打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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草原の興亡 その15

李広と李陵 その1

今回は、農耕民族な漢では珍しい騎馬と弓に長けた一家のお話です。
この一家の片方の人物については本にもなっていますし、
史記の編者である司馬遷にとっても非常に大きな影響を及ぼした人物でもあります。
あまり漢側の人物ばかり取り上げるのは遊牧民を描きたい本シリーズの趣旨からはややそぐわない気もしますが、匈奴と漢の戦いを語る上では避けて通れないこの一家はこの後書く予定の人物と共にちょっと別格として記述してみます。まあ、書きたくなったものを優先して書いていたら、当初このシリーズを始めた頃の構成から多少ずれて来ていますので、中国史書の影響は仕方ないにしてもちょっとこの先修正掛けてはいきたいと思います。


(飛将軍・李広)
李広は隴西郡、つまり現在の甘粛省天水出身で、
紀元前170~160年代、文帝の時代から漢に出仕します。
李家はもともと秦に属し、戦国時代に李信という将軍を排出してからは秦でも武門の名家として知られる存在となっていました。特に李家のものは代々弓術に優れた才を示したとされ、この李広もまたその生涯で数々の弓術の逸話を残します。
それから、出身地の隴西といえばもう当時の漢の領土でもかなり西に位置する地域で、
西域諸国との交流も自然多かったでしょう。
騎乗が特殊技能だった古代では、騎馬の習慣に親しむ地域がそのまま優秀な騎兵の産地であったのは以前書いたとおりですね。李広が騎乗と騎射に長けていたのはそういう地域で武人の子として生まれたという環境も大きく影響していた気がします。

さて、最初は現地で仕官した李広は騎射に優れて見る間に頭角を現し、
その後文帝に見出されて武騎常侍、つまり側近を警護する騎兵となります。
更に景帝の時代でも順調に出世して驍騎都尉、
つまり近衛騎兵隊長というような職に任じられ、
呉楚七国の乱においては梁国に出向して功績を挙げます。

実際、優れた騎兵隊の指揮官としての李広の才能は光っていたのでしょう。
上谷の太守となって毎日のように匈奴と戦っていた李広を見て、
その才を知るある者は泣いて皇帝に訴えたといいます。

『李広の才気は天下無双です。いま彼は自らの力をたのんで匈奴と戦っていますが、
 これでは恐らく彼を無駄に死なせてしまうでしょう』

これを聞いた景帝は、李広を上谷から上郡の太守に移します。
その後、兵の訓練などをさせていたこの上郡にも少数の匈奴が進入してきます。
これを知った李広は100騎ほどを率いて追いかけた所、
その先で数千騎の匈奴兵に遭遇してしまったのでした。。
ところが李広は配下の騎兵が恐れて逃げ帰ろうとしたにもかかわらずこれを止め、
逆に

『進め』

と号令します。
そして、

『ここで逃げれば追いかけられて殺されてしまうだろうが、
 少数の兵がここに留まれば逆に囮と見るだろうから』

こういって更に下馬して鞍も外してしまったのでした。
これを見た匈奴兵は果たして攻撃をしてきませんでした。
更に、様子を見に来た白馬に乗った匈奴の指揮官を見つけた李広はおもむろに馬に乗って突撃し、この指揮官を射殺してからゆうゆうと元居た場所に戻ってきます。これを怪しんだ匈奴は背後に大軍が潜んでいると見たのか、遂にそこから撤退したと言います。

その後も隴西・北地・雁門・雲中など、
西から東まで匈奴との国境に近い各地の最前線での太守に次々と任じられ、
李広はいつしかその武勇機略に優れた指揮振りから、
『飛将軍』 と匈奴から恐れられる存在となって行きました。
後にこの異名は三国志でも最強の武将として扱われる呂布にも付けられる事になりますよね。
弓馬の技術と勇猛さはいい勝負でしょうが、まあ機略の点で李広には全然及ばない気がします。

そして武帝の時代、
衛尉に昇進した李広は馬邑の作戦に驍騎将軍として参加しますが、
匈奴の単于に作戦が見破られて功を立てられなかったのは前回見ましたね。
そして紀元前129年、匈奴の大軍に遭遇した李広は敗れて捕まってしまいます。
匈奴の単于は李広を非常に高く買っており、
捕虜として連行されそうになったのでした。
このとき李広は見張っていた少年から馬と子供用の弓を奪って逃走し、
追っ手をこの子供用の弓で射殺して帰還したといいます。
騎馬民族より優れた騎射の使い手、
匈奴の単于が高く評価していたのも頷ける逸話ですね。

帰還した李広は敗北の罪を問われて一時平民に落とされますが、
時代は彼を放って置きませんでした。
匈奴との戦争が激化する中、李広は郎中令・右北平太守に復帰します。

このように長年匈奴との戦いに参加し誰もが認める将となっていた李広ですが、
同僚や年少の指揮官のように侯となり領地を貰うような大功を立てる機会には恵まれず、
落胆する事も多かったといいます。
こうした中、時代は新たな局面に入りつつありました。
匈奴が徐々に劣勢となってゆく中で、漢に次世代の将が登場してきたのです。


紀元前119年、
武帝の寵姫となっていた衛子夫の弟で、
将軍として功績を挙げて大将軍となっていたのは衛青でした。
この衛青がその年の侵攻計画を立てた際、
既に老将となりつつあった李広はその陣容から外されそうになります。
これを聞いた李広は猛抗議し、前将軍(前衛軍の将)として参戦が許される事となります。
ところが実際のところ、衛青は李広を後詰めや迂回路の将に回してしまったのでした。
衛青は前漢でも屈指の名将ではありますが、この時はかつての同僚でいまだ功績を立てられなかったある将軍の為に陣容を変えたとも、既に老齢となった李広に最前線の指揮は無理と見たとも言われていますね。とにかくこの結果、李広は別の方面から匈奴侵攻するのですが、現地の不案内もあってこの年の戦いに大きく遅れてしまうと言う失態を演じてしまったのでした。

戦後、遅参の理由を咎めようとした衛青に対し、李広はこう答えます。

『私は元服してからこのかた、匈奴とは大小七十数回も戦い、今回は幸運にも大将軍に従って出撃し単于と兵を接する所ながら、大将軍が私の部署を移したため、道に迷って遅れてしまった。これが天命でなくてなんであろうか。またもう60歳を超え、何で今更小役人の詮議など受けなければならないのだ!』

こう叫んだ李広はそのまま自ら首を刎ねて自殺してしまいます。
これを伝え聞いた李広の将兵はもちろん、
民衆も長年匈奴と戦ってきた老将の悲運を嘆き老若男女の区別なく涙した、
史記はそう伝えます。

