打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

エンリケ物語 その16

最終回


準備
1459年、既に死期の近いことを悟っていたのか、エンリケは遺言状と相続の準備を始め、関わる多くの人々へ依頼・手配を行います。生涯結婚しなかったエンリケでしたが、養子としてポルトガル王アフォンソ5世の弟で甥に当たるフェルナンドを迎えており、エンリケの有する領地のうち、ヴィセヴ公爵領・アソーレス諸島のうち2島を彼に相続させるよう、ポルトガル王など幾人かに委託して行きました。そして残りの、といってもマディラ諸島・アソーレス諸島の5島・そしてアフリカ事業におけるエンリケの独占権などのほぼすべてはポルトガル王アフォンソ5世に遺贈される事となりました。


ポルトガルのその後
この決定はポルトガル王家に莫大な収益力をもたらします。
後の1460~1470年代のモロッコ攻撃や1470~1480年代のサン・ジョルジュ建設を象徴とするアフリカ西~南部の開発に大きな影響を与えたのはもちろん、15世紀初頭の時点ではイベリア半島西端の小国に過ぎなかったポルトガルの勢力圏が、これによって西アフリカ沿岸からギニア湾を経てコンゴ王国近くにまで及び、しかもその権益の大部分がポルトガル王家の直轄となるのですから。

これにより、当初は民衆・騎士階級・そして旧貴族の支持によって成立した連合政権の色合いが強かったジョアン1世に始まるポルトガルのアヴィシュ王朝は、エンリケのアフリカ事業を継承し、同時に対外戦争を乗り切り領土を拡大する過程で他の大貴族とは一段飛びぬけた実力を付けるようになってゆきます。この後ポルトガルは1480~1520年代にアフリカ南端から一気に東南アジアにまで到達するという驚くべき結果を残しますが、ポルトガル王家に実力がなければ強力な艦隊を編成する事もできませんよね。こうして、アフリカ事業の収益はポルトガル王国が中央集権化してゆく基盤となったのでした。

一方、当初よりだいぶ少ない遺産しか与えられなかったアフォンソ5世の弟のフェルナンドですが、この家が後に意外な展開から再び歴史の表舞台に立ってくることになります。1493年、つまり大航海時代ONLINEの始まる正にその時代、ポルトガル王ジョアン2世の嫡子アフォンソが亡くなると、アフォンソ5世直系の嫡出男子が途絶えてしまいます。この時新たにポルトガルの皇太子に選出されたのが、ヴィセヴ公フェルナンドの6男マヌエルでした。この王子が、後に喜望峰発見・インド到達・マラッカ発見・香料諸島到達・ブラジル発見と立て続けに業績を挙げてゆくポルトガル王マヌエル1世となったのです。という事で、いまDOL世界のポルトガル王はエンリケ航海王子の養子・後継者の系統が即位しているんですね。


最後の発見
1460年、
エンリケの元にアフリカ事業における最も遠い場所に関する発見報告が成されます。

シエラレオネ到達。


エンリケの家臣シントラによって、ポルトガルの支配領域はこの『ライオンの土地』と名付けられたシエラレオネ地方の東端にあるレド岬まで記録されたのでした。

※一応、1447年の時点でアルヴァロ・フェルナンデスがシエラレオネ近くで上陸しているという話も有りますし、シントラの到達は1461または1462年到達という説もありますが、ここでは1460年説に基づいて記述しています。

15世紀始めのセウタ攻略から45年、ポルトガルの、そしてエンリケのアフリカ事業は実に4000kmを航海して来ていました。この間、最初に開拓されたマディラ諸島の開発はこの時代には砂糖の生産も始まるなど完全に軌道に乗り、西アフリカではアルギン島に内陸との交易ルートが確立され、莫大な量の金・そして奴隷が輸出され始めるようになっていました。
惜しむらくはシエラレオネの先に広がる、穀物海岸・黄金海岸・奴隷海岸・象牙海岸などと呼ばれた豊かなギニア湾沿岸の一帯まで到達できなかったことで、この事業はエンリケ死後の1470~1480年代まで待たなければなりませんでした。
しかし、エンリケが死の床についた1460年代には、リスボンの繁栄は素晴しいものがありました。リスボンからは年間何十隻ものキャラベル船、更にその数倍もの数の大型商船が出港し、マディラ・モロッコ・アフリカ、そして北海・地中海からは豊かな物産が多く集積する、ヨーロッパでも屈指の港に育っていたのですから。実力を蓄え、海洋国家として更に飛躍する、そんな活力溢れるリスボンの繁栄のなか、エンリケは最期を迎えます。


アフリカ図1460年



最期
1460年11月13日深夜、
エンリケは息を引き取ります。

その遺体は父ジョアン1世も眠る、
サンタ・マリア・ダ・ヴィトリア修道院に埋葬されます。
エンリケは生前、1500回以上に上るミサを行うよう手配するなど、
宗教心に篤いエンリケらしい逸話を残しています。
また、マヌエル1世などは後々までエンリケの業績を忘れず、
ギニアのプリンシペ島でミサを行うなど多くの後継者が慕う存在となっていました。

エンリケ航海王子は、恐らく兄ペドロのようなグローバルな視点も中央集権化を目指すなどと言った時代を先取りする先見的な視点も持ち合わせていない、それでいて正義感と信仰心の篤い人という至って中世的な人物だったかも知れません。
しかし、その行動力と信念、そして統率力などは中世を突き抜けるだけの力を持っていました。
彼の存在・業績がなければ、恐らく15世紀後半~16世紀のポルトガルはイベリア半島の小国から抜け出せず、早い段階でカスティーリャ王国、そして後にアラゴンと連合して成立するイスパニアの圧力に飲み込まれていたかも知れません。またヨーロッパのインド・東南アジア到達も数十年遅れていた可能性もあります。そう言う意味ではエンリケは後世のヨーロッパ、そしてその影響によって大きく変動した世界史の中でも結構重要な人物だったんじゃないでしょうか。



これで、エンリケ航海王子に焦点を当てつつ見ていった
大航海時代初期のポルトガルを巡る話は終わりとします。






追記)
エンリケ物語でカテゴリ1個作ることにします。


おしまい。


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  1. 2008/11/30(日) 10:14:42|
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エンリケ物語 その15

あるヴェネツィア商人の記録


スカウト
1454年、エンリケに残された時間はあと数年に迫っていました。
そしてこの年、ポルトガル南部のアルガルヴェにいたエンリケの元を、
あるヴェネツィア商人の若者が訪ねてきます。
この男の名はアルヴィーゼ・カダモスト。
当時まだ22歳で、フランドル行きの商船に乗ってサン・ヴィセンテ岬の近くで停泊していたところを、エンリケの家臣のアントン・ゴンサルヴェス(第10回でキャラヴェル船長として登場した人)のスカウトを受けてエンリケのアフリカ行き船に乗る事にしたのでした。このカダモストが、アズララの 『ギネー発見征服誌』 と共に当時の貴重な資料となる 『航海の記録』 を残す事になります。

又聞きの記録であるアズララの書は資料としては膨大で非常に優れていたものの、現場の雰囲気などには乏しかった一方で、カダモストの航海記録は自分で体験したものがかなり反映されていて非常に活き活きとした表現に溢れており、分量こそやや少ないですが読む者を楽しませる面白い内容になっています。


カダモストの航海
さて、ゴンサルヴェスのスカウトを受けてエンリケに面会したカダモストは、船と商品を自前で調達した航海で得た利益の1/4をエンリケに収める(商品だけ積むものは利益の1/2を収める)条件に承知し、1455年春、ヴィセンテ・ディアスの船に乗ってマディラに向かいます。この時ディアスの船に積まれていたのは毛織物・絹織物・そして馬でした。恐らくエンリケは、これらの商品と交換することで、商才豊かなヴェネツィア人が何か面白い商材を見つけてこないか期待していたらしいのですね。

予定地であるマディラ諸島のポルト・サント島に着いたカダモストは小麦・大麦・竜血(医薬品となる樹脂)を積む際に、この地で代官を務めるマディラ発見者の1人であるペレストレロと面会します。ちなみに、このペレストレロの娘か孫に当たる女性が、後にクリストバル・コロン、つまりコロンブスの妻となります。コロンは一時期マディラのポルト・サント島に住んでいたのですね。

翌1456年、カダモストは再びアフリカを南下します。
マディラ諸島を経由したカダモストの船はその後カナリア諸島→ブランコ岬と南下してゆき、最初の目的地アルギンに到着します。既にこの時点でアルギン島にはエンリケの命によって城塞と商館が建設されており、交易・探検の一大拠点として急速に発展しつつ有りました。
ここでカダモストは、ポルトガル人がアフリカ内陸の現地人と既に接触を始め、小麦や織物・馬を提供する代わりに金の延べ棒や敵対するアフリカ人を奴隷として捕まえさせ、取引する事に成功しているのを知ります。特に馬はアフリカの黒人世界にとって希少品だった様で、馬1頭が奴隷10~15人に相当したと言います。
この辺はさすがにヴェネツィア商人であるカダモスト、交易に関する部分がかなり詳細に残しています。例えばアルギンからポルトガル商人が内陸の町ワダンまで陸路で行き、そこから現地アフリカ商人が隊商ルートを通って岩塩の町タガーザや金や宝石の集積するトンブクトゥやガオから運んでくる物資との交易を行っている様子など、現地に行っている者の生の感想が活き活きと描かれています。
中には現地の黒人がヨーロッパから来た白人の肌の色を見て 『何か塗っているのではないか?』 と疑い、白人の腕を取って指でこすって見たら地肌と知って驚いたなんて逸話も残っていて非常に面白いものが有りますよ。


さて、その後再び南への航海に出たカダモストの船は途中ヴェルデ岬の沖にいくつかの島がある事を確認し、まだ未発見だった南西側の群島も発見します。これが現在カーボヴェルデを中核とするヴェルデ諸島でした。
このヴェルデ諸島、実はカナリア諸島から沿岸沿いに流れる海流(カナリア海流)の終着点であり、同時にすぐ沖からはるか西の小アンティル諸島に向かって流れる強い海流(北赤道海流)の始点でもありました。
このカナリア諸島→ヴェルデ諸島→アンティル諸島→北米東岸→ヨーロッパ西岸という北大西洋における海流のサイクルが確認されてくると、ヴェルデ諸島は新大陸へ向かう船にとっての最終補給地として再び登場してくる事になります。
その後、16世紀になるとカーボヴェルデはポルトガルの重要港となりますが、1585年にあのフランシス・ドレイクの攻撃により壊滅的な被害を受けて以降、その地位を徐々に失ってゆきます。


こうして、最終的にカダモストによる1455~1456年の2期に渡る航海では、ガンビア川とその南にあるギニアのビジャゴース諸島まで到達します。ここからシエラレオネまではあと5~600km、ポルトガルによる大航海時代初期の探検事業はいよいよ海岸線も南から南東方向に延び、多くの河川が入り組むギニア高地の沿岸まで来ていました。


いよいよ最終回へ。
それにしても、
一ヶ月で全部書き切る事になるとは思いもしなかったなぁ・・・。



おしまい。


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  1. 2008/11/29(土) 15:03:09|
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エンリケ物語 その14

アフリカ王の登場


エンリケ航海王子の晩年となる1450年代に入り、西アフリカの探検事業の南下速度は目に見えて低下していました。1444年の時点でヴェルデ岬を発見してから、エンリケが亡くなる1460年までに到達したのはシエラレオネまでですから、17年間でその距離約1000km。いっぽう1415年のセウタ攻略から1443年のヴェルデ到達までが28年でその距離約3000km。1年あたりの南下速度で言うと59対107kmですから6割弱に留まっています。それも、最終的にシエラレオネに到達したのが1460年ですから、交易面の活発化とは裏腹に探検面での動きはかなり鈍かった事になりますね。

では、摂政ペドロの死後、ブラガンサ公が政権を掌握してからエンリケが亡くなる1449~1460年まで、ポルトガルは一体どういう動きをしていたのでしょうか? ここに、エンリケの甥に当たるポルトガル王アフォンソ5世が関係してきます。


アフォンソ5世
1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国の攻撃により陥落すると、教皇は直ちに十字軍の呼びかけを行います。ポルトガル王アフォンソ5世も即座にこれに反応するなどいったんこれは実現しそうな気配を見せるのですが、熱意を持っていたのはポルトガル王とイングランド王くらいで、結局このときの直接的な反撃は立ち消えになってしまっていました。事実上、もはや十字軍の名の元にヨーロッパ諸国が結束するなど中世期に見せた突発的な行動力はもう政治的にも実力的にも困難になっていたのでしょうか。

