打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

イスパニア物語 その14

今回は大西洋岸を南下するレコンキスタの話。

大航海時代のポルトガルに直結する、かなりの重要人物が登場してきます。


(ポルトゥカーレ伯領の成立)
1064年、カスティーリャのフェルナンド1世が現ポルトガルの町ブラガを攻略し、
西部におけるレコンキスタ(再征服運動)はドゥエロ川付近にまで達していました。
その後1080年代になると、フランスからレコンキスタに参加したアンリ・ド・ブールゴーニュがイベリア半島北西部のガリシア地方を転戦してイスラム勢の侵攻からこの地域を防衛する任に当たります。1093年、カスティーリャ=レオン王アルフォンソ6世の娘テレサと結婚していたアンリ(エンリケ)は、これらの功績によって当時王国の最西端の町ポルトを領するガリシア地方南部及びポルトゥカーレ伯領を与えられます。
この辺までは以前書きましたね。

さて新たに最前線の領主となったアンリ(エンリケ)、その統治方法はガリシアとポルトゥカーレ両地域で異なるものを採用していました。
まず、領内の北側に位置する古くからレオン王国の領域だったガリシア地方では、旧来の地主・貴族層の影響力が強かった為、ある程度各領主たちの権限を尊重する形で旧来の封建的な統治を進めます。
その一方で、新しい征服地である南のポルトゥカーレ伯領内では植民活動を奨励し、このまとめ役としてレコンキスタに参加した民衆から生まれた新しい騎士層を重用して都市ごとに自治権を強化するという、都市の自立と支持層の育成を促す政策を取ったのでした。アンリは同時にローマ教皇との関係強化にも努めていたため、ポルトやブラガなど主要都市の機能と教会内での地位は着実に向上して行ったのでした。
アンリのこうした政策はレコンキスタの進展もあって近隣地域からも注目され始め、その支配地域は次第南へも伸びてゆく事になりました。アンリがなくなった1112年の時点でブラガは司教座都市に昇格していますし、その支配地域に現ポルトガル中部のコインブラ伯領も含まれるようになるのですから。

その後、アンリはたった1人、アフォンソという息子を残して亡くなります。
しかしこのアフォンソが父にも負けない英傑に育っていくのでした。


(アフォンソ1世)
1112年、わずか3歳でポルトゥカーレ伯を継いだアフォンソ、当初は若年のため母テレサの摂政下にあり、ポルトゥカーレ伯領の統治は母と親族のガリシア貴族・トラバ伯によって独占された状態にありました。しかも母テレサとトラバ伯は北部ガリシア地方をポルトゥカーレ伯領から分離させようと図っており、トラバ伯が軍の指揮権を握ってさえいたのです。
この状況に不満を持ったのが、先代アンリによって保護され成長しつつあった伯領南部の新興貴族たち。1120年、これら両派の抗争の結果新興貴族・騎士層に支持されたアフォンソは一時宮廷から追放されるものの、アフォンソが成長して行くにしたがってその支持層はどんどん増えて行き、最終的に1128年にアフォンソがサン・マメーデの戦いでテレサとトラバ伯の軍を破り、ポルトゥカーレ伯領の政権を奪回したのでした。
そしてアフォンソは同時に首都を南のコインブラに移し、ポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領を統合して南北の貴族双方を支持基盤とする独立国を築いてゆく方針を明確にし始めます。

こうしたアフォンソの強大化と独立化は当然ながら宗主国であるカスティーリャ=レオン王国を警戒させるものでした。いくらローマ教会の後ろ盾があったとは言え、アフォンソが独立を果たすにはまだもう一押し必要だったでしょう。
1137年、アフォンソはカスティーリャのアルフォンソ7世とトゥイで条約を結び、臣従を確認する代わりにポルトガル北部における領地の境界線を確定させる事に成功します。
このポルトガルとカスティーリャによる国境線、実はこれ現代にまで続く事になる、ヨーロッパでは最も古い時期に成立した国境線となったのでした。
現代ヨーロッパの主要な枠組みが決まることになるのは大航海時代も終わりに近付いた17世紀の30年戦争終結時のウェストファリア体制以降ですから、12世紀中盤での国境確定が現代にも残ると言うのはそれだけポルトガルの国としての確定の早さを物語っているかもしれません。


 ←ポルトガル王国の国旗 (中央にある5個の盾に注目!)


