打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

イスパニア物語 その20

最終回


昨年の暮れから書き始めたこのシリーズも今回で一区切り。
時代区分としてはいよいよ大航海時代の初期に直接繋がってきます。
最終回なのにやたらドロドロ或いは殺伐とした話を書く事になりますが・・・


(対ポルトガル戦争)
カスティーリャ王国でエンリケ2世に始まるトラスタマラ王朝が、前王ペドロ1世に対してクーデターを起こして成立した話は前回見ました。トラスタマラ王朝は彼と共に蜂起した貴族たちの支持の元に成立した為に王権そのものは低下して不安定になっていたわけですが、この内戦で敗れたペドロ派の貴族たちの動きもまたカスティーリャの不安要素となってきます。そしてそれは周辺国を巻き込むイベリア半島のカトリック教国同士の戦争に発展して行ったのでした。

さて、内戦に敗れたペドロ派、
彼らがどこへ行ったかと言うと、実はポルトガル王国。
当時のポルトガル王国はカスティーリャと非常に関係が近く、1357年まで在位していたアフォンソ4世の王妃はカスティーリャ王サンチョ4世の娘ですし、その王女マリアはカスティーリャ王アルフォンソ11世の王妃となっています。更にアフォンソの息子で1367年まで在位していたペドロ1世は王女マリアの弟で、内戦に敗れた同名のカスティーリャ王ペドロ1世はマリアの息子ですから甥に当たります。
しかもこのポルトガル王ペドロ1世(混在してて紛らわしいですね)の王妃もまたカスティーリャ王家の親族から迎えており、内戦が終結した1369年時点でポルトガル王となっていたフェルナンド1世は両者の息子ですから、当時のポルトガル王家では3代続けてカスティーリャ王家から王妃を迎えていたことになります。

こんなわけで、500名にも及ぶカスティーリャ貴族がポルトガルに亡命していった先には、その体の半分近くにカスティーリャ王家の血が流れているフェルナンド1世がいました。んでまあ当然ながら亡命してきたカスティーリャ貴族たちはクーデターによって成立したトラスタマラ王朝に正統性がないことを訴え、逆にポルトガル王フェルナンドにはカスティーリャの王位継承権があることをそそのかしたのですね。

これ以後、カスティーリャとポルトガルの間で数度に渡って互いの王位を巡る戦争が始まります。
まず1369年、ポルトガル王フェルナンド1世がアラゴンとグラナダ王国と同盟を結んでからカスティーリャ北部のガリシア地方に攻め込んで来ます。しかしカスティーリャ軍がこれを撃退するとフェルナンドはあっさりコインブラまで軍を引いたため、カスティーリャ軍は逆にポルトガル領内に攻め込んでミーニョ・モンテス地方などを襲うなど完全に立場が入れ替わり、海上でもサンルカル沖海戦でカスティーリャ海軍がポルトガル海軍を破った事でこの最初の戦いはカスティーリャの勝利に終わります。
これにより1371年、両者はローマ教皇の仲裁でアルマウィン条約を結び、カスティーリャ軍が撤収する事とフェルナンドがカスティーリャ王女レオノールと婚約する事でいったん決着します。

ところがフェルナンドはこのカスティーリャ王女とは結婚せず、代わりにバルセロス伯だったメネーゼス家出身のレオノール(ダ・クーニャというポルトガル貴族の人妻だった)と強引に結婚してしまったため、これを非難したリスボンの手工業者など3000人が暴動を起こすという混乱を招いてしまいます。しかもこの暴動は強引に鎮圧されて首謀者は処刑されると言うかなり荒っぽい収め方をされた為、ポルトガルでは王妃レオノールとその一派への反感が根強く残り、これが後にフェルナンド1世が亡くなったあとで彼の異母弟ジョアンが人気を集める遠因となって行ったのでした。


(イングランドの介入)
こうしてポルトガル王がカスティーリャの王位継承権を放棄した翌1372年、今度はイングランドのランカスター公がペドロ1世の娘を妻としていたことからこの王位継承戦争に参加してきます。ランカスター公はフェルナンドと亡命したペドロ派貴族を誘ってポルトガルを同盟を結び、ガリシア地方に侵攻してきたのでした。
当然ながら、ローマ教皇の裁定で結んだ条約をわずか1年で破棄されたカスティーリャ王エンリケ2世は激怒します。先手を打ってポルトガルに侵攻したカスティーリャ軍はリスボンを包囲し、海上でもフランス王シャルル5世の要請もあってビスケー湾に海軍を出動させるとラ・ロシェル港でイングランド艦隊を撃破し、以後ドーヴァー海峡からビスケー湾に至るまでの制海権を掌握したのでした。リスボンを包囲され、海上も封鎖されたポルトガル王フェルナンド、翌1373年にまたしてもローマ教皇に仲裁を頼んで講和条約を結びます。
これでいったん数年間は両国の間で小康状態に入るのですが、1381年になるとまたしてもポルトガル王はランカスター公と手を結んでカスティーリャに侵攻してきます。なんかもう節操が無さ過ぎるのですが、またしてもこの裏切りはカスティーリャに撃退され、逆に国内に逆侵攻されると共に海軍もサルテスの海戦で敗退するという同じ結果にw
ただ、今回はカスティーリャ側も厳しい条件を突きつけます。