一方、そんな動きの鈍いヨーロッパ諸国を尻目に、
20代に成長していたアフォンソはこれと前後して目に見える外交成果を挙げてゆきます。

まず1452年、アフォンソの妹レオノールが神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世と結婚します。そしてこの両者から後の皇帝マクシミリアン1世が生まれます。この人はアフォンソの叔母イザベルが結婚したブルゴーニュ公フィリップの息子であるシャルル突進公の娘と結婚しますから、この頃からポルトガル王家はブルゴーニュ公家・ハプスブルク家と二重三重の婚姻関係を結んでゆく事になりますね。
そして1456年、教皇より西アフリカにおけるポルトガルの権益が確定する勅書が出されます。ボジャドール岬以南におけるポルトガルの領有権・裁判権・宗教的な権益・交易や漁業などの経済権益・更には航行の独占権など、かなり大きな影響力を持つ決定でした。
またこれはモロッコに対して触手を伸ばし始めていたカスティーリャに対しての外交上の勝利を意味していました。
これを受けて、アフォンソはボジャドール岬に至る地域の権益を確実なものとするため、東地中海への十字軍の代わりにモロッコ方面への攻略作戦を提案します。
1450年代から1470年代に掛けて行われたポルトガルのモロッコ方面への軍事的な動きはこのあたりの政治情勢が深く関わっていたんじゃないかと思います。

1458年、アルカセル・セゲールを攻略
1474年、アルジラ、タンジールを攻略

このうちアルカセル・セゲール攻略にはエンリケも出陣しておりますが、元々小都市ですから攻略自体は準備の整っていたポルトガル軍にとってはそれほど困難ではなかったようです。しかし、セウタ、タンジール、アルカセル・セゲール、アルジラというジブラルタル海峡からモロッコ沿岸の諸都市を攻略したポルトガルは、こうして西アフリカに至るルート上の拠点を得る事になり、上の3都市の攻略を成功させたアフォンソ5世は『アフリカ王』の異名をもって呼ばれたのでした。
アフォンソの死後、その息子ジョアン2世の時代でポルトガルはいよいよアフリカ南端~インドへの道を切り開いてゆく事になりますが、その下地となる部分は探検事業が停滞していた1450~70年代に整えられつつあったと見るべきなのかも知れませんね。



ポルトガルの強み
こうしてみると、ヨーロッパ辺境の小国に過ぎないポルトガル一国だけがなぜ大航海時代の初期に突出した成果が出せたのか、なんとなく伺える気がします。15世紀前半の時点では、ポルトガルだけが、『時期・地勢・人材』 の各面でそれを満たすだけの要件が揃っていたんじゃないかと。

まず時期としては、競合となる可能性のあったヨーロッパ各国では、百年戦争を始めとした長期の対外戦争や王位争いなどの内戦など紛争が絶えませんでした。これに対してポルトガルはレコンキスタが完了し、同時に強い王が立って国内が安定し、更に唯一の仮想敵であるカスティーリャとの和平が実現した事でその国力・活力を外洋に向けるだけの余裕がありました。

地勢面ではもちろんアフリカ・大西洋に最も近いヨーロッパの西端であった事、そして南と北の経済圏が交差する関係で、もともと中継港として海運が発展する潜在的な優位性があった事でしょうか。また、大航海時代序盤の最優秀船というべきキャラベル船を開発できたのも、こうした経済圏の交差する所に位置していたのも大きいと思います。

そして人材面では、この時代には珍しく、ポルトガル王家の人々が優秀で、かつ比較的に皆長寿だったことでしょうか。王位に就くものが短命だったり突然死んだりしますと、当然ながら王位相続の争いや政権交代後の混乱で活力を損ねたり政策に一貫性を欠いたりする事になりがちですから。
この点、ポルトガル(アヴィシュ朝)の歴代の王を見ると、1・3・4代目のジョアン1世、アフォンソ5世、ジョアン2世の3人だけで在位年数が実に105年を数えます。しかもジョアン1世の息子で2代目のドゥアルテだけがやや若死にしていますが、これも弟の摂政ペドロとエンリケ航海王子という優秀な兄弟によって完全にサポートされていました。
まだ中央集権化する前の、官僚機構などのない中世末期の事ですから、指導者は直接臣下の揉め事・相談などに携わる必要があります。必然的に人と人の関係が重要であり、王様が長命な事はそれだけで長所となりえたでしょう。人口100万そこそこの小国ポルトガルで指導者が優秀かつ長命というのは実際かなり大きかったと思います。国王が短命で後継者を決めないで亡くなってゆく16世紀後半のポルトガルの運命をみると余計にそう思わずにいられませんね。


なんだか脱線気味の回なのにまとめに近い事を書いちゃってますね。
次回は新たな冒険者の登場と西アフリカ事業の到達点を見てみます。
たぶんあと2回。



おしまい。


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  1. 2008/11/27(木) 17:26:57|
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エンリケ物語 その13

金と十字架

11月頭から書き出したこのシリーズも今回でもう13回目。
やたら速いペースで進んで恐らくあと4~5回ほど、ここから終盤に入ってゆきます。


内陸探検
1449年にエンリケの最大の後援者であった兄ペドロが権力闘争の末に敗死したことは、エンリケだけでなくポルトガルの西アフリカ事業そのものにも変化をもたらします。南へ南へと進んでいたアフリカ事業はより商業的に、実利的な探求へと移って行ったのでした。
確かに、サハラ砂漠の広がる西アフリカを越えてギニア沿岸まで到達した事で、既に商業的には目途がつく段階に来ていました。西サハラと違ってギニアは豊かな土地であり、人口もそれなりに多く、なによりここには金を始めとしたヨーロッパ人が渇望していた富がありましたから。

そして、ヴェルデ岬の北を流れるセネガル川と南を流れるガンビア川を発見したことで、ポルトガル人はここを遡行して内陸に至るルートを発見します。地図を見れば分かりますが、ガンビア川を上流へさかのぼって行くといったんギニア高地で源流部に達した後、そこから今度は東にニジェール川が流れています。このニジェール川を今度は下ってゆくとアフリカ内陸に至るわけですが、中でも途中にある町の名は、かつて大航海時代シリーズをプレーしたことのある方なら懐かしい響きがあるかと思います。

トンブクトゥ。

ニジェール川伝いに続く、あの幻の町を始めとした内陸の諸都市へと続く事になるギニアの隊商ルートの存在は、それを知ったポルトガル人に莫大な富をもたらし始めます。
1450年代ころから、アルギンの商館では輸出用の小麦と織物などがヨーロッパから運ばれ、それと交換でスーダンの隊商から買い付けた金と奴隷が流れ込むようになったのですから。これによってこれまで北アフリカのイスラム商人が現地の隊商を通じて買い入れていたアフリカ内陸のスーダン(サハラ砂漠以南の黒人が住む地)で算出する金が、現地に非常に近いルートでアルギンにも流入するようになり、ポルトガルは非常に安価に、そして結構大量に金をヨーロッパへ持ち込むようになったのでした。

この内陸との交易を通じて、ポルトガルはサハラ砂漠の南側に広がるスーダン内陸にはタガーザ・ジェンネ・トンブクトゥ・ガオ・カノなどの都市があり、それらを結ぶ隊商ルートがある事を知ります。そしてアフリカ内陸は決して未開の土人が住む土地ではなく、ある程度イスラムの影響が及んだいくつかの国家がある事も。

それにしても、これらのアフリカ内陸への探検というかアプローチがもう少し進んでいたら面白い事になったと思います。アズララはどうもニジェール川がナイル川に続いてると勘違いしているようですが、スーダンの東端は確かにナイル川の流域に至ります。そしてその先には、古いキリスト教国のエチオピアが存在していたのですから、もしエンリケがこれを知っていたらプレステジョアンの伝説と結びつけてどういう動きを見せたでしょうか・・・。


アフリカ図1449年


大事件
ところで、これまで基礎資料として使用していたアズララの 『ギネー発見征服誌』 ですが、残念ながらこの本の記述は1453年で終了しています。この本も記述の後半では 『誰それがキャラベル何隻を率いてモーロ人を何人捕まえた云々』 というような内容が非常に多くなってきており、エンリケの西アフリカ事業の焦点がそこに移って来ている事をうかがわせます。
しかしこの1453年という年は、ヨーロッパ世界では西アフリカ事業の進展などよりはるかに重大な事件が起こり、ヨーロッパ世界に激震が走っていました。

この年の5月、
コンスタンティノープルがオスマン帝国の攻撃により陥落し、
遂に東ローマ帝国が滅亡したのです。
諸国に十字軍の要請が飛び、キリスト騎士団長でもあるエンリケにとっても捨て置けない事態となりつつあったのでした。


おしまい。


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  1. 2008/11/25(火) 23:41:46|
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雑感

と今後のブログ予定


商会冒険ツアー
日曜日を利用して商会メンバーでクスコとマチュピチュを発見しに行ってきました。
参加するには南米西岸の入港許可、運河勅命の達成、
そしてキープカヨマック取得が前提ってのが結構敷居が高く、
参加は5名ほどでしたがまあ面白かったですね。
時間的にも昼間にやるって事で出られない人いましたから、機会を見てまた実施する予定です。
んでそのあと続けてテノチティトラン未達成な人の発見ツアーもやったのでさすがに疲れた・・。
それにしてもあの 『孤立した帝都』 はクエ出し条件きついですねえ。

クスコツアー
※クスコの集合SS撮り忘れでマチュピチュにて。


ブログの予定
今書いてるエンリケ物語はそろそろ終わりが見えてきてますね。
あと数回くらいでまとめたいなと思ってます。
どうも最近シリーズ記事の終わり方が半端なので、最後はピシッとまとまる形にしたいです。
まあ一つの時代の初期話を書くってのは、普通に記述すれば未来がある話なので楽なんだけどw
『 【第一部 完】 』
とかいま唐突に頭に浮かんでしまったけどどうしよう・・・。
こうしとくと次イスパニア編も書けるぞとかオモッテマセンヨ。
まあそれはそれとして、その後は歴史か地理の小ネタを入れつつ、
E鯖でやってた育成企画の続きを書く予定。
あと完全にあてずっぽうな予想ですが、
12月上旬あたりでそろそろ長期予報みたいなものが出る気がするので、
先取りして展望記事なんかも取り上げようかなと思っています。
これであと+1~2本書いたらもう年末。

ホント一年経つの早いですね。
寒いし天候が不安定なので皆さん風邪など引きませんように。


おしまい。


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  1. 2008/11/24(月) 18:53:50|
  2. 活動日誌
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エンリケ物語 その12

権力闘争


1440年代後半の時点でサハラ砂漠を越えてギニアに入るなど順調に進んでいたポルトガルの西アフリカ事業。民間からも多数のキャラベル船が建造されて大規模な交易・探索が行われるようになるなど活況を呈していた一方で、ポルトガル本国では静かに・そして根深い反感が生まれつつありました。

今回はこの1440年代におけるポルトガル本国での権力闘争を見る事にします。というのも、この結果が史実はもちろん、現在のDOL世界でのポルトガルの登場人物にも直結する重要な契機となっていたからです。


アフォンソ5世
エンリケの父ジョアン1世、兄のドゥアルテ1世が亡くなった後、ポルトガルの王位に就いたのは当時わずか5歳だったドゥアルテの遺児アフォンソでした。これがアヴィシュ朝第3代の王アフォンソ5世となります。幼少のアフォンソ5世の摂政となったのは始め母のレオノール、次いで叔父のペドロが就いていました。このペドロが摂政となった事で、エンリケはアフリカ事業における支援と権限を与えられ、その結果が1440年代の進展に繋がっていたのです。また、これに先立ってエンリケはアフォンソ5世の弟フェルナンドを養子に迎え入れています。


反感
エンリケの父ジョアン1世に始まるアヴィシュ王朝が、旧来の貴族だけでなく民衆と新しい騎士階級を取り込んで成立したのは以前書きましたね。このうちエンリケのアフリカ事業で成功し・利益を得ていたのは、主にリスボンなど都市の商人と新たに取り立てられた比較的身分の低い騎士階級でした。

一方、旧来の土地領主である古い貴族たちは、アフリカ事業の成功によって外部から流入する資本・商品とそれを支持する摂政ペドロの商業優先の政策により、商品・貨幣経済の進展の中で危機感を募らせてゆきます。これらの旧貴族派の領袖が、エンリケやペドロの異母兄であるバルセロス伯でした。

元々バルセロス伯はアフォンソ5世の摂政だった母レオノールに近く、都市階級の代表であるペドロとは反目する関係にありました。ペドロとレオノールの権力闘争の際にはペドロ優勢と見ていったんは和睦したものの、レオノールが引退した後はこのバルセロス伯が反ペドロ陣営の代表と見られるようになって行ったのでした。

また摂政となっていたペドロは当時のヨーロッパの王侯の中でもかなり優秀な人物だったでしょうが、それだけに物事の決定にはやや専横的な所があり、その姿勢もまた旧来の貴族の反感を買う一因だったかもしれません。
ただ、このペドロもいたずらな反目は望んでいなかったようで、バルセロス伯との当面の対決を避けるべく、1442~43年頃にはバルセロス伯にある公爵位を授けて懐柔を図っていました。
その爵位とは、

ブラガンサ公爵。

聞き覚えありますよね?
そう、このエンリケとペドロの異母兄であるバルセロス伯とは、
今DOL世界でポルトガルのリスボン王宮の真ん中で爵位をくれたり海戦時には『その方の進言を聞こうか』 とか言ってるあのブラガンサ公爵の直系の先祖だったのでした。