 ←現在のポルトガル共和国の国旗 (盾はまだ残ってる)




(オーリケの奇跡)
さて、1137年に北側の国境を安定させたアフォンソはいよいよ南へと打って出ます。
1139年、南へ進撃したアフォンソの軍はムラービト朝支配下のターイファ諸王連合軍と遭遇します。相手より遙かに少ない軍勢で戦う事になったこのオーリケの戦い、戦闘前に聖ヤコブが現れて勝利を約束したという奇跡が起きた事でも知られています。とにかくレコンキスタの守護聖人でサンティアゴ・デ・コンポステーラに墓があるこのヤコブの加護によるものか、アフォンソはイスラム勢の指揮官アリー・イブン・ユースフを破り、タイファ諸王5人を討ち取る大勝を挙げたのでした。(聖ヤコブの墓所、さんちゃご~!と叫んで突撃するのはイベリア的にはお約束。あと島原の乱でも叫ばれてるというメジャーな掛け声だったりもする・・・)

そういえばポルトガルの国旗を見ると5つの盾が描かれているのが見えますが、
これはそのオーリケの勝利を記念した事に由来するとも云われていますね。
その後、大きく南へと領域を拡げたアフォンソはその直後に取って返してガリシア地方に侵攻し、
宗主国であるカスティーリャのアルフォンソ7世に独立の承認を求めます。


スペイン地図1150年
※前回作った、リスボン攻略時点のポルトガル王国です。
既に北と東の国境線は現代のそれと全く同じ。


(ポルトガル王国の成立とリスボン攻略)
1143年、両者の間でサモーラ条約が結ばれてポルトガル王国が成立し、アフォンソはポルトガル王国の初代・アフォンソ1世として即位します。そして1147年、第二回十字軍の一環としてイベリア半島にも十字軍の分隊が派遣され、この援軍によりアフォンソ1世はテージョ川河口の町リスボアを攻略します。もちろんこれが現在ポルトガルの首都となるリスボンですが、これらの実績により1179年になるとローマ教皇庁が正式にポルトガルの王位を承認するようになったのでした。

さて、こんな感じでポルトガルが担当する事になった大西洋岸のレコンキスタは、この12世紀後半の時点で南部のアルガルヴェ地方などを残して大部分が完了していました。他の地域よりかなり先行していた事で後にポルトガルはいち早くアフリカ探検に乗り出す事に成功するわけですが、ここから先の話は去年書いたエンリケ物語に続くので割愛します。

次回はいよいよ13世紀、
足踏みを続けていたカスティーリャの猛攻が始まります。




おしまい。

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  1. 2009/01/30(金) 00:27:49|
  2. イスパニア物語
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地理ゲー

きのう教授が

これ面白いよって某地図ゲーム紹介してくれた。
ttp://games.dschini.org/play/7/globetrotter/
で、他にもなんかないかと探してたらこんなのが。


『地球力検定 トラベラーIQ』
って地図ゲームがあったので貼ってみました。
元データのURLは
ttp://www.tripadvisor.jp/TIQGame
ここからコピペして貼ったのが下のゲームです。


IQトラベラーは、旅行クチコミのトリップアドバイザー、及びウェブ初の旅行ブログTravelPodの提供です



けっこうLV8からがむずい;
わたし地理あんまり強くないので1回やってみたらLV10がやっとで、IQ112とか。
これLV12まで行く人たいしたもんです。
ちょっとお試しあれ。

DOLのプレイヤーなら予習しないで意外にやれるかも^^



おしまい。

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  1. 2009/01/27(火) 18:40:28|
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スエズ運河と名産距離

交易品を運べる仕様を考えて見る


2月17日のアップデートで始まるCP5・オスマンの脅威。
オスマン所属となるにはいろいろ条件付けされてるようですが、
スエズの運河勅命を達成することがその条件の一つに上がってるらしいですね。

んでこのスエズ運河、パナマと同じく人の移動のみで交易品は運べない設定らしい。
『オスマン籍はスエズ運河で交易品を運べたら良かったのにー』
って声がどうもあちこちで聞こえるのですが、その場合って東地中海からインド洋、インド洋から東地中海に運んできた交易品、特に名産品の判定はどうなるのでしょうか?あと価格は?
この辺をゲームバランス崩さないよう調整してからでないと実際の所導入できないんじゃないかと思うんですよね。ではどの辺が問題でどうしたら大きくバランス崩さないで導入できるかってのをちょっと考えてみようかというのが今回のお話。