1)ポルトガル王女ベアトリスとカスティーリャ王フアン2世の結婚
2)フェルナンド1世に嫡出男子がない場合はベアトリスが女王となる
3)フェルナンド・ベアトリス両者に子孫がいない場合はカスティーリャが王となる。
など、事実上ポルトガルの独立性は大きく奪われる事になったのでした。


(アルジュバロータの決戦と新王朝)
さてここまで見たように、ポルトガル王フェルナンド1世は3度にわたるカスティーリャへの侵攻すべてに失敗した事により最終的にポルトガルの独立そのものも危うくした上、嫡出の男子もいないまま1383年には亡くなってしまいます。
その後、上の条約に基づいてポルトガルの王位に就いたのはカスティーリャ王妃のベアトリスでしたが、摂政に就いた母レオノールが女王ベアトリスを排除して専横を始めた為、戦乱により国内を荒廃させた元凶としてポルトガル国内の貴族・民衆の支持を全く得られませんでした。更にカスティーリャがこの条約違反を理由としてポルトガルに侵攻してリスボンを包囲したため、レオノールは摂政職をカスティーリャ王フアン1世に譲渡してしまいます。

この危機的状況の中、ポルトガルの国内の民衆の間ではアヴィス騎士団長で庶子のジョアン王子に人気が集まりつつあり、1383年12月には遂に民衆がジョアン王子を担ぎ出して内乱が始まり、ジョアン王子が包囲されていたリスボンを開放する事でこの内乱に勝利し、彼がアヴィス朝の初代ジョアン1世として即位したのでした。
即位したポルトガル王ジョアン1世ですが、カスティーリャ王国は当然認めていませんから、再びカスティーリャとポルトガルの間で戦争となります。

この戦争、ジョアン1世がイングランドのランカスター公に援軍を頼んでいた事、民衆がジョアンの指揮下に結束して防衛に動いた事、そしてジョアン自身の軍事的才能によりポルトガルの勝利に終わります。
特に1385年8月14日のアルジュバロータの戦いはその帰趨を決める重要な会戦となります。この日、コインブラとリスボンの中間地点にあるアルジュバロータでポルトガル・イングランド連合軍6千とカスティーリャ・フランス連合軍3万が遭遇し、わずか1/5のポルトガル側が騎兵主体のカスティーリャ・フランス軍の動きを封じる堀と長弓兵を使用した戦術により大勝をおさめ、カスティーリャ側は1万以上の損害を出して撤退したのでした。

この結果、ポルトガルは独立を守ります。
その後ジョアン1世は港湾都市として発展しつつあったリスボンの整備と北海・地中海方面の交易活動を加速させ、これが彼の息子であるエンリケ航海王子の代になって大洋へと乗り出してゆく礎となってゆきます。

もしこのアルジュバロータの戦いでポルトガルが敗れていれば、ポルトガルはカスティーリャに早い段階で併合されていたかも知れません。そうなると当然ながらジョアン1世の息子であるエンリケ航海王子の西アフリカ事業は行われませんから、ヨーロッパが西アフリカ開発に乗り出すのは更に100年近く遅れていたかも知れず、この戦いの結果は人類史全体に大きな影響を与えていたのかも知れませんね。



(カスティーリャとアラゴン)
さてここまで見たように10年以上に渡ってポルトガルと争っていたカスティーリャ王国、一方でこれと並行してアラゴン王国とは緊密な婚姻関係を結んでいました。エンリケ2世の跡を継いだフアン1世はアラゴンから王妃レオノールを迎えており、この両者から生まれた2人の兄弟がカスティーリャ王エンリケ3世とアラゴン王フェルナンド1世となってきますから、後にカスティーリャとアラゴンが同君連合を結んでその後スペイン王国が成立する以前に両国が血縁的に非常に近い関係になっていたことが分かります。両国が後に同君連合からスペイン王国を形成してゆく背景として同じ一族となっていたことは大きく影響していたでしょう。ちなみに、ここで出てくるアラゴン王フェルナンド1世の王女2人が、後にエンリケ航海王子の長兄ドゥアルテ1世と次兄ペドロの妃となっています。