ブラガンサ公爵家
エンリケの異母兄バルセロス伯を初代とするブラガンサ公爵家は、15世紀末のジョアン1世の時代にいったん衰退するものの、16世紀になると勢力を回復してポルトガル屈指の大貴族として権勢を振るいます。そして16世紀後半にポルトガルがイスパニアとの同君連合となっていったんアヴィシュ王朝が滅んだ後、1640年に再独立した際にはブラガンサ王朝を開いて自ら王家となります。
このブラガンサ王朝は19世紀にナポレオンに侵攻されていったんブラジルに亡命した後も命脈を保ち、ブラジル帝国の君主として、また20世紀まで続いたポルトガル王家の最後の王朝として、第一次世界大戦の直前まで存続していました。


ブラガンサ公の謀略
1446年、アフォンソ5世は14歳となり成人を迎えます。
普通ならこの時をもって摂政役のペドロは役割を終えるのでしょうが、若年のアフォンソ5世にとってはいきなり親政しろと言っても無理な話で、ペドロに引き続き側近として助言を与えてくれるよう要請します。そしてこの若年のアフォンソ5世に、ブラガンサ公爵が親族衆として接近して来たのでした。
ブラガンサ公の最初の狙いはアフォンソ5世に王妃として自分の孫娘を嫁がせることでしたが、これはペドロの娘(つまりアフォンソのいとこ)が決定する事で断念します。(まあこれで更にペドロを恨むわけですが・・・)
更にブラガンサ公はアフォンソに対し、母レオノールの死にペドロが関わっていたと吹き込みます。恐らく全く無関係ではなかったのでしょうが、こんな感じでアフォンソとペドロを引き離そうとするブラガンサ公の策謀は次第に効果を上げてゆきます。

1448年、遂にアフォンソ5世は摂政ペドロを解任します。
その命令の影にはブラガンサ公の策謀があった事をペドロは感づいていましたが、賢明なペドロはむやみに反抗することなく、この時おとなしく領地コインブラに戻って引退します。
しかしブラガンサ公の策謀はこれで終わりませんでした。
『親王ペドロに謀反の気配あり』 
ペドロが去って旧貴族派が発言権を強めていったポルトガル王宮でこんな噂が流布し始めます。これを疑ったアフォンソはペドロに出頭命令を出しますが、このいわれのない嫌疑に対してもペドロは従い、リスボンの王宮に出頭しようとします。ただ、この時はさすがに無実の罪に落とされようとしているペドロの窮地を救う為に両者の仲裁としてエンリケが動き、ペドロとブラガンサ公は共に引いて領内に戻ったといいます。

この後、ブラガンサ公によるペドロ離反の謀略はアフォンソだけでなくエンリケにも及びます。ペドロが翻意を抱いているから注意するようにと言う文書をエンリケに送るのですが、元々ペドロと仲の良いエンリケがこれを信じるはずもなく、逆にペドロの元に赴いてその手紙を見せたといいます。


ペドロの最期
あの手この手を使っても謀略に乗ってこないペドロに対し、
ブラガンサ公はいよいよ強引な手段に出始めます。
『コインブラ公領へポルトガル軍が通過するから認めるように』
ポルトガル軍と言っても実際はブラガンサ公の手勢です。そもそも公爵領は最高裁判権など一部の王権を例外としてその公爵にすべての権限を認めた特別領であり、一個の国に近い自立権を有していました。そこに謀反の嫌疑が掛かっていたとは言えブラガンサ公の息の掛かった軍隊を通過させろと言うのですから、これはペドロにとってもかなりギリギリの命令だったと思います。

おとなしく従えば事故に見せかけて襲われる危険がありますし、
拒否すればそれを謀反の証拠として逮捕されるのが目に見えていました。
この命令に対し、ペドロは遂に兵を挙げます。
ブラガンサ公としてはしてやったりでしょうが、ポルトガル国内の権力闘争は遂に内戦にまで発展してしまったのでした。

それにしても、ブラガンサ公爵のこの辺の余りにもミエミエで強引な謀略ぶりは、徳川家康が秀吉亡き後の豊臣家を滅亡させるまでのプロセスに酷似していて日本人としてはちょっと興味深いところ。

1449年5月、ポルトガル軍とペドロのコインブラ軍は現アルヴェロカ近郊のアルファルロベイラまで進軍し対峙します。
緊張感が高まる中、突如ペドロの手勢とポルトガル軍の間で戦闘が始まってしまいます。しかし元々少数に過ぎないコインブラ公軍はポルトガル軍に押され、ペドロの周辺は彼が意図しないまま戦場となっていました。
そしてこの混乱の中、一本の矢がペドロを貫きます。
57歳のあっけない死。
主君を失ったコインブラ公軍は離散し、戦場に放置されたペドロの遺体はその後近くの小屋に運ばれますが、初夏にも関わらず3日以上もそのままだったので腐敗して悲惨な事になったといいます・・・。


戦後
ペドロに掛けられていた嫌疑は全く根拠のないものだったことが明らかになります。
そしてこの内戦によるペドロの死に対して、彼を知るヨーロッパ諸国では非難の声が上がります。
中でも激怒していたのが、ペドロの妹を妻としていた 『善良侯』 ことブールゴーニュ侯フィリップ。
ペドロの遺児2人をブールゴーニュ侯領内に保護すると、
一人はキプロス島の王女と結婚させてアンティオキア公に、
もう一人をリスボン司教から枢機卿にまで育て上げたと言います。

一方、権力闘争に勝利したブラガンサ公爵家。
ペドロの死後アフォンソ5世の摂政として権勢を振るいます。
エンリケに対しては特別敵意をもたなかったブラガンサ公はエンリケのアフリカに置ける権益には手を付けませんでしたが、最大の支援者だったペドロを失ったエンリケのアフリカ事業は1449年以降やや停滞を余儀なくされます。その方向は新規の探検よりも収益性が重要視され、冒険者より商人の時代に入りつつありました。

尚、ポルトガルがアフォンソ5世から母方の祖父にペドロを持つジョアン2世の時代に移ると、祖父ペドロを謀略をもって死に追いやったブラガンサ公爵家は粛清の対象となります。そして、ブラガンサ公爵家が再び親族衆の重鎮として政権内に復帰するのがちょうどいまDOL世界が展開している16世紀前半だったのでした。


いかがだったでしょうか。
ブラガンサ公、極悪ですね。
ちょっと長くなりましたが、リスボン王宮内の真ん中にいるあのお方の先祖と、
エンリケ航海王子の世代のポルトガル王家の間には、これほどの抗争があったのでした。



おしまい。


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  1. 2008/11/22(土) 18:43:40|
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エンリケ物語 その11

発見と収奪と


1441年にヌーノ・トリスタンがブランコ岬まで到達し、西サハラで多数の奴隷を獲得した事は、エンリケだけでなくペドロなど他の王族、そしてその匂いを嗅ぎつけた大都市の商人層も注目し始めます。
『探検はカネを生む』
この年以降、西アフリカ事業は一気に加速します。
1442年には再びゴンサルヴェスが派遣されて10人程の奴隷と少量の金を手に入れ帰還。
更にペドロ配下のシントラとディアスが派遣されてブランコ岬一帯を探索します。


アルギン建設
続く1443年、帰還したディアスの報告によりブランコ岬の南に絶好の停泊地が広がっていることを知ったエンリケは、トリスタンにキャラベル船団を編成させてここへ送り出します。到着したトリスタンの船団は、ブランコ岬の南で天然の良港と豊富な水・果物が取れる島を発見し、現地で拠点施設を建設します。
これが実は現在のアルギン島でした。
ポルトガルにとっては最初の西アフリカ基地・交易所となるアルギンの設置は、西アフリカの現地住民から買い入れた金を扱う商館として、また重要交易品である奴隷を獲得する前線基地として16世紀まで重要な役割を担います。そしてここを足掛かりとした探検事業は遂に内陸、そしてギニアへ足を踏み入れる事となります。現在DOL世界のアルギンでポルトガル語が使えるのはこうした背景からですが、経緯を考えると領地でもいいんじゃないかとも思いますね。

翌1444年、エンリケの家臣ランサロテは6隻もの大規模なキャラベル船団を組んでアルギンを訪れ、ここを拠点としてなんと240人近い奴隷を入手して(表現的にこれでいいのか段々悩むんだけど・・・)帰国します。この時の売り上げは主君エンリケの領地から上がる収穫高とほぼ同額の94万レアル(小麦にして2000トン以上の金額)を上げたといいますから莫大なものでした。


ヴェルデ到達
同じ1444年、ペドロの家臣ディニス・ディアスがヴェルデ岬を越え、更に帰還途中で沖合いのヴェルデ諸島の東部にあるパルマ島を発見します。ポルトガルはいよいよ西アフリカの西端に到達したのでした。
このディアスは後にアフリカ南端を発見するバルトロメウ・ディアスの父に当たる人物。ディニスの父の代からポルトガル王家の直臣となってディニスも幼少の頃から王室の従者として育てられたわけですが、奇しくも親子3代でアフリカ西端と南端を発見する事になるのですね。

そしてヴェルデ岬の到達はポルトガルに新たな世界を提示します。
サハラ砂漠はこの先で途切れ、そこから南東に続く海岸では北・西アフリカと全く違う民族が住んでいたのです。そう、漆黒の肌を持つ黒人の世界が・・・。アズララのギネー発見征服誌でいうギネーとはつまり『黒人の国』ギニアの事ですが、ここから東に伸びるギニア湾までの地方は正にヨーロッパにとって宝の山でした。
1444~1445年に送られたキャラベル船団の数は分かっているだけでも42隻。
これは一年間にリスボンに寄港する商船の1割近い数字に相当します。既にそれだけのキャラベルが造船され、西アフリカに送られていたというのですから、商人層まで参加する一大事業に育ちつつあった事が伺えます。


アフリカ図1444年


収奪から交易へ
また、当初は一方的な収奪・誘拐など攻撃的な姿勢で臨んだポルトガル人ですが、出資者・後援者である摂政のペドロはさすがにグローバルな視点を持っており、平和的な態度で交易する事が結局は発展性がある事を早い段階で見抜いていました。1446年以降のポルトガル船団は次第にマリなど現地の黒人国家の隊商と接触を始めますが、その交易はだんだんと平和的な方向で軌道に乗り、莫大な収益を上げ始めます。(平和的に奴隷を買い取ると言うのはどうなんだって話もあるけど・・・)
特に、後で記述する予定ですが金交易はポルトガルの富の源泉となります。
この少し後でポルトガル王室が金貨を発行してくる事が何よりの証拠でしょう。


こんな感じで、1440年代の時点でサハラ砂漠の海岸線を越えたポルトガルの探検は収益を上げる有望事業として実を結びつつありました。しかし、その一方でポルトガルの国内では次第に不穏な空気が充満しつつあったのです。エンリケやペドロのもとで新たな騎士階級や商人層が着実に成功しつつある中、急速に進行する商品経済・インフレに危機感を感じていた旧来の土地領主・貴族層は反感を募らせていたのですから。そしてそれは、ある人物のもとに糾合され、次第にポルトガル王家にとって無視できない権力闘争となって火を噴くことになります。

次回、意外な人物が主役となります。
少なくともポルトガルの人なら見逃せないっ!




