打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

エル・シド その11

不敗の英雄


当初の予定よりも1回多くなったこのシリーズもこれが最終回。
イベリア半島で伝説的なまでの名声を獲得するまでになったエル・シドの最期を見てゆくことにします。

(クアルテ以後)
1094年のクアルテの戦いでムラービト軍を撃退したエル・シド。
これ以降は彼を巡る周辺諸侯との関係は急速に好転して行きます。
まずアラゴンとは同盟が成立し、更にサラゴサとの停戦協定をエル・シドが斡旋していたことで、アラゴンはエブロ川を越えてエル・シドの居るレバンテ地方へ軍を動かすことが出来るようになっていました。

次にナバーラ王国とバルセロナ伯とは婚姻関係が成立します。今まで書いていませんでしたがエル・シドと妻ドーニャ・ヒメーナとの間には一男二女、三人の子が生まれており、その内の娘二人が上の両家に嫁ぐことになったのです。しかもその相手はナバーラ王の孫でモンソン領主のラミロと、もう一人はバルセロナ伯ラモン2世の息子で後を継ぐ事になる後のラモン3世というイベリア半島の王侯たちでした。
そして後にモンソン領主ラミロとエル・シドの娘クリスティーナから生まれたガルシアはナバラ王となりますから、その後のナバラ王家(ヒメノ家)は100年後に断絶するまで実はエル・シドの血脈を受け継いでいたのですね。

また、こうした上位の諸侯との同盟や婚姻関係が成立すること自体、エル・シドの地位が向上したことを意味していました。この頃から証書などにはバレンシア伯やロドリーゴ伯の名が見られてきますし、政治的にはアラゴンやナバーラと関係の深いフランスにもその名が見られるようになってきます。


(バレンシアの覇者)
その後、アラゴンからの支援も受けたエル・シドは1096・97年と再びムラービト軍を破り、1098年からはバレンシアの北東すぐ近くにある古都サグントの攻略も行っています。サグントの町はかつて1300年前にハンニバルが半年に渡る攻囲の末にようやく攻略できたほどの城塞都市で、崖の上に街と一体となる防衛施設が築かれていたため力攻めではほとんど攻略不可能な所でした。エルシドはここを数ヶ月もの包囲の末に降伏に至らしめ(つまり攻め落とせなかった)、バレンシア一帯を完全に平定します。
1098年夏、今やバレンシアを含むレバンテ地方はエル・シドの掌中にありました。彼の統治は度重なる軍資金の調達のため上級市民にかなりの重税を課すなど負担の大きいものだったようですが、一方で教会の整備や聖職者の保護、市内の治安維持などは問題なく成されており、それなりに安寧を取り戻しつつありました。
しかし、彼に残された時間はもうあとわずかとなっていたのです。


(英雄死す)
1099年7月10日、エル・シドはバレンシア近郊で発病しそのまま亡くなります。
伝説では彼の遺体はそのまま保管するよう命じられたとされ、ムラービト軍が攻めてきたらその姿を見せるよう言い残していたとされます。そして後日ムラービト軍がバレンシアに迫った時、城門から馬に乗せられたエル・シド(の遺体)が突撃してくるのをみたムラービト兵士は我先に逃げ出した、そんな話が伝わっています。(確か1961年制作のエル・シド映画のラストが正にこれだったかと思う)
その後、バレンシアはエル・シドの妻ドーニャ・ヒメーナ主導の下に防衛が続けられますが、相続権のあったナバラ・バルセロナ、同盟関係にあったアラゴン・サラゴサ、そして元主君のカスティーリャのいずれもバレンシア確保には動きませんでした。
1102年、バレンシアはムラービト軍の接近により放棄され、エル・シドの入城から8年で陥落します。
最大の障害を取り除いたムラービト軍はその後間もなくサラゴサを平定しますから、彼らムラービトゥーンにとってエル・シドの存在が如何に大きかったかが分かります。