(大航海時代の幕開け)
こうした動乱がようやく終結した15世紀初頭、そのうちの一国ポルトガルはいち早く混乱を乗り越えて大航海時代の扉を開いて大洋に乗り出してゆきます。カスティーリャの圧力をはねのけてアビシュ朝を興したジョアン1世の息子・エンリケ航海王子がその先鞭をつけて西アフリカ航路を開発してゆく経過は以前シリーズ組んで見ていった通りです。

一方でカスティーリャは国内の争いと英仏百年戦争への関わり、そして東方で急成長してきたオスマン朝の影響もあって海洋事業の開始が大幅に遅れる結果となります。ようやく1469年カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンド2世の結婚、1479年カナリア諸島の正式領有と連合王国の発足、更に1492年のグラナダ制圧とクリストバル・コロンによる西インド諸島発見で追いついてくるのを待たなければなりませんでしたから、今回見た14世紀末の動乱は中世末期の分岐点と言うべき重要な出来事だったのかも知れませんね。



さて、予定より50年ほど早くなりますが、
イスパニアを巡るイベリア半島史の記述はここでいったん区切りとします。
フェルナンド2世と女王イサベル以降の話は後日また書くかも知れませんのでとりあえず
 
『第一部・完』

って事で。



おしまい。

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お疲れ様でした(ペコリ

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  1. 2009/02/22(日) 22:12:43|
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イスパニア物語 その19

カスティーリャの危機 後編

昨日今日と分割掲載となった、大航海時代直前期のカスティーリャ王国を巡る話の続きです。

ジブラルタル包囲中にペストで急死したアルフォンソ11世の後を継いだのはペドロ1世(1350~1369)。
即位したペドロは継承権を持つ親族・有力貴族の弾圧や直属の文官の大量登用などの王権強化策を取るのですが、これは都市の有力者や貴族たちの反発を招いてしまいます。1366年には遂に先王の長男ながら庶子であったためにトラスタマラ伯家に出されていた異母兄エンリケ・デ・トラスタマラが多くのカスティーリャ貴族を結集して蜂起し、貴族らの反発は内戦に発展してしまいます。第一次カスティーリャ継承戦争ってやつですね。


(デュ・ゲクラン登場)
そしてこの時エンリケ・デ・トラスタマラが手を結んだのが、一人はアラゴン王ペドロ4世、そしてもう一人はこの頃イングランドとの百年戦争期に突入していたフランス王シャルル5世だったのでした。エンリケの要請に応じた『賢王』シャルル5世は税制改正・中央軍の創設など後にフランスが中央集権化してゆく先鞭を付けた英主で、この時シャルルは自分が持つ最強の武将を送り込んできます。(2年ほど前に人物伝で書いてますのでそちらをご参考に)
それが、まだフランス元帥になる前のベルトラン・デュ・ゲクラン。
当時フランスとイングランドはブルターニュ継承戦争が終結した関係で小康状態に入っており、デュ・ゲクランは戦場がなくなったため国内で失職した傭兵たちを率いてイベリア半島に乗り込んできたのですね。このゲクランを実質の指揮官とするトラスタマラ軍はモンペリエに集結したあと一気にカスティーリャの南半分を制圧して、ペドロを一旦は国外に去らせる事に成功したのでした。


(黒太子とペドロ1世)
一方これに対してペドロも動きます。
いったん国外に逃げたペドロが味方に引き入れたのはグラナダ王、そしてフランスと戦っているイングランドでした。しかもこの時イングランドは百年戦争の前半における主役の一人とも言うべき黒太子エドワード、つまり 『ブラックプリンス』 自身が乗り出してきていました。こうして、カスティーリャの異母兄弟による内戦は、百年戦争の主役たちとも連動するより大きな戦いへと巻き込まれる形になって行った事になりますね。

さてこの両者の戦い、平地での遭遇戦では無類の強さを見せた長弓兵を擁するイングランド・ペドロ陣営に分があり、一方で元々傭兵隊長出身のデュ・ゲクランによるゲリラ戦術で小規模戦闘や拠点攻略戦ではフランス・トラスタマラ陣営有利に進むといった状況。1367年には平地での会戦に持ち込んだペドロがナヘラの戦いでエンリケを破ってデュ・ゲクラン自身を捕虜に取るという大勝を得ますが、その後エドワード黒太子が撤退してしまった為に(赤痢かペストが発病していたとも云われます)戦局はエンリケ優位へと大きく傾いてゆきます。そして開戦から3年後の1369年、追い詰められたペドロがモンティエールの戦いで戦死した事で終止符が打たれ、ここにトラスタマラ王朝が始まる事になったのでした。