おしまい。


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  1. 2008/11/21(金) 07:33:02|
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エンリケ物語 その10

新型船の登場


進水
1441年、リスボンの造船所で艤装を終えたある新型船が出港します。
これまでの商船ナウ(ナオ)よりだいぶ小さく、大きさは50トン程度。
船首船尾楼は無く、一層甲板・喫水は浅めでやや船幅も狭いスマートな船体、それでいて複数のマスト、特に前部マストに巨大な三角帆を備えるという、これまで地中海でも北海でも見た事のない船がそこにはありました。地中海と北海の船が共に訪れる中継港リスボンでもその姿は人目を引いたことでしょう。そしてその船がガレーかと思うような敏捷さで港外に出て行く姿にリスボンの人々は感嘆します。

この船を指揮していたのは、エンリケの家臣で衣裳係をしていた若者アントン・ゴンサルヴェス。
既にこの前年には完成していたと思われるこの船こそが、
記録上では初めて登場する事になるポルトガルの新型船・カラヴェル(キャラベル)だったのでした。
このキャラベルの登場により、ポルトガルの探検事業は一気に進展します。
商船と比べればはるかに小型な船体ながら、既にキャラベルはかなりの長距離航海を乗り切るだけの航行性能・小人数でも運用できる軽便性を備えていたのです。


カラヴェル船


しかしキャラベル船の当時の構造・造船方法は、実は良く判っていません。
その基本設計図はポルトガル王室管理の重要機密文書であり、他国はおろか一般のポルトガル人ではそれを覗く事は許されなかったのです。実際、15世紀の末期にならないと他国ではキャラベル型帆船は登場しません。しかもポルトガル側から出てくる資料・記録もごく少ないという謎の船でした。
現在では著名なキャラベルはその復元船がいくつか存在しているものの、これはあくまで文書の記録やスケッチで判る限りで推測・復元させたものであり、細部がどうだったかは実際のところ謎なんですね。

キャラベルの設計には、エンリケの兄ペドロがヨーロッパ旅行で持ち帰った技術・情報、ジェノバから移住して来た技術者達のアイデア、更にこれまでの探検航海で浮かび上がってきた問題点の改善案などが活かされていたでしょう。これに、王室の造船所と木材の伐採権を握っていたエンリケの権力・財力が加わり、その配下の造船技術者によって誕生した、当時の海洋国家ポルトガルだからこそ開発できた技術の結晶とも考えられます。それだけに優秀な帆船の造船技術が流出する事に関しては過敏だったのかも知れませんね。

いっぽうこの時代、既にキャラックの原型となる船は登場しています。
しかし基本的に商船ですから積載量重視で喫水は深くて動きは重く、沿岸航海や川への溯上も多い未知の海域では座礁の危険があるため、探検には不向きだったのでした。キャラベル登場以前の探検者がバルシャやバリネル船など明らかに航行性能に不安のある船を採用せざるを得なかったのもこの辺に理由がありそうです。そして、後に改良が進んだキャラックは世界一周を成し遂げるほどの航行性能と積載性そして武装を兼ね備えた万能型の帆船に発展してゆきますが、こと探検航海においては機動性に優れたキャラベルには遠く及びませんでした。後にキャラベルのコンセプトはケッチ船やスループ船、更には現在の小型帆船などにもその影響が見られるほど、その完成度が高かったのですからまあ無理もありません。



黒歴史の始まり
さて、1441年に出港したゴンサルヴェスのキャラベル船、
一気にボジャドール岬を越えて西サハラに入り、以前到達していたオーロ川付近でアザラシの群を捕獲する当初の目的を達すると、更に上陸して沿岸部を探索します。そしてこの時、上陸したゴンサルヴェスは2人の現地人を捕らえ、エンリケに献上する奴隷としたのでした。
そう、この1441年はキャラベル登場の年であり、かつアフリカ奴隷史の最初の年となったのです。

同じ頃、エンリケは配下の青年ヌーノ・トリスタンに2隻のキャラベル船隊を率いさせ、
ゴンサルヴェスの後を追うように出港させます。
その後、オーロ川の河口の停泊地リオ・デ・オーロでゴンサルヴェスと合流したトリスタンは、
ゴンサルヴェスの功績を称えると共にこう持ち掛けます。

『我が友よ、君の功は我が君によって必ずや賞されるであろう。
 しかしながら更に進んでより大いなる功績を挙げて見ようとは思わないか?』 と。

冒険心旺盛なゴンサルヴェスはこれを快諾し、こうして3隻となったキャラベル船団は更に探検隊を上陸させて内陸で現地人と遭遇、トリスタン自身が応戦する激しい戦闘の末、10人もの捕虜を得る事に成功します。この結果に満足したトリスタンはひとまずゴンサルヴェスの船に奴隷と捕獲したアザラシを乗せて帰還させ、自らは更に南へ向けて出港したのでした。

その後、トリスタン率いるキャラベル船団は遂に海岸線が南東方向に変わる場所に到達します。これが、現在ではブランコ岬と呼ばれる事になる、ヴェルデ岬と並ぶ西アフリカの先端部分だったのでした。
多数のアザラシの捕獲、ブランコ岬の発見、更に多数の奴隷獲得という手土産を携えたトリスタンとゴンサルヴェスの帰還はエンリケを狂喜させます。そして戦功のあったトリスタンはこの功績によって騎士に取り立てられたといいます。


そしてこれ以降、ポルトガルの発見と開発を目指していた探検事業は新たな側面を見せます。
一つは宗教心と純粋な探求心。
もう一つは有望な開発地となる領地の獲得。
そしてここに、
アフリカの金・そして奴隷をヨーロッパへ運ぶ、戦いと収奪の側面を見せ始めたのでした・・・。




おしまい。


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↑次回は西アフリカ事業の最盛期を追ってみます。

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  1. 2008/11/19(水) 18:03:00|
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エンリケ物語 その9

挫折


1436年までに西アフリカの中段あたりまで到達していたポルトガルの探検事業。
アルギンまでもう少しと言う段階でしたがここで一時中断してしまいます。
その間、この年から数年に渡り、ポルトガル・そしてエンリケ自身がその力を他へ振り向けなければならない問題が起きていました。これを乗り越えた後、ポルトガルは再び飛躍し始めます。今回はそんな、エンリケの生涯でも屈指の辛苦と挫折を味わうお話です。

1433年8月、エンリケ兄弟の父であるジョアン1世が亡くなります。
カスティーリャの侵攻から貴族と民衆を率いてポルトガルの独立を守った英傑は74歳でその生涯を閉じたのでした。跡を継いだエンリケの兄ドゥアルテはこの時42歳。ペドロ・エンリケと言う優秀な兄弟に支えられたドゥアルテの治世が、その温和で思慮深く慎重な性格とは全く逆の方向に進んでしまったのは皮肉というほかありません。


タンジール
1435年、カナリア諸島の領有権をめぐって対立していたカスティーリャとポルトガルの間にローマ教皇が立ち、一応カスティーリャ王国にその権利ありと確認する裁定がなされます。(最終的に確定するのは1479年のアルカソバス条約)
前年にボジャドール岬を越える事に成功していたポルトガルにとって、西アフリカ事業の足掛かりとなるはずのカナリア諸島の権益を失うのは重大問題で、早急にこれに代わる戦略基地を必要としていました。
もちろん1415年から保持していたセウタはその任を果たしていましたが、セウタはジブラルタル海峡を通過した東側の港であり、できたらその西側、つまりモロッコの海岸側に基地を欲していたのでしょう。またカナリア領有からモロッコ進出が予想されるカスティーリャに対しても先手を打つ必要があり、この政略・戦略両面から注目された目標、それがタンジールでした。

西アフリカの地図にタンジールを加えてみます。

アフリカ図1436年

このように、セウタのちょうど岬を越えた反対側にあるのがタンジールの町でした。
確かにここを取れば完全にジブラルタル海峡を押さえられますし、セウタの孤立も避けられます。またリスボンから南下して西アフリカを目指す際の中継点としても使用できますね。こんな感じでタンジール攻略計画は自然と現実味を帯びてきます。何よりこの計画に最も積極的だったのがエンリケ自身とその弟のフェルナンドでした。
ただ、一方でアフリカ遠征に完全に反対する者、それから危険なアフリカでの制圧作戦よりもイベリア半島で未だ残っていたグラナダ攻略を優先すべきという声も根強くあり、新国王ドゥアルテもそれを支持していました。


決定
1436年夏、
既に予算・兵員の調達などを含めた遠征計画が始まっていたポルトガルで、
王族を集めた顧問会議が開かれます。
出席したのは国王ドゥアルテ、兄弟のペドロ・エンリケ・フェルナンド・ジョアン、
そして異母兄のバルセロス伯とその息子のオウレン伯とアライオロス伯の8名。

タンジール攻略に関しての各人の意見は次の通り。
(反対)ペドロ、ジョアン、バルセロス伯
(賛成)エンリケ、フェルナンド
(グラナダ案)オウレン伯、アライオロス伯

裁定者である国王ドゥアルテと軍の要職にあったアライオロス伯は立場を明らかにしなかったようで、ここでどちらかが反対していればタンジール攻略作戦はなかったかも知れません。結局判断に迷ったドゥアルテは会議の場での決断が出来ず、教皇に手紙を送ろうとするのですが、それを知ったエンリケは兄に強く迫って強引にタンジール攻略を認めさせたと言います。


タンジール攻略作戦
1437年、タンジール遠征軍が編成されます。
しかしこの計画は準備段階からしてセウタ攻略時とは全く違うものになっていました。
まず、14000人を予定していた兵員は実際には6000人ちょっとしか集まらず、前回参加したイングランドの長弓兵や諸国の騎士団などの参加もありません。また前回輸送を請け負ったジェノヴァやイングランドの船団も確保できず、補給面で不安を残したままの出発となっていました。また、民衆派の意見を代表していたペドロが反対の立場を取っていたように、リスボンなど大都市の商人層は前回とは異なり増税に対する不安から積極的に参加する姿勢を見せませんでした。
そしてなにより、この計画は既にモロッコ側に察知されていました。
セウタ攻略を許した教訓からタンジールでは町全体の防備が強化され、周辺諸国からは数万のイスラム兵が参陣しつつあったのです。こうした状況の中、1437年8月にエンリケの艦隊はセウタに到着し、9月になってそこから陸路でエンリケが、艦隊に軍司令官のアライオロス伯とフェルナンドが乗る形で出撃します。


敗北
陸路からタンジールの城下まで迫ったエンリケは9月下旬から攻撃を開始します。
しかし防壁を高くし警戒していたタンジールが10日やそこらで破れるはずもありませんでした。10月、周辺諸国からのタンジール救援軍が迫っていた事もあってエンリケはいったん郊外へ引く事を余儀なくされます。この時には既に王ドゥアルテからセウタへ撤退するよう命令が出ていたようなのですが、なぜかエンリケはこれを無視したのでした。
10月中旬、タンジール郊外でエンリケは完全に包囲されていました。
海上で待機するポルトガル艦隊も、当時まだ船に大砲を積んでいなかった事もあって補給も支援攻撃も出来ない状況の中、飢えに苦しむエンリケ率いるポルトガル軍の選択肢は降伏しかありませんでした。この時モロッコ側から提示された降伏の条件はセウタの返還。そして実行の確認の為に王子を人質として送る事となっており、エンリケはセウタへ帰還する代わりに弟フェルナンドを人質に出すこととなったのでした。


セウタかフェルナンドか
セウタに帰ったエンリケはそこでいったん待機し、ポルトガル本国の対応を待ちます。
ここでまたしてもポルトガル王宮は決断を巡って紛糾したのでした。
兄ペドロは即時返還を主張。
ドゥアルテも基本的にはフェルナンド解放を望んでいました。
一方攻撃に参加したアライオロス伯はセウタ返還に反対を主張し、
ローマ教皇もセウタの放棄には難色を示します。

判断に苦慮したドゥアルテはここでセウタからエンリケを呼び戻すのですが、エンリケにとってセウタは絶対保持の重要港であり、フェルナンドを解放して貰う手段としては賠償金によって図るべきという意見を示したため、セウタ返還は当面見送られる事になります。
その後、心労が重なったポルトガル王ドゥアルテはこの年の9月にペストで亡くなってしまいます。遺言では弟フェルナンドの解放のため、ドゥアルテの個人資産すべてを充てるように、またそれでも足りなければセウタを返還すべしと書かれていたと言いますが、この遺言は結果として完全に無視されてしまったのでした。

1443年、エンリケの弟フェルナンドは5年もの拘束の末に亡くなります。

フェルナンドの死に関しては、セウタの総督であり、タンジール攻略作戦の指揮を取っていたエンリケに最大の責任があったでしょう。これによって軍人としてのエンリケの声望は地に堕ちる事になりますが、それでもセウタ保持に固執したエンリケの真意が宗教的な理由なのか、西アフリカ事業を頓挫させる事を避ける政治的判断なのか、今では判りません。

ただ、結果としてセウタは保持され、後にタンジールはドゥアルテの息子アフォンソ5世の時代になって攻略される事で、ポルトガルはそれに続く南アフリカ・そしてインド洋への足ががりを確保します。
そしてこの敗戦はポルトガルに大きな教訓を残します。
人口が少なく、生産性も低いポルトガルは当然ながら陸上兵力は限られており、
陸軍での力攻めは利がない事を身を持って知ったのでしょう。
これ以降、広大な地域で必要な拠点を確保する際のポルトガルの基本戦略は海上戦力の活用が前提となって行きます。そして船に大砲が積まれ、大きな戦力となってくる16世紀になると、ポルトガルは小国ながら海上帝国と呼べる広大な海域を支配する強国に成長してゆく事となったのでした。


再開
タンジールでの挫折を取り戻すかのように、
エンリケは再び西アフリカ事業へと乗り出してゆきます。
実は探検事業が中断していた5年の間に、
リスボンの造船所では新型船が密かに開発されていたのでした。




おしまい。


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↑次回、いよいよあの船が!

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  1. 2008/11/18(火) 07:28:50|
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御礼

昨日で

当ブログが200,000HITを超えました。

始めて約2年半、エントリ数が670ちょっとですから、
平均して1日220PVの1回300PVくらいでしょうか。
大航海時代ONLINE世界の中の事をあまり書かないブログながら
ブログだけでなくゲーム内でもご声援頂くことがあり、
中のヒト的にはすごく刺激になってます。

皆さん本当にありがとうございます。

といっても別に終わるわけじゃないので
明日からまたマニアックなネタでマイペースに書いてると思いますはい。

おしまい。


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  1. 2008/11/16(日) 12:09:18|
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オスマン侵攻!