まず現状では、東地中海とペルシャ・インド方面の名産距離は7~11くらい。
でもこれあくまでも西アフリカ>東アフリカと回って来た時の距離計算です。
利益はトルコ絨毯・ダマスク織などの織物系でだいたい数千Dって所でしょうか。

これで船1隻、例えばダマスク織やトルコ絨毯を800個積んで紅海近辺で売ると、
利益=3000~5000×800=2.4~4.0Mくらい。
経験=ばら売りした場合で、
   LV50の人で利益2500+名産2800=5300前後
   LV60の人で利益2000+名産2500=4500前後

運河の片道時間にもよりますが、東地中海/運河/紅海なら30分程度で行けるんじゃないでしょうか。オスマン籍だと運河の時間と料金が優遇されるらしいのでこの点も有利。んで帰りは帰りで何か高額商品積めばいいのでけっこう楽な航路が出来てしまいそうな気がします。たぶんこれ結構控えめな予測なので交易センスあるひとはもっと効率のよいこと考えるんじゃないでしょうか。
だけど、こんな感じでもし交易品積んだまま使える運河が出来たおかげで隣接海域に近い利用が出来るとなったら、仕様の抜け穴的に経験・名声・利益それぞれ著しくバランス欠くものになる超優良航路になっちゃう恐れは無いでしょうか。いあ、西地中海まで目を向けたらベルベットがありますし、マスケット銃もその対象ですね。

では、もしスエズ運河で交易品を動かせる方向で調整しようじゃないかと言う事になったとして、
どうやったらゲームバランス崩さずに導入できるのでしょうか?
仮定の話に仮定の条件付けるのですからもはや妄想の領域ですねw


 
 <①名産距離の見直し>
『私もう交易LV65だから名産経験なんて別に関係ないけどぉ』
なんて観点だとそもそも見ないで構いません。
確かにスエズの運河勅命やれるまでになる時点で中級者以上でしょうから、
稼ぐ手段・実力を持ってるでしょう。
んじゃLV制限が70になったらどうします?
楽してLVと名声が上がる手段があるとしたらどうします?
上記くらいの数字は経験だけなら羽毛やベルベット織でもそれ以上行けるでしょうから特に目くじら立てるほどでないと思うかもですが、ただ、ヨーロッパ圏が絡むお手軽手段と言うのはちょっと危険かなと。

新規で始める人の支援・サブキャラ以降の育成する人も当然いるわけですし、現状の仕様のまま導入すると交易で得られる経験・名声がえらいことにりますので、まずこれは修正対象の議題に上げることになりそう。
だけどこれをやると地中海と紅海だけの距離関係じゃなくて、例えば南アフリカのようなアフリカ西岸周りでもスエズ運河周りでも距離が同じような地域との関係がどうなっちゃうのか、あまりに複雑すぎて実際は見直し調整するのは無理な気がします。


<②売却価格の調整>
かつていくつかの代表的な近距離交易をつぶす時にも使われた価格調整。
価格をいじるのは高額商品だと確かに有効ですが、利益率が異常に高い香辛料とかだと効果が薄い事、それからちょっとでも利益出る場合は名産距離が結構あるので安直なLV上げに使われる可能性は残ります。またあんまり価格調整をやりすぎるとまともにアフリカ回ってくる人が全く面白くない交易になりますし、東南アジアへ行くため運河を時間短縮の手段にするだけの場合だと効果ありません。


<③交易品に関税を掛ける>
通行税と言ったほうが正確でしょうか。
例えば1個1000で買った商品に100%関税掛けて@1000払わせ、原価は2000になる。
実際にお金払わせなくていいから原価上げるだけでも使えそうな気がします。
②に近いですが、これは近距離以外の地域から持ち込まれた交易品にも効くのである程度使えるのが異なりますね。まあ利益率が異常に高い香辛料だと例え1000%関税でも結構利益出ちゃうので効果は限定的かもですが、そもそもこのルートは陸路を制しているオスマン商人が独占して来たものですから、オスマンと契約した人だけ関税払えば運べるとしたらメリット出るかもしれませんがどうでしょう。なんだか頭の中だけで書いてるので破綻してる気がしないでもないけど・・。そう言えばかつての大航海Ⅲなどでアレクサンドリアやアンティオキアで高いけど香辛料買えたような、そんなイメージです。