(トラスタマラ王朝と新貴族)
こうして即位したエンリケ2世、内戦で自派に属していた貴族たちを優遇しますが、これは彼が有力貴族によって擁立された王である事の裏返しでもあり、カスティーリャの王権はトラスタマラ王朝期に大きく揺らいでいたと見る事も出来るでしょう。視点を変えればペドロの王権強化路線に対するクーデターと見ることもできますよね。

ただ、エンリケ2世は彼らに対抗させるため、同時に参加していた中下級の騎士階級からも見込みの有る者を引き上げて新貴族とし、旧貴族に対抗する勢力へと育成する政策を取ります。この、エンリケ2世により引き上げられた中下級騎士たちの中で特に急成長してくる者の中に、実はサルミエント家の名前があったりするのですが、いまリスボンの王宮前にでかい屋敷を構えているあのサルミエント商会と関係あるかはちょっと不明。(そもそもディエゴは架空の人物でしょうし)

また、内戦時にフランス王家の支援を受けたことからトラスタマラ王朝は以後フランス王家寄りの立場を取るようになり、その後再開した百年戦争においてもカスティーリャは重要な役割を担うようになります。例えば戦争の後半以降たびたびカスティーリャの海軍がドーヴァー海峡方面に遠征し、イングランド海軍を破ったり周辺を封鎖してイングランド本土からビスケー湾への輸送を妨害していますが、これもその協力体制の現れでしょう。


スペイン地図13~1400年代
※百年戦争期~大航海時代直前のイベリア周辺図。
ピレネー山脈の北西がイングランドに制圧されている形に。


さてここまで見てきたように、貴族層の支持によって成立したトラスタマラ朝は、その経緯からも不安定さを抱えていました。そして、エンリケ2世以後のカスティーリャは婚姻政策によって周辺諸国と深く関わりを持って来る様になり、これがまた混迷の度合いを深める要因となってきますが、続きは次回に。
いよいよ大航海時代の初期へと直接繋がる話を書く事になると思います。
というか最終回はエンリケ物語の第1~2話を逆の立場で書く話になるので、
事前に読んでおいて頂けると話が早いのですw



おしまい。


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  1. 2009/02/19(木) 23:32:07|
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イスパニア物語 その18

動乱のカスティーリャ 前編


前回に引き続き13~15世紀のカスティーリャの動向を。
この時代のカスティーリャが停滞していた要因として、
①天災
②社会構造の変化
③外圧
④内部の騒乱

と4点を挙げ、前回は①と②について見ました。
この二点は生産性や治安の低下といった国力に関する問題でしたが、今回見ることにする残り2点は政治・外交的要因と言える部分になります。それではいったいこの時期のカスティーリャの政治・外交に何が起こっていたのでしょうか。


(干渉)
1260年代には大レコンキスタが収束に向かっていたカスティーリャ。
既に1230年代には隣国レオン王国と再度同君連合を形成しており、レオン王国を併合してカスティーリャ王国として一体化していました。ところが、再統一と大レコンキスタの立役者だったフェルナンド3世が死去した1250年代以降になると、一転して内外部共に不安要素が噴出してきます。

大レコンキスタを成し遂げたフェルナンド3世の次にカスティーリャ王位に就いたのはアルフォンソ10世(在1252~1284)。父と違って軍事的な才能にあまり恵まれなかったらしいアルフォンソは、外交面でも色々まずい事績を残してゆきます。
まず、大空位時代に入っていた神聖ローマ帝国に対して母系の曽祖父にフリードリヒ1世(赤ひげ王)がいた事から神聖ローマ皇帝位を主張し、結果としてローマ教皇を敵に回しただけで失敗に終わるのですが、このあたりからアルフォンソの外交は空回りを始めます。

更に1263年、アルフォンソ10世にジブラルタルの割譲を要求されたナスル朝グラナダ王国のムハンマド1世は、北アフリカのマリーン朝と提携してマリーン朝が派遣した軍の国内駐留を認めます。前年にはカディスを落していたカスティーリャにとっては、要衝ジブラルタルはどうしても欲しい戦略目標だったでしょうが、結果としてはより強大な勢力を呼びこむ事になり、これもこの後続く政変の伏線となってきます。

そして1275年、アルフォンソ10世は長男に先立たれたことをきっかけとして次男のサンチョと反目しあうようになり、1282年遂に親子での王位争いに敗れて退位させられてしまい、次男がサンチョ4世として即位する政変に発展して行きました。
その後、退位したアルフォンソ10世が取った息子サンチョへの反攻策はというと、これがまた外交・軍事的にセンスに欠けた治世そのままに最悪な選択をしたのです。彼が取った王位奪回の手段、それは北アフリカ~モロッコに掛けて勢力を伸ばしていたイスラム勢のマーリン朝の支援を仰ぐ事だったのですから。