(あとがき)
さて、これでレコンキスタ史上最大の英雄エル・シドを巡る話は終わりとなりますが如何だったでしょうか。
彼の人生を追い掛けていて最も驚くのは、負けた記録が全く無い点。
『わがシッドの歌』 は半分空想の叙事詩ですから信頼性はあまりありませんが、エル・シドと同時代やすぐ後に書かれた伝記・公文書などの資料にそういう記録が一切見当たらないのですね。それこそ若い頃の一騎打ちからカスティーリャ王の近習筆頭だった頃の王位継承戦争や小人数での戦闘、現場指揮官としてのサラゴサ時代、更に独立してからの大軍相手の会戦・防衛戦・攻城戦まで、ありとあらゆるパターンの戦闘を30数年経験していながら、ロドリーゴ・ディーアスとエル・シドの名は勝利と共にありました。

恐らく彼自身の武勇というか戦闘力はずば抜けて高かったでしょうが、それ以上に彼の統率力と普段からの教練による部下たちの力量が生半可な農民兵では対抗できないほど優れていた気がします。しかもエル・シドはしばしば奇襲を受けたり挟撃されたりとピンチな局面があるのにそれを切り抜けていますから、余計にその強さが目立つのですね。
最後に、ごく個人的な視点ながら彼を歴史ファンの項目で評価するとこんな感じに。


■ロドリーゴ・ディーアス(エル・シド)
武力S
戦術B
戦略C
軍事総合A
政治D
魅力B

特殊スキル:突撃・防御・収奪・調達 
ブースト装備:名剣ティソナ(武力・戦術+1)、コラーダ(魅力+1)

◆総評
その戦場はイベリア半島内に留まるが、乱世で30数年戦いに明け暮れながら一度も負けず、独立国を持つまでに出世し、単独の勢力でムラービト朝に初めて土をつけた実績は並の軍人のレベルを突き抜けている。特に小規模戦闘で異常なまでの強さを発揮した武力と統率力はちょっと比肩する者がいないほど。逆境に強く、不遇な時も多くの者が彼を見捨てなかった人間的魅力も相当なものがある。一方政治的にはたびたび無謀・無思慮な行動が見られ、それが多くの政敵を作り主君に遠ざけられる一因となっており、彼を使いこなす者には相応の器量が求められる。それを割り引いても恐らく中世イベリア半島では最高の軍人の1人で、能力的に最も最適な部署は王家の副官か部将だったと思われ、最初の主君サンチョ2世が存命のままであればイベリア半島の歴史は完全に別物となっていた可能性すらある。



おしまい。

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  1. 2009/04/01(水) 23:40:17|
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エル・シド その10

レコンキスタ史上の勝利


(ムラービト軍来る)
1094年の春にバレンシアを攻略して有力諸侯に急成長したエル・シド。
この時点でイベリア半島の東岸では最有力な勢力に数えられていた事でしょう。
しかし一地方に覇を唱えるほどの軍事的成功は、同時に更なる強敵との対決をも意味していました。地図を見れば分かりますが、バレンシアは11世紀末のカトリック勢とイスラム勢の勢力ラインからはみ出して大きくイスラム圏内に食い込んだ、むしろ飛び地のように孤立した場所にあり、周辺全てが敵という危険な状態にありました。

しかもこの頃ムラービト朝はアンダルス南部のグラナダ・セビーリャなどのターイファ諸国を支配下に置いており、この年にはバレンシア南西のムルシア地方までムラービト軍に陥落していてバレンシアはもう目と鼻の先という情勢だったのです。

そして1094年秋、遂にムラービト朝の英傑ユースフ・イブン・ターシュフィーンは数万の大軍を編成し、甥のムハンマドに命じてロドリーゴを討つべくバレンシア地方に侵攻させます。
これに対してエル・シドはアラゴンとカスティーリャに援軍を要請しますが、アラゴン王は交代したばかりで動けず、カスティーリャ王もトレードの防衛と陥落したポルトガル方面の救援でエル・シドに救援を送る余裕はありませんでした。こうして単独でムラービトの大軍を迎えることになったバレンシア。市内では鉄器や青銅器が供出させられ、武器の生産が始まるなど急ごしらえながらも防衛の為の準備が必死の思いで始まっていました。