ところで、李広には当戸・椒・敢という三人の息子がいました。
長男の李当戸は武帝にも見込まれるほど有能な軍人でしたが幼い子を残して早世し、
次男の李椒もまた二人の子供を残して早世してしまいます。
三男の李敢は父に対する衛青の仕打ちを恨んで酒宴の際に衛青を殴り、
その後彼の一族によって殺されてしまいます。
こうして李広の死後、李家に残されたのは数人の孫たちでした。
このうち早世した長男の李当戸の遺児、
つまり李広の嫡孫の名は陵といいました。
そう、この遺児こそが、
後に司馬遷が弁護して宮刑を受ける原因となる李陵だったのです。


おしまい。

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  1. 2008/07/30(水) 12:48:31|
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勅命VSバイバルスのクエスト

いつの間にかこんなクエが


週末は新港発見とひたすら運河勅命やったあと、
いったんヨーロッパに戻っていました。
海事クエストが近くていいかと思ったもので主に大砲製作ですね。
この時点で運河勅命は冒険5種ともクリア。
んで大砲だのいろいろ準備してさぁまた勅命行くか!
ってところでリスボンにこんなクエが・・。

バイバルス01

ちょ、まってw
反射的に行き先はアレクサンドリアへ変更。

バイバルス02

こういう情報が4つ。
クエスト自体はけっこうあっさりめでしょうか。
昨秋に実装されたアイン・ジャールートの連作クエストの方が力はいってましたね。

バイバルス03

SS撮るタイミングが早すぎて透けてますね;
でもあれです、これは出来ればアイテム付きでお願いしたかった。
剣に比べて槍アイテムは遙かに少ないので貴重と思うんだが・・・。

その後は運河勅命を続けにカリブへ向かいました。
まあ、着く前にイスパ到達しちゃっててやや申し訳ないところ。
到達したのは今朝方になってたみたいですが、皆さんお疲れ様でした。
それにしても今回の2段階勅命、
私がやったの合計で19回でしたが多くの人がもっともっと頑張っていたと思います。
ホントお疲れ様。
さすがに合計到達度が30000以上とか遠いっすw


おしまい。

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  1. 2008/07/29(火) 07:31:51|
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草原の興亡 その14

馬邑の計略

馬邑の町は現在では北京の西南西450kmほどの所にある山西省朔州市で、
万里の長城のすぐ内側にあることからも、前漢の時代では最前線の町でした。
そして武帝が即位して数年が経った紀元前134年ごろ、
この馬邑の町を巡って匈奴と漢が大軍を集結させるという事態が勃発します。

ga_worldmap_1_2海加工_馬邑


当時、この馬邑の町の古老に聶壹(じょういつ)という人物がおりました。
聶壹は三国志の名将、張遼文遠の先祖に当たる人物で、張遼もまた馬邑の出身でした。
そして聶壹の一族が後に張姓を名乗らなければならなくなったのは、
実はこの事件が直接の原因となっていたのでした。

紀元前135年、
既に張騫を西域に派遣していた武帝ですが、対匈奴の戦略については他にも手が無いかと検討していた所、匈奴からの使者が来訪し和親の継続を確認しに来ます。
この件を群臣に議論させた武帝はこのとき、辺境に熟知していた王恢という者から次のような提案が出されます。この時の議論は重要な所なので史記の記述を要約して載せますね。

王恢:
『漢と匈奴が和親してもおおむね数年しか続かず、すぐまた約定に背いてしまいます。
 和親を許さずに兵を興してこれを撃つにこしたことはありません。』

一方、御史大夫の韓安国はこれに対してこう反論します。

韓安国:
『千里の遠方まで攻め入って戦うのでは我が軍に利がありません。いま匈奴は戦馬の脚力をたのみ、鳥が群を成して去来するようにあちこち移動するので制しがたい状況にあります。そんな状況でその土地や衆民を勢力下に入れても漢に利はありません。ですから大昔から匈奴を普通の民としては見ておらず、たとえ数千里も遠征してしまえば人馬とも疲れ切ってしまい、いっぽう匈奴は完全な状態で遠征軍を迎え撃つでしょう。強い石弓でも遠すぎれば薄い絹布を通す事もできないし、突風でもその終末の力では軽い羽毛すら動かすことは出来ません。匈奴を撃つことよりも和親するべきでしょう。』

この議論に参加した群臣は両者の意見を聞いて大多数が韓安国に賛同し、
武帝もこの時は和親案を採用します。
ところがその翌年、王恢から次のような報告がなされたのでした。

『馬邑の古老で匈奴とも和親を通じている聶壹という人物がこう申しています。「匈奴の単于は自分を信用しているから亡命したフリをして、馬邑の町を降伏させるように情報を流し、単于を馬邑まで誘い込みます。」、と。』

武帝の前で再び開かれた会議で王恢は、『遠くまで攻め込むのではなくおびき寄せる作戦だから確実に成功します』と発言して武帝を説き、これが採用されたのでした。
その後、予定通り匈奴の単于は10万騎以上を率いて国境線を突破し、
山西省に入り込んで馬邑を目指します。
当時の匈奴は冒頓単于・老上単于と続いて、更に軍臣単于の時代となっていました。

これに対して漢では30万以上を動員して伏兵したのでした。
この時の陣容は次の通り。
衛尉の李広が驍騎将軍、(騎兵)
太僕の公孫賀が軽車将軍、(戦車兵)
大行の王恢が将屯将軍、(歩兵?)
太中大夫の李息が材官将軍、(弓兵・騎射兵)
そして御史大夫の韓安国が護軍将軍として全軍の指揮を取ります。
※驍騎将軍の李広については重要人物ですので次回以降に紹介します。

さて、馬邑の北方近郊40km付近まで攻め込んだ匈奴の軍臣単于、
ここであることに気付きます。

『野に家畜は散見されるのに、牧人の姿が見えないのはなぜか?』

そこで馬邑ではなく先に近くの小さい砦を攻めます。
攻め落とした砦の尉史(指揮官)を捕らえて詰問すると、
尉史の自白から軍臣単于は漢が大軍を伏せている事を知ります。
単于は『私が尉史を捕らえたのは天命だ』と言って、
直ちに主力の兵を引き返したのでした。

それにしても、人ではなく家畜の異変に察知して危険を回避するあたり、
ここは流石に遊牧民の指導者らしい機転ですね。
そのいっぽうで人間は上手く隠しても家畜の事には無神経だった漢、
なかなか両者の対比が伺えて面白いかも。


ところでこの作戦当初において、
王恢は3万の別働隊を率いて匈奴の輜重隊を襲う役目を受けていました。
匈奴は主力を撤退させたとはいえ、
足の遅い荷物を抱えた輜重隊は遅れていたでしょう。
ところが王恢は『作戦は失敗し、匈奴の主力が引き返してきては不利だから』と、
追撃をせずにその場の判断で兵を引いてしまいます。

