打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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蒼き狼の末裔たち その9

ヨーロッパ編-3

ポーランドに侵攻したモンゴルの別働隊が現地でヨーロッパの連合軍を破った頃、ハンガリー方面に向かった総司令官バトゥの率いる本隊はどうしていたでしょうか。恐らく今回がこのシリーズ全体の山場になると思われますので、私としてもできるだけキッチリ書いていきたいと思います。(例によって長文となりますがお許しを^^);

さて、時間はここで1240年の秋に戻ります。
この年、ロシアを征服後に西に向かったモンゴル軍はポーランド東部の町プシェミシルで冬営し、翌年の初頭には早くも動き出しました。この際全軍を5部隊ほどに分けたバトゥは本隊以下の約8万強を率いて南下し、ハンガリー方面に侵攻します。
(実際にはこの中から更に小さい枝部隊も編成して各方面に回しています)
ところで、ポーランド南部~ハンガリーの北東部、更にルーマニアに掛けては、東ヨーロッパでも屈指の山岳地帯であるカルパティア山脈があってハンガリーの北の防壁となっていて、ロシア方面からここを抜けるにはハンガリー北東部にある峠の隘路地帯があるのみでした。
バトゥはここを北・中央・南の3路に分かれてハンガリーが築いた防衛施設を突破しつつ、
3月上旬には平野部に至ります。

バトゥ_ヨーロッパ03
(1241年4月のヨーロッパ情勢)

一方ハンガリーの国内では、ロシア方面からコマン族などの流民が(ある程度武装して)大量に避難してきていて、国王ベーラ4世は迫り来るモンゴルの脅威と共に国内の対応に苦慮していました。
というのも、配下となる民衆の増加は本来なら喜ぶべきところなのですが、もともと王を支え・ハンガリーを形成してきたマジャール人の豪族たちは王家の力が強まるのを警戒してかベーラ4世とかなりの不和を生じるようになっていたのですね。とは言っても、以前も書きましたが、騎兵の国ハンガリーは諸豪族が一丸となって王の元に参集しさえすればヨーロッパ最強の軍ともなれる戦力を持っていました。

その後バトゥは、『流入したコマン族は征服した土地の民なのだから当方へ引き渡すべし』 と言うような内容の書簡を30人程の使節団に持たせてベーラ4世に送ります。ところがこの使節はほぼ全員が捕まり、殺害されてしまうと言う最悪の結果に終わってしまったのでした。
もともとモンゴル人は外国からの使節や宗教者はある程度丁重に扱う所があり、
それだけに自国の使節が非道な扱いを受けた場合には激怒するのかも知れませんね。
チンギス・ハーンがホラズムに送った隊商が殺害された時の対応を見る思いがします。
こうして、最終的にハンガリーを討つ決意を固めたバトゥはスブタイ以下の諸将を展開させ、
ハンガリー南東部の平野からドナウ川の湾曲部分にあるハンガリーの首都ペストの更に北にある町の辺りまで、数部隊に分かれて大きく軍を進めます。なにしろ一番南へはトランシルヴァニア方面まで回ってきているのですからかなりスケールのでかい機動作戦ですね。

その後、恐らく激しい情報戦が飛び交ったと思われるのですが、ペスト市の近郊まで来て以後3月中に掛けてバトゥはなぜか軍の動きを止めます。その間にハンガリー王ベーラ4世はとにかくも諸豪族を説得して参集させることには成功したのでした。その数なんと10~12万。
13世紀に1カ国で編成できる数としては驚くべき大軍と言うべきで、しかもハンガリーの精強な騎兵が主体なのですから、防衛側としては多少ごたごたして統制が掛ける所があっても勝負になると見たでしょう。

そして4月に入り、バトゥは展開した各部隊を再集結させる中でなぜか東へと軍を後退させます。
当然ながらこれを好機と見たベーラ4世はほぼ全軍を率いて出撃し、
ハンガリー中央部のモヒー平原に掛かるサヨ川の河畔で遂にバトゥの本隊を捕捉します。
この時バトゥはまだスブタイと合流できておらず、
戦力的にはハンガリー軍10万に対しバトゥ軍4~5万と圧倒的に不利な状況に陥っていました。
ですがこれは、実はバトゥによる誘い出しの戦略だったと見られています。
いくらモンゴル騎兵が勇猛でも相手が相手ですから、
バトゥとしても相手を本拠地から引きずり出す必要があると考えたのかも知れませんね。

(サヨ川の決戦)
そして1241年の4月10日、
ポーランド方面で行われたワールシュタットの戦いの情報がバトゥの元にもたらされます。
(ただこれ、記録としてはそうなってますが、いくらモンゴル騎兵が恐ろしく速いとは言っても、
実際にたった1日強でポーランドからハンガリーまで来れるのかちょっと疑問ではあります)
その夜、早くもバトゥは動き出し、サヨ川をはさんで対岸に陣取っていたハンガリー軍へ向けて川を渡ろうと進軍します。ところが適当な浅瀬が見つからなかった為か、川を渡るには小さい橋を通ることしか出来ず、ここでハンガリー軍の頑強な抵抗を受けて立ち往生します。
このまま消耗戦になっては数で劣勢なモンゴル側が先に疲弊してしまう展開なのですが、
ここでモンゴル軍は秘蔵の新兵器を持ち出します。
『雷鳴のような轟きと炎のごとき煌きをもって』
この時モンゴル軍が使ったと思われるのは、恐らく中国から導入した新兵器、火薬を使った大砲というかカタパルトのような砲弾を打ち出せる長距離兵器を野戦にも使えるようにした物でした。
この兵器の開発には金国の遠征で連れ帰ったりイスラム教圏で獲得した技術者が携わっていたと見られますが、これが攻城戦の発達したヨーロッパでも大きな威力を発揮します。
(ちょっと手書きでこの戦いの記述の部分を図にしてみました)

サヨ川の戦い02_400

長距離砲の威力もあって、なんとか数で勝るハンガリー軍の攻撃をしのいで一旦後退させたバトゥはこの機に自軍4万を渡河する事に成功します。ですがハンガリー軍は10万と倍以上なのですからまだ一気に攻勢を掛けるまでは行かず、川を背にするのを避けて西へ動きつつなんとかハンガリー騎兵の突撃を耐えることでスブタイの援軍を待ちます。
そして数時間後、流石に疲れたハンガリー軍が休息のために一時的に攻勢が衰えると、
バトゥはその機に乗じて自軍の隊形を薄く伸ばして更に西に動かし、
川に沿って薄い半円形の陣形に展開させます。
そしてこの時、遂にスブタイの率いる別働隊3万が戦場に到着したのでした。


いいところなんですが、長すぎるので続きは次回に。


つづく。

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  1. 2007/07/29(日) 08:03:11|
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蒼き狼の末裔たち その8