(クアルテの奇跡)
10月初頭、ムラービト軍はバレンシア南西に広がるクアルテの平原に集結します。
ここは現在のバレンシア空港に近い場所で、
当時のバレンシア市街の城壁までわずか1~2キロに過ぎませんでした。
このムラービトの大軍に対して、エル・シドは篭城を選択しなかったのです。
はるかに少ない軍勢でしかないのに打って出たのですね。
大軍に対する篭城は日本的に言うと後詰め、つまり味方の援軍が期待できるか、相手が長期戦で撤退する期待があるかが前提での戦術ですから、カスティーリャもアラゴンも、ましてや前年に戦っていたばかりのバルセロナ伯からも援軍が望めない状況では選択しようがなかったからとも言えます。

こうしてほとんど絶望的な状況で始まったバレンシア城外のクアルテにおける戦い、
10月14日からなんと10日間に渡ってエル・シド軍は持ちこたえたのでした。
戦場にはエル・シド自ら先頭に立ち、各所で行われていた小規模な戦闘のほとんどを回って部下達を励まし、その大声でムラービト軍の兵士を震え上がらせた、叙事詩と伝記はそうエル・シドの武勇を讃えた記述を残しています。

10月24日、この日のエル・シドは城外に出た当初から一計を案じます。
まず自分がいると見せかけた本隊を派手に出撃させて正面で戦わせる一方で、自分は小部隊を率いて裏側の門から市外に出てムラービト軍の側面の最も手薄な所から襲い掛かるという、典型的な陽動と迂回戦術を使ったのですね。
古典的ながら、この策の効果は絶大でした。
ムラービト軍は大混乱に陥り、総崩れとなります。
武器も食料も、妻子さえも捨てて逃げたムラービト軍を追撃したエル・シド軍は、
更に多くの捕虜と莫大な金銀・食料・武器・馬を奪って勝利したのでした。


エルシド図04
※1094年頃のイベリア半島
エル・シドの勢力がムラービト朝の北上を阻む位置にあるのが分かりますね。


(エル・シド伝説のはじまり)
このクアルテの戦いの効果は絶大なものがありました。
エル・シドがムラービト朝の大軍を破った知らせは瞬く間にイベリア半島全土に知れ渡り、ムラービト軍の攻勢に怯えていたカトリック教徒はもちろん、ひと息つけたサラゴサなど既存のイスラム勢力もその勝利に快哉を叫んだのでした。
そしてこの1094~95年にかけての公文書・証書類にはこう記されています。
『バレンシアに来たムラービトゥーンをロドリーゴ・ディーアスが破り、その軍の全てを捕虜とした年』 
公証人が正規の年代の代わりにそう記したほど、
エル・シドの名声は高まる事となったのですからその影響のほどが伺えます。

そして歴史上から見ても、ムラービト軍がイベリア半島でカトリック勢に敗れたのは実にこの戦いが初めてだったのです。何しろそれまでカスティーリャ王もポルトゥカーレ伯もムラービト軍の侵攻の前には成すすべなく破れ防戦一方だっただけに、一層劇的ですらありました。

もう少し広く見ると、西ヨーロッパでイスラム勢の侵攻を止めた決定的な会戦としては、732年のポワティエの戦いと、1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦い、この二つが恐らく最も影響が大きかったでしょう。しかしイベリア半島とレコンキスタ史に限って見たらこの1094年のクアルテの戦いもまたそれに近い印象を残したのでしょう。それも孤立無援の一騎士とその配下たちが成し遂げたという点で、この時点でエル・シドがレコンキスタの伝説的英雄になり、その生涯が叙事詩になるだけのものはあったのですね。

またこの時点でバレンシアが史実より8年早く落ちていたら、英傑ユースフが生きているうちにイベリア半島南部は完全にムラービト朝に制圧されていたかも知れませんでした。そうなるとイスラム圏はおろかカトリック勢のいた北部と東部まで危険だった可能性すらあり、1120年代にカスティーリャ・アラゴン・バルセロナが反撃に出るまでにイベリア半島のレコンキスタの歴史は変わっていたかも知れません。それだけに単独でムラービト軍を破ったエル・シドの勝利は、史実からも人々の記憶からも大きな影響を与えたのでした。



ただ、敗北したとはいえムラービト朝は依然として大きな勢力を誇っていました。
早くも2年後の1096年にはバレンシア地方に再度その姿が見えるようになるなど、
エル・シドとバレンシアを巡る情勢は予断を許さなかったのでした。



おしまい。

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  1. 2009/03/29(日) 16:39:08|
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エル・シド その9

バレンシア攻略!