戦後、王恢は作戦が失敗した上将兵を損ねては、と弁明しますが、
武帝の怒りを買った王恢は処刑と判断されます。
ところが王恢は賄賂を漢の丞相に贈り、
太后(武帝の母)を通じて助命を図ったのでした。
『作戦を提案したのは王恢自身であり、
 失敗したからと言ってこれを処刑しては匈奴にとっての敵を討ってやるだけです』、と。

助命を願った太后に対し、武帝はこう言います。

『確かにこの作戦を提案したのは王恢自身です。そして私がその作戦を採用して、天下の兵30万以上を動員したのです。たとえ作戦が失敗して単于を捕らえることが出来なかったとしても、王恢の軍が匈奴の輜重隊を襲撃して戦果を上げればそれで少しは参加した将兵の心は慰められるでしょう。いま王恢を誅さねば天下に謝罪の意を表するすべがないのです』

これを伝え聞いた王恢は自殺します。
漢にとってはこの馬邑の事件はその後長い間、
恥として記憶されることとなったのでした。


こうして匈奴は漢の戦意を知り、和親は絶たれることとなります。
民間では多少の交易などは続けられたのですが、
時代はその後、漢と匈奴の全面戦争に突入してゆきます。



おしまい。

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  1. 2008/07/27(日) 10:24:48|
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到達へのカウントダウン

続けて勅命やってます。


2日目は5回やって終了。

4回目:海事
5回目:地理
6回目:財宝
7回目:宗教
8回目:地理

普通にやるなら地理クエ速いわこれ。
2隻動かしてるのでなんだかんだで貰えた勲記が100枚超えて来てます。
初日よりも更に参加者が増えてきており、ついでに海賊被害もちょこちょこ発生してる模様・・。
『このペースなら土曜日あたりに到達かなぁ』
と思っていたら、朝ちょっと達成状況確認して見たところ、

中南米西岸勅命0725

能登イスパでもう63%行ってます。
しかも14000→13500と微妙に減ってるw
初日:約+2300
2日目約+5000~5500くらい?
このペースだとひょっとして今夜中に届きそうな勢い!

まああれだ、
前回は到達間際に様子見というか自分のクエ達成を控えてる人々がたむろしてて面白かったけど、
今回は一回30分くらいで勅命ガンガンこなせますから気兼ねなく出来ますよ。
つうことで、週末は運河フェイズに入れるのかなと思われます。
銀行枠+10も大きいけど、早く西岸の港行って見たいですねー。


おしまい。

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  1. 2008/07/25(金) 07:31:05|
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CP4初日!

に備えて昨日はリオに行って待機落ち。

どういう勅命が来るか分からないので職業をどうするか迷いましたが、
とりあえず砲術家とかにしておきました。
冒険クエが比較的対応しやすいとは思ったけどまあ様子見です。
それにしても、南米は東南アジアと違ってヨーロッパまで近いのがいい。
しかもCP4実装で更に早くなったので、金交易とかは相当に使いやすくなりますね。

さて、リオで勅命。
初日夜、23:00の時点で能登イスパの達成度は1966/14000。
1時間に300~350くらい進んでますから初日は2300くらいで終了でしょうか。
まだ15%とかですね・・。
でも前回より進捗ペースが速いし参加者も遙かに多く、これは今週末あたりで到達しそう。
まあその位で終わってくれないと、その後また運河勅命あるからだれるんだけどw

1回目:☆4考古クエ 貢献記6枚
2回目:☆4宗教クエ 貢献記6枚
3回目:☆9海事クエ 貢献記18枚

3種類やってみた中では、☆9の海事クエが難易度の割にはやりやすかったですね。
重ガレオンといってもそれほど堅くないし、
撃って来るのが火炎弾なので砲撃も耐えられる。
移動を考えると先頭の1隻は高速船でも充分ですね。
到達度の伸びもいいし貢献記18枚ってのも嬉しい所。
無理なく出来る冒険クエだと、なんとなく地理か宗教でしょうか。
まあ冒険者の方だとついでに5種とも発見しておこうって思うかも。
で、特定のクエを回す場合は帰りにサンアントニオで牛を買っておき、
『牛の納入クエ』を挟んで次を請ける、そんな流れらしい。
今週何万頭の牛が取引されるんだろ・・・

とりあえず明日は冒険勅命の残りをやろうかなと思う。
んで終わったら海事勅命ガンガン進めたいなと。

おしまい。

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  1. 2008/07/23(水) 23:17:03|
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草原の興亡 その13


今からもう20年以上前に放送されたNHKのドキュメンタリー 『シルクロード』。
長安を出て西へ西へと取材を続け、
草原の道・砂漠の道、
更にパミール高原を越えてイランからバグダッドに至り、
コーカサスからイスタンブールと遂にアジアの終端まで紹介して、
最終回が『すべての道はローマに通ず』。
まだ冷戦時代の1980年代によくあれほどの質量の取材が出来たものだなと感心します。
そしてこの中でも特に印象に残っていたのが、天馬に関する取材の回。

『第1部第11集・天山北路~天馬のふるさと~』
『第2部第10集・はるかなる大宛~天馬を求めて~』

天山北路はタクラマカン砂漠の北にある天山山脈の北側を通る草原地帯のルートで、
かつて名馬の産する国として知られた烏孫国もここにありました。
そして大宛とは現在のウズベキスタンにあるフェルガナ地方のことであり、
天山山脈が切れて西に盆地となり、シルダリヤ川の上流地帯となっている地域で、
ここも名馬の産する土地として知られた場所でもあったのでした。

このシリーズを書くに当たって改めて見ると、
天山北路の取材時には故・司馬遼太郎先生も同行していましたね。
見返すと敦煌を取材した回には故・井上靖先生も足を運んでおり、
懐かしい顔が見れてつい資料確認という本来の目的を忘れたり・・。

さてこの大宛と烏孫、
ここに遙か2100年以上も前に漢帝国から派遣されて貴重な西域情報をもたらし、
出発から20年近く掛かって帰還した人物がいました。

その男の名は、張騫。

漢中の生まれといわれる張騫は、武帝がかつて匈奴に討たれた月氏との共同戦線を狙って派遣する者を募ると、これに応えて月氏への使者となります。ところが匈奴人を連れて出発した張騫は、匈奴の領内に入ったところで捕らえられ、単于の下に送られてしまいます。張騫はここでおよそ10数年もの間抑留されるのですが、見張りが緩やかになったところを見計らって脱出し、西の大宛国へ逃げ込む事ができたのでした。
この頃、大宛の王は漢が豊かな強国である事を聞き及んでいて、機会があれば通交したいと考えていたので、舞い込んできた張騫を喜んで迎えます。そして張騫が漢のために月氏へ使いしている事、案内をしてもらえれば必ず贈り物をして報いたいと聞くと、案内の者と通訳を付けて張騫を隣国の康居国(キルギス)まで送ってあげたのでした。
そして康居国では更に中継して張騫を大月氏の元へと送り届けます。
10数年を経てようやく目的地に着いた張騫ですが、待っていたのは意外な事実でした。