ヨーロッパ編-2

当初思っていた以上に長編となりつつあるこのシリーズもいよいよ佳境という感じで、
今回はロシアを制圧してヨーロッパ世界に侵入しようとするモンゴル軍の動きを追います。
1240年にキエフを攻略したモンゴル軍はそのまま真西に向かい、現代で言うとウクライナ西部の町リボフ・そしてポーランド領に入ってすぐの町プシェミシルなどを落とし、このプシェミシルを冬営地とします。もうこの地点は完全にヨーロッパ世界であり、ここまで派手に略奪と破壊をしてきたモンゴルの脅威は逃げてきた住民伝えでポーランドやハンガリーには伝わっていたはずなのですが・・・。

明けて1241年、
モンゴルの総司令官バトゥは約12~13万程度まで膨れ上がっていた全軍を4~5個に分けてヨーロッパ東部を北~南まで一気に攻め掛かります。(下図参照)
恐らくこれは名将スブタイの練り上げた策だったと見られるのですが、
こんな南北1000km近くにも渡る広範囲な面まで一気に戦線を広げて侵入したスケールの大きな戦略は、これはもう近代における機甲部隊を駆使した電撃戦を思わせるものがあります。
余談かも知れませんが、後世ヨーロッパで戦車軍団の指揮で知られたロンメルとパットンの両将軍が、揃ってスブタイの戦略・戦術に傾倒していた、と言うのは偶然ではない気がします。

バトゥ_ヨーロッパ02
(1240~41年春のモンゴル軍の侵攻図)

さてその陣容はと言うと、、、

【右翼軍】
チャガタイの子バイダルとバトゥの兄オルダが2万強を率いて一番北部のポーランドに侵入。
この部隊の目的は、ポーランドやリトアニアを攻めることで南にある強敵ハンガリーに侵攻する本隊がポーランド方面から挟撃されるのを前もって防ぐ事にあったとも見られています。

【中央軍】
目的地は強敵ハンガリー、ヨーロッパで最も馬産に適した草原地だったのも理由でしょうか。
バトゥ自身が率いる本隊4万が中央を、
スブタイが率いる別働隊約3万が南側を、
そして後詰めの約1万をバトゥの弟シェイバンが率いて北側を進みます。
この中央の軍は冬営地から南に進んでポーランドとハンガリーの間に横たわるカルパティア山脈を越えて進入し、ドナウ川を始め多くの河川が横たわるハンガリーの攻略に掛かります。そして先鋒を率いていたモンゴルの宿将スブタイは更に先行して国境付近の防衛拠点を落としつつハンガリーの平野部へ接近します。

【駐留部隊】
残りの約3万の兵力は征服したロシア各地の押さえに置いてます。
※またしても長くなってしまったので分割して、今回はポーランド戦線をみてみます。

(ポーランド侵攻)
1241年の春、ほとんど無警戒なポーランドに侵入したバイダル率いる右翼軍は、すぐ近くにあった当時のポーランドの首都クラクフを攻略し、更に西へとポーランド領内を荒らしまわります。ここで流石にヨーロッパ側も援軍が編成され、情報を掴んだバイダルはこれを捕捉します。
そして1241年の4月、とにもかくにも初めてまとまった戦力を編成したヨーロッパ側と対するモンゴル軍、ポーランドの西部にあるレグニッツァ近郊でこの遠征における初めての大規模な会戦が行われます。
モンゴル軍を迎え撃ったのは、ポーランド諸公国の残存兵・ドイツ騎士団など隣国からの援軍のほか、チュートン騎士団・テンプル騎士団・ホスピタル騎士団などヨーロッパ各地から参集した各騎士団の多少の増援を含めて、大きく5部隊からなるヨーロッパ連合軍でした。
この日、レグニッツァの町の近くにあり、実際に戦場となった村の古名はワールシュタット。

『ワールシュタットの戦い』と後世呼ばれる事になる1241年4月9日のこの会戦、バイダルが率いていたモンゴル軍の騎兵約3万に対して、ヨーロッパ側の連合軍は約4万と、数の上ではやや上回っていたようですが実の所は旧態依然とした騎士・歩兵・傭兵その他の寄せ集めの集団でした。結果から言うと、ヨーロッパの連合軍は主力となる重装騎兵こそ装備の面では互角以上だったかも知れませんが、その他の戦術・指揮系統すべてでバラバラな状態では、統一され・戦術面でも秀でて・尚且つ個々の戦闘力の高いモンゴル騎兵に全く歯が立ちませんでした。
特にこの戦いで見せたモンゴル騎兵が得意とする、
【突撃→後退(のフリ)→釣られて深追いした所を反転・逆襲→伏兵と迂回で包囲殲滅】
この戦術が見事にはまり、ヨーロッパ側は最後に残っていた総司令官の直衛とドイツ騎士団も支えきれずに突破され、連合軍は全軍が瓦解して敗北します。

こうして戦場となったレグニッツァ近郊はヨーロッパ連合軍の死屍累々といったありさまで、
その後モンゴルの将バイダルはバトゥへの戦果の報告のために殺した敵兵の耳をそぎ落として袋詰めにするのですが、なんとこの袋が9つも出来たという・・・。(残酷な表現ですみません)
結局、この日の会戦では、完敗したヨーロッパ連合軍の総司令官だったポーランドのシレジア公ヘンリク2世は戦死して首を取られてしまいます。敵の大将の首を取ったモンゴルはこれを槍先に掲げて回ったと言われますが、こうして後の大国ポーランドはこの時ほぼ無抵抗に近い状態となってしまい、広い国土もモンゴル兵が荒らしまわったために荒廃してしまいます。。
そして地図を見れば分かりますが、戦場となったレグニッツァは現代ではポーランドでも西のドイツの国境に近い地域であり、モンゴル軍がその気ならドイツ領内に侵攻することも充分考えられる情勢となったのでした。

ところで、ヨーロッパ各地の騎士団が少数ながら参加していた為か、後世この戦いはヨーロッパとモンゴルの大決戦だったように派手に喧伝されて書かれるのですが、実際の所はモンゴルにしてみれば全軍の2割程度を率いていた別働隊による局地戦にしか過ぎませんでした。
なにしろこのわずか数日後には、この時の数倍の兵力がぶつかり合っているのですから・・・。


次回はハンガリー方面に向かったバトゥとスブタイ率いるモンゴル軍の本隊を見てみます。
彼らの戦いについては普段あまり記述する事がないのであまり知られていないと思われますが、規模としてはこの当時のヨーロッパではちょっとありえないくらいの大会戦になったのでした。

つづく。

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  1. 2007/07/26(木) 10:05:20|
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蒼き狼の末裔たち その7