まさに奇襲

木曜日のメンテ明けで配置されていたオスマンの先遣艦隊に、
『あれっ?』
と思った方多いでしょうね。
試しに倒してみてのコメントからこれ侵攻来るなーと感づいたでしょうが、
まさか翌日に早くも攻めてくるとは思いませんでしたね。

タイミング的にはハロウィンイベントが終わってBCが始まる前日だから確かにアリですが、
私などは来週の土日月がクサイなと思っていただけに驚きました。
つか完全に奇襲食らった格好w

で、このオスマン艦隊、倒すと戦功が3・5・8・12ともらえて、
最終的に累積の戦功値でアイテムと交換というのはかつてのオスマンイベントと同じ流れでした。
350点の名君の宝剣はサンクスBOXでしか手に入らなかった財宝+2剣、
250点のヨハネ騎士団紋章は昔のオスマンイベントの時に貰えた別名四ッ矢サイダー紋章ですね。
個人的にはマルタ十字のこの紋章、DOLでは双頭の鷲や海竜と同じ位いい紋章と思うんだけど・・。


オスマン侵攻イベント01

精鋭艦隊が白兵じゃんけん後出しなのは前と同じ。
ただ、この精鋭艦隊けっこうすぐ混乱するのでそこで入れば数ターンで拿捕できます。
落とすのは豪商の宝箱・ライトシミター・交易品あたりなので、
まあサクサク狩って行った方がいいのかも。

で、今回は船窓商会員主体に児玉さんとことも合流してペア組みましたが、
何人かの始めて間もない方や海事やってない方を入れて戦功250以上出てましたから、
これしっかり戦える構成なら350くらいは届きそうですね。

それにしても、
告知も何もなしでいきなり発生するライブイベントですか、
なかなか新機軸でこういうのもいいですね。
また第二回があるらしいので時間が合えば参加してみたいかも。
こういうイベントは楽しめる内容で成立してさえいれば、
別に成果報酬とかはあんまり大した物でなくいてもいいのよね。



おしまい。


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ぽちぽちと。

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  1. 2008/11/15(土) 09:03:52|
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エンリケ物語 その8

挑戦

今月になって始めたこのシリーズももう8回。
なんだか普段になくハイペースで進んでもう中盤です。


ジル・エアネス
1434年、
エンリケの従士だったジル・エアネスは、当時ヨーロッパで世界の果てと思われていたボジャドール岬を越えて探検するようにというエンリケの厳命を受け、ポルトガル南部のアルガルヴェから出港します。実はこのエアネス、前年にもカナリア諸島から更に南下する探検航海に出ていましたがこのときは失敗してカナリア諸島で引き返してしまっていました。


当時、彼が探検に使用した船はバルシャ船。
バルシャはご存知の通り1本マストの小型船で西地中海では比較的早くから使用されてきた船種。DOL世界では最も小型な初期船として扱われていますが、このバルシャもだいたい15~30トン程度だったものが15世紀にはやや大型化し、最大で50トンクラスのバルシャも登場していました。
大きさだけで言うと後にアフリカ最南端に到達したバルトロメウ・ディアスの艦隊が使用していたキャラヴェル船がこの50トンクラスで、そう考えるとこの先DOLでもキャラベル並の大きさを持った改装型バルシャとか大型バルシャとか出ないかしらん。
ごめん脱線した・・・。


で、この時エアネスが使ったのは小型の 『Barca』 ではなく中型の 『Barcha』 と言う記述がありますからほんとの小船ではなかったのでしょう。ただ、1本マストに三角帆ですから取り回しは非常に優れていたものの、大型化し船尾舵を備えていても耐波性能はほとんどガレーと同レベルですし、逆風へ間切って進む能力も基本的には内海・沿岸で使用する船であり、未知の海域へ長距離探検航海するのはちょっと無謀と言うほか有りません。
まあ、現代でもインド洋では小さいダウ船で交易をしている所が有りますが、彼らは何百年もの知識の蓄積と経験があってやってる事で、外洋に出て間もないヨーロッパ人がよくこれで帰ってこれたなとすら思えます・・。


さて、アルガルヴェを出港したエアネス、
アズララの言葉を借りれば
『自分がこれから派遣される目的地に関して、
確実な情報を持ち帰ること無しには殿下の御前には決して姿を現すまい、
と深く意を決した』
というくらいに気合充分。
船員たちがビビリまくっているのをなんとかなだめ、
1434年、ボジャドール岬のやや沖合いを通過する事に成功します。
実際、ボジャドール岬からブランコ岬に達する西サハラあたりの海域は、モロッコからの海流とヴェルデ諸島に通じる北大西洋の海流が交差する地域に当たり、しかも海岸線は砂浜に隠れて切り立った崖と岩礁が所々に現れる為、沿岸航行は非常に危険な難所でした。
そんななかで恐る恐る通過したエアネスが見た光景、それは

『沸騰した海』 
とは岬の沖で潮流が交差してぶつかって確かにやや激しい流れであったものの、
その先は平坦な海面が続く普通の海面であり、
『赤い血のような川の流れ』
とはサハラの赤土が流れ出て赤茶色に濁った河川のことであり、
『怪物が棲む泥沼のような海』 
とは川からの赤茶色の泥土のあいだで大量に回遊していたボラの大群でした。

こんな感じで実際のボジャドール岬を越えた海域、それは確かに一つ一つは珍しいものの、落ち着いて見れば練達の航海者にとってはどうという事のない光景に過ぎませんでした。こうして、無事ボジャドール岬を通過して更に南へ航行したエアネスは、その先も海岸線が続いている事を確認し、更に上陸してからエンリケへの土産として 『聖母マリアの薔薇』 と名付けた現地の花を採集して帰還します。

中世以来航海者の間で信じられてきた事が迷信に過ぎないと判ったこの航海は、
みるべき発見物こそなかったもののその功績は非常に大きいものがありました。

後にこのエアネス、1460年頃には後の六分儀の原型となる象限儀を設計します。
これと、この頃ウィーンのレギオモンタヌス博士が完成させた天体運行表とを組み合わせる事でポルトガル船は緯度を知ることがある程度容易になり、エアネスは探検上の功績と遠洋航海技術の進歩の歴史の両方に大きな足跡を残したのでした。



遭遇
1434年、ジル・エアネスの報告を聞いたエンリケは直ちに行動に移ります。
従者アフォンソ・ゴンサルヴェス・バルダヤに命じて1隻の船を艤装させ、
エアネスの報告の裏付けを取る為ボジャドール岬の更に先まで航海してくるように命じます。

このバルダヤが使ったのはバリネル船。
バルシャよりやや大きく、1~2本マストで横帆と櫂を両方装備した船でした。
このバリネル船に乗ったバルダヤは2度航海に出て、
1回目にボジャドール岬から50レグア、2回目で120レグア先まで進みます。(1レグアは約5.5~6km)
そしてこの2回目の航海でバルダヤは大きな河口と絶好の停泊地を発見します。
これが現在のオーロ河で、ここをリオ・デ・オーロと名付けます。

河口に停泊したバルダヤはここで上陸隊を編成して内陸探索に向かわせます。
そして川沿いに40kmほど遡った地点で投槍を持った19人の現地人を発見すると、上陸隊はこの現地人に襲い掛かって1人を負傷させたものの自らも負傷者が出たといいます。この記述から既にこの時点であわよくば現地人を捕虜というか奴隷にする狙いがあった気がしますね。(奴隷に関しての話はまた後で書く予定です)
さて、その後もバルダヤは西サハラを南下し、更に50レグアほど進んだあたりでアザラシの大群を発見し、これを捕獲して帰還します。アザラシは航海者にとって非常に重要な獲物で、肉・毛皮はもちろんですがその脂肪は各種の油・船の防水用のシール材にも使われ、高値で売れてほとんど捨てるところの無い貴重な資源でした。



足踏み
こうして、1436年の時点でエンリケの探検事業はボジャドール岬の720km先まで進み、
ブランコ岬とその先のアルギンまであと少しという地点まで到達していました。
またマディラでは開発が軌道に乗りつつあり、ポルトガル王室でも発見と開発によって得た収益の一部をエンリケが取る権利を与えており、その資金はエンリケの領地収入を超え始めるほどにまで成長しつつあったのでした。

しかし、その後1441年までの5年間に送られた探検隊はわずか3回。
エンリケの探検事業への興味が失せたのではなく、
それどころではない事態が発生していたのでした。



おしまい。


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  1. 2008/11/14(金) 12:09:36|
  2. エンリケ物語
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エンリケ物語 その7

世界の果て

主にエンリケの家臣たちによって始まったポルトガルの西アフリカ探検、これの実施に当たってはエンリケ1人の主導によるものではなく、王家の人々を始めとした様々な人々の支えによって成立した部分は大きく、中には意外なところからも支援が有りました。
今回は探検の進行と共にちょっとこの辺の側面もみてゆきます。


ペドロの大旅行
1418年、つまりセウタ攻略の3年後にあたるこの年、
エンリケの兄ペドロが突然国外へ旅行に出てしまいます。
それも10年の長きに渡って。
セウタ攻略を成し遂げた一員でもあったペドロはヨーロッパ各地で英雄として迎えられ、様々な人の支援を受けます。例えばカスティーリャ王に面会したあとドイツ・ハンガリーでは神聖ローマ皇帝に従って各地を転戦し、ペドロに惚れ込んだ皇帝からヴェネツィア近くに領地を賜わったと言います。北イタリアで拠点を得たペドロはそこからヴェネツィア商人の船に便乗して東地中海に渡り、なんとコンスタンティノープル攻撃中のトルコのスルタンにも面会し、そこからカイロ・アレクサンドリアを経てイェルサレムにまで到達したといいます。その後、北イタリアからフランス・イングランドと回ってイングランドではガーター騎士団員に叙任されたと言いますが、どこまで真実かは不明としても、中世の王侯貴族の行動としてはかなり突飛だったのは間違いないでしょう。

ただこれ、一応ポルトガル王族の旅行ですから随伴として最小限の家臣たちも同行する必要が有り、長期の旅行となればかなりの資金が必要だったでしょう。実はこの資金、父のジョアン1世がセウタ攻略で国庫がほとんど空っぽになってしまっていた為に私財を処分してなんとか工面していたとも言われます。公的な地位では弟のエンリケに騎士団長職や拠点セウタの総督職など軍の要職を与えていた一方で、兄のペドロには親王としての公爵位のほかは特別みるべき職責を負わせていなかった背景には、この大旅行で不在だった事が影響していたんでしょうね。

しかしもともと英明な資質と社交的な性格をしていたペドロ王子、単に放蕩旅行をしていたわけでは有りませんでした。10年の大旅行によりペドロは 『中世人として旅立ち、近代人として帰ってきた』 と後世の歴史家に評される成長を見せたのです。
前述した神聖ローマ皇帝に北イタリアの領地を与えられたあと、ペドロはここを拠点としてヨーロッパ各地からもたらされる情報の収集と最新の金融・政治学・物理・数学・地理・工業技術などを入手していました。なにしろ15世紀初頭にヴェネツィア近郊にいれば、ヨーロッパでは最先端の情報・技術・学問が集積できたでしょうから。そして滞在先から兄ドゥアルテに向けて 君主の統治方法に関する考察を手紙にして送るなど、旅行期間中にもその成果はポルトガル本国にもたらされていました。

更にこのペドロ王子、イスラム世界のアレクサンドリアを訪れた事で、プトレマイオスの地理学や世界地図マッパ・ムンディ、アラブ人の航海技術など中世ヨーロッパ人よりはるかに広い見識に基づいた情報にも接した可能性が有ります。また、帰国直前の1428年にはヴェネツィア共和国の元首からマルコ・ポーロの東方見聞録を進呈され、更にヴェネツィア秘蔵の地図を複写してもらう為にエンリケに出費を要請する手紙を送った記録が残っています。

これらの情報・技術がエンリケに送られていたとしたら・・・。
まあ想像する分には自由ですからw

しかし実際、そこらへんの関連性の真偽はともかく、ペドロが帰国する1430年代以降、西アフリカ探検は急速に進みます。しかもポルトガルはその過程で緯度の測定方法や遠洋航海の技術・新型船の投入などを洗練させて行き、エンリケの事業が終わる1460年頃にはほとんど正確にアフリカからポルトガル南端のサグレス岬に直接帰って来れる様にまでなっています。

アフリカ図1434年
1434年時点の西アフリカ探検図


軌跡
1426年、ゴンサロ・ヴェリョがカナリア諸島東のノン岬を回航し、
ボジャドール岬の手前数百キロまで到達。
1427年、エンリケの家臣ディオゴ・シルヴェスによってアソーレス諸島が発見されます。ヨーロッパからかなり遠いこのアソーレスにも後に入植が行われ、小麦や染料が産出されるようになります。後にこのアソーレスを足がかりにして更に西へ航海する試みもなされ、北米大陸の手前で引き返すと言う実に惜しい挑戦もありました。もし、もう少し航続距離の長く、逆風にも強い高性能船に乗っていたらアメリカ大陸到達は数十年早くポルトガル人によって成されていたかも知れませんね。



限界
そんな順調に見えた西アフリカ探検ですが、1420年代も後半になってくると、
ある地点から先には全く進めなくなります。

ボジャドール(ボパドル)岬。

ジブラルタル海峡から南下すること1600km、
カナリア諸島から160~200km程に位置していた、
サハラ砂漠から大きく突き出した長い長い岬の先端。
当時のヨーロッパ人が考える世界の果てがそこでした。
そこから先は、
『海は沸騰し、怪物が棲む泥沼となり、血の色をした川が流れ込む』

こんな通説が本気で信じられていた時代でしたから、
いくらエンリケが船団を派遣しても、
そこから先に挑戦する航海者はいなかったのでした。
こうして、エンリケの探検事業は停滞したまま数年が経ちます。



挑戦
1434年、
業を煮やしたエンリケは遂に家臣ジル・エアネスを呼び寄せて
『何事にも惑わされず、何としてもボパドル岬を越えてくるように』
と厳命します。
主君の決意の程を感じ取ったエアネスは、
こうして世界の果てに挑戦する探検に出たのでした。

バルシャ船で・・・。



おしまい。


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↑次回、エアネスの運命や如何に!?