このとき大月氏は元の王が匈奴に殺されたために太子を王に立てていて、もと居た土地から遙か西のブハラ付近にまで落ち延びたおかげで敵も少なく安住しており、南の大夏国(アフガニスタン北部にあった国)をも支配下において非常に安定した地方政権を確立していたのでした。そういう状況ですから、今さら対匈奴の共同戦線を張ろうと言われてもピンとこなかったのでしょうね。
何しろ大宛にしても大月氏のいたソグディアナにしても、
一般的には中華圏というよりもうペルシャの色が濃い領域です。
しかも大月氏の居たソグディアナの地域は東西南北の各民族の十字路みたいな所で、
東に出れば匈奴と漢、南に出ればインド、北から抜ければ東ヨーロッパ、西へ向かえばペルシャに出られる要衝の地ですから、普通に生活してれば中継貿易で安定して栄える事ができたでしょう。こういう状況ですから、大月氏は張騫に良い返事を送らず、更に南の大夏国も月氏と同様の返答に終始したのでした。

こうして主たる目的を果たす事が出来なかった張騫ですが、彼が無事帰還した事で漢はこれまで知り得なかった西域諸国の様々な情報を手にすることが出来たのでした。
特に、帰還すると張騫は武帝にこう報告します。
『大宛に良馬あり 血の汗をかき、千里を走る天馬の子孫なり』

匈奴の優れた騎馬に苦戦していた武帝がこの報告に喜んだのは言うまでもありませんね。張騫はその後も武帝に西域諸国との国交を開く事を説き、これらと連合すれば匈奴を東南から南西にかけて囲む事が出来ると献言したのでした。彼の死後、この方針は次第に身を結んでゆく事になります。というかむしろ彼の報告が無ければ漢は西域への拡張を図ることは無かった・もしくは武帝の治世中に実現しなかった可能性が高く、アジアの歴史はだいぶ違った物となっていたかも知れませんね。
西域の話はまた後で書きますが、とりあえず今回は紹介までにという事で。

次回は、匈奴と真っ向から戦い続けたある一家の話などを書く予定です。


おしまい。

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  1. 2008/07/21(月) 22:21:37|
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草原の興亡 その12

黄金時代

優勢な匈奴との全面戦争を避けた漢。
時々侵攻してくる匈奴を撃退もしくは交渉するくらいの衝突事はあったものの、
第3~4代目の文帝・景帝※による 『文景の治』 と呼ばれる安息の時代を迎え、
その国力は急速に回復して行きました。(※文帝の前の2人はカウントせず)
それも、
『倉に入った穀物は溢れ出して虫が湧き、
 収められた銅銭は使われないので束にした紐がくさって数えられなくなった』
と表現されたほどの充実ぶりを見せたのでした。
後世においても中国史上の模範とされた理想の時代がそこにはありました。

これほどの余力をもった状況ですから莫大な額に上っていた匈奴への贈り物も大した負担ではなかったでしょうが、実際に匈奴の使者を迎える時は漢の皇帝は席から立って迎えるなどの礼をしなければならず、国の威信としては非常に苦しいものがありました。
また、景帝の時代に起きた呉楚七国の乱という親族諸王による大規模な反乱を鎮圧した事で中央集権化は一層進んでおり、景帝が亡くなった紀元前141年の時点で、既に匈奴討つべしの声は相当に大きくなっていたと思われます。

このように、国力の充実と反攻の機運が高まってきた中で登場してきたのが、
弱冠15歳ほどで皇帝となった武帝だったのです。
まだ若かった当初は即位に当たって大きな発言権を発揮した母や伯母などの意見を容れざるを得なかった武帝ですが、元々非常に積極的な性格で英明だった彼が、匈奴との半従属的な現状に満足しているはずがありませんでした。

ところで、中国の皇帝に付けられる 『○○帝』 という呼び方、
あれは諡号(おくりな)ですから、
その業績・性格などを元に皇帝の死後に付けられるものです。

そのため、 『武・烈』 などの激しい字を付けられた人物は武断的・拡大期の皇帝であり、 『文・景・恵・明・光・昭』 などの穏やかな字を付けられた人物は善政を施したり悪く言うと平凡で穏やかな治世であったり、また興隆期や中興の名君だったりします。逆に 『哀・少』 などの字が見られる場合は末期の皇帝だったり年少で立てられた傀儡皇帝に容赦なく付けられる名だったりもしますが・・・。 


そういうわけで、
『武』 という字を諡号された前漢の武帝の時代、
それは正に対外戦争を繰り返した武断派の時代でした。
彼の周りには、若く天才的な武将や貧しい身から叩き上げた名将、硬骨の老将に悲運の功臣、そして遙か数千里の彼方まで旅して帰還した名臣ありと、それこそ三国志の時代にも負けないキラ星のごとき人物が彩った古代中国の黄金時代でもありました。
ただし、 『武』 という字は中国においては最大級の評価ではありません。
一面で粛清を行った苛烈な人物という意味も込められますし、
何より戦争を起こさず安息を与えた者が真の王者という考えの方が強いと思われますから。

次回からは、
編年的にたどる部分と人物を見る部分とを織り交ぜつつ、
匈奴と漢の抗争を見て行きたいと思います。
さて、誰から書いたものか、今から悩むw


おしまい。

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  1. 2008/07/20(日) 09:34:12|
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史記を片手に大航海

読むのと活字を追うのとは全然違う

いま書いてる中央アジア編、
残されてる資料の関係でどうしても中国史と関わりが深くなっていますね。
匈奴編が終わったらもう少し西域寄りの事を書く予定ですが、
それまでは中国の史書・古典を参考にする事が多いと思います。

それにしても、
私がここら辺の書籍を読み出したのは15~6歳あたりからでしたが、
忘れてるというかほとんど頭に残って無いですね。
もうちょっと土台になると思ったんだけど;
読んだんじゃなくて活字を追ってただけなのかもなぁ、
と思うとちょっと愕然とします。