ヨーロッパ編-1

今回から、ヨーロッパ遠征の軍を起こすことを決めたモンゴルの動きについてみてみます。
まず、本拠地を出発したモンゴル軍の主力である重・軽騎兵の本隊はこの時5万程度だったと見られています。これに金国その他の徴募兵2万程度に工兵及び補給部隊が続きます。
スブタイの見立てではこの遠征計画は18年を見込んでいましたし、途中で徴兵を行って兵を補充し訓練するのはモンゴルの得意とするところですから最終目的地であるヨーロッパに到達するまでには強大化できると読んでいたのでしょう。ここらあたりの判断は、実際に先の遠征で東ヨーロッパの一部に入っている将兵もいますし隊商や聖職者などから情報も得ていたと思われます。とにかく、現在の感覚で合計10万程度の軍では少ないと思うかもしれませんが、13世紀当時のヨーロッパでこれに対抗できる軍を起こせる国はほとんどありませんでした。

バトゥ_ヨーロッパ01
(1237~40年頃のモンゴルの進路)

さて、中央アジアの北部に広がる草原地帯を長駆した騎馬軍団はいったんジュチ家の本拠もあるアラル海北部で休息した後で再びロシアへと向かい、その後は翼を広げるように軍を散開させ東ヨーロッパに襲い掛かります。
まず餌食となったのは、ロシアの北東部、ブルガールからヴォルガ川に掛かる草原地帯の諸部族でした。1237年の春シーズンまでには大体この地域の平定を終え、現地で徴兵を行って訓練を施すなどして自軍に組み入れたモンゴルの狼たちが次に狙うのは、当時ルーシと呼ばれていたロシア北部の諸公国、そして以前は南部で最大の勢力を誇っていたキエフ大公国でした。
北部のウラジミール公国などを征服したモンゴル軍は、途中ノブゴロド付近で湿地帯にはまるなどして結構苦労するのですが、その後はロシアの穀倉地帯で準備を整えて最初の目標であるキエフ大公国へと軍を南下させます。
この時ここ一帯にいた各部族は徴兵と略奪を恐れて西へと逃げるのですが、この中でも大所帯だったコマン族のうち約4万人はハンガリー方面へ無事逃げ込んだのでした。しかしこれが後にモンゴルとハンガリーの間の大問題となります。

ところで、キエフはこの当時には衰退しつつあったのですが、それでも南は黒海北岸から北は現在のキエフ一帯と、ほぼ現在のウクライナに相当する広い地域を治めていた大国でした。
南下したモンゴル軍は1239~40年に掛けてこのキエフ大公国に襲い掛かり、キエフ公ミハイルが早々にハンガリーへ逃げてしまった事もあってか、当時のロシア最大の都市だったキエフをあっさり攻略してしまいます。こうして黒海沿岸から東はモンゴルの勢力圏下に入り、東ヨーロッパの防波堤は激流をまともに受ける状態となってしまったのですね。

しかしまだ、ここまで事態が進んでいるにもかかわらず、この恐るべき集団の脅威についてちゃんと把握している西ヨーロッパの指導者層は全くいない状況でした。それどころか東ヨーロッパでさえ、事前に察知して防衛の準備に掛かっていたのはハンガリーのベーラ4世くらいで、ポーランドの諸公国などは防衛どころか住民への布告すら行っていない状態だったのです。
実際、この時のキリスト教世界は教皇をはじめとした聖職者と皇帝その他の諸侯との争いなど、自分たちの置かれた環境全体から見ればどうでもいいレベルの事に終始していたのですね。
そして1241年、東ヨーロッパに台風か洪水かとも思えるようなモンゴル軍の嵐が吹き荒れます。ヨーロッパ人にとっては希望が絶望に変わる忘れようのない年になってしまうのでした。


つづく。

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  1. 2007/07/24(火) 06:08:11|
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蒼き狼の末裔たち その6

その頃のヨーロッパは・・・

モンゴルがバトゥを総司令官として征西軍を起こした1230~1240年代、今回は攻撃を受ける立場になった当時のヨーロッパ世界がどんな情勢だったかをさらっと見てみます。
それにしてもモンゴルを記述する場合の厄介な所は、スケール大きく世界を跨いだ動きをしているために地域的な話を書いてると全体を見失う恐れがある点で、中央アジアの情勢ばっかり書いてるとバランス取れないのですね。特に全集のようなシリーズ物の歴史資料なんかだと地域ベースで書くことが多いので、東アジア・中央アジア・中近東・ヨーロッパ全てに関わるモンゴルのような国はそれぞれ断片的なまとめ方になりがちになってしまいます。
と言うことで、次回からいよいよヨーロッパに攻め込むモンゴルを書く前に、バトゥが進入した1240年を目印にして一応ヨーロッパ各国の情勢を列記してみますね。では西から東へさらっとどうぞ。

①イベリア半島
まず南東部のカタルーニャ方面ではバルセロナ伯とアラゴン王国が12世紀末に連合して西へ勢力を伸ばし、この時代にバイアレス諸島やバレンシアなどをイスラム勢力から奪回します。
そして中央部もイスラム系のムワッヒド朝に対抗してレコンキスタが起こっている最中で、再統一したカスティーリャ王国、北部にはナヴァール王国、そして西にポルトガル、南西部は未だにイスラムのグラナダ王国ががんばっているなどまだまだ分裂状態。アラゴンはその後シチリアを領有するなど事件や婚姻絡みの連合などで王権が結構ふらふらしますが、枠組み自体は大航海時代の直前までほぼ大きな変動無く続きます。

②フランス
1240年当時のフランスは聖王ルイ9世の時代。(DOL的には鎧もらえるあの人です)
12歳で王権を引き継いだためか諸侯の分裂が激しかったものの、1235年までにはブーローニュ・シャンパーニュなど反対勢力をほぼ鎮圧します。残る国内勢力は未だに大陸領地を持つイングランドのヘンリー3世との関係ですが、たびたび起こる抗争を鎮圧する事で最終的に条約を結ぶ所までもって行きます。理想の君主とされるルイですが、国内外の問題をほぼ解決した後は1248・1270年と2回に渡る十字軍を行うもののこれは失敗に。フランス全体としてはまだまだカペー家の王権が届いていない事もあり、十字軍のような特別な場合を除き直接動員できる兵力も限られていました。

③イングランド
ヘンリー3世の時代。伯父の獅子心王リチャード、父ジョン欠地王と続いたフランスとの抗争を引き継いで度々フランス西部へ侵攻しますが失敗が続き、最終的にノルマンディやアンジューと言った一族の出身地を放棄する代わりにガスコーニュ地方を臣下として領有するという外交決着になってしまいます。その後国内諸侯との問題や他国の王位継承問題などに首を突っ込んだりなどで財政面や諸侯との関係を悪化させたりと、ちょっとこの頃のイングランドは混迷の時代と言うべきでしょうか。