内部の争いで不利に立った方が外国勢の力を借りるというのは、これまでもギリシア史やスペイン史でさんざん見る、ある意味死亡フラグ的な国家の滅亡パターンなのですが、この時は一応サンチョ4世側が勝利し、アルフォンソは追放されてしまったのでした。先王アルフォンソ10世の復位活動を阻止した事によってサンチョの王権は一応の安定を見ます。しかしカスティーリャ国内に付け入る隙があると見たマリーン朝はこの後もカスティーリャとグラナダの関係に度々干渉して来るようになり、マリーン朝の侵攻はアンダルシアにおけるこの後数10年に渡って及ぼす不安定要素の一つとなってきます。



(カスティーリャの法制改革と挫折)
ところで、軍事上の成果ではカディス攻略くらいしか見るべきものが無かったアルフォンソ10世の治世ですが、一方で政治・法制面では特筆すべき業績を残します。
中でもローマ法に基づく 『七部法典』 や 『フエロ・レアル』 といった法規を編纂させ、それまで複数の王国から成るゆるい連合国家でしかなかったカスティーリャの、政治的・法的統合を目指したのですね。アルフォンソ10世は更に国王直轄の行政機構の整備やコルテス(身分制議会)の定期開催、貴族のぜいたく禁止令や宮廷儀礼の整備など王権の強化を図る政策を次々と打ち出しており、これはその後のカスティーリャの指針となって生きてゆく事になります。
ただ、アルフォンソ10世のこの急進的な政策は貴族や各都市の反発を招き、更には前回書いたようにアンダルシア地方への植民とそれに伴うイスラム教徒の追放によって優れた灌漑農業技術なども失うことになり、アンダルシアの社会経済は打撃を受け、政策の推進者だったアルフォンソ自身もまた王位を追われてその生涯を閉じる事となります。

その後14世紀に入り、カスティーリャではアルフォンソ10世の遺産というべき政策群が実を結び始めます。1325年に親政を開始したアルフォンソ11世は、レヒドール制(各都市の有力者が国王の勅任により上級官吏として任命される制度)の導入や『七部法典』の開始を断行し、都市法の上位に立つ王国統一法が実際の効力を持つ体制をスタートさせます。
また対外的にはサラードの戦いでマリーン朝を破ったアルフォンソ11世は1344年にはジブラルタルの根元にあるアルへシラスを攻略してジブラルタル海峡内の航行権を奪取する事に成功するなど、カスティーリャが再び成長路線を歩み出したと思った矢先の1350年、思わぬ事態によりその成長は頓挫してしまいます。

1350年、ジブラルタルを包囲中だったアルフォンソ11世が、この時期には既にイベリア半島にも上陸していたペストに感染し、そのまま亡くなってしまったのです。そしてこれは同時にその後100年以上続くカスティーリャの危機と呼ばれた戦乱の幕開けを意味していました。


スペイン地図13~1400年代



さて、予定では次で一気に最終回を書くつもりでしたが、
今回の原稿上げたら4000字以上になってました・・・。
これじゃどう考えても読む気しなくなるのでニ分割して前編だけ上げておきますね。
続きはもう書けているので明日までお待ちを。
後編では個人的に大好きな某傭兵隊長が出てきますよん。



おしまい。

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  1. 2009/02/18(水) 19:00:51|
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イスパニア物語 その17

停滞

およそ1週間ぶりの更新で、このシリーズも当初の予定ではあと3回を残すのみ。
とりあえず1492年でなんとかいったん切りたいけど間に合うかなあ・・。
さて、前2回で見たように、13世紀中盤におけるカスティーリャの侵攻でほぼ大勢が決していたイベリア半島のレコンキスタ。イスラム勢で残るのは人口30~40万人程でしかないグラナダ王国のみという状況でしたが、これ以後のおよそ200年というものレコンキスタの活動そのものは完全に停滞してしまいます。これには当のグラナダ王国がカスティーリャに臣従したという側面もあった訳ですが、一方でカトリック教国側、特にカスティーリャ王国でそれ所ではない事態に陥っていたと言うのが実情でした。そんなわけで、ちょっと駆け足になりますが残り3回で14~15世紀におけるカスティーリャ王国の動きを見てゆくことにします。