<④運河の通行時間で調整>
パナマの例を見ると、通行時間はだいたい15~20分くらいでしたでしょうか。
達成状況で変わるし小国は短かった気がします。

15分でインド洋方面に移動出来るなら冒険楽ですねえ。
アレク→バスラとか行かされるやつは恩恵でかいなw
なんとなく冒険者がいちばん恩恵受けるの大きいような・・・。
船が速くなった今では20分あれば結構遠くまで移動できるので運河時間の5分10分は結構長く感じますよね。


<⑤配送品クエストの報酬調整>
カテ収入ってのもけっこう馬鹿になりません。
で、アテネあたりに持ってくクエストは名産距離と同じく西地中海へのものより枚数多いわけですから、そのままだと運河料金払ってもクエ回すだけで採算取れるなんて事だとバランスおかしくなりそうです。(あ、そうなるとアレクの商館に商品置くことに意味が出るかもw)


ぱっと思いつくのはこんなところですが、
いずれにしても導入するにはかなりの調整シミュレーションが必要ありそうなものの、
実現したら各人頭をひねって生産・交易のルート考えるような機会が生まれそうで
そう考えればこの先の可能性としては要望出すだけの価値あるんじゃないでしょうか。


追記)
スエズ運河ってそもそも帆船航行出来ないんですよね。
幅は狭いし確か無風になりやすい地帯なので。
史実だとそれが帆船衰退の大きな要因にもなったと記憶していますが、
これを逆手にとってガレー船なら航行できると考えたらガレアスにも再び日の目を見る時が、、、
なんて記事を、ラフロ実装で勅命なんて概念が出るよりずっと昔に書いた覚えがあります。
こういうのも取り入れると複雑だけどいろいろやりようはあるんじゃないでしょうか。




おしまい。

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  1. 2009/01/27(火) 00:18:03|
  2. 雑学
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イスパニア物語 その13

アラゴンの西進


レコンキスタの歴史を追っていて面白い点の一つは、11世紀中盤に本格化してから13世紀中盤でほとんど趨勢が決まるまでのおよそ200年間、あんまり目立つ停滞期がない所。キリスト教国側とイスラム教国側、どちらかがどこかの地域で強勢になって絶えず動きを見せていたのですね。特にキリスト教国側は11世紀でだいたい体制が固まって以降は入れ替わり立ち代りに攻勢を掛けてゆくので追っかけるだけでもあちこち飛び回って記述してゆく必要があるほど。そしてイスラム側もたびたび支配者層が入れ替わりつつも、さすがにイベリア半島で最も豊かなアンダルシア地方を押さえていた事もあって、結構反撃しているんですね。当然、200年も戦乱が続けばそれだけイベリア半島の荒廃が進んでしまう事にもなりますが・・・。

さて、前回は11世紀後半にレコンキスタの先陣を切ったカスティーリャ=レオン王国の南下がトレドで止まり、イスラム側でモロッコから台頭したムラービト朝がカスティーリャを破って逆にターイファ諸国を制圧し、半島東部まで勢力を拡げた所までを見ましたね。
今回、そのムラービト朝が手痛い反撃を受けることになります。
そしてそれは更なるアル・アンダルスの再編に繋がる変動に発展したのでした。


(アルフォンソ1世の登場)
1110年、イベリア半島の東を流れるエブロ川中流域にある重要都市サラゴサがムラービト朝によって制圧された頃、隣接するアラゴン王国では新たなレコンキスタの指導者が育ちつつありました。
このアラゴン王国、まず1030年代に初代アラゴン王ラミロ1世が立った後、息子のサンチョ・ラミレスは1076年に本家と言うべきナバラ王家に侵攻します。これに異を唱える形で介入してきたのが前回見たカスティーリャ=レオン王のアルフォンソ6世。
この両者はナバラ王位を巡って政戦両面で争い、最終的にアルフォンソ6世の宗主権を認める代わりにサンチョ・ラミレスがナバラ王位を兼ねる事になります。その後、サンチョの後を継いだペドロ1世はターイファ諸侯の大国サラゴサがムラービト朝の進出に動揺していたのを機に父サンチョの手がけたサラゴサ方面へのレコンキスタに着手し、1096年には南に隣接するウエスカという町を制圧します。
そしてこのペドロ1世が1104年に後継者を持たないまま亡くなった為に後を継ぐことになったのが、弟のアルフォンソ1世でした。
このアルフォンソ1世は兄ペドロより軍事的才能に恵まれていたのでしょう。
その治世は30年ほどでしたが、彼の代でアラゴンはその後の大躍進の土台となる成果を上げてゆきます。