④ドイツ・イタリア
1240年当時の神聖ローマ帝国の皇帝はホーエンシュタウフェン家のフリードリッヒ2世。
フリードリッヒの母はシチリア王国の王女コンスタンスで、彼自身も跡を継いでわずか3歳でシチリア王となり、そこで成長し、後に神聖ローマ皇帝となります。また、幼くして王位についた彼の後見人になっていたのは歴代教皇中でも傑物に数えられるイノケンティウス3世で、この両人については別のところでまた登場してきます。
一方、この頃の神聖ローマ帝国はイタリア政策とドイツの国内の両方に問題を抱え、更に皇帝と教皇の争いも絡んで統制力が落ちていました。ドイツ国内では前世紀から諸侯の権力伸張が強く、特にザクセンやバイエルンを領有していたヴェルフ家は王権にまで介入するようになっていました。そして厄介なことに更にここにイングランドやフランス王まで介入してくるようになります。ヴェルフ家はイングランドと、フリードリッヒのホーエンシュタウフェン家はフランスの支持を取り付けるなど抗争は激化していて、1215年にはヴェルフ家を破ってその力を衰えさせることには成功するのですが、結局フリードリッヒの代ではドイツ国内の問題は諸侯に大きく譲歩してイタリアに専念したため、その後もドイツでは英仏のような強い王権が育ちにくい状況でした。

⑤ポーランド
1240年当時のポーランド王家は少し前の代で分割相続していたため分立状態で、一応王位はローマ教皇の支持を得ていたヘンリク2世が就いていました。モンゴルが進入したときもこんな情勢でしたからまともに全軍を集める事も対応する事も出来ませんでしたが、本来ポーランドはまとまりさえすれば東ヨーロッパでもかなりの大国となる素地はあり、実際14世紀以降にはリトアニアと連合した事もあってヨーロッパ最大規模の強国となっています。

⑥ドイツ騎士団領
ポーランドの北部、ケーニヒスベルクなどを中心に認められた騎士団領です。
この中ではまだ小さい勢力ですが戦役の当事者としてあげました。
もともと十字軍に参加したドイツ人たちの受け入れと言うか互助会的に成立し、その後トランシルヴァニア方面の防衛などに当たっていましたが追放され、更にポーランドに招かれてようやく定着します。その後、1226年には領有と法的なお墨付きを与えられた事もあってプロイセンの地へ進出して行き、農民の入植も奨励されて次第に侮れない勢力となっていきます。
また、1237年にはリガのリヴォニア騎士団も吸収合併してラトビア・リトアニア方面へも勢力を伸ばしていました。ところで、12世紀末にドイツ騎士団を公認したのはローマ教皇イノケンティウス3世であり、領有を認める勅書を出したのが神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世と、ドイツの項で前出した2人だったのですね。

⑦ハンガリー
1240年当時のハンガリー王はベーラ4世。
かなり優れた資質を持った人物として若い時から嘱望されていたと言います。
ですが即位して5年でモンゴルの襲来を受けたのはちょっと気の毒と言うしかない。。。
あんまりイメージ無いかもですが、マジャール人の国ハンガリーはヨーロッパ最強クラスの騎兵の国です。東の草原地帯にいた遊牧民が移動してきてここに定着したのがルーツですから、子供の頃から馬には接していたのでしょう。ほぼ上流階級しか馬に乗る訓練をする機会の無かった西ヨーロッパ諸国の騎兵とは層の厚さも質も違うのは当然です。外敵に備えて諸豪族の統合さえできればヨーロッパで唯一モンゴルに対抗しうる存在だったのはここハンガリーだったでしょう。実際、モンゴルの名将スブタイも総司令官バトゥも最大の敵はハンガリーと見ていて、主力をここに振り向けています。

⑧東ローマ帝国
実は忘れていた事なのですが、この時代の東ローマは激変期にありました。
前出の教皇イノケンティウス3世の時代に起きた1204年の第4回十字軍はなぜか横に曲がってコンスタンティノープルを攻略してラテン帝国が成立し、首都を奪われた東ローマ帝国は小アジアに逃れ、ニカイア帝国を建てています。東ローマがコンスタンティノープルを奪還するのは1260年代になってからのことですから、1240年当時はトルコの地方政権として耐えているといった状況でしょうか。幸い隣接するセルジューク朝が滅亡間近と言うくらいに弱体化していて、しかもまだモンゴルもここまで来てなかったから安全だっただけなのかも知れませんが・・。
※この辺の状況を前2回の地図ではすっかり抜け落ちてますので、次回以降に修正します。


ざっと思いつくままに書いたのでちょっと違うかもですが、これを踏まえて次回からはヨーロッパに侵入したモンゴルの動きを追ってみます。それにしてもこのシリーズ、どう考えても大航海ブログとしてはマニアックすぎますね、やっとDOL世界でも近い地域が対象となってきますので多少はイメージ涌いてくるでしょうか^^

おしまい。

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蒼き狼の末裔たち その5

西に行った蒼き狼たち-4

前回はチンギスの西征で中東から東ヨーロッパの入り口まで席巻した武将たちを見ました。
この時の遠征は、右翼軍を担当していたチンギスの長子ジュチの早世と、先に帰国して1227年に西夏の攻略中だったチンギスが死去することで、残留していた将たちも一時撤収する事となります。ですが、もちろん終わったわけではありません。

その後、跡を継いでモンゴルの大ハーンとなったのは3男のオゴデイでした。
オゴデイは比較的に温厚な性格だったようで親族・部将らの信望も厚く、厳格な兄チャガタイとも仲が良かったと伝えられています。(一方で酒色も同時に好む辺りは大人物っぽいですね)
さて、チンギスの息子たちへの相続自体はというと、先に死んだ長子ジュチ家にはカスピ海北部の草原地帯が(後のキプチャク・ハン国)、次男のチャガタイにはかつてのカラ・キタイとホラズムが支配していた中央アジアの肥沃なオアシス地帯が(後のチャガタイ・ハン国)、三男のオゴタイにはかつてのナイマン部族が支配していたアルタイ山脈近辺の草原地帯が与えられます。そして、本拠地であるモンゴル高原はというと、モンゴル族が末子相続を習慣としていた事もあり末弟のトゥルイに与えられます。(大まかには別図参照)
ちょっとここでまた地図を。

バトゥ05c
(1234~36年頃のユーラシア大陸です。)
これ見るときれいに遠い所から長男・次男・三男・末弟と相続されているのが分かりますね。
→※サイズ他色々変更・あと海の色付けて修正しました。


(金国滅亡)
大ハーンとしてのオゴデイによるモンゴル全体の最初の目標方針はというと金国遠征でした。
対金国戦では、相手にもわずか数百騎で数千人のモンゴル軍を破った完顔陳和尚などの名将もいて実際にはかなりの時間と被害が出たものの、外交交渉で南宋の援軍を取り付け、最終的に金の首都開封を包囲しなんとか落とすことに成功します。
ところで、この首都攻防戦の時のモンゴル軍ですが、これに備えて金国が開発したある新兵器による攻撃を受けたのではないかと言われています。
『巨大な臼砲が天を走る雷のように咆哮した』
記録によれば、城壁を前にしたモンゴル軍が壊滅の危機にすら瀕したとされるこの兵器、
恐らく中国で開発され、その後14~15世紀に中東経由で東ヨーロッパへ伝わった大砲の事ではないでしょうか。そして騎馬民族であるモンゴル軍がなぜか意外に攻城戦に長けているのは、『町=城壁を持った要塞都市』であるこうした中国への遠征を経験して技術や兵器を吸収しているからではないのかとも思えますね。