14~15世紀のカスティーリャが停滞を余儀なくされた、
その大きな要因は恐らく次の4点。

①災害
②社会構造の変化
③対外関係
④内部の騒乱

で、今回はこのうち①と②を見てゆくことにします。

【①災害】
これは大きく分けて天体規模によるものと人的な要因の2種類。
14世紀初頭のカスティーリャ王国ではしばしば天候不順による凶作が続いたという記録が残っており、これによって農村が荒廃して食料品の高騰や人口の減少を招いたと言うのですね。あと生産性の話はこれはこの後書く②にも関連してきます。
次に人的なものですが、14世紀半ば以降にヨーロッパを襲った災厄の代表的なものといったら鋭い人は気付くかも知れません。
そう、ペスト(黒死病)。
14世紀中にヨーロッパは3回に及ぶペストの大流行に襲われ、前世紀と比較して全人口の30%近くが失われたと言います。
特に1347年に黒海の港町カッファからイタリア方面に出港した商船によってヨーロッパに伝わったと思われる最初のペスト流行はおよそ2~3年の間にヨーロッパ全域に広がり、1348年頃にはイベリア半島にも到達して恐るべき災いをもたらします。
フィレンツェ人のボッカチオがペストから逃げた人々の100物語というスタイルで書いた名作『デカメロン』は正にこの時期の作品なのですが、実際こうした現象はヨーロッパ中で見られる普通の光景だったのでした。そしてこのヨーロッパ史上でも屈指の災厄となった大流行にイベリア半島も巻き込まれ、例えばカスティーリャでも15~20%もの死者を出したと言います。この頃既にセビリャ・トレド・バレンシア・バルセロナあたりの人口は4~10万人ほどになっていますから、15~20%というと各都市で1万人前後の死者を出していた事になります。こんな大流行が1世紀ほどの間に小康状態をはさんで3回も襲ってきているのですから、天候不順と合わせて農村部が荒廃するのは明らかで、国としての生産力は激減していた事でしょう。



【②社会構造の変化】
これは先ほどの凶作とペストによる農村の荒廃とも関連する事で、これによって農村を捨てた小規模農民は都市に流入するようになります。そして、生産性が落ちて労働者がいなくなった事で14世紀のカスティーリャ、特に南部では物価の高騰と賃金の上昇を招きます。これで苦しくなった農村経営に依存する小規模な土地領主はせっかく大レコンキスタで獲得したアンダルシア地方の土地を大領主に売り渡して中~北部に流入するようになり、都市部での貧困層の増加、南部アンダルシアでの有力貴族による大規模土地所有化、小領主など中流層の没落など、その後顕在化する対立構造が発生しつつあったのですね。

そしてもうひとつ、社会構造では宗教面での影響も無視できませんでした。
かつてターイファ諸王国、ムラービト朝、ムワッヒド朝と支配が続いたイスラム勢力下のアル・アンダルス時代、11~12世紀に掛けて次第にイスラム化の圧力が強まり、改宗しない者は半島北部のカトリック教国への避難・移動を余儀なくされ、人口のおよそ90%以上がイスラム教徒(表面上は)となっていました。
これが、1210~60年代の大レコンキスタで今度はカトリック教国に塗り替わった事で、13世紀後半以降そこに住む住民もカトリック教徒が増加してイスラム教徒は激減する、そういうドラスティックな構成員の変動が起こっていたのですね。
しかしこれは、技術面や法体系など文化面でも進んでいたイスラム社会から、イスラムの影響を色濃く残しつつも基本部分では生産性・精神性・文化面で後進国だった中世ヨーロッパ社会への転換を意味していました。

しかも、元々イベリア半島の国土の大部分は農耕に適さない丘陵・山岳地帯ですから基本産業は牧畜。そこで取れた羊毛をフランドル地方に輸出するイングランドとよく似た産業構造を持っていたのですが、イスラム社会との同化でカディス以東の地中海方面では長年にわたって皮革製品をモロッコ~北アフリカ方面へ輸出していたのが、イスラム勢を駆逐した事でイスラム商人との交易も激減すると言う変化に見舞われていました。
こうなると昔ながらの牧畜の国にある程度戻ってしまうのはやむをえない所で、バレンシアなどは逆にこの恩恵を受けて大レコンキスタ以降は羊毛の一大輸出港として武器輸出の拠点だったバルセロナを上回る発展を始めるなど、現在の大航海世界の交易品設定にも影響する産業構造の変化が出始めていました。


ちなみに、現在のイベリア半島の各港で牧畜に関連性の深い交易品を挙げて見るとこんな感じ。

ヒホン →ブタ、アヒル
オポルト →ソーセージ・豚肉・ラード・チーズ・皮革
リスボン →ハム・ニワトリ
ファロ →卵・ブタ
セビリア →皮革製品
マラガ →チーズ・ウシ
バレンシア →アヒル肉・羊毛
バルセロナ →皮革製品

フランス・イングランドも似ていますが、
ほとんどの港で皮革や家畜・肉類・乳製品を扱ってますよね。
もっと言うと16世紀になっても火器以外に高額商品が少ないあたり、
イベリア半島の貧しさを物語っているかも。