レコンキスタ時代の英雄エル・シドを巡るお話もそろそろ終盤。
1090年まで来ていますから、若い頃に一騎打ちを重ねて剣士として名を上げたエル・シドも既に40代半ばになってますね。この時代の感覚ではもう老練って言葉が浮かぶ年齢。ですが小規模戦闘では無類の強さを誇るところは全く変わらず、それがカスティーリャを追放された翌1090年以降もいかんなく発揮されて来る事になります。そしてそれは、叙事詩にまでなったエル・シドの、余りにも密度の濃い最後の10年の始まりでもありました。


(エル・シド包囲網)
1089年に再びカスティーリャから追放されてしまったエル・シド。
翌年の春を待って冬営していたバレンシア南西の町エルチェから出発したエル・シドは(ここからこの呼称で統一します)、まずバレンシアの手前にあるハーイブ領デニア近郊を通過し、サラゴサ王の弟ハーイブから交渉の末かなりの大金を受け取って更に北を目指します。その先にあったのはカスティーリャ保護下にあったカーディルが支配するバレンシアの町。ここでもエル・シドは資金提供(というか恐喝)を受け、バレンシアの北東80kmほどのところにある現カスティリョン市の近郊で落ち着きます。一応ハーイブ領になると思いますがバレンシア領・バルセロナ伯領の中間地点でやや空白地帯となっていたこの一帯を当面の根拠地に選んだのですね。

こうしてバレンシア北方で勢力を蓄えつつあったこのエル・シドに対し、近隣の諸侯の一部は警戒を強めます。中でもこれまで敵対することの多かった、何より領国内で割拠されてしまったハーイブは、近隣の諸侯で反エル・シド陣営を築こうと画策を始めます。ただこれ、これまでのエル・シドの動きと当時の情勢から実現はしませんでした。ちょっとここで、この時点でのエル・シドに対する周辺諸侯のポジションを列記しておきます。

カスティーリャ王=静観 (旧家臣ですし、ムラービト軍が接近中で余裕なし)
ウルへール伯=静観  (バルセロナ領に隣接しているので自国防衛が優先)
アラゴン王=不参加  (独立後は直接の脅威を受けておらず、戦場も遠い)
サラゴサ王=内通   (エル・シドを最も評価していた勢力)
バルセロナ伯=敵対  (ハーイブに同調・実際の主力)
ハーイブ=敵対    (反ロドリーゴを画策)


恐らくポイントになったのはカスティーリャ王アルフォンソ6世と、エル・シドが仕えていたサラゴサ王ムスタイーン。カスティーリャはエル・シドだけでなく他のカスティーリャ系軍人の旧主なのでこの時点で直接敵対されたらちょっと絶望的な事になったでしょうが、この時カスティーリャはムラービト軍が再上陸してトレードに接近中だった為それどころではありませんでした。そしてサラゴサの動きがエル・シドを決意させます。もともとサラゴサは10年・3世代にわたってエル・シドの知己を得ており、反エル・シドの工作が持ちかけられて以降、サラゴサ王は表向き同調するフリをしつつ、裏から彼にその情報を流していたのでした。こうして、イベリア半島の東部ではエル・シド対バルセロナ伯・ハーイブ陣営が争う事になります。これは1082年のアルメナルの戦いと同じですが、今度はエル・シド単独で戦うことになったのでした。