(アラゴン西進す)
即位したアルフォンソはまずエブロ川以南への進出の障害を除くべく、カスティーリャ=レオン王アルフォンソ6世の後継者となった女王ウラーカと結婚します。もし両者の結婚が順調に行っていればアラゴン・ナバラ・カスティーリャ・レオン各王位を持つものの同君連合が実現しますから、この時点でイベリア半島最大の政権が生まれるはずでしたが、結局これはウラーカの最初の夫との子供・後のアルフォンソ7世との確執を生み、この結婚は解消されます。

その後、アルフォンソはサラゴサ攻略を進めるべく南フランスの各貴族も動員し、1118年遂にムラービト朝の支配下となっていたサラゴサを陥落させます。このサラゴサ攻略戦では第一回十字軍にも参加していたベアルン副伯が持ち込んだ攻城機が投入されるなど、既に軍事面でも大きく地中海のパワーバランスや異文化との抗争の中で生まれた軍事技術が影響し始めていたことが伺えますね。
さて、サラゴサの失陥に驚いたムラービト朝は1120年に大軍を動員してサラゴサ奪回に動きます。しかしこの遠征軍は逆にクタンダの戦いで迎え撃ったアルフォンソ1世の前に大敗を喫し、アラゴンの勢力圏はエブロ川を越えて南下し始めたのでした。
しかもこのクタンダの戦いではムラービト朝を思想面で支える多くのマーリク派法学者が戦死し、アル・アンダルスでのムラービト朝の影響力が大きく揺らぐ遠因ともなります。
1120年代に入ると、勢いに乗るアルフォンソはアンダルシア地方へのレコンキスタに乗り出します。まず地中海沿岸の重要都市バレンシアに至るメディナセリ・ソリア・カタラユなどの各都市を制圧して、そこにアラゴン王家の家臣やレコンキスタに参加していた南フランス貴族を配置していくつかの騎士団を編成させて軍事拠点とします。
更にそこを足掛かりとして1125年、遂にアルフォンソ1世の遠征軍はアンダルシア地方南東部の大都市グラナダ城下にまで達します。この時グラナダはさすがに落ちませんでしたが、アルフォンソは制圧下にあった多数のモサラベ(キリスト教徒)を連れ帰り、アラゴンはバレンシア近くまで勢力圏を拡げる事になったのでした。

しかし、こうしたアラゴンの急進はカスティーリャ=レオン王国やバルセロナ伯など他の諸国の警戒を招く事になります。カスティーリャやバルセロナはアラゴンの北にある南フランスのトゥールーズ伯と画策してアラゴンを北・東・西の三方から封じ込めに出る姿勢を見せるようになったのですね。こうした情勢の中、アルフォンソは1134年のムラービト朝との戦いで破れると、遠征を中止してそのまま亡くなります。


スペイン地図1150年
※1150年頃のスペイン情勢地図を作ってみました (拡大すると800×650)


(アラゴン連合王国の誕生)
1134年のアルフォンソ1世の死後、アラゴン・ナバラ王国内は弟のラミロを推す一派とそれに反対するナバラ貴族との間で対立し、結局アラゴン王位をラミロが、ナバラ王位をかつての王家の傍流だったガルシア6世が継ぐ事で、この両国の同君連合は解消されます。
その後、アラゴン王位を継いだラミロ2世は敵対していたトゥールーズ伯家から妃を迎えて北辺の安定に努めるなど、政略をもってアラゴン王国を導いてゆきます。即位時点で既に50歳を迎え、元々聖職者としての道を歩んでいたラミロ2世、後背を安全地としたあと、更に政治的な手腕を発揮します。
当時エブロ川東岸の重要都市タラゴーナを奪回するなど同じく西進を始めていた東のバルセロナ伯ラモン・ベレンゲール4世に接近し、まだ1歳ほどだった娘ペトロニラを嫁がせたのでした。その後、1137年にラミロ2世は娘婿であるラモン・ベレンゲール4世にアラゴン・バルセロナ両国を託して引退し、ここにアラゴン・バルセロナの同君連合が誕生する事になったのでした。

