハンガリーの王位争いとそれに絡むオスマン家の進出、ここには当時の国際関係やマルティン・ルターに代表されるドイツ国内の宗教改革も関わって非常にややこしい事になっているのですが、ドイツ国内の話はヨーロッパの話なのでここでは触れません。
ただ可能性としては、この時点で既にフランス王フランソワ1世の策謀が働いていたかもしれません。彼の行動が事象として現れるのはもう少し先ですが、周辺の事を考えると充分ありえるかなと。

こうして、1529年9月23日にはウィーン城下に迫ったオスマン軍により、
史上名高い第一次ウィーン包囲が行われる事になったのです。

16世紀当時のウィーンの人口は調べた所で約2.0~2.5万人ほど、当時既に10万以上に大都市化していたパリやロンドン、それより更に発展していたオリエントの大都市と比べるとそれほど大きな都市ではないかもしれませんが、流石にオーストリア大公の本拠地ですから古いながらも補修が加えられた城壁が巡らされ、街全体が要塞化していました。

12万の軍勢でウィーンを包囲したスレイマン1世に対し、防衛の指揮を執ったのはザルム伯爵・ロゲンドルフ元帥といった有力諸侯。手元の資料ではフェルナンド自身はウィーンに居なかった様に見えますが、こちらの兵力はおよそ1.6万人。これにスペインから送られたペドロ・アルヴァレス率いるマスケット銃兵が約700人と騎馬600頭ほど。

ここで気になるのがこの時のハプスブルク側の対応ですが、国力とウィーンの重要性からすればどうにも少ない防衛する陣容になってしまったのには理由がありました。
まず当時スペインと神聖ローマ帝国は両方面からフランスと対決しており、皇帝カール5世は対フランソワ1世で釘付けになってしまっており、当時の本国スペインからは少数の火力を送るだけでも精一杯の状況。
それでも本来なら、このウィーンには帝国の議会が決定の上で選帝侯フリードリヒ率いるドイツの援軍が送られることになっていたのですが、司令官フリードリヒはウィーンが12万のオスマン軍に包囲されている状況を知るとこちらはあからさまにウィーンを見捨てて遥か手前のクレムスの町で進軍を止めてしまいます。
こんなわけで、ウィーンはオーストリア国内の守備兵と少数の傭兵・増援を得たのみでオスマンの大軍と戦う羽目になってしまったのでした。ヨーロッパ全体を政略レベルで見ると、このウィーン包囲に到るまでのフランソワ1世の動きが如何に重要な役割を果たしていたか伺えますね。


ウィーン地形01

(3週間の包囲戦)
1529年9月23日に始まったウィーン包囲戦。
北東~北北西にかけてドナウ川が流れるウィーン周辺の地形から、
その主戦場は南東~西側のほぼ2面に限られていました。

このためスレイマン率いるオスマン軍は南に主力を置き、東に大宰相イブラヒム・パシャ(この人はエジプト支配を成功させるなどで知られたスレイマン時代を代表する名宰相です)の率いる前衛部隊と諸国兵を、西に砲兵主体の火力兵を置く半包囲の体制で臨みます。つまり包囲と言っても事実上は南側での正面対決に近かったのですね。

これに対して当時70歳になろうかという老将ザルム伯、事前にウィーン城外の家屋を撤去させた上で臨んでいましたから、オスマン軍が主力を南に集結したのをみるや、主力となるスペインのマスケット兵を南のケルンテン門に集結させて射撃の遮蔽となるものの無い状態での応戦を狙いつつ、寡兵ながらも時折城外に出ての反撃を試みる積極的な戦術に出ます。
そして実際、9月末には東の門から2500の守備兵が打って出て大宰相イブラヒム・パシャの陣を後退させたといいますから防衛側の士気は高く、たとえ長期に包囲してもウィーンが容易に落ちない気配を漂わせ始めていました。

10月1日、オスマンの砲撃が始まります。
300門の大砲による間断ない砲撃により砦や城壁の一部が破壊される損害を出しますが、守備側はこの砲撃の精度が聞いていたほど高くないことに気付きます。その後ウィーンの防衛側は西側の砲撃は少数の守備兵を残してほぼ放置して南側での狙撃に集中しつつ、10月6日には8000の兵で打って出て地下に坑道を掘って進んでいたオスマン兵を襲撃するなどして、3週間目に至っても徹底抗戦の姿勢を全く崩しませんでした。

そして10月12日、この日以降なぜか寒波が来てウィーンに雪が降り始めます。
10月17日にはかなりの大雪となっていたといいますからちょっと異常気象みたいですね。
バルカン半島~トルコでも雪は降るでしょうが、オスマン側は5月という夏場の出陣ですから防寒対策など全くしておらず、アラブから連れてきたラクダの荷駄隊などは気の毒なほど。
こんな状況に加えて、オスマン軍にはこの長距離遠征で大軍を数ヶ月維持するだけの兵站というものが存在していなかったため、というか基本的に現地調達がこの時代の常識って話もありますが、10月14日、およそ3週間の包囲をもってスレイマンは無理せず軍を引いてしまいます。

こうして終了した第一次ウィーン包囲戦、開放されたウィーンは勝利を祝いつつその時の脅威をヨーロッパ中に触れ回った為に大事件として扱われたという側面はあるでしょうが、政治的・政略的にはスレイマンはもっと大きな物を手にしていました。


第一次ウィーン包囲01


(その後の情勢)
ウィーン包囲後の1533年の和約により、ハプスブルク家はハンガリーの西半分を、
トランシルヴァニア侯がハンガリーの東半分の王となる事が取り決められます。
事実上のハンガリー分割ですね。

そしてこの東ハンガリー、取り決められた当時はトランシルヴァニア侯の支配下なのですが、実質はオスマン帝国の属国であり、その後1541年に国王ヤーノシュが亡くなってフェルナンドがハンガリー全土の王となろうとした時には既に時遅しだったのです。
東ハンガリーに西ハンガリー王フェルナンドが侵攻して一時的にハンガリーを統一するのですが、最初から狙っていたフシのあるスレイマンの反撃を受けて東ハンガリーをあっさり放棄、そのまま従属下に置いていたオスマン帝国がさっさと直轄地に組み込んでしまっていたのですから・・・。

こうして見ると、1521年のベオグラード攻略に始まるスレイマンのヨーロッパ侵攻ですが、1526年のモハーチの戦い、1529年のウィーン包囲、1533年の分割支配と属領化を経て、最終的には1541年に直轄地とするに到るまでの流れを見ると、以前書いたオスマン家の支配体制の進め方のプロセスである 『略奪→侵攻→従属化→直轄化』 これ全くそのままな事に気付きます。

ヨーロッパ側からしたらウィーン包囲は勝利なのですが、その後の和約で西ハンガリーもオスマン帝国に貢納を支払っていた事、更に150年に渡って東ハンガリーがオスマン帝国の支配下にあったことを考えると、これいったいどちらがより大きな物を手に入れていたか、ちょっと考えさせられるものがありますね。


おしまい。


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  1. 2009/09/11(金) 10:14:13|
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