こうして1234年に金国を滅ぼしたオゴデイは、次の戦略を図るべくクリルタイを召集します。
そしてこの1235年に開かれたクリルタイこそが、モンゴルだけでなく16世紀まで影響を及ぼすユーラシア大陸史上でもかなり重要な決定がなされた場となったのでした。


(大征西軍)
大クリルタイで決議された最も重要な案件、それは、
チンギスの死去によって途中になっていたユーラシア大陸西部への侵攻計画だったのでした。
クリルタイの席上では、実際に先鋒として西域へ攻め込んだ名将スブタイが計画の可能性が高いことを熱弁し、更にチンギスに見出された耶律楚材がかなり重要な発言をしたとされています。
ところでこの時のクリルタイが非常に重要と言うのは、単純に西へ攻め込む計画だけでなく、
その後のモンゴル帝国の統治全般についてもかなり綿密に取り決めを行ったからなのですが、一方で壮大と言うかなんと言うか、この時の計画では東ヨーロッパの各国だけでなく、どうやら西ヨーロッパの一部も視野に入っていたらしいのですね。(行けるところまで行く、だと最終的に大西洋に出ちゃいますがw)

そして遠征軍の陣容、これはもうモンゴルの本気度が伺えるものとなっていたのでした。
『各王家・親族家・有力貴族は長男を出兵させよ!』 
簡単に書くとこうなります。
実際、本家であるチンギスの息子たちは、この戦いに跡継ぎとなる者を立てて送り出します。

ジュチ家   →長男オルダと次男バトゥ (他にも王子数名)
チャガタイ家 →チャガタイの嫡孫ブリー  (更に叔父でチャガタイの子バイダルが参戦)
オゴデイ家 →長男グユク
トゥルイ家   →長男モンケ
補佐:『四狗』スブタイ・『四駿』ボオルチュの跡継ぎボロルタイなど

そして全軍の総司令官には、この地域と隣接するカスピ海北部の『ジュチ・ウルス』を領有するジュチ家から、武勇に優れ実質的なジュチ家の後継者である次男バトゥが選ばれます。
(兄のオルダは病弱だったらしく、母が高い地位出身でもあったバトゥがジュチ家を差配した)
こうして1236年には遠征軍が編成され、まずジュチ家の本拠地のカスピ海北部へ出発します。
各王家・親族・有力部将だけでなく中級以下の家もこぞって跡継ぎとなる者を参陣させた事もあり、この遠征軍は人数以上に装備・兵の質ともに当時のモンゴルの最精鋭が送られたのでした。

※かなり長くなったので続きは次回に。



おしまい。

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バルト海の海戦!そして・・

こりゃいい勝負だわ!

イスパニア視点では久しぶりにポルトガルとの戦いとなった今回の大海戦。
お互い盟友関係な為か、殺伐としたものが薄い・・・・んなこたないですね、
確かにお祭りっぽい感じはあるものの、
純粋に戦いを楽しもうと言う姿勢なのか結構遠慮なくやってたみたいですから。
(ボスニア湾の一番奥まで追いかけ回されたりとかありましたが、さすがにお互い遊びすぎww)
しかし実際問題としても当事者なネーデル艦隊もかなり出張っていて、小中型ではバルト海は完全に数的劣勢だったのもちょっと印象的でした。おかげでNPC狙いな船窓艦隊は間隙を縫って敵を探す感じが結構面白かったり^^
(たとえ涌きポイント見つけてもあまり定着できないからスコアは伸びませんが)

そんな中、大型戦の最後数分と言う段階で見つけた相手がこれ。

0714-02

じょ、じょあん。 

0714-03
『ここであったが百年目!』 
と勘違いしまくりなカタリーナではありませんが、ここは逃がしませんw

room2:ハミルカル・バルカ>じょあんふぇれろ!!!!
ジョアン・フェレロと交戦に入ります!
room2:ガブ○エル>じょあんんん
room2:ティナ○ーザ>ジョアンwwww
room2:ガブリ○ル>はあはあ
ジョアン・フェレロが弾道学スキルを発動しました
ジョアン・フェレロが速射スキルを発動しました
ジョアン・フェレロの船に浸水を起こさせました!
敵船ガレオンBを撃沈しました!
ガレオンBの船が航行不能になりました!

0714-01

敵船ジョアン・フェレロを撃沈しました!

ジョアン・フェレロの船が航行不能になりました!
ジョアン・フェレロに勝利しました!
戦闘名声を37獲得
room2:ハミルカル・バルカ>最後にフェレロ倒してちょっと満足w
room2:ガ○リエル>うんうん


相手はポルトガル王女を母に持つ公爵家の御曹司。
冒険者のくせに先日までリスボンの某提督室に引き篭もっていた彼は生意気にもガレオンに乗っていました。などと書くとポルトガル人が聞いたらやたら怒られそうですが、数日前まであんだけ引きずり回されていたらちょっと溜飲が下がると言うものです、ハイ。
まあ、なんだかんだでネーデル&ポルトガルのみなさん、明日もお手柔らかにね^^


おしまい。

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 おしてねー♪
  1. 2007/07/15(日) 07:54:44|
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蒼き狼の末裔たち その4

西に行った蒼き狼たち-3

さて、プレステ・ジョアンのイベントを機会にモンゴルについて記述していたらいつの間にかもう4回目。イベント自体はひっそりと終了していますが、このシリーズはのんびり書いてる関係でここら辺からが本番かも。そう、いよいよDOL世界に関係する地域の話となってきます。
ところで、ふだんは門外漢なジャンルのことを書いてるため、自宅にある資料はもちろん書店などでもモンゴル関係や中東の資料をあちこち当たるのですが、家の奥から資料引っ張り出したついでに『蒼き狼と白き雌鹿Ⅳ』も出てきちゃいまして(しかもパワーアップキット付で)、もう遊びたくなっちゃって困る困るw
個人的にはあれ、コーエー作品の中でもベスト5に入る名作と評価しているもので・・。
どうも脱線気味なのでそろそろ本編へ~。


(大遠征)
1218年にホラズム・シャー朝へのモンゴルの使節が襲われたことを機に両国の関係は一気に緊張化し、チンギス・ハーン以下の主だった将兵は直ちに準備に掛かります。後に元朝秘史で『四狗』・『四駿』と言われた主な将帥たちも、金国遠征の司令官だった『四駿』の名将ムカリを残したものの、まだ健在だったジェベ・スブタイ・クビライやボオルチュも参戦するなど、金国への遠征軍を除くほぼモンゴルの全軍が投入されます。特にジェベとスブタイの両将軍は、結局ホラズムどころか遠くヨーロッパにまで侵攻する事になるのですが、この時点では誰もそこまでは予想していなかったでしょう。