おかげで今回のシリーズにあたっては史記と漢書・後漢書・三国志あたり、
関連ある所を再読しつつブログ書いてるので非常に更新が遅いですね。
ほぼ週末しかシリーズの更新が出来ないのはそんなわけです。
ただ、資料代わりにするには勿体無いくらい史記と漢書は普通に面白い。
特に史記の列伝48~51(韓安国・李広・匈奴・衛青・霍去病)と63の大宛伝、
漢書の李陵・蘇武伝と司馬遷伝は今回のシリーズでもたびたびお世話になりますが、
普通に長距離航海のお供にも最適な気がします。
2000年前に書いてる物とは思えないですね、ほんとクオリティ高い。

さて今後の 『草原の~』 シリーズ、
匈奴と武帝の攻防を書いた後は西域に派遣された張騫を紹介しつつ、
大宛などの西域諸国・民族について書いてゆきたいと思います。
個人的にフェルガナとソグディアナは
○HKのシルクロードを見てた子供の頃から気になってる地域で、
ちょっと資料揃えつつ気合入れて進めたいんですよね。



おしまい。

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↑よろです~。

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  1. 2008/07/18(金) 07:02:58|
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CP4の実装まであと1週間

来週CP4が実装されたら、の話を。

現在東南アジアで冒険中ですが、
さすがにカリブ行って勅命達成と新要素の確認を優先させるでしょうね。
共有倉庫サービスとは別に10枠追加は素直に嬉しいし。
BC期間中なのが気になるところだけど、
週末にはカリブ入りして冒険クエやりつつ備えようかと思う。

そういやCP4でも勅命とか開拓地扱いとかまた出てくるとなると、
生産者モードで臨んだほうがいいのかな?
まあ何が必要かで職業も材料も違うから判明してからでも良さそうですね。
東南アジアの時みたいに近場で出来る冒険や海事勅命が有ると楽そうですが、
力技で『運河開通は素掘り累計100万回です!』とかさすがにないわな・・。

あとCP4導入時で当面気になるのが4点。
まず、インカ到達に関してはやはり陸戦とかあるのかなという所。
その場合は

この人とかこの人

あたりに力を借りる事になるのかなあ。
自分も少しは陸戦上げとかしようかな。。

2点目は内陸都市の扱い。
クスコもマチュピチュも完全に内陸になるわけで、
一度に複数の内陸都市実装ってのは初になりますね。
最初の点と被りますがここにどうやって至るのか気になります。
それと内陸都市が交易品の登場に影響してくるのかも気になる。
ああ、内陸都市に旗が立つのかどうかってのもありますね。

3点目は、
何人かのキャラデザインが上がってる連続シナリオみたいなやつ。
あれも事前に見ておきたいかなと。
さすがにこのシナリオが前提になる事は無いでしょうが、
インカのイベント進行にシナリオ登場人物が出てくるくらいは充分ありそうで、
やっておかないと話が見えない・伏線が堪能できないってのは避けたいですね。

最後に4点目は、歴史視点。
かつての大航海Ⅲだとおもいっきりインカ征服シナリオが実装されてて、
兄弟の争いに乗じて軍勢率いてクスコに攻め込み、
インカの皇帝を倒して領地化する、そんな展開が待っていました。
今考えたらこれは年齢制限やら倫理的な問題でDOLで導入するのには無理が有ると思いますが、
果たしてヨーロッパ人とインカ人にどういう関わり方をさせるのか、ちょっと歴史視点でも気になってます。

その他の実装で言うと
船に関してはインタビューなどで全く扱われてなかったので出ないかな。
速度とか運河とか新海域などの要素はやりつつ確認しようかなという所で、
共有倉庫はまあ生産者ですからバザーの出品物倉庫として活用しようと思います。
ここ半年くらいの色々な実装でかなり変貌しつつあるDOL世界、
CDSはCP5まではあるみたいですが最後にどんな姿を見せてくるのか、
来週を楽しみにしていますs。


最後に近況。
先月から冒険メインに動いてます。
現在LV52まで@20000くらい。
上げるだけなら早そうなのですが、
やってたのがジャカルタ→オーストラリア方面のクエばかりだったため、
休日でも数個しか進みませんでした。
平日だと2個が限界w
おまけに2週間ほど前からやたら東南アジアが物騒になってるし・・。
まあジャカルタ~ワンガヌイとかだと往復の移動だけで経験500↑とか入るので移動さえ速ければこういう単調な中距離クエも全然問題なさそうな気がします。あー、もうほとんど完了したけど、これCP4の実装後にやれば移動が楽で良かったかも・・。

そんなこんなで地理クエの達成率が90%近くなってきて、
残るはラパ・ヌイに至る連続クエとインド方面などが主なので、
そろそろ地図職人での活動も終わりが見えてきたかも。
いつの間にか操舵熟練も3~4000ほど稼げたのでちょっと嬉しい。
地理の後は宗教・歴史系かなあ。
生物系はほとんどやってないので発見数伸ばすならここなんだけどスキル枠が・・。



追記)
うちの会社、先日何を思ったか秋葉原にある某電子部品会社を買った。
まったく業種が違うけどこれどうすんだろ・・。
とりあえず駅まで歩いて数分の所に駐車場ができたのは便利とは思うw




おしまい。

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  1. 2008/07/16(水) 07:25:17|
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悲喜こもごものUMPC市場

Eee-PCが春に発表された第二世代をスキップ

して、
先月台湾で発表された第三世代を即時投入してきましたね。
もう昨日には発売開始してたという対応の速さ。
先週、この第三世代Eee-PCと完全に競合するUMPCとしてMSIから発売になった『Windnotebook-U100』が即完売・品切れ状態になるくらいに人気を集めている所からも、既にスペック落ちの第二世代を今更出してきてもなあと思っていただけに、これはさすがに市場開拓者のASUS、GJといえますね。

Eee-PCとWindnotebookの比較だと、
価格は59,800円と同じ、
液晶が8.9インチ対10インチの違い、
SSD12GBとHDD80GBの違いがあるなど、
サイズ的にはEee-PCの方が若干コンパクトな設計となっています。
SSDを使っているEee-PCは容量的には負けますが、
そのぶん発熱や静音性では優れているでしょうから、
用途や好みで人気は分かれるでしょうね。
ASUSとMSI、
そしてこの両者の中間的な性能の商品を5000円安く投入して来るAcer、
台湾勢のこういうアツイ戦いは結構好きですw


それにしても空気が読めないというか情勢が読めずに必死なのが、
コ○マや秋葉原の一部販売店。
発表前日になって、
『旧世代のEee-PCとイーモバイルをセットで100円販売』
のアナウンス。
あーあ、やっちゃった・・。
鮮度の低い商品を売れてるからって大量に仕入れて・・・
って感じが出ていてなかなか泣けます。
なにしろ一部のショップでは新型+イーモバイルのセットで14980円、
ポイント付いたら実質9,000円台とかなわけで、どちらを選ぶか、ねえ?