スペイン地図13~1400年代


ポルトガルやアラゴンはこれじゃいかんと早い段階で海に活路を見出していったから立ち直りも早かったのですが、このように人口面・社会構造・産業構造で停滞や減少・不満の蓄積といったマイナス要因を溜め込んでいたカスティーリャは、③対外関係・④内部の騒乱 などの要因も降りかかって収拾が付かない危機の時代を迎えることになります。
あと二つの要因は長くなるので次回に。



おしまい。

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  1. 2009/02/13(金) 07:35:00|
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イスパニア物語 その16

海洋国家アラゴン


13世紀の中盤にはほぼ形勢が決していたイベリア半島のレコンキスタ。
大西洋岸のポルトガルではこの後カスティーリャ王国の干渉を受ける一世紀ほどを経て海洋国家としての道を歩み始めるわけですが、実はこのポルトガルに先行して海に出てゆく国がありました。それが、今回見てゆくアラゴン連合王国。

元々内陸国として生まれたアラゴンは1130年代にバルセロナ伯領と連合した結果海への道が開けてくるわけですが、同時にこれはバルセロナ伯が影響力を持っていた南フランスへ干渉してくる事も意味し、新たな強敵を抱える事になりました。
それが、この時代に急速に勢力を伸ばしつつあったフランス王家。
元々連合する以前にバルセロナ伯はピレネー山脈の東側、つまりフランス南西部のトゥールーズ伯領やフォア伯領・プロヴァンス伯領などに婚姻政策を通じて影響を及ぼしており、アラゴンと連合して以後、フランス王家(カペー家)がトゥールーズ伯に接近して対立してくるようになると政策転換を余儀なくされ、やがて深く巻き込まれて行きます。

1179年、アラゴン連合王国のアルフォンソ2世はカスティーリャ王国とムルシア条約を結び、今後のレコンキスタでバレンシアを取得する代わりにムルシア地方(カルタヘーナ一帯)の再征服権(!)をカスティーリャに譲渡します。実はこれ、単純に両国の支配領域を確定させる取り決めに留まらず、大きく西ヨーロッパの情勢と関わる条約となってくるんですね。
というのも元々アラゴンは以前からイングランドと同盟関係にあり、これにカスティーリャを抱き込む事でフランスに対抗しようと言う意図も持っていたのですね。そしてこの同盟と条約を背景として、アルフォンソ2世はバレアレス諸島やサルデーニャ島への進出を開始します。


(南フランス喪失)
次のペドロ2世の代になると、カスティーリャのレコンキスタを支援して1212年のラス・ナバス・デ・トローサの会戦に王自ら参加する一方、当時カトリックにより異端とされたカタリ派の根拠地だった南フランスへ、『異端根絶の為の十字軍の名の下に』攻撃を開始したフランス王家をはじめとする北フランス勢に対抗するため、トゥールーズ伯などからの援軍要請に応える形で南フランスへ出兵を行います。
しかしこの宗教戦争に巻き込まれた事は、1213年に出兵したペドロ2世が南フランスのミュレで戦死すると言う最悪の形で終結します。
しかも戦死したペドロの後を継いだハイメ1世は即位時わずか5歳、即位当初のアラゴンは幼児の君主の所在さえ固められない状況で(当時ハイメ王子はあっちこっちへ預け回されていた)、外部どころか内部統制さえままならない混乱状態を迎え、アラゴン連合王国の南フランスにおける影響力は継承権を持つモンペリエなど一部を除き崩壊してしまったのでした。
その後、アラゴンは親族衆など有力者による顧問会議と言う形で幼少のハイメ1世を支える体制を作り、ハイメが成人した1220年代後半になってようやく再成長への道を取り始めます。


(征服王)
成長したハイメ1世、幼い頃から苦労してたせいか対外面で優秀な実績を挙げます。まず外征面では1229年から始まるバレアレス諸島の征服、1232年からはバレンシア方面へのレコンキスタに着手し、1238年にはバレンシア王国を倒してイベリア半島におけるアラゴンとしてのレコンキスタを完了させます。(バレンシア以西はカスティーリャが征服権を持っていた)

ハイメはその後も外征面でカスティーリャ王国のレコンキスタを支援する一方で隣国フランスとはルイ9世と条約を結ぶことで安定化させるなど成果を挙げ、イベリア半島でも声望の高い王として一生を終えます。
死に際してハイメ1世は長男のペドロ3世にアラゴン王国を、次男のハイメ2世にはバレアレス諸島・モンペリエ伯領などからなるマヨルカ王国を分割して継がせたのですが、これは結局アラゴン王家とマヨルカ王家の兄弟争いの元凶となり、最終的にマヨルカ王国がアラゴンの支配下となって滅亡する事になります。