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  1. 2008/11/12(水) 21:37:23|
  2. エンリケ物語
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11.13から・・


この日からハンゲームで大航海時代ONLINEがサービス開始されるらしいですね。

全然違う層が来てどうなるか正直まったく想像つかないんだけど、
新しい人が増えるのは基本的に歓迎。

ただ、いわゆるモンスター的な人が増えてコミュニティ乱されるのはどうもね・・・。
リスボンのバザー出品者としては心配な反面なかなか興味深いので当面観察していようと思います。

で、気になってるんだけど、
最近の能登リスボン、ちょっと無秩序化してない?
悪質なシャウトや人を陥れるような言動が目立つのが、どうにも気になって仕方ない。

こういう状況で新たな人が来てどうなるんだろ・・・。



おしまい。


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  1. 2008/11/11(火) 16:41:44|
  2. 雑学
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エンリケ物語 その6

アフリカ探検の開始


今回から、エンリケの主導によって始まった西アフリカ探検の軌跡を追ってゆきます。
大航海時代全体におけるポルトガルの動きを大きく4段階くらいに分けるとするなら、

1)15世紀前半のエンリケ航海王子による西アフリカ事業
2)15世紀後半のジョアン2世時代の南アフリカ~インド到達まで
3)16世紀のインド・香料諸島到達から中国・日本来航とスペイン併合時代まで
4)17世紀のイギリス・オランダとの抗争による香料諸島・インド権益喪失まで

だいたいこんな感じになると思いますが、
このうち最初にあたるエンリケ時代も大きく2つの時期に分かれていました。
まず前半が、1415年のセウタ攻略から1434年のボジャドール岬到達まで。
そして後半が、1441年の西アフリカ探検再開から1460年のエンリケ死去まで。
この間に当たる1435~1440年に何があったかはこの先書くとして、
このシリーズの中盤としては前半部分を見てゆきます。

それから、今回から例によって記事の進行に合せて地図を書き込んで行きます。
アフリカを扱った地図素材の困るところは、多くの地図が大西洋をはしょってしまうのでヴェルデ諸島やアゾレス諸島が見切れてしまう点ですね; 今回使う地図素材もアゾレスの位置がだいぶ怪しいのですがご容赦を。

アフリカ探検図01
※1420年までの西アフリカ探検図


マディラ発見
1419年、カナリア諸島からの航海の帰りにあったエンリケの家臣ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコとトリスタン・ティシェイラは、普段とはやや西寄りに流されつつ北上していた所、ある島を発見します。これが今のマディラ本島でした。また同年、同じ航路をたどったバルトロメウ・ペレストレロがマディラ諸島の一つポルト・サント島を発見します。
彼らが航海に行っていたカナリア諸島は中世期からヨーロッパでは知られた存在で、14世紀の時点でスペイン人が探検していますし、後にポルトガルも領有を主張して15世紀には両者の争いになるなど比較的早くから開発が始まっていました。(スペイン領と確定するのは1490年代頃だったかな)
で、15世紀になってカナリア諸島への航海が活発になってゆくのですが、その過程でマディラを発見したのもごく自然な流れだったと思います。

と言うのも、DOL世界では完全な逆風でも船が進める設定になってますからあんまり気にしないかも知れませんが、カナリア諸島からジブラルタル海峡に向けてはモロッコ沿岸から吹く強烈な風と潮の流れが逆になる為、実際の帆船の場合はいったん北~北西に進路を取ってから北大西洋の西風をつかまえる必要が有りました。(DOL世界でもガレオン船でラスパルマスからリスボンに帰ろうとしたらこういう進路になりますよね?)

そしてポルトガル船にとってリスボンに帰るためにはスペイン船よりは比較的北に進路を取る必要があり、カナリア諸島から北北西にあるマディラ諸島は発見しやすい環境にありましたし、更に北西にあるアゾーレス諸島も進路の延長上に有りました。
また、14世紀中にスペイン(カスティーリャ王国)がマディラを発見できなかった(もしくは無視した?)のは、航海技術と船の影響もあったかも知れません。当時のガレー船やバルシャ船・バリネル船などでは航続距離に不安が有りますし、まだ緯度を測定する技術も確立していませんでしたから、逆風への航海でも沿岸からあまり離れない範囲での航行を基本としていたと思われます。

ところで、最初に一応 『発見』 という扱いにしていますが、実はこのマディラ諸島、既に古代ギリシア・ローマ時代には認識されていました。地中海・ヨーロッパ世界で一番最初にマディラを発見したのは恐らく古代フェニキア人。その流れを汲むカルタゴからは、60隻の船団を率いて西アフリカを探検航海してシエラレオネ付近に到達したと言われる航海者ハンノや、サハラ砂漠を横断して西アフリカに到達したマーゴ・バルカという人物もいますし、地中海世界では紀元前4世紀頃には既にある程度西アフリカの様子は知られていました。中世期を経たヨーロッパ人がその事を忘れていた、と言うか知識の伝承が途切れていたのはまあ無理ないところですが・・・。



マディラ開発事業
さて、マディラ諸島を『発見』したとされる三者に対して、ポルトガルはそれぞれの島の領有権を与え、開発する権利を与えます。その後1420年代に入り、マディラ開発が始まります。早い時期に起きた大規模な山火事によってマディラ本島に密生していた豊かな山林の一部が焼けてしまうと言う事故があったものの、これが逆に焼畑的な効果をもたらしてマディラでは小麦・ブドウ・サトウキビなどの農業が発展するきっかけとなります。1430~1440年代には早くも小麦の生産高が2000トンを超えていたといいますから、気候的にもかなり恵まれていたのでしょう。

そして、後にマディラでは小麦に変わって砂糖が莫大な利益を生む商品に急成長します。当時ヨーロッパで砂糖は超高級食材で、アラブから買い付けるルートを持っていたジェノヴァ商人が独占販売していたのですが、これにマディラ産の砂糖が殴り込みを掛けます。エンリケが亡くなる1460年代にはマディラで生産した砂糖の輸出高は90~100トンに達し、これはポルトガル屈指の大貴族となっていたエンリケの領地収入の数倍に当たっていました。
但しこの砂糖、高級品とはいっても大量供給と価格競争が起これば次第に価格は下落するため、大航海時代以降、砂糖は次第に平民層でも手が出る食材になってゆきました。また、マディラの砂糖はカリブ海の大規模な開発が進んでくると次第に競争力を失い、生産の主体はワインに移ってゆきます。現在のマディラの交易品で砂糖がまだありますが、時代の影響を受けるなら次第に買い付け量が減少しても不思議じゃないですね。


西アフリカへ
マディラの再発見と領地経営の大成功は、探検航海による領地獲得に大きな魅力を与えます。これ以降、西アフリカでの探検航海がポルトガルで有望な事業と認知されたのは、宗教的な欲求やエンリケの活動も大きいでしょうが、マディラの成功が閉塞感を感じつつあった貴族層・商人に新たなフロンティアを提示したというのも無視できない推進力を与えたからではなかったでしょうか。

次回は、世界の果てへ挑戦するエンリケの家臣たちの航海を。



おしまい。


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  1. 2008/11/10(月) 23:23:51|
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エンリケ物語 その5

軍人エンリケ


セウタ攻略!
1415年8月21日、エンリケ王子率いるポルトガル艦隊は山陰からセウタに接近し、ほとんど抵抗を受けないまま上陸に成功します。前衛部隊を指揮していたエンリケは当初の計画では街の前面にあった防衛陣地を攻撃する段取りになっていたようでしたが、実際セウタの守備隊は不意を突かれてこの陣地にほとんど兵を置いていませんでした。まさか嵐の後もポルトガル艦隊が残っているとは思っていなかったのかもしれませんが、これによってエンリケのポルトガル軍の前衛部隊はあっさりセウタ市内への侵入に成功し、ジョアン1世の本隊も上陸・侵入する段階で勝負は付いていました。

同日夕方、セウタは陥落します。
わずか1日の攻防戦におけるポルトガルの被害は騎士以上でたった8人と、2万という遠征規模にしては驚くほど少ない結果に終わりましたが、しかしとにかく、13世紀の聖王ルイの十字軍以降では北アフリカに初めてキリスト教徒の旗が立ったのでした。
セウタ市内にあったイスラムの礼拝施設は教会に変わり、城内では虐殺と略奪が行われたようですが、この辺の行動パターンというかメンタリティは中世からほとんど変わってないですね。


騎士叙任
8月25日の日曜日、セウタでミサが開かれ、ここでペドロとエンリケは騎士叙任の栄誉を受けます。この時エンリケの肩に置かれた剣は、セウタ遠征の直前に亡くなった母フィリッパから死の直前にエンリケへと贈られたものでした。
その後、セウタはメネーゼス伯を司令官とした2000~3000人程の守備隊が置かれ、ポルトガル軍はリスボンへと帰還します。帰国したエンリケは論功行賞で戦功第一と認められ、ポルトガルでは最初の公爵位となるヴィセヴ公に任じられます。また、兄ペドロはポルトガルの前首都だったコインブラ公に任じられ、兄ドゥアルテを2人で支えるよう期待されたのでした。エンリケの領有したヴィセヴはポルト(オポルト)南東の内陸にある町で後にここはワインの産地として知られるようになりますが、それはエンリケがここの経営に乗り出して以降の事になります。
また翌年以降、エンリケはセウタの総督職やキリスト騎士団長職など、責任と実収を伴う地位に次々と任命されてゆきます。更に、造船をする上で非常に重要な森林の伐採権をはじめマグロの漁業権や面白い所だと石鹸の専売権やサンゴ漁の権利などの様々な特権が与えられ、エンリケ王子は若くしてポルトガルでも屈指の財力を持った大貴族となっていました。そしてこれらの財政基盤は、後に西アフリカ探検事業へ乗り出す際の資金源として重要な意味を持ってきます。エンリケが何の実力もない単なる王子のままでは何十人もの航海者・船を送り出すことなど到底出来なかったでしょうから。


名声
セウタ攻略を実質指揮したエンリケの元にはヨーロッパ中から賞賛が送られます。
姻戚関係にあったイングランドではガーター騎士団員に叙任され、エンリケを軍の司令官にと要請してくる諸侯からの依頼が何件も舞い込んだといいます。中でも、ローマ教皇のエンリケに対する賛辞と支援はすさまじいものがありました。実際、セウタは占領後に司教が置かれた事からもキリスト教勢力が獲得した重要な橋頭堡と見る事も出来ます。勅書によりヨーロッパの諸侯に向けてセウタ防衛の責任者となったエンリケにあらゆる支援を与えるように、またセウタ防衛に参加するものは罪を免じるという宣言が出されます。

後から見るとこの頃が軍人としてのエンリケの絶頂期だったかも知れません。
しかし実際のところ、セウタへはポルトガル軍の主力が引き上げた直後からイスラム勢の激しい反撃が始まっており、防衛に当たっていたメネーゼス伯などは1日に2度も3度も出撃に出ていたといいます。またこれによってセウタに流入していたアフリカの金は途絶えており、イスラム商人の訪問も激減した事で商業都市としてのセウタの機能は止まっていたため、ポルトガル王国にとってセウタの維持は重くのしかかってきます。後にこの問題はポルトガル王室を二分する政治問題に発展しますが、エンリケは生涯を通じてセウタの保持を主張し続けたのでした。

確かに予想していたのとは異なり、セウタ攻略はあまり直接的な利益をもたらしませんでした。
しかしこのあと進出する西アフリカ事業において、セウタは重要な役割を担ってきます。
ポルトガル全体の飛躍を考えたときこれがどう言う意味を持っていたのか、
次回以降で見てゆく事にします。

と言う事で、いよいよこのシリーズも中盤、
西アフリカ編へと続きます。



おしまい。


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  1. 2008/11/09(日) 12:25:36|
  2. エンリケ物語
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エンリケ物語 その4

初陣

今回から、いよいよポルトガルの対外進出を描いてゆく事になります。
大航海時代の先駆者となった15世紀のポルトガル、
その第一歩は発見ではなく征服で幕を開けることとなったのでした。