しかもこのラモン・ベレンゲール4世もまた軍事的才能に恵まれていました。
1148~1149年にかけて、ラモンはエブロ川下流域に残るトルトサ・レリダを制圧してカタルーニャ地方のレコンキスタを完了させると共に、1147~48年に掛けて行われた第二回十字軍も支援し、更にカスティーリャからバレンシア及びムルシアの征服権を認められることでアラゴン・バルセロナの同君連合の勢力圏はピレネー山脈の南からバレンシア一帯にまで及ぶ広大ものとなったのです。その後、バルセロナ伯ラモンとアラゴン女王ペトロニラとの間に生まれたアルフォンソ2世が誕生し、名実共にアラゴン連合王国が成立する事になります。


(ムラービト朝の滅亡)
さて、東でアラゴンが西進している頃、同時に大西洋岸ではポルトゥカーレ伯の南下が始まっていました。この方面のレコンキスタは次回書くことになりますが、こうした東西での圧力はムラービト朝内部で反乱や新たな宗教運動を誘発するようになります。
そして1144年のイブン・カシーの反乱をきっかけとして翌1145年にコルドバの裁判官イブン・ハムディーンが反乱を起こし、アンダルスにおけるムラービト朝の支配が崩壊します。更に1147年には本国アフリカで起きたムワッヒド朝によって首都マラケシュが制圧され、ムラービト朝自体も滅亡したのでした。
これによりアンダルスの残るイスラム系諸侯は再度自立し、イベリア半島南部は第二次ターイファ時代を迎えることになります。


って事で、
次回はポルトゥカーレ伯のレコンキスタ話です。



おしまい。

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↑次回、ポルトガル王国誕生!

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  1. 2009/01/24(土) 16:57:38|
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イスパニア物語 その12

レコンキスタ初期の激突


今回から本格的に記述してゆくイベリア半島のレコンキスタ。
しかし彼らの再征服活動は最初から手痛い敗北を伴う厳しいものでした。

(アルフォンソ6世の再征服)
さて、前回までに登場してくる各勢力の成り立ちを見て来た中で、カスティーリャ=レオン王国を再統一したアルフォンソ6世についてちょっと触れましたよね。このアルフォンソ6世、若い段階で兄弟間の争いを勝ち残って1072年に再統一した後、分裂していたイスラム勢力下のイベリア半島中部~西部を従属下に置き始めます。

(トレド陥落!)
その後1080年に入り、大西洋岸一帯は妻の血縁者であるブルゴーニュ家のアンリのいる一軍に任せて、アルフォンソ自らはおよそ1万の軍を率いて半島中央部に進出します。このあたりはけっこう丘陵・山岳が続く周辺と孤立しやすい地形だったこともあって各町を拠点とした小豪族が点在する特性を持っており、一応大都市トレドに拠ったズーヌーン朝がこの地域の盟主となっていました。アルフォンソはこの年、トレドの王カーディルが内紛により追放され、反カーディル派を操っていた西の隣国バダホス王国の影響下に置かれるといった勢力争いに介入する形で出兵したのでした。
その後、軍勢を率いたアルフォンソはカーディルを復位させる事に成功しますが、これに対抗する形で反カーディル派はターイファ諸国の大国、セビリャとサラゴサをも味方に付けて抵抗した為かなりの長期戦となります。が、政戦両略を駆使して包囲戦を戦うアルフォンソの前にターイファ諸国の援軍も撤退が続き、1085年になってトレドはカーディルがバレンシアと引き換えに開城することを決め、足掛け約5年近くの長期戦ののちに降伏したのでした。

このトレド、その後カスティーリャ王国の一応の宮廷所在地となります。
1560年代にフェリペ2世がマドリードに遷都するまで建築や学問の一大拠点として繁栄を続け、移転後も美術地図でおなじみのエル・グレコなどはここに住んでいました。今でもまあ歩けば文化遺産にあたるという感じで町ごと世界遺産になってるくらいですから、将来スペインに行く機会があったら一度はここ見ておきたいですね。