※さすがにスケールがでかくなってきたので地図を作ってみました。
色々違う部分もあるでしょうが、白地図から書き込んだ部分は自作なんでお許しを^^);
モンゴル勢力図01
(13世紀初頭のユーラシア大陸)

こうして1219年、早くもモンゴル軍はアジアの果てまで続く西への大遠征を敢行します。
この時当然ながら以前から西部・北部方面の平定を担当していた長子ジュチも主力として期待され、右翼の司令官として参加したのでした。しかも彼が最初の目標としたのは、戦役の発端となったオトラルの攻略だったのです。ですがまあ、既にモンゴルでも有数の武将に育っていたジュチは弟らと共にあっさりここを攻略します。その後ジェベ・スブタイらモンゴル軍の将兵も更に軍を進め、多少手こずったり揉めた場面もあったようですがサマルカンド・ブハラ・更にウルゲンチといったこの地方の最重要都市をも次々落として、なんとホラズムは2年足らずでほぼ壊滅してしまいます。

それにしても、壊滅したホラズムとて決して弱い国だったとは思えません。
それどころか周辺との比較で言えば、1210~20年当時のホラズムは中央アジアから中東にかけては最も勢いのあった国でしょう。その興隆期の、しかもそれなりに英明な君主が治める国をわずか2・3年で壊滅させてしまったモンゴルの破壊力は、ちょっと歴史上ほかに類を見ないものだったかもしれません。また、『ホラズムの急速な瓦解は君主ムハンマドが無能だったから』とか書かれる事があるのですが、彼の時代に東ではゴール朝を攻略してアフガニスタン方面を支配下にし、西はアッバース朝を侵略してイランどころかカフカス方面まで勢力を伸ばし、更に北はカラ・キタイを圧迫してホラズムの勢力を最大版図まで拡げているのですから、これはちょっと疑問です。

(諦めの悪いホラズムの息子)
ところで、対ホラズム戦はまだ終わっていなかったのです。
この時のホラズムのスルタンだったムハンマドは主要都市が落とされても西へと逃げに逃げて、んでもって最後はカスピ海の海上まで逃げてそこで病死するのですが、彼には更に輪をかけて諦めの悪い息子が居たのですねw
この息子の名はジャラール・ウッディーン。(長いので以下ジャラールで記述)
彼は後を継いでホラズムの第8代スルタンとなると、勢力下に置いていたアフガニスタン方面まで逃げてそこで兵を集め、追討してきたモンゴル軍の先遣隊を迎え撃ってこれを破ります。
これを聞いたチンギス・ハーンは自ら本軍を率いてアフガンへ侵攻し、ジャラールの軍を次々と破って遂に彼をインダス川まで追い詰めます。ここで決戦を挑んだジャラールですが衆寡敵せず敗北し、遂にジャラールも最後のときを・・・迎えません。
だって諦めの悪い男ですからw
ここでジャラールはなんと残った側近と共に騎馬で濁流渦巻くインダス川に乗り入れ、
流されながらも渡り切ってインドへ逃げ延びたのでした。
元来勇気あるものには敵でも敬意を払う草原の民モンゴル人たちですから、この時のジャラールが見せたあまりの見事な逃げっぷりに感嘆したチンギス・ハーンが彼を褒めた話は結構有名ですよね。その後、ジャラールはインドからイラン方面へ渡り、再度そこで兵を挙げ、またしても撃破されて→逃げて→再起・・・を繰り返し、どんどん西へ逃げては再起してを続けてゆきます。最終的にジャラールはイランからカフカス地方を経由してトルコまで逃げ、残念ながらそこで命を落とすのですが、モンゴル相手にそこまで戦い続けた男はちょっといません。
普通なら降伏せずに抵抗するものは最初の一撃でほぼやられるのですからねえ・・・。

(西へ西へ)
さて、思いのほかに時間をとられたモンゴル軍ですが、ここで再編成を行います。
まず、ムハンマドとジャラールを追っていたジェベとスブタイの両将軍が率いる左翼軍。
サマルカンド→イラン→イラク→カフカス南部と来て、ここで遂に黒海とカスピ海の間を東西に伸びるカフカス(コーカサス)山脈を越えて、黒海の北側にあるキエフ大公国領へ侵入します。そしてここはもう東ヨーロッパの一角と呼ぶべき地方になる訳ですが、迎え撃ったキエフ始めルーシの諸侯軍と平原地帯で激突し、これを破ります。更に西へと進路をとって東ヨーロッパの中央部まで迫った事もあり、当初イスラムを破って進軍する東方のキリスト教国かと期待していたヨーロッパ諸国を恐怖の底に叩き込みます。
そしてチンギスの長子ジュチらの右翼軍。
ホラズム諸都市の攻略後に、今のカザフスタンに当たるバルハシ湖~アラル海~カスピ海の北側へと広がる中央アジアの草原地帯を『切り取り次第に』与えられたこともあって、ジュチの軍は北西方面へと進みます。そして瞬く間に広大な草原地帯を制覇して行き、後にキプチャク・ハン国の土台となるカスピ海北部を支配下に置くことに成功します。最終的にはこれもヨーロッパ圏のルーシ諸侯国へとぶつかるのですが、ここでジュチの身に重大な問題が発生します。

(発病)
若くして父チンギスのもとで経験を積み、いつしかモンゴル屈指の武将に成長して一軍を任されていたジュチですが、中央アジア西部への遠征途上で発病し、実質動けなくなってしまいます。その後、帰還を命じても従わなかったと誤解?した父チンギスは怒り、反逆を疑われて追討軍を起こされる手前まで行ったようで、そこにはジュチの微妙な出生の経緯も影響していたのかもしれません。
そして残念ながら反逆でも何でもなく、この騒動は遠く西域から知らされたジュチ急死の報をもって沈静化します。長男が自分より先に死んだことを知ったチンギスの落胆ぶりは想像する他ありませんが。


幸いと言うか、早世したジュチのもとには跡を継ぐべき息子たちが育っていました。
ジュチのもとには諸子も入れて数十人の子がいたとされており、
しかも中には偉大な父にも劣らないモンゴル史上でも屈指の武将がいたのです。
ヨーロッパ史から見れば全然ちがう視点なのでしょうが・・・。



おしまい。

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  1. 2007/07/11(水) 22:17:39|
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蒼き狼の末裔たち その3

西に行った蒼き狼たち-2

今回こそジュチ家について書き出そうと思っていたら、まだ全然そこまで行きませんでした。
こうなったらモンゴルは前段部分も面白いので、土台としてそれなりの密度で見てみます。