(テバルの圧勝)
そしてこの両者によって1090年秋に行われたテバル山中の戦いはエル・シドが大きく飛躍するきっかけとなります。この時、北上してエブロ川の河口の町トルトサに近いテバルの山中に陣を張ったエル・シドに対し、バルセロナ伯は主力を山のふもとに置きつつ夜間に別働隊を出してエル・シドより高地に回り込ませます。夜が明けて気付いたときにはエル・シドは山の上と下から挟撃される事になったのですね。しかも相手の方がはるかに多数と言う状況で。普通ならここで壊滅もしくは逃亡するしかなかったでしょうが、エル・シドと彼の手勢は逆にふもとの主力部隊に突撃を掛けたのでした。

小規模戦闘・特に乱戦でのエル・シドの強さはちょっと異常としか言いようがありません。なんと最初の突撃でふもと側にいたバルセロナ伯の本隊はエル・シドに撃破されてしまいます。このあとエル・シドが途中で負傷するという危機があったものの、彼と彼の部下は最後まで士気を失わず、遂にバルセロナ伯の大軍に勝利したのでした。しかも、またしてもバルセロナ伯と主な部将すべてを捕虜に取ると言う圧勝で。

このテバル山中の戦いとその後の交渉の結果、バルセロナ伯はエブロ川の南側への宗主権をエルシドに明け渡します。そしてこの地の領主だったハーイブが亡くなった事もあって、エル・シドは一躍エブロ川の河口付近からバレンシアのすぐ手前までの海岸線一帯、つまりレバンテ地方を領するかなり広い地域の諸侯となったのです。
地図に入れるとこんな感じ。


エルシド図03


(バレンシア攻略戦)
その後、エル・シドはムラービト軍の前に敗退を重ねていたカスティーリャ王を援護してムラービト軍の撤退まで漕ぎつける功績を上げたものの、振る舞いに問題があったのかややトラブルとなり、サラゴサやアラゴンなどと同盟を結ぶなど後背を固めた所でアルフォンソの攻撃を受けてしまいます。
この危機に対し、エル・シドは逆にサラゴサ国境方面からカスティーリャ領東部に攻め込み、この地を領していた政敵ガルシア伯オルドニュスの所領を荒らしまわり荒廃させてしまったのでした。この恐ろしいほどの攻勢にカスティーリャ王は軍を引き、両者講和に至ります。まあムラービト軍が迫っている状況下でエル・シドを敵に回すのはどう考えても得策ではありませんでしたから。

そして1093年からエル・シドは遂にバレンシアへの包囲戦を敢行します。この頃のバレンシアはカーディルの悪政により親ムラービト派が蜂起してカーディルが暗殺されてしまう等混乱しており、保護者であるカスティーリャ王も動けないとあっていつ外部勢力の侵攻を受けてもおかしくない状態にあったのですね。この情勢を見たエル・シドが遂にバレンシア攻略を決めたのは、まあ自然流れだったでしょう。
しかし、地中海側屈指の良港バレンシアを包囲するには、海からの支援は不可欠でした。特にジェノヴァやピサなどのイタリアの海洋都市国家はこのバレンシアやアルフォンソと太い関係を築いており、彼らを味方に付けないとバレンシアは取れない、そう見られていたのです。

これに対し、エル・シドは直接の力攻めでなく周辺の農村や小都市を襲うことでバレンシアに至る街道を押え、バレンシアへ流入する物資にプレッシャーを掛ける動きに出ます。こういう戦略的な動きが出来るあたりは単なる武勇の人じゃない智謀を感じますね。
結局およそ数ヶ月の攻略戦の末、ジェノヴァやピサからの支援が受けられなかったバレンシアはエル・シドに降伏します。1094年5月、遂にエル・シドはバレンシアに入城し、これによりカスティーリャの下級貴族からイベリア半島の有力諸侯に数えられるまでになったのでした。
このバレンシア攻略を果たした時の 『我がシッドの歌』 の記述を、やや長いですが引用してみます。
この瞬間が、恐らくこの人物伝の到達点の一つと言えるでしょうから。


わがシッドがバレンシアを占領し入城すると、
その地に大きな喜びが広がった。
歩兵であった者は騎士になった。
彼らの得た金貨・銀貨を誰が数えられようか。
そこにいた者はすべて富裕となった。
わがシッド、ドン・ロドリーゴは戦利品の1/5を別にするよう命じ、
3万マルコだけが彼の取り分となった。
他の財宝を誰が数えられようか。
カンペアドールとその場にいた者は皆が、
城の頂上にひるがえったシッドの旗を見て歓声を上げた。
(~ 『我がシッドの歌』 より~)