(強敵)
ところで、ハイメは母がモンペリエの継承権者だったことから、モンペリエの領主でもありました。大航海世界ではフランス領のモンペリエですが、この頃はまだアラゴン連合王国の支配下にあったのですね。そしてアラゴン王家はこの後、モンペリエの先に広がる南フランス・プロヴァンス地方に進出してくる勢力と対決してゆく事になります。
それは、聖王ルイ9世の弟、シャルル・ダンジューでした。
シャルル・ダンジューに関しては以前5回ほどの小シリーズ記事を書いていますのでそちらのリンクを出しておきますね。


第一回
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-454.html

第二回
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-455.html

第三回
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-456.html

第四回
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-458.html

第五回
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-460.html


ハイメ1世の治世当時の1270年代、シャルルはプロヴァンス・シチリア・南イタリアを得てギリシア方面へも勢力を伸ばしており、地中海帝国とも呼べる程の一大勢力を築いていました。更にシャルルは1280年代初頭にはビザンツ帝国への侵攻を計画してシチリア島のメッシーナに大艦隊を集結させるなど地中海を制覇する一歩手前であり、その直前で起きたのが、上記のシリーズの最後で記述している『シチリアの晩祷』事件でした。


(シチリアの晩祷以後)
1282年3月30日にシチリア島のパレルモで起きた『シチリアの晩祷』事件を契機として、シチリア島はアンジュー家の支配から逃れるべく立ち上がります。
そして彼らが救援要請を飛ばしたのは、元の領主であるホーエンシュタウヘン家最後の当主の遺児となった、娘コンスタンスの嫁ぎ先でした。そう、それが、ハイメ1世の長男でアラゴン王位を継いでいた、ペドロ3世だったのですね。

前にも書いているので詳細は省きますが、要請を受けたペドロ3世は6月に遠征軍を送り、シャルル・ダンジューとの戦いに勝利してシチリア王となります。
その後またしても兄弟でアラゴン王位とシチリア王位を分割してという流れになりますが、とにもかくにもこのシチリア王位はその後トラスタマラ朝への変遷を経つつもアラゴン王家で相続して行き、更にカスティーリャと連合してゆく15世紀前半までにはサルデーニャ島とナポリの王位も保持することになります。
地図でその最大版図を描くとこんな。

アラゴン勢力は一時的にアテネ一帯にも及んでいますね。
こうして、アラゴンはイベリア半島内では中堅クラスの国家でしかないものの、地中海全体で見るとバレアレス諸島・サルデーニャ島・シチリア島・南イタリアに支配を及ぼす最大規模の海洋国家にまで成長していたのでした。事実アラゴン艦隊といえば西地中海ではカスティーリャやジェノヴァと互角以上に渡り合える存在であり、東地中海から北海までその交易圏を拡げてイベリア半島でいち早く海洋国家として君臨していたのでした。

このアラゴン連合王国関係の最大勢力圏を大航海世界の港で拾ってゆくと、バレンシア、バルセロナ、パルマ、モンペリエ、カルヴィ、サッサリ、カリアリ、ナポリ、シラクサ、アテネと時間的なズレはありますが実に10箇所。もしこれが全部領地だったらそれだけで一大国家ですよね。(つか既にフランス領の5箇所より遙かに大きい・・・) 実際これが大航海時代ONLINE開始時におけるイスパニアの影響度としてけっこう反映されて来てますから、DOL世界におけるアラゴンの影響は少なくないと言えるでしょう。


アラゴン連合王国13-15C
13~15世紀におけるアラゴンの最大領域。
一時的にアテネやコルシカも影響下においているため広大な領域を形成してますね。


(スペイン王国の雄として)
さて、アラゴン王家は15世紀末以降、つまり大航海時代になるとカスティーリャ女王と結婚して同君連合を作ってゆきます。この時代にはイタリアに侵攻したフランスと直接戦うことになりますが、この戦いの前段は最近の歴史ファンでも取り上げているように名将コルドバの指揮のもとスペインが勝利し、2代あとのカルロス(カール5世)の代では実に17もの王位を保持したうちのかなりの部分の基盤ともなったのでした。

なんだかすごくはしょった気もするけど、
こうして見てゆくとアラゴンとカスティーリャの連合はちょっと反則じゃないかとさえ思う。
しかもその後ハプスブルク家とも連合して行くわけですから、
囲まれたフランスがオスマンとの同盟に動くのも無理ないかもしれません。
こうした政略もまともに運営されてさえいれば・・・。



おしまい。

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  1. 2009/02/05(木) 23:09:11|
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