(モンゴル統一)
12世紀末のモンゴル高原、かつては同盟者だった他の有力者を倒してモンゴル中・東部を制圧したテムジンの残る相手は、北西部にいたナイマン族と、北部の森林地帯に逃げた仇敵メルキトくらいでした。中でもナイマン族はモンゴル高原では異色のトルコ系民族と見られ、モンゴル高原とシベリア・カザフスタン・ウイグルとの境に当たるアルタイ山脈のふもとに割拠していたモンゴルでも最大規模の遊牧民でした。
この頃のナイマンの族長ダヤン・ハーンは西方でも知られた存在だったようですが、このモンゴル統一を賭けた戦いでまだ若年のジュチもすばらしい働きを見せ、戦役後には制定されたモンゴルの戦略単位である千戸長の4個分に当たる所領を贈られます。そしてこの時、所領の分配とともに兄弟で引き続き北方及び西方への平定を命じられたことから、ジュチ家を始め蒼き狼の血を継いだ息子たちの西への戦いが始まります。

(外征へ)
1206年、モンゴル高原の諸部族を統一し、テムジンは大ハーンに推戴されてチンギス・ハーンと呼ばれます。そして1208年、いよいよ外に向かって軍を進めようとするモンゴルの最初の外征となったバイカル湖方面、北部の森林地帯への指揮官にはジュチが選ばれました。ジュチはこの時初めて総指揮官として数万の軍を率い、出兵から一年も掛からずにモンゴルの北から西に広がる森林地帯を平定して凱旋します。ジュチは当時まだ21~22歳だったと言いますから、慣れた草原の戦いとは違う散発的な森林地帯の戦いを緻密に平定し・住民を帰順させてゆく手腕は若年にしてはなかなかのものだったのでしょう。
その後、チンギスは隣接する西夏国を攻撃し、更に1211年には中国北部にあった金国への遠征を開始します。そして西ではかつてのナイマン族の息子クチュルクが逃げていたアルタイ山脈の西にあったカラ・キタイ国=西遼を攻撃してこれを滅ぼします。

この結果、だいたい1218年までにはモンゴルの版図は東は中国の北西部、西はカザフスタンの東側まで達し、そして遂に南はイラン高原~中央アジアに割拠するホラズム・シャー朝と接する所まで広がっていたのです。そう、同じく興隆期を迎えて領土を拡大していたホラズムと・・・。
こうして13世紀序盤の中央アジア情勢は、周辺勢力を駆逐して東西へと勢力を急拡大させていたモンゴルと、同じく旧勢力を倒して南北へ進出しつつあったホラズム・シャー朝とが、カスピ海の東に広がる肥沃な地帯で遂にその境を接するという、結構面白い展開となっていたのでした。

(事件)
話は前後しますが、チンギスがまだ金国の遠征中だった1216年にホラズムからチンギスの元に使節が送られ、その後和平と通商の提案が成されてお互い友好的に行こうという話になります。
ところが1218年、チンギスが派遣したホラズムへの通商使節が、途中でホラズムのオトラルという国境付近の太守に襲われて殺されるという事件が起こります。一旦は抗議の使者を送ったモンゴル側ですが、この使者も途中で殺されたり侮辱を受けるなどして帰ってきます。
当然ながらこれに激怒したチンギスは、直ちに大遠征軍を編成して報復に出たのでした。
この時、遠征軍の先鋒を命じたジュチに対して、井上靖は父チンギスと長子ジュチとの会話をこう表現しています。

『若きモンゴルの狼よ、、
 汝は余が狼でなくなったとでも言うのか。ホラズムと事を構える時は、
 先鋒の栄を汝に与えよう。余の本隊が汝の屍の上を越えて進軍するために』

ふつう、当初は友好的だったはずの両者の衝突は、欲に駆られたオトラル太守による偶発的な出来事の結果と見る書き方は多いのですが、私は歴史の必然としては両者が中央アジアの覇権を争うのはある種自然な流れだったのかもしれないなぁとも見ています。草原の民に英雄が現れるとちょっと止まらない勢いが付いちゃうのはその後の歴史でも証明していますし。


※さて、前置きで既に3000字以上も費やしてしまいましたが、次回からはいよいよ始まったモンゴルの西域戦について見てみます。ここらでちょっと地図とか表を入れないと自分でも話がわかんなくなってきそうな気配が・・。


おしまい。

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  1. 2007/07/09(月) 07:03:37|
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蒼き狼の末裔たち その2

西に行った蒼き狼たち-1

この記事を書くに当たっては、子供のころに繰り返し読んだ故・井上靖先生の『蒼き狼』・『敦煌』・『楼蘭』あたりの世界観がベースになっています。最近ふと思いついて探していたらまだ手元にあり、もう一度パラパラめくっていたらついつい読み込んでしまって・・・、といった事があり、これはちょっと自分の中での整理も兼ねて記事書こうと思った次第です。
それから、先生の影響を受けている前提での今回の記事、設定や描写などで史実でない部分もあります事を予めお伝えしておきます。まあ話半分で読んで下さいな。

ところで、現時点の大航海世界に中央アジアの話が関係あるのかというと微妙なのですが、
アジア全域はもとよりヨーロッパやイスラム世界にも影響を与えた大帝国の事ですからいつか書こうとも思っていた分野でした。それに将来内陸が実装とかあればと・・・。
まあそんなこんなでモンゴル帝国編、先日のイル・ハン国に続く2回目は、
西に行ってヨーロッパ世界に大きな影響を与えた長男一家のお話でも書き始めてみます。



上天より命ありて生まれたる蒼き狼ありき。
その妻なる惨白き牝鹿ありき。
大いなる湖を渡りて来ぬ。
オノン河の源なるブルカン岳に営盤して生まれたるバタチカンありき。
(元朝秘史より)

  ※伝承ではこの最後に出てくるバタチカンというのが全モンゴル族の始祖とされる。


【武門のジュチ家】
①ジュチ (父テムジン・母ボルテ)
ジュチは後にチンギス・ハーンとなるテムジン一家の長男です。
このジュチの出生の際にはある事件が発生し、後々まで影響を及ぼすことになります。
まず、母ボルテはモンゴル高原でも中国に近い裕福な氏族の出身でした。
テムジンとは子供の頃に親同士で約束していたため、氏族の長だった父が死んでテムジン家が零落した時も約束を守ってテムジンの嫁となります。ところがまだ弱小勢力だったテムジンはある時敵の襲来を受け、その時に妻のボルテが連れ去られてしまいます。
テムジンは旧知の族長トオリル・カンとジャムカの支援を受けて1年後にボルテを奪還するのですが、その前後に生まれたのがジュチだったのでした。ここら辺は微妙なのですが、ジュチという名はモンゴルでは『客人』を意味することもあり、ジュチは後年までチンギスの子ではないという目で見られていて、周囲の厳しい教育を経て自然と本人も自立心旺盛な孤狼となって行きます。