その後、エル・シドは幽閉されていた妻ドーニャ・ヒメーナと子供を救出してバレンシアに呼び寄せるなどつかの間の休息を得ますが、時代は彼を安寧のまま過ごさせはしませんでした。いったん撤退していたムラービト軍の指導者ユースフが甥のムハンマドにモロッコとアンダルスで編成した大軍を与え、ロドリーゴの討伐を命じたのですから。

次回はエル・シドが挙げたレコンキスタ史に残る奇跡の勝利を見ることに。


おしまい。

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  1. 2009/03/28(土) 16:58:53|
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エル・シド その8

2度目の追放


(再契約)
1087年、5年ぶりにカスティーリャ王国に復帰したロドリーゴ。(エル・シド)
当時サグラハスで大敗してトレードを守るのすらやっとのアルフォンソ6世はかなりの厚遇をもって彼を迎えます。カスティーリャの東側に広がるアラゴン・サラゴサ両国境付近の防衛を彼に任せると共に、『自力でサラセン人の土地を奪った場合は全て彼と彼の子孫の物とする』という特約まで与えたのですから。正に切り取り次第。

ただまあちょっと気になるのは、カスティーリャに付いたのは果たしてロドリーゴ一人だったのかという点。追放された時に彼と一緒に結構な数のカスティーリャ軍人・従者たちが傭兵としてサラゴサに雇われており、それがロドリーゴの部隊の中核となった節がありましたから。思うにロドリーゴ個人の帰参というよりそうした傭兵部隊もひっくるめた一種の再契約だったと考えたほうがしっくり来るんですよね。何度追放されても生涯カスティーリャ王に忠誠を尽くした騎士、という後世のエル・シド像だとそれでは都合が悪いから書き換えられてても不思議じゃありません。むしろその時々の情勢に柔軟に対応した現実的な軍人、と見たほうが評価高いんですがねえ。

そして実際のところ、この復帰は2年ほどしか続きませんでした。
1089年にロドリーゴは再び追放されてしまったのです。


(ムラービトの再侵攻、そして・・)
1088秋~1089年春、東部の国境を防衛していたロドリーゴは、隣接していたバレンシアにいたトレードの旧主カーディル支援のため、バレンシア・ムルシア方面へ軍を進めます。彼が対峙することになったのは、サラゴサ王の弟ハーイブとそれを援護するバルセロナ伯。バレンシア領がカーディルの悪政で情勢不穏になっているのを見ての、表向き救援と称しての侵攻でした。しかしわずかな手勢で救援に向かったロドリーゴによってこのバレンシア市を包囲していたハーイブとバルセロナ伯の軍は撃退され(エル・シド来るの報だけでハーイブ側は戦意を消失していたらしい)、バレンシア防衛に成功したロドリーゴはこの地での声望を獲得することになります。

ところがこの時、前線基地としていたバレンシア近郊のレケーナに帰還したロドリーゴのもとに驚くべき知らせが入ってきます。モロッコのムラービト軍がセビーリャの要請に応じてイベリア半島に再上陸したため、カスティーリャ王アルフォンソからロドリーゴも至急集められるだけの軍を集めて合流するようにとの命令が下っていたのでした。そしてこれが、彼が再追放される直接の原因となったのです。

1089年も中頃になって、カスティーリャ王アルフォンソ6世はトレードで集められるだけの兵を集めてバレンシアの南西にあるムルシア方面へ進発します。ここにはアレード城という先年アルフォンソが築いたカトリック側の根拠地があったのでした。ムラービト軍はここを落すべく向かっていたのですね。アルフォンソは途中ロドリーゴの合流を待つべく国境付近で一時停止していたのですが、なぜか彼は現れず、その間にムラービト軍がカディス方面から進路を変えたとの報告を受けてアルフォンソもまた予定路を変えてムラービト軍に対峙する動きをとります。結果的にこの両者の遭遇戦は発生せず、セビーリャ・コルドバ・グラナダがムラービト傘下に入り、アレード城も防備を固めたことを受けてムラービト軍は一時撤退したのでした。そして結局ロドリーゴは両軍の対峙中にかなり遅れて合流することはしたのですが・・・・。