(ムラービト朝の進出)
さて、内陸の重要都市トレドの陥落によりイスラム勢の勢力圏がイベリア半島の中央部を横断するタホ川(河口にあるのがリスボン)まで後退させられた事で、他のターイファ諸侯は危機感を募らせます。このうち次の標的となると思われたのが、トレドの下流域にあるメリダ・バダホス・リスボア、そしてトレドからまっすぐ南下した所にあるかつての首都コルドバとその下流域にあるセビリャ王国、更にその南のグラナダまでも射程圏に入っていたでしょう。
このような情勢下ではアンダルシア地方の最強国セビリャといえど安穏としてはいられず、翌1086年になると残るターイファ諸侯の大国、バダホス・グラナダ各国もセビリャに同調してこの頃北アフリカ・モロッコで急速に勢力を拡大させつつあったムラービト朝のユースフ王にそれぞれ救援を求めます。
『豚の世話をするよりはラクダの世話をするほうがマシだろう』
とはこの時セビリャ王のムータミドが吐いたものとして伝わっている言葉ですが、
彼らベルベル人もモロッコ人を完全に信用してはいなかったのでしょう。
しかしこの要請に応える形でユースフ王は1万強の軍勢を率いて自ら出陣し、
ジブラルタルを渡ります。

一方アルフォンソ6世の次の目標はトレドからタホ川沿いに南西に下ったところにあるメリダ・バダホス方面でした。その後、イベリア半島に上陸してセビリャを主力とするターイファ諸国の軍と合流したユースフはこれを迎え撃つ形で北上し、1086年10月23日、遂に両軍はメリダのやや西にあるタホ川河畔の平原で遭遇します。

後世、『サラカの戦い』 と呼ばれる事になるこの決戦、あんまり大軍同士の会戦が少なかったレコンキスタ史上では最大規模の会戦となったのでした。
しかもカスティーリャ王国のアルフォンソ6世とムラービト朝のユースフ、共に興隆期にあった強国の君主自身が出陣して正面から決戦に及ぶと言うのは、長いレコンキスタの歴史においても一つのトピックだったでしょう。

カスティーリャ軍=約15000人(公称6万)
イスラム連合軍 =約30000人

実数では劣るカスティーリャ軍、開戦当初に当たったセビリャ軍との序盤戦は互角以上に戦っており、むしろ数度の突撃によりカスティーリャ側が押してるほどでしたが、ユースフが主力のモロッコ兵、そしてガーナ方面から連れてきた黒人の重装歩兵を投入すると戦況は一変します。新手の、しかもこれまで見た事のない黒人兵の大軍が接近してくるのを見て取ったアルフォンソ6世はここで陣形を横隊から正方形の密集隊形に変更してしまいます。方陣は防御力が高いとはいえ、相手のほうが倍近く数が多いのですから、これでは左右に出来たスペースに相手が前進する余地を与えてしまいます。案の定、左右からモロッコ兵の攻撃を受けたカスティーリャ軍は大損害を受けて壊滅します。損耗率は実に9割近く、アルフォンソの後継者だったサンチョが戦死し、アルフォンソ自身も重傷を負うという大敗を喫してしまったのでした。


スペイン地図1110年

その後、アルフォンソは何とか数百の騎兵に守られてやっとの事でトレドに帰還しますが、追撃してきたユースフ及びセビリャ勢によりトレド他各地では激しい防衛戦が繰り広げられる事になります。この時連戦連敗を続けていたアルフォンソを救ったのがレコンキスタの英雄エル・シド。後に叙事詩にまでなる騎士エル・シドの活躍でカスティーリャはようやく一息入れ、トレドを守り切ります。

しかしユースフ率いるムラービト朝はその後も1088年・1090年と続けて遠征を繰り返し、1094年までにセビリャ・グラナダ・バダホス各王国などアンダルシア地域の大半が征服され、更に1102年までにエル・シドが拠ったバレンシアをも制圧、1108年にはユースフの後を継いだアリー・ユースフが内陸東部の大国サラゴサをも制圧して、ムラービト朝は旧アル・アンダルスの大半を勢力下に入れたのでした。

以後、カスティーリャ=レオン王国の南進はトレドを拠点として13世紀になるまでひとまず停滞します。しかし今度は他のキリスト教国が名乗りを上げてきます。イベリア半島東部のアラゴン・カタルーニャ地方では12世紀になってようやくレコンキスタの流れが加速し始めたのでした。
次回、彼らの西進が始まります。



おしまい。

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  1. 2009/01/23(金) 00:30:30|
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イスパニア物語 その11