それにしても、私が初代Eee-PCを買ったのが確か1月下旬の発売当日。
それからもう5~6ヶ月が経つわけですが、
進化というかこの市場の動きは速かったですねえ。
この最初に買ったEee-PC、今ではやや物足りなさを感じるため、
主に出先のメモ用とブログの原稿書きなどに使っているくらい。
やっぱり表示領域の狭さが一番使い勝手に影響してるかなあ。
一方上記のUMPCたちならかなり広い層に勧められるPCになってると思いますので、
気になる方は改めて比較検討などしては如何でしょうか。

実際、初代のEee-PCでも以前検証したようにDOLベンチで130点台が出ていたくらいで、
(当時の記事はこちら)
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-502.html
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-503.html

上記のAtom270+945搭載機たちならDOLくらい普通に動作しそうで侮れないものがあります。
もうネットや動画見るくらいの端末としては充分以上のレベルに達しているんだろうなあ。
あ、書いててちょっと欲しくなって来てるかも・・・。


おしまい。

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  1. 2008/07/13(日) 14:29:59|
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草原の興亡 その11

匈奴の組織

匈奴編の中核となる武帝との攻防を書く前に、
彼らについてもう少し掘り下げてみようと思います。

まとまった記録に残っているのはまたしても史記と漢書。
ここの『匈奴伝』の記述がなかったら恐らくこのシリーズ成り立ちませんw
それにしてもかなり詳細な観察が為されていて、
司馬遷と班固、両編者の偉大さはもちろんですが、
同時に匈奴の中にかなりの数の漢人が流入していた事も伺えます。
後には漢帝国からかなりの高官や将軍も降っていますがこれはまた別の機会に。


さて記録に残された匈奴の組織。
各官位は匈奴の音を漢字に当てたものなのでちょっと難しい字も出てきます。

まず最高位に首長である単于。
それに続くのが左右の賢王。
特に左賢王には基本的に単于の長子などの後継者が就いていました。
左賢王・右賢王という呼称は後に三国志などにも登場しますね。

それから官位に左と右があり、左が上位なのは日本の古代官制も同じですね。
隋・唐を参考にした日本の官制と漢字の当てた匈奴の組織に共通点があるのは
まあそんな理由かなと思いますが、ではなぜ左が上位なのでしょう?
良く言われる説では、
王が北から臣下に対して南を向いた時、日の出る方=東は左側、西は右側になり、
東の方が上位としたことによる、とかそんな話らしいですね。
相撲でも番付の東と西では東が上位になりますがそれも同じ慣習かも。
そう言えばかつて日本からの使者が東から来た自分たちを『日出ずる国の~』
と書いた事で中国側が怒った(無知と馬鹿にされたとも)のもまあそんな関係でしょうか。

話を戻して、左右賢王に続くのが左右谷蟸王と4つの王位があります。
左賢王以外の3つの王位には単于の一族やほぼ同格の4つの氏族の者が就いたとされます。
4王位の下には左右大将・左右大都尉・左右大当戸という6官があり、
ここまでが匈奴の大諸侯となります。
史書にはこれら諸侯が24人いたとされますが、
合計で10官しかないので王以外の職には複数任命されていたと考えるべきでしょうか。
それから左右大骨都侯という職があり、これは単于の補佐とされました。
いわゆる宰相職とみればいいでしょうか。

このうち中央で単于を補佐する役に相当する大骨都侯以外の各官位の保有者が、いざ戦争となるとそれぞれ一万騎ほどの将となるわけですね。まあ上位の諸侯が10数人(史書では24人いることになっている)いて、それぞれ1万人程度の将となっていたとすると、これに単于の直轄を含めると大体20~30万騎くらいに達しますから、これにそれ以下の部将や支配下の氏族の軍も足すと40万騎という漢書の記載した数とほぼ合ってますね。
軍制上では将の下に千・百・十という十進法による単位で軍団が編成されており、
これは後世のモンゴル帝国などもそのまま採用されています。
というか現代でもテュルク系諸国の陸軍では、
千人長が少佐、百人長が大尉、什人長が伍長を意味する言葉でそのまま存在します。
また、都尉・当戸などの文官と思われる職も記述されており、
これらは単于及び各諸侯の補佐として官僚もしくは幕僚としての役割を果たしたと思われます。

それにしても、遊牧民の社会を考えると普段は24人の諸侯=将が同時に生活単位での支配者となっていたと考えるのが妥当と思われますが、ここまできっちり編成されていたとなると既に『匈奴』は単に遊牧民の集団の呼称というより国家としての体裁を整えつつあったのかも知れませんね。


おしまい。

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  1. 2008/07/12(土) 07:02:17|
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地理クエやるひと募集?

ジャカルタ~オーストラリア方面の地理クエが一段落したところで
久々にヨーロッパに帰還しました。
で、週末当りにラパ・ヌイ方面行きなどの連続クエをやりたいかなーと思っています。
まだマゼラン海峡を発見したあたりで止まっていると思うので、
同じようにやり残しのあるひと、誰かご一緒しません?
思いつきで書いても多分集まらないと思いますが、
おりましたらコメントでもDOL内でも連絡頂ければ実行したいと思います。

また希望者がいれば地図職人クエからでもいいですよ。
遠距離とかほんと暇なのでw
とりあえずかとーる先生とかに相談してみようかなあ。
反応あれば詳細を追記します。



おしまい。

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シリーズ記事の更新は週末に書く予定です。

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  1. 2008/07/11(金) 18:04:01|
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フタ開けっ放し

の季節到来。


どうも夏になると調子が悪くなるPCが身の回りに2台ほどあり、
先週あたりからすんなり起動してくれない模様。
熱以外には故障とも思えないので、
取り合えず仕事場のPCから清掃に取り掛かる事に。

ケースのサイドカバーを開ける。
つかもう天板とフロントカバーまで開けっ放しのフレーム状態。
まー、すごい埃。
特にCPUクーラーの放熱フィンの間とか電源内部とかがすごい事にw

で、こいつを市販のエアダスターでなく、
コンプレッサーとエアガンで一気に吹いて掃除するとガンガン落とせる。
けっこうこの瞬間好きなんですよね。
ところが調子に乗って電源の排気側ファンを掃除してたら 『ピキッ』
あ、あれ?
良くみたら排気ファンの羽が1枚折れてました。
ファンに強制的な風送るとありえない速度で回るんですが、
これに圧力が加わると『ふぃぃぃいいいいいいいん』
とか更にえらい音がする。

そこから更に逆向きに風を送った瞬間に割れました。
プラスチッキーな素材だからまあ壊れる事も有るかとは思ったけど・・。
電源交換するかファンだけ交換するかちょっと考え中・・。

おしまい。

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  1. 2008/07/10(木) 20:24:55|
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そろそろここに・・

なんか動きがあっても

いいんじゃないかと密かに期待してます。

ドミンゴ

さてどこでしょう?