年月が経ち、長じてジュチは勇猛にして冷静な名将に成長します。常に厳しすぎる課題というか任務を父から与えられても文句も言わずに黙々と挑み、常に父の期待以上の成果を挙げてゆきます。

『誰の子かというよりも、狼の子は狼であることは行動で示せばそれでいい、
 本当に狼の子ならばそのうち自然とそうなるのだから。』

実はテムジンの母はテムジンの父エスガイが別の部族から略奪した末に妻となった人で、その後まもなく生まれたテムジン自身も別の母親から生まれた兄弟たちからは他人と見られていた事があったのですね。そして自らの行動をもってモンゴルの男と誰もが認める存在に育って行ったのを重ね合わせて、長子ジュチには厳しすぎる任務を与えていたのかも知れません。


※タイトル通りにまだ西に行ってないのですが、長くなりそうなので続きは次回に。


おしまい。

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DOLの広報活動で・・

7/10付けの週刊アスキーに載っていたDOLの広告と記事。


DOL広告01

最初にこんな感じで1Pの広告が出ていたのは
チャプター3の直前でも出していた事ですから、
『ふむふむ、また頑張って新規獲得してね^^』  な感じだったのですが、

その後に載っていた 『真夏にハマる最新ゲームはコレだ!』 
という企画での紹介記事にどうも謎な1枚が。

DOL広告02

えーと、
・・・んとんと、あのさ、
こんなイベントありましたっけ?????

NPCが同行してくれるなんて、なんかすげー楽しそうなイベントに見えるんだけど・・・。

以前に他の取材とかで出ていたカットかも知れませんし、
この後で実現するのか知らんけど、コレ見てDOL始める人が数人でもいるなら、
現時点でこれはどうかと思うのは私だけカナ?
やー、3週目にほんとにこれあったらすごいうれしいんですけど・・どうなんだろ。


追記)
あとで探したら、どうやら上の絵は前に4GAMERの記事でも出てたようですね。

おしまい。

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  1. 2007/07/03(火) 21:07:38|
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蒼き狼の末裔たち その1

モンゴルとイスラムの激闘

皆さんやってますか? もう2週目・中盤に突入した例のライブイベント。
私は先週のメンテ前ぎりぎりに前編を消化するかどうかといった感じで、今日やっと朝から始めた中盤が終わりました。それにしても、なんだか今回も激しくマラソンイベントな様相が逆に笑えていいかも知れません。(もう2度とやらんけどw)
さて、Ⅱキャラの2人目は赤毛のあの人が! といった話はちょっと置いといて、
今回は 『あれこそプレステ・ジョアンの国に違いない!!』 な勝手な期待を持たされた面々を差し置いて、事実上最もそれらしい動きがあったある勢力について見てみたいと思います。

しかし、『東西から挟撃してイスラムを撃つ!』とは言っても、
なにしろ中近世におけるイスラム世界と言えば、ヨーロッパのキリスト教圏など比較にならない位に人口・財力・軍事力ともに世界最高水準の勢力であり、対抗しうる存在としては中華の帝国と中央アジアに時折現れる遊牧民族の統合国家くらいでした。ですから、そのイスラム国家を攻撃する、更に撃破する程の存在となると、自然と数えるほどしか居なかったのでしょう。
そういう点では、遠い西の果ての世界で期待をこめて噂になったのも分からなくもないです。


【西へ行った蒼き狼】  
1221年の第5回十字軍の際に、『東方からイスラム軍を撃破しつつ進軍するキリスト教国』
の報告がもたらされます。これに端を発した、このごく初期のプレステ・ジョアンの噂、
今では恐らくモンゴル軍の遠征を誤認したものと見られていますよね。
でもこれ、誤認ではありますが結果からすると当たらずとも遠からず位の事はありました。
まずチンギス・ハーンの遠征は確かに中央アジアのイスラム系国家を滅ぼすなどしてはいます。残念ながらと言うのか、この時の遠征はチンギスの死と、その後継者を決める大クリルタイを開くために為にいったん中断します。
(その後チンギスの長子ジュチの子であるバトゥ率いる軍がロシアからハンガリー・ポーランドといった東ヨーロッパへと攻め入りヨーロッパを恐怖と絶望に陥れるのですが、その方面の話はまた別の機会にでも書きたいと思います。)
今日の本題はここから。

チンギス・ハーンの孫に当たり、本国を相続したトゥルイ家にフラグという男がいました。
(史学家転職クエ『イル・ハン国の財宝』に出てくるあの人の事ですね。)
このフラグが兄で大ハーンのモンケの命により西方大総督任じられ、
1252年の7月に遠征軍を率いてイラン方面へ進撃を開始します。
そしてこの遠征軍は1258年にはバグダッドのアッバース朝に攻め込んでこれを滅ぼし、
そのままシリアへ進軍します。更にはアレッポ・ダマスクス等のシリアでも主要な都市を陥落させるなど、フラグのモンゴル軍は快調な進撃ぶりを見せたのでした。

ところがシリア攻略の前後で本国にいる兄で大ハーンのモンケが死亡との報が届いたため、
フラグの本隊は一部の将兵を残して撤収してしまいます。
結局、本国では他の後継候補の兄弟2人=フビライとアリクブカが争っていた為、
フラグは途中でイラン付近に留まり、この地でイル・ハン国を立てることになります。
ところでこのイルハン朝、当初から親族や後継者にネストリウス派のキリスト教に帰依していた者が少なくなく、この事から後に東ローマと連携する下敷きとなったとも見られていますね。

さて、フラグが引き上げた後に残ったシリア駐留のモンゴル軍ですが、
アンティオキア近辺にいたキリスト教軍と連携して新興のマムルーク朝軍と激突します。
しかもパレスチナ・ガリラヤ地方の丘陵地帯という、正に決戦の地と言うべき場所で。
ところが相手の司令官の一人には、後にサラディンと並び称される英傑がいました。
その将の名はバイバルス。
バイバルスらの包囲戦術により、流石にここでモンゴル軍の進軍は止まり、更に当初に獲得したアレッポ・ダマスクスといった主要都市も奪い返され、モンゴルはシリアを失います。
その後、1268年にバイバルスは第1回十字軍以来のキリスト教圏の橋頭堡だったアンティオキアの攻略に掛かり、わずか4日で陥落させ、アンティオキアは住民全てが虐殺又は捕虜となり、更に市街も完全に破壊されて滅亡します。


イスラム教国に対して同時期・同じ場所・同じ相手に攻撃に当たったという実績、
更にネストリウス派とは言え上層部までキリスト教への帰依者が少なくなかったイルハン国は、強引な見解ですが事実上のプレステ・ジョアンだったのかも知れませんね。
(認めたくは無いだろうけど・・)


(追記)
上のような事をあらかた原稿で書いていたら、
さっきやったイベントの中盤に同じような記述が出てきてちょっとびっくり・・・。


おしまい。

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