発端
1411年、ジョアン1世の上3人の息子たちはそれぞれ成人に達していました。
長男ドゥアルテ20歳・次男ペドロ19歳・三男エンリケ17歳、ポルトガルでは14歳になった時点で成人と見なされ、王子たちはそれぞれ領地と家臣を与えられる事になります。この慣例に従い、王位継承者である長男ドゥアルテは別として、次男ペドロ・三男エンリケ共に親王家の主としての自立を始めていました。
そしてこの年、長年抗争が続いていたカスティーリャとの和平協約が締結され、これを機に王子達の騎士叙任を受けさせるべく、大規模な騎馬槍試合を開催しようという提案が持ち上がります。この提案にはジョアン1世も王子達も乗り気でしたが、これに待ったを掛けたのが財務長官のジョアン・アフォンソ。

『そんなものに出費を割くようなら、代わりにムーア人の土地でも奪いに行ったらどうですか?
 北アフリカのセウタなど格好の目標と思うのですが。』
 と。

確かに当時のセウタはアフリカ内陸で産出する金が北アフリカから地中海へ流通する主要なルートの一つであり、位置的にもジブラルタル海峡を押さえる意味で非常に重要な戦略港でした。


遠征計画
そしてこの提案、国王ジョアン1世よりも3人の王子たちが食い付きます。
模擬試合よりも実戦で腕試しをしたいという事でしょうか。
また新たな領土の獲得は、レコンキスタの完了とカスティーリャとの和平が実現した状況下では、騎士たちにとっては貴重な武功を上げるチャンスであり、リスボンなどの商人達にとっても市場開拓の機会と受け止められ、1年足らずの間にこの提案はかなり発言力を持つようになっていました。但し、決定者であるジョアン1世はセウタよりもむしろイベリア半島で唯一残っていたイスラム勢力のグラナダ攻略に関心を持っていたようで、カスティーリャ王国へ連合してグラナダ攻略をしてはどうかと打診しています。
しかしこの提案はカスティーリャ王に拒絶されます。
グラナダはDOL世界で言うとマラガから東に延びる海岸線に沿って割拠していますから、現在のDOL内では完全にイスパニア領内です。ここにポルトガルの影響力が及ぶのはカスティーリャ王としては避けたいのは言うまでもありませんでした。こんな事もあり、ジョアン1世の視線の先には次第にセウタが映るようになって行ったのでしょう。

1412年頃から、ポルトガル国内では攻撃先が決定されないまま、対イスラム勢への侵攻計画がスタートします。エンリケら王子たちもそれぞれ分担して各地方へ回って戦費調達の新税を集めに掛かり、造船所ではフル稼働で軍船・輸送船の建造が始まります。また同時に武具・馬具・革職人や縫製職人なども戦時の武具の生産に入るなど、ポルトガル国内では遠征に向けた準備が国を挙げて進行しつつありました。もちろん増税は一般市民にとって負担になりますし、このセウタ税はこれ以降も継続して徴収されるようになりますから、反対する声ももちろんあったでしょう。
しかし実際のところ、セウタ攻略戦に投入された人員は兵員だけで2万人以上、200隻以上の軍船・輸送船が使用されており、人口100万人そこそこの15世紀初頭のポルトガル※ではそれこそ国力の大部分がこれに投入される一大計画となっていました。(※16世紀の人口で140万人程度)

しかし、これ程までの軍備増強は周辺諸国を警戒させる事になります。
同じキリスト教国のカスティーリャやアラゴンなどは使節を送って確認する事ができたでしょうが、イスラム教国のグラナダやモロッコ、そして目標のセウタは攻撃ある事を想定して防備を固めに掛かるなど、1414年頃には既にジブラルタル海峡周辺では緊迫の度を増していました。



リスボン出港
1415年春、遂にポルトガルの軍備が整います。
ポルトガル北部での準備を担当していたエンリケ王子(当時20歳)などは70隻もの船を建造し、数千の軍勢を率いてリスボンに入港してきます。
そしてここで初めて、父ジョアン1世からエンリケに最終目標がセウタである事が明かされます。この戦いでジョアン1世はエンリケに先陣を任せるつもりでいました。真っ先に真意を伝えたのも、王子の中では軍人としての資質を見せ始めていたエンリケに最も期待していたからでしょう。

1415年7月23日、大船団がリスボンを出港します。
この時の陣容は次の通り。

国王ジョアン1世、
次男ペドロ、三男エンリケ、エンリケの異母兄バルセロス伯、
(長男ドゥアルテは国王代理としてポルトガル国内に残留)
国軍総司令官でジョアンの盟友のヌノ・アルヴァレス、
海軍と陸軍の両司令官、
またポルトガル国内の各騎士団長もみずから参戦。

そしてこれら首脳陣の指揮下に兵員2万、
イングランドから送られた長弓兵1千、
国外の騎士団員なども参加します。

合計すると兵員が計21000~22000人、
軍船が約60隻、
輸送船が約65隻、
補給船が100隻以上と、
中世末期のヨーロッパとしてはかなりの大艦隊だったことがわかります。
しかもこの頃の軍船の主力はガレーですから、
漕ぎ手と帆船の水夫も入れると総員3万人近い規模だったかもしれません。



セウタへ!
ところがあまりの大艦隊であった事と途中で無風状態に見舞われた為、最初の船がリスボンを出港してから船団がジブラルタル海峡東側のアルへシラスに集結するまでに、既に2週間以上が経っていました。こんな状況ではジブラルタル海峡から北アフリカ沿岸で暴れていた海賊たちが活動できるはずも無く、この異常な動きはセウタ・グラナダにも伝わってしまいます。間もなくセウタでは近隣のイスラム領主へ救援要請が飛び、城外では援軍が集結しつつありました。

一方のポルトガル軍、8月中旬になっていざセウタへ向かって出撃したはいいものの、
途中でまたしても荒天に見舞われ、艦隊はセウタのすぐ手前で大混乱になってしまいます。
しかし、ここでジョアン1世が無理をしなかったことが幸運を呼び込みます。
いったん攻撃を延期して機会を待つことにしたポルトガル軍、
嵐がおさまって艦隊が再集結するまでに更に1週間近くが掛かったものの、
その間に攻撃は諦めたと見たセウタの警戒体勢はいったん解かれていたのでした。

既にリスボンを出港してから1ヶ月近くが経った1415年8月20日の夜半、
ジブラルタルにいたポルトガル艦隊は再び対岸に向けて出撃します。
翌朝、セウタを目前にした大船団の先頭には、
先鋒として一番乗りが認められていたエンリケ王子の姿がありました。



おしまい。


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  1. 2008/11/08(土) 08:18:07|
  2. エンリケ物語
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西へ東へ

この先のシリーズは
いま書いてるエンリケ物語、珍しく大航海時代に関連の深いテーマにしてるせいか、
ゲーム内でも何人かに声を掛けて頂いたりと、いつになく反応があってうれしいところ。
このあとたぶん第6~7回あたりからいよいよアフリカ探検の話に入ってくるので、
このあたりでいつものように地図上で書き込みしていこうかなと思っています。
とりあえず、次回のセウタ攻略戦は今日書けるかどうかと言う所ですのでしばしお待ちを。

FC2-1107

これはFC2ランキングがありえないとこに載ってたので記念に^^



生産屋で生きるE鯖育成記
なんだか途中で止まっているこの企画、さすがに同時に2つのシリーズ物を進めるのは無理があるので、終わるまでじっくり暖めておくかなと思っています。いったん作ったんだし、ちゃんと育てる気はありますので。 テストプレー記事の何が困るって、当然だけどプレーした後に更新記事を書くわけで、そのブログを書く時間がないところ;



名物○○
今週は東>西>東と3日連続出張で計2000kmくらい車で移動し、今日やっと落ち着きました。
で、西に行った時に買ってきたのが例の伊勢名物・赤福。
包装と箱の封を開けたら箱の中にまで製造日(買った当日)が書いてあり、
かなり気を使ってるなと思いました。
しかし帰ってきたら家人と近所の親戚が揃っていないので
1箱自分で食べたらくるしいのなんのw
しかももう1箱残ってるんだがこれどうしたものか・・・。



おしまい。


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  1. 2008/11/07(金) 13:56:07|
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エンリケ物語 その3

エンリケ兄弟の成長


前2回までで見たように、エンリケの父ジョアン1世の治世となった頃のポルトガルは、国全体としては長年続くカスティーリャとの戦争で疲弊してはいたものの、海洋国家としては中継港として大発展しつつあったリスボンやポルトを象徴として非常に活力溢れる時代を迎えようとしていました。
これは、ジョアン1世が旧来の貴族層だけでなく都市のブルジョアジー層や手工業者、更には農民層までもが一丸となって支持して選出され、カスティーリャ王の介入をはねのけて成立した王であり、ジョアン1世もまたこれに応えて中層クラスの平民や従士などでも功あれば騎士に取り立てるなどして新しい支持層を作った事とも無関係ではないでしょう。
そして中下層の家臣を取り立て、大きな仕事をさせて成功したものには恩恵を与えた点ではエンリケもまたジョアン1世の方針を受け継いでいました。これがポルトガルの飛躍に大きく関係してきます。後にエンリケ航海王子の世代となってからアフリカ探検に乗り出した者たち、更にディアスなど決定的な発見をした者の多くが従士・騎士階級のこれら新しい家臣団とその子孫から輩出されて来るようになるのですから。


ジョアンの息子達
さて、15世紀に入った頃、ジョアン1世の宮廷はイングランドから輿入れした王妃フィリッパとの間に生まれた王子・王女達に囲まれとてもにぎやかな様相を呈していました。ちょっとここで、成年期に至るまでのジョアン1世の子供達を見てみます。

1388年、第一子ブランカ誕生(夭折)
1390年、第二子アフォンソ誕生(夭折)
1391年、第三子ドゥアルテ誕生
1392年、第四子ペドロ誕生
1394年、第五子エンリケ誕生
1395年、第六子ブリッテス誕生(夭折)
1396年、第七子ブランカ誕生(夭折)
1397年、第八子イザベル誕生
1400年、第九子ジョアン誕生
1402年、第十子フェルナンド誕生

まあ、なんというか、
なんだかんだ言って仲が良いというかやるこたやってますね・・w
王妃フィリッパはイングランドから多くの従者・侍女・管財人・聖職者などを連れて来てフランス式の宮廷儀礼をポルトガルに持ち込んだといいますが、王子・王女の教育にもかなりの注意と愛情を注いだ女性だったと言います。
またジョアン1世も、戦乱に明け暮れるだけでなくイングランドやフランスで重視された馬上槍試合を奨励して新しい騎士層の充実を図ると共に、息子達には騎士団長や高位の聖職者を招いて教育係に付けるなどして彼らの成長に心を配ったとされます。
月日は流れ、こうした恵まれた環境に育ったジョアンの子供達も成長してくるとそれぞれに特徴を持った形質を現してきます。今回はジョアンの上3人の子供達の人となりを紹介してゆきますね。


長男ドゥアルテ
まず夭折した4人の子供を除くと実質的に長男となるドゥアルテ、
彼を一言で表すなら『賢者』でしょうか。
幼くしてキケロやセネカ(古代ローマ期最高の哲学者の1人)の著述を好んで読み、いくつかの書物を自ら書き上げるという思慮深い性質を持っていた一方、次男のペドロと比べるとやや決断力が弱くて優しすぎる性格から、小国ポルトガルの舵取りを任せる後継者として大成するか不安視する者も居たと言います。


次男ペドロ
次に次男ペドロ、彼を表現するとしたら正に『天才児』。
兄ドゥアルテと同じく学問を好み、若くしてセネカの著述の注釈と改良書を書き上げた程の知性の持ち主でありながら弓馬の技術も優れ、しかも社交的な性格で弁舌爽やかなため宮廷の寵児となっていたと言います。しかしこのペドロ、なぜか父ジョアン1世は彼よりも弟のエンリケに目を掛けていた様で、これを不満に思った事が後にペドロが成人すると国外に飛び出して行った事の遠因となっていたのかも知れません。そしてその悲劇的な最期にも・・・。


エンリケ少年
そして三男エンリケ。
少年期のエンリケについてはあまり詳しい資料など残っていないのですが、後世の印象とは異なり意外にも学問に興味を示さず、むしろ剣術・馬術に秀でて狩猟に熱中するなど、かなり活発的な所を見せていたと言います。性格的には正義感に溢れて信仰心に篤く、しかも辛抱強い所があり、廷臣たちはエンリケ少年に若き日のジョアン1世の面影を見ていた者もいたようです。
そして、こうした三兄弟の人となりを見ていた父ジョアン1世、後にエンリケを兄二人をさしおいてキリスト騎士団長に任命するのですが、なんとなくうなずける話だなと思いますね。


王女イザベル
さて、ちょっと長くなって来てあれですが、最期に唯一生まれた王女イザベルについても言及しておきます。彼女もポルトガルが発展して行った上で大きな役割を担った一人でした。イザベルは母フィリッパが亡くなった後はポルトガル宮廷でいわゆるファーストレディ役を務めたためか、初婚は当時としてはかなり遅い32歳になってからだったものの、その相手は大物中の大物でした。

ブールゴーニュ侯フィリップ。

善良侯と呼ばれたフィリップはフランス王家の親族として、当時ヨーロッパでも最も裕福な大貴族でした。その所領はワインの産地で知られるフランス中南部のブールゴーニュ地方だけでなく北部沿岸で当時から織物を始めとした商工業の先進地域フランドルにも及んでいたこともあり、フランス王などより余程豊かな財力を有していました。ここに嫁いだイザベルはフランドルの主要都市ブルッへ、次いでアントワープにポルトガルの商館を設立させ、これによってポルトガルは貿易における北海方面の重要拠点を得る事になりました。この事は、ポルトガルにとって後世非常に重要な意味を持ってきます。インドや香料諸島から運ばれてきた香辛料の多くはリスボンだけでなくアントワープにも運ばれ、ここからヨーロッパ全域へと流通し、そこで得た銀によって再び香料貿易の艦隊が編成されるようになるのですから。

このように、英傑ジョアン1世の革命によって発展を迎えつつあったポルトガルでは、次世代を担う優秀な王子・王女達が歴史の表舞台に出るのを今かと待ち構える段階に来ていたのでした。


次回、
エンリケの初陣!