CP4では太平洋側への玄関口、
そして勅命クエの関係でこれから人の流れが活性化するんじゃと期待されるわけで、

ぜひここにギルドと商館の実装を!


もともと 『そのつもり』 であるかのようなスペースありますしね。
開始から3年余りが経過してここも発展したという設定でもいいんじゃないでしょうか。
まあ商館はともかく、転職できるようギルド欲しいんですよねー。


おしまい。

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  1. 2008/07/08(火) 06:31:27|
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草原の興亡 その10

匈奴と漢の人口比較

(補足と考察)
ここでちょっと視点を変えます。
まず前回の白登山の戦いで両国が投入した兵力についての考察から。
匈奴40万人
漢 32万人

これ紀元前2~3世紀としたらとんでもない大軍で、
本当に合計70万人以上が投入されうる余地があったのでしょうか?
なにしろヨーロッパでこれに相当する規模で争われる戦いとなると、
飛躍的に人口と生産力が向上した18世紀末のナポレオン時代まで下りますから・・。

で、素人ながら考えると、動員できる兵力の源泉は、人口・生産力・それと資金でしょうか。
これに中央集権度(もしく影響力)を掛けるとだいたいMAX値がでるでしょうが、
あとはその国の体制によっても変動しますね。
で、ここは最も基本的な数値である人口に注目してみます。

1)古代中国の人口
中国の人口について信頼できる最も古い時代というと、
前漢末期の戸籍調査でおよそ5960万人・1223万戸という記録が残っています。
それ以前というと春秋時代で500万、戦国時代で2000万人位という試算がありますね。
これは各国の保有する軍から逆算した数値なのでこれもそれなりに信頼できそう。
で、漢代の6000万人という数値は、これ後世の中国諸王朝においても指針となります。

ちなみにその後の調査を列記してゆくと、
前漢末期=5960万人
後漢末期=5650万人
三国時代=1616万人 ※魏・呉・蜀の合計
隋=4600万人
唐=5290万人
明=6600万人、
清=9000万→3億人
※ここの数値は広島大学の加藤先生他の原稿を参考にしてます。

前漢末期の人口の話に戻ると、
この時6000万とすると普通ならその200年前でも3~4000万人はいたと思われます。
劉邦が統一した紀元前202年は長く続いた内戦がようやく終息した時期なので人口が2000万人くらいまで激減していた可能性はありますが、人口2000万に対して動員32万ならその2%以内ですから、あと10万人くらい国内の守備に当たっていた分として加算しても決して不可能な数字じゃないですよね。古代中国の徴兵率は20%、つまり1戸に1人くらいが普通だった事からしても無理な数字ではありません。
まあ古代中国というのはそれだけ先進地域であったのが良くわかります。


2)匈奴の人口
一方の匈奴の人口はと言うと、これが正確な調査など無いのでいきなり困りますw
それでも参考文献となると史記と漢書にヒントが載ってます。
『匈奴の部衆は漢の県・郡ほどに過ぎず』
古代中国の郡はたしか30~40個ぐらいで、大きい郡で精々30~60万人程度です。
これだと『40万騎』という数字と同じになってしまいますね。
この数字が全人口でなくて成年男子の数とするなら、全体で150~200万人くらいにはなりそうなのでここはちょっと要注意でしょうか。
それとこれには支配下の諸部族は含まれていませんから、
勢力下の総数となると最大で250~400万人くらいにはなるかも知れません。
ちなみに現在のモンゴル国の人口が270~280万人くらい。

それにしても漢の人口の10分の1にしかなりません。
これでどうして30~40万もの、それも騎兵主体の軍を持てたのかという疑問はありますが、これは農耕民族と騎馬民族でその組織形態が全然違う事を考慮すべきでしょう。
移動を前提とした騎馬遊牧民は成年男子のほとんど全てが騎兵≒戦闘要員となりうると考えると、瞬間的にはそれくらいの動員が出来ても不思議じゃないのですね。ましてこの当時の匈奴は東胡を始め近隣諸部族を勢力下に置いていますから、基本的にほぼ農民主体で、しかも建国当初の前漢が対抗できないくらい遥かに強大な軍事力を保有していたとしても無理ないかなと。まあ生産力では漢の方が高かったでしょうから、長期の戦力維持というならまた話は別でしょうか。

実際のところ、高祖・劉邦が敗れて以降に続く恵帝・文帝・景帝の時代には、
無理に匈奴と争う事無く、
貢納と公主(一族の姫)を嫁がせる事によって比較的良好な関係を保っていますが、
これは半従属状態といってもおかしくないですね。
(中国人は認めないでしょうが)
でもそれが、当時の匈奴と漢の力関係だったのでした。


次回は匈奴の組織についてもちょろっと。
こんなマニアックなもの書くMMOのブログはまず無いと思うけどw

おしまい。

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  1. 2008/07/06(日) 10:16:12|
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草原の興亡 その9

白登山の戦い そして・・

前回からの続きです。
紀元前200年、今の山西省晋陽の北方で対峙していた匈奴と漢の大軍同士、
実際にどれくらいの兵力が投入されていたのでしょうか?
この時期の記録と言えば史記と漢書がほぼ全てなのでこれを参考にすると、

匈奴が 『精鋭40万騎』 、
漢が 『総勢32万』 とされています。

明らかに表現が違いますよね?
匈奴は騎馬遊牧民ですから基本的に騎兵主体の構成となっています。
一方の漢は歩兵を主体に騎兵と戦車が若干いるかなという構成だったでしょう。
当時の騎兵はまだ足を掛ける鐙(あぶみ)や固定された硬質の鞍が発明されていませんから、
踏ん張りの利かない馬上での弓や槍の使用となると、
これはもう、かなり専門的な技術を要する特技でした。
それこそ子供の頃から馬に親しんでいないと不可能なくらいに。
また、馬の質も中国馬と遊牧民の馬とでは全然違ったでしょう。
そして実際に戦闘となると、
中国の兵は機動性に優れた騎馬遊牧民に後々まで悩まされる事になります。
後に匈奴と対決する事になる漢の武帝が、
優良な駿馬を渇望して遥か西域へ張騫を派遣するのはこうした背景が無視できなかったのでしょう。


さて話を戻して、
匈奴の計略に引っ掛かって城を出てしまった劉邦自ら率いる漢軍は、
その後どうなったでしょう。
この時の追撃は相当に急なものだったらしく、
晋陽の北にある平城に辿り着いた時には劉邦の率いていた軍は騎兵だけが先着し、
大多数の歩兵及び補給部隊はかなり遅れてしまっていました。