その後、この件はロドリーゴの政敵によって誇張してアルフォンソに伝えられ(例えばロドリーゴはカスティーリャ王が窮地に陥るよう、意図的に遅参したのだ、などと)、それを信じたアルフォンソ6世は1回目の追放より更に厳しい裁定を下します。この辺の記述はロドリーゴ伝からの引用なのでややエル・シドに都合よく書かれてるかも知れませんが列記しておきます。

①ロドリーゴ・ディーアス(ビバール家)の全財産を没収。
②ロドリーゴの妻子は拘束の上で一時投獄。
③ロドリーゴ自身は全ての権限を剥奪のうえで国外追放。

こうしてロドリーゴ(エル・シド)は再び、
というか今度は決定的にカスティーリャから見捨てられてしまったのでした。


(流浪の英雄)
しかしこのロドリーゴ再追放の事件は、カスティーリャだけでなくアンダルス全体にもかなりの反響をもたらします。既にロドリーゴ・ディーアスとエル・シドの通り名はカスティーリャ・アラゴン・バルセロナ・アンダルス中部~東部のターイファ諸国に知れ渡っており、しかも彼はサラセン人にもカトリック系の軍人にも不思議と人気というか多くの支持者がいましたから。そして何より、ムラービト軍はカトリック教国だけでなくアンダルスのターイファ諸国も征服対象としていることが明白になりつつあった為、国や宗派を超えて彼のような優秀な軍人に期待するところが大きかったのでしょう。

翌1090年にそれまで防衛していたアレードの北にあるエルチェを出たエル・シドのもとに、それこそカトリック系・イスラム系を問わず各地から彼を慕う人々が集まり始めます。いつしか結構な集団となっていたエル・シドとその一団、果たして彼らの行く先はいったいどこだったのでしょう。

次回、アンダルスにムラービト軍の脅威が迫る中、
いよいよエル・シドの国取り物語が展開されることになります。


おしまい。

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  1. 2009/03/24(火) 08:02:56|
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エル・シド その7

南からの脅威



(連戦連勝)
1082年のアルメナル攻防戦でバルセロナ伯に大勝して一気に頭角を現してきたロドリーゴ・ディーアス、いやここらでもうエル・シドと呼ぶべきでしょうか。
サラゴサ王国に仕えて3年目の1084年、この年のエル・シドはアラゴン王国の南部を数日間に渡って襲って回ったあと、仕えているサラゴサのターイファ・ムータミンの弟ハーイブの領内となっているトルトーサやレリダといった東部地域へと転戦します。(既にこの頃にはサラゴサ軍の現場指揮官になっていたらしい)これに対してハーイブはアラゴン王サンチョ・ラミレスが送った援軍と合流してエブロ川下流で迎撃に出たのですが、このエブロ川の会戦もエル・シド指揮下のサラゴサ軍が勝利を収めます。しかもこの会戦でもアラゴン側では王家の宮宰・代官・領内の司教職にある者など10数人もの身分の高い者が捕虜となっており、中でもアラゴン王の親戚筋となるパンプロ-ナ伯までもがエル・シドに捕まってしまう大敗を喫したのでした。この結果、わずか2~3数年の間にバルセロナ伯とアラゴン王に連勝したエル・シドの武名が更に知れ渡ることになったのはいうまでもないでしょう。



(トレード陥落とアルフォンソの大敗)
その翌年の1085~1086年は、レコンキスタの歴史の上で、
そしてエル・シドにとってもかなり重要な年となります。
この年起こった事象はというと、