おしまい。


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  1. 2008/11/05(水) 23:52:11|
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資料読み込み中

この間から始めたポルトガルの話を補強するため、
DOLやりつつアズララの 『ギネー発見征服誌』 を読んでます。
しかしこの本、やたら長いのと平坦な記述で注釈も多いので10ページくらいで眠くなって困るw

で、
本読みながら出来るプレーといえば、長距離交易とバザーとタロット引き。
バザーとタロット引きで放置してる時間はプレーしてるのかと言うと甚だグレーゾーンなんだけどね・・。
まあそれはともかく、
とりあえず魔術師引いたのでポチポチしてたら、
スキアボーナの強化が40本スタートで最終的に80台で3本残った。
3本あるからとりあえず1本キープで壊れるまで叩こうかと思うけど、この件はまた明日。
明日もまた出張なので2日連続で朝3:30起きなのよね・・・。

おしまい。


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  1. 2008/11/04(火) 22:15:53|
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エンリケ物語 その2

海洋国家の片鱗


エンリケ航海王子を軸に興隆期のポルトガルを取り上げるシリーズの2回目。
前回はエンリケが生まれるまでの政治情勢を見ましたが、今回は商業や技術面、特に金融面と海運・航海・造船・人材などについてはどうだったのか、ちょっと振り返ってみます。


海洋国家
言うまでもなくポルトガルは国土の大部分が大西洋に面していますから、その発展を海上に求めるのは自然な流れだったでしょう。そもそも人口からしてフランスやカスティーリャなどの内陸国には遠く及びません。そしてポルトガルが海洋国家として地力を蓄えていく過程、そこにはポルトガル一国だけでなく、当時のヨーロッパ情勢が大きく影響していました。これはポルトガルの立地を考えると必然的な所で、13~14世紀当時、北は北海・バルト海の商業圏が、東に行けば地中海の商業・海運が完全に成立している、まさに中間地点に立地していたのですから。


リスボン遷都
まず、エンリケが生まれる150年前の13世紀中頃、既にポルトガルの王宮は内陸のコインブラからテージョ川の河口付近にある港町リスボア(リスボン)に移っていました。これはレコンキスタの一環でコルドバなどムーア人の主要都市がカスティーリャ勢の侵攻でグラナダを残してほぼ陥落し、ポルトガルでも最後に残ったアルガルヴェ地方の攻略によってポルトガルでのレコンキスタがほぼ完了した事と無縁ではないでしょう。国土回復なったポルトガルには、海に打って出る以外に発展の余地がなかったとも言えます。
※後にこのアルガルヴェ地方がエンリケ航海王子の所領となります。

実際、ポルトガルは急速に海洋国家としての体裁を整えつつありました。何しろ13世紀中頃にはポルトガルの王宮は専用の造船所すら保有しており、ポルトガル王は30隻以上の商船を運用する大船主だったと言います。こういった事例からも13世紀頃から海運が国家として非常に重要な位置を占めつつあった事がうかがえますよね。
しかし、まだこの頃のポルトガルは海運と言っても北と南の産物、例えば北海の織物・木材・馬や魚肉、地中海のオリーブ・ワイン・香料など、ハンザ諸都市やジェノヴァ・ヴェネツィアの商人が持ち込んできた産物を積み替えて運ぶだけの運搬業者と大差ない活動に留まっていました。これは、当時ヴェネツィアやハンザ同盟都市などで発展し始めていた銀行・為替手形・複式簿記など高度な金融決済のシステムがまだポルトガルには整備されていなかったのと、それを導入・運用する大商人・船主・造船技術が育っていなかったとも考えられます。


ジェノヴァ人の移住
これが大きく変わり始めるのは14世紀に入ってから。
1317年、当時のポルトガル王ディニスはジェノヴァの商人ピサーニョと契約し、交易上の特権を与える代わりに王室直属の提督として20人の航海者を誘致し、リスボンの海運発展に尽力するよう命じます。
そして1338年、フィレンツェの銀行家・バルディ家の一族がポルトガル国内での貿易・金融などの特権を許可されてリスボンに移住してきます。このバルディ家は高度な金融システムと地中海の優秀な帆船をいち早くポルトガルに持ち込み、フランドルや北イタリアの織物・武器・地中海の穀物など国外の主力商品の直接買い付けを行う大規模な貿易を導入し大成功します。そしてこれに刺激された他のイタリア系商人も次々とリスボンを訪れるようになってきたのでした。
で、現在DOL世界でリスボンの商業地区にいるバルディ頭取、フィレンツェのバルディ本家はこの後いったん破産していますが、イタリア語や食料品取引を教えてくれる彼って、果たしてこの移住して来たバルディ家の子孫なのかちょっと気になるところ。

ところで、14世紀に入ってイタリア勢、中でもジェノヴァ人が多くリスボンを訪れるようになったのは、恐らくこの時代に東地中海で争っていたヴェネツィアとの競争で劣勢を強いられ、次第に権益を失っていった事と無縁ではないでしょう。特に1378年のキオジア海戦でヴェネツィアがジェノヴァを破って以降、東地中海から締め出された多くのジェノヴァ人が西を目指すようになります。そして西地中海や北ヨーロッパで貿易を行う際に必要な港として、イベリア半島の西端を回った位置にあったリスボンが立地的に非常に恵まれていたのは言うまでもありません。

こうして14世紀の後半になると様々なイタリア人がリスボンに移住してくるようになります。その中には商人や船乗りだけでなく船大工・地図製作者・数学者・銀行家などかなり多彩な人々もおり、これらの人々がもたらした技術や情報が発展期のポルトガルにとって大いに生かされて来ることになります。この頃にはポルトガル船の活動範囲はギリシアからノルウェー沿岸にまで達していたと言いますから、既に南と北を繋ぐ交易の重要な位置を占めていたでしょう。また、恐らくリスボンの港には地中海のラティーン船と北海のコグ船が行き交う不思議な光景が見られたでしょう。しかしこの事が、後にポルトガルで新型船が生まれる土壌となったとも考えられます。


15世紀へ
こうして、エンリケが生まれる14世紀末~15世紀初頭になると、リスボンには地中海や北海から来航してきた船が年間400~500隻に達するなど、海洋国家としてのポルトガルは着実にその地位を確立しつつありました。またエンリケの父ジョアン1世は旧来の貴族階級だけでなく新たに台頭しつつあった商人など平民を優遇し味方につける方針を打ち出しており、国としても非常に活力溢れる時代を迎えようとしていました。

そして15世紀、いよいよポルトガルが外洋に打って出る時を迎えます。
次回は成年に達したエンリケほかポルトガルの王子達の活躍を見てゆきます。
人にしても国にしても興隆期のことを書くのは楽しいですね。



おしまい。


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  1. 2008/11/03(月) 18:15:28|
  2. エンリケ物語
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エンリケ物語 その1

航海王子の誕生

といっても元スペイン代表のルイス・エンリケとは関係ないお話。
(そういえば彼ヒホン出身らしい)

大航海時代の扉を開き、ポルトガル黄金時代の礎を築いたとされる偉大な政治家。セウタ攻略に参戦し、北アフリカにヨーロッパの旗を立て、騎士団長を務めた勇敢な軍人。レコンキスタの勢いそのままにキリスト教国探求に燃えた宗教家。大領主として数々の航海者を支援し、同時に植民地の開発にも着手した実業家。今ではいくつかの事柄が疑問視されるなど実像が大きく変わりつつある謎の人物。そう、航海王子と呼ばれたポルトガルの第三王子、ドン・エンリケがこの話の主役です。

って事で、今回から珍しく大航海時代ど真ん中の人物を取り上げてみようかと思います。普段の打倒ブログは歴史テーマと言っても、誰?どこ?クエ出てたっけ?なくらい大航海と関連薄いマニアックな話ばかりですから、たまには普通の人でも関心湧く内容で書いてみようかな、と。併せて、年代でいうと1350~1500年あたり、彼の生きた時代の前後で大きく飛躍してゆく事となるポルトガルの背景や周辺の事も書く予定で構成立てましたが、まあいつもどおり途中で脱線すると思うのでそこら辺は適当です(ぇ

さて、彼の生きた時代を見る前に、それ以前のポルトガル及び周辺の情勢からエンリケの生まれる前までを振り返って見ます。


混迷のポルトガル
まずエンリケ航海王子の出自から。
エンリケの父は当時のポルトガル王ジョアン1世(1357~1433)。
父ジョアン1世は庶子ながら若い頃には騎士修道会の団長を務めていた優秀な軍人でしたが、庶子がポルトガル王となった経緯はだいたい以下のような流れから。
まず、ジョアン1世が王となる以前のポルトガルは隣国カスティーリャ王国に対してかなりの劣勢で、1370年代に結んだ協定では 『ポルトガル王に嫡子がない場合はカスティーリャ王妃がポルトガル王位を継ぐ』 というような状態でした。
そして、前王でジョアンの兄フェルナンド1世が1383年に早世すると、当然ながら隣国カスティーリャ王国が介入し、協定により新たにカスティーリャ王妃ベアトリス(フェルナンドの娘)がポルトガル王位を継ぐと、これに反対するポルトガル国民との対立により国内は大混乱に陥ります。

ここで、混乱状態に陥ったポルトガルで圧倒的支持を受けてカスティーリャ勢に立ち向かったのが、既に27歳に達し、テンプル騎士団の流れを汲むアヴィシュ騎士団の総長となっていたジョアンでした。ジョアンはカスティーリャ勢を撃退する事で翌年ポルトガル王に推され、ジョアン1世として即位します。その後もジョアン1世はポルトガルに侵攻してきたカスティーリャ・フランス連合の大軍を寡兵で撃退するなどしてポルトガルの独立を守ります。エンリケ航海王子や他の王子が見せた軍人としての才能は、間違いなく父ジョアン1世の血を受け継いだものだったでしょう。



父ジョアン1世の即位前後の動き
1384年
リスボンに侵攻して来たカスティーリャ軍を撃退。

1385年
ポルトガル王に選出される。
同年秋、3万の大軍で侵攻して来たカスティーリャ・フランス連合軍を、わずか6千のイングランド・ポルトガル連合軍で迎え撃ち、アルジュバロータの戦いで完勝、これを撃退する。

1386年
ポルトガルがカスティーリャ王国に対抗する為イングランドと同盟を結ぶ。

1387年
イングランドのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパと結婚。



エンリケ誕生
その後、ジョアン1世と王妃フィリパは1391年に長男ドゥアルテ・1392年に次男ペドロをもうけます。そして1394年、エンリケがポルトガル王の三男として生まれたのでした。(実際には5番目の子ですが、上2人が早世した為に実質三男。また、エンリケの下には後に聖人となるフェルナンドという弟がいました。)
ちなみに、母方の祖父ランカスター公の息子ヘンリー4世、孫のヘンリー5世、ひ孫のヘンリー6世はそれぞれ後にイングランド王に就きますから、エンリケ航海王子は当時の歴代イングランド王とは叔父・従兄弟など非常に近い血縁だった事になります。更にランカスター公の血を引いたマーガレットという女性のひ孫が後のエリザベス女王となってきますが、後世イギリス国内でエンリケ航海王子が非常に高い評価を受けてくるのは同じ海洋国家の先駆者としてだけでなく、血縁的な親近感もあったかも知れませんね。



さて、英傑ジョアン1世とイングランド出身の母から生まれたポルトガルの3王子、
エンリケ自身もそうですが上の兄二人も非常に優秀でした。
まず後継者としてポルトガル黄金期の政務を執った長兄ドゥアルテ、ヨーロッパ中を外交兼視察の大旅行をして対外関係を強化すると共に貴重な情報を持ち帰った次男ペドロ、そして兄王子二人の成果を元にアフリカ・大西洋に打って出た三男エンリケ。
両輪どころか三輪体制で15世紀を迎えたポルトガルは飛躍を始めます。

ただしこのポルトガルと言う国、
ジョアン1世と彼の息子の世代でゼロから急激に発展した新興国というわけではありませんでした。
次回はエンリケ以前の、海洋国家として発展してゆくポルトガルを見てゆきます。




おしまい。


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  1. 2008/11/02(日) 11:29:32|
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