ここで匈奴の冒頓単于はチャンスと見たのか控えていた40万騎もの精鋭を動員します。
伏兵を配していたのは平城の郊外にある白登山と呼ばれる丘陵地帯、
ここで休息していた劉邦らを一気に包囲してしまったのでした。
いっぽう漢軍は遙かに強大な軍勢に突如として包囲された為、
遅れて到着した漢の歩兵達も合流するどころか補給物資を届ける事すら出来ません。

この時の包囲は7日以上にも及びます。
しかも既に寒波の吹き荒れる時期、
寒さに弱い中国兵は多くが凍傷に掛かってゆくに及んで、
いよいよ困窮した劉邦は冒頓の妻へ贈り物と共に使者を送ります。
このとき直接冒頓へ使者を送らなかったのは幕僚の陳平の策だったといいますが、
妻の説得を受けてか冒頓は包囲の一角を解き、
劉邦は脱出して外にいた本軍と合流することが出来たのでした。

その後、逆包囲と援軍の可能性を考えた冒頓、
既に疲労困憊だった劉邦共にこれ以上の行動は無理と判断したのか、
共に撤収を始めます。
普通に考えればこの時既に漢の方から和睦の申し入れがあったと考えられますが、
記録が漢書にしても史記にしても中国側の資料なので残されていません。
まあ公平に見るなら、こうでしょうか。

紀元前200年初冬、
匈奴、漢軍を下す。

その後、いまだ国内に不安を抱える劉邦は、匈奴との和睦の道を選びます。
一族の姫を冒頓単于に嫁がせる事とし、
同時に毎年莫大な贈り物(というか貢納)を届ける事になったのでした。
ちなみにこの時の贈り物の中には絹織物も含まれ、
西域への影響力を持つ匈奴にとっては重要な交易品となります。
ひょっとしたら遠く地中海へも届けられたかもしれませんね。

この和平路線はその後数十年続きます。
劉邦(高祖)の後に続いた恵帝・文帝・景帝と比較的温和な皇帝の治世下、
漢がみるみる国力を回復してゆく時期にもそれは変わりませんでした。

やや長いので続きはまた明日。
(補足と考察とか掲載する予定です。)


おしまい。

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  1. 2008/07/05(土) 08:16:12|
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草原の興亡 その8

王者と英傑


歴史上において指折りの人物同士が直接ぶつかり合う場面となると、
これはもう人類史上のトピックとなるケースも多いのですが、
一方で案外あっさりした結末で終わってしまうケースもままあります。
今回取り上げるのは紀元前3世紀末、
中央アジア~モンゴル高原で覇者となった匈奴の冒頓単于、
そして始皇帝の死後の内乱を勝ち抜いた漢の高祖・劉邦の直接対決のお話です。

騎馬遊牧民の英傑という点では恐らく人類史上でも指折りの人物と、
その後の中国及び東アジア諸国に大きな影響を及ぼした漢の初代皇帝。
ほとんど同時代の人物というだけでなく、
その地域を統一した勢力を打ち立てた時期も紀元前202年頃とほとんど同じ、
いずれ両者の接触は避けられないものだったかも知れませんね。


紀元前201年、
匈奴の大軍が中国北方の要地・馬邑にいた漢の諸侯である韓王信を包囲します。
韓王信は戦国時代の韓の王家出身の将軍で、
楚漢戦争では度々功績を上げて戦後は韓王に封じられていたのですが、
その勢力が強大化するのを恐れた劉邦によって更に北の太原(今の山西省晋陽)に移されていたのでした。馬邑はその中でも更に北にある最前線の町だったのですね。
ちなみにこの時代最高の将軍と言える韓信とは同姓同名の別人です。

さて匈奴の大軍に包囲された韓王信はなんとか和平の道を探ろうと匈奴へ使者を送るのですが、これが逆に劉邦には内通を疑われてしまったのでした。その後、劉邦から問責の使者を送られた韓王信は召還されれば殺されるのではと恐れ、遂に駐屯していた馬邑の町ごと匈奴に降伏して寝返り、逆に太原を攻撃するようになってしまいます。

これは後世からみれば無理ないことと思えます。
何しろ前年には最大の功績を上げていた韓信が捕らえられて楚王から淮陰侯に格下げされていますし、反乱を起こした燕王も劉邦の親征により討たれています。
既に漢では楚漢戦争に功績のあった諸侯に対しての粛清が始まっていたのですね。
その後の漢では粛清に次ぐ粛清の嵐が吹き荒れ、
最終的に一族である劉姓以外のものが王になることは無くなるまでになるのですから・・・。

さてこうして北方の守りに配していた部将の寝返りにより丸裸となってしまった太原に対し、
劉邦は韓王信を討つべく自らおよそ20万もの軍を率いて出陣し、
その後、あっさり韓王信を破った劉邦は晋陽に入り、匈奴に使者を派遣します。
この時点ではまだ劉邦は匈奴と対決するつもりは無かったかも知れません。

ところがこれに対して匈奴は老兵と痩せた馬を並べて使者に見せ、
既に匈奴が弱体化していると見せる策をもって劉邦を油断させることに成功します。
そして10回ほどの使者のやり取りの後に匈奴はゆるゆると撤退を始め、
勝ちを見込んだ劉邦を晋陽から郊外に引きずり出すことに成功したのでした。
この時最後に派遣された劉敬という者は、 
『わざわざ老兵を見せるとは伏兵の恐れあり』
という進言をするのですが、
既に勝ちに奢っていたのか劉邦は聞く耳を持っていなかったのですね・・。

長くなってきたので続きは次回に。



おしまい。

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  1. 2008/07/03(木) 07:14:59|
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ログコピペこれ最強!

日曜日に突然呼ばれた座談会

前回のLIVEイベント、マルコ・ポーロ公演について思うところをって事で

ルクレさんと  pepeさん

お二方と好き勝手に?放言してました。
(ログ残るしUPするっちゅーにw)
内容はルクレさんのほうに上がってますのでそちらをご覧頂くとして、
なんでわたし、ち○こ出して対談してんのw

あ、いや、書きたいのはそっちじゃなくて、
対談の後半に出ていたLIVEイベントそのものについて。

中途半端なもの出すなら遅れてもいいよ
、と。

テストプレーしてみればあの後半・エンドがなんかまずいだろとすぐ気付くでしょうし、
気付いていて練り直してないなら、それは時間・人手・予算の問題なのかしら?
とすら思ってしまいます。
毎月課金してるMMOだと告知していたイベントの遅延は相当に非難受けることにもなりましょうが、
たまにはそういうこだわり持っても許されるんじゃないかと思う。
まあ私自身がかなりコーエー贔屓のプレイヤーだからの甘さなのかもですが。

DOLのスタッフほんとがんばって!




おしまい。

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  1. 2008/07/01(火) 07:27:21|
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