1085年、カスティーリャ王国がトレードを陥落させる。
1086年、カスティーリャ王国、サグラハスでムラービト軍に大敗。

この2点。
恐らくスペインの教科書に必ず出ていると思われる、重要な年代でしょう。
それ以前からカスティーリャはトレード王国のターイファ・カーディルを保護下に置いていたのですが、この頃になるとイベリア半島中央部の大国トレードはカーディルの悪政に反目する人によって不穏な情勢となっていました。その後、カーディル保護の立場を取るカスティーリャはカーディルと密約して彼をバレンシアの領主に据える代わりにトレードを明け渡させるべく動き、1084年秋~1085年春に掛けてトレードを包囲して遂に降伏に至らしめたのでした。

悪政下でだいぶ衰退していたとはいえ、大国トレードがカトリック勢の手に落ちたことは他のアンダルスのターイファ諸国が受けた衝撃はかなり大きかったのでしょう。そしてこれはカトリック勢の勢力圏がポルトを河口とするドゥエロ川からリスボアを河口とするテージョ川の流域まで到達した事になり、アンダルス南部が危機にさらされてきた事を意味していました。
実際トレード陥落後にアルフォンソ6世はセビーリャへの降伏勧告、グラナダ包囲、そしてエル・シドがいたサラゴサと次々に軍を送っており、それは現実の脅威となっていました。
結果、残るタ-イファ諸国は一斉に海を渡ったモロッコで急速に勢力を伸ばしていたムラービトゥーン運動の指導者の一人ユースフ・イブン・ターシュフィーン(ムラービト朝)に救援を仰ぎ、同年の後半にムラービト軍がジブラルタルを渡るというリアクションを引き起こします。彼らにとっては例えそれがかなりのリスクを伴うものだったとしても、同じイスラム勢に降るほうがまだマシという気持ちだったかも知れません。『ブタ飼いよりラクダの世話を云々』というあるターイファ王の言葉がこれを物語っています。

さて、ムラービト軍がジブラルタルを渡り、
カディスからセビーリャ方面へ北上していた頃・・・・

この時カスティーリャ王アルフォンソ6世がどこに居たかというと、
これが実はエル・シド率いるサラゴサ軍と対峙していたのでした。
旧主と戦うことになったエル・シドの心境がどうだったかは不明ですが、幸いにというかこの時アルフォンソはムラービト軍侵入の知らせを受けて直ちに軍を返したために両者の本格的な対戦は避けられることになったのでした。

その後、アルフォンソは5万とも6万ともいわれる大軍を集めてムラービト軍を迎え撃ったのですが、結果は1086年秋のサグラハスの会戦で自身が負傷、ほとんどの将兵を失う程の損害を出して大敗してしまいます。イベリア半島の皇帝としてのアルフォンソの権威はこれで失墜してしまったのでした。




(帰参)
サグラハスの大敗後、アルフォンソは何とかトレードに逃げ込んでムラービト軍の追撃をしのいだものの、その権威は完全に失墜してしまっていました。貢納を納めていたターイファ諸国はこれを停止し、更に数年後に再び侵入して来たムラービト軍はそのままターイファ諸国を次々と併合して、第一次ターイファ時代は終焉を迎えるようになって行きます。そしてこの目まぐるしい変動は、同時にエル・シドにとっても思いがけない結果をもたらしたのでした。

1086年末、アルフォンソ6世がロドリーゴ・ディーアスの追放措置を解除。

この辺の事情はどうなってるのかよく分かりませんが、追放措置を解いたアルフォンソとロドリーゴは和解し、かなりの厚遇を受けてカスティーリャへ帰参することになったのでした。まあ実際この時期のアルフォンソは治世中で最も窮地にあった訳で、その一環で妻の実家であるフランスのブルゴーニュ家の子弟を招いてフランス騎士の参加を要請した事もその対応策の一つでした。そして当然ながら元配下で急速に実力と声望を高めていたロドリーゴをこのまま追放しておくのは得策ではないと判断したのでしょう。こうしてロドリーゴ(エル・シド)は、一転して再びカトリック側に立ち、今度は反抗する気配を見せるターイファ諸国、そして彼らの後ろに控えるムラービトゥーンと戦うことになったのでした。


エルシド関連地図1081



おしまい。

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  1. 2009/03/18(水) 22:50:29|
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