アル・アンダルス


オスマンアップデートが2/17で決定ですか。
できたらそれまでにこのシリーズ終わらせてオスマン編に持って行きたかったのだけど、
事前に立てた構成書きでは恐らく@8回。
今の週2本ペースだと多分もう間に合いませんね・・・。
まあ時間的なこと考えて予定より短くするとか考えてませんから、
あくまでマイペースに記述してゆきますよ。



(後ウマイヤ朝時代)
さて、12世紀になろうという頃にはある程度現有勢力が揃いつつあったイベリア半島のキリスト教系諸国家。
これに対してレコンキスタを受ける立場のイスラム側はどうだったのか、
これが今回のお話となります。

まず簡単な年表から。
711年 ウマイヤ朝勢力がイベリア半島に侵入、西ゴート王国を滅亡させる。
750年 ウマイヤ朝倒れる。
756年 ウマイヤ家のアブド・アッラフマーンがコルドバで後ウマイヤ朝を建国。

後ウマイヤ朝初期のこの時代、ウマイヤ家の支配がいったん途切れた事もあってまだアル・アンダルス全体を平定しきってはおらず、辺境では反乱が、セビリャやマラガなど重要都市では有力家門の豪族がコルドバの後ウマイヤ朝政権に対して容易に従わない姿勢を見せるなどしてまだまだ不安定な状況にありました。
これが9世紀になるといよいよその傾向は強まっており、特に北東部のカシー家・サラゴサ一帯のトゥジーブ家・大都市セビリャのハジャージュ家など、この頃から一部の有力諸侯はコルドバ政権に匹敵するほどの力を蓄えるようになり、こうした各地の諸侯の力が温存された事が後に大分裂の時代の温床となってゆきます。
ただ、後ウマイヤ朝の行政組織そのものは非常に効率的で、かつ寛容性に富んだものだったことからキリスト教徒も一定の自由を得られ、全体としてはそれなりに中央集権化も進む事でやはりコルドバの後ウマイヤ朝政権はその血筋の確かさからも一段抜けた存在ではあったのです。

ただ、血統だけでいうとこれに匹敵する存在がすぐ近くにいました。
北アフリカ~エジプトに勢力を持っていたファーティマ朝は先祖を辿るとムハンマドの娘ファーティマに行き当たると言う、ムハンマドとは同族出身のウマイヤ家並に非常に高貴な血統を誇っており、アル・アンダルス南部の諸侯はこちらの庇護を求める事もしばしばでした。
こうした中、10世紀になってウマイヤ家にアブド・アッラフマーン3世という英主が登場すると一気に隆盛を始めます。即位の翌年にはセビリャのハジャージュ家を屈服させるとマラガ一帯も平定し、932年にはトレードを、938年にはサラゴサのトゥジーブ家も支配下に置く事に成功します。
こうした軍事的成功を背景としたアッラフマーンは929年に自らの身分を『アミール=総督』から『ナーシル=宗教擁護者』つまりカリフと名乗って同じくカリフを名乗ったファーティマ朝に対抗してゆくことを明らかにします。
実際、イベリア半島だけでなく北アフリカ一帯まで拡げて見ても、この頃の後ウマイヤ朝の力は抜きん出たものを持ちつつあったのです。また972年にはエジプトを征服したファーティマ朝が後ウマイヤ朝との対立を嫌ってかカイロに遷都したため、後背を安全地域としたコルドバ政権は北方・東方のキリスト教勢力への侵攻の姿勢を強めていったのでした。

985年、宰相アル・マンスールがカタルーニャに侵攻。
この辺までは前々回のカタルーニャ諸伯領の回で見ましたね。
更に997年には名将アル・マンスールが北西部のガリシア地方にも侵攻します。
この時は聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラが略奪を受けるほどの猛攻で、
この時代に後ウマイヤ朝は最大版図を記録します。
しかし、最盛期を迎えたのもつかの間のこと。
衰退する時は一気に落ち込んで行くのも世の常でした。


スペイン地図1090
前回作った地図をもう一度出しておきます。


(第一次ターイファ時代)
1002年、カリフのアル・マンスール・ラーヒが亡くなると、後ウマイヤ朝では息子たちと有力諸侯の内紛が起こり、その後の30年ほどで10人ものカリフが擁立される混乱の時代を迎えます。結局、1031年になると次のカリフが任命されなくなることで後ウマイヤ朝は廃され、イベリア半島はターイファと呼ばれる各地の都市を基盤とする諸侯・豪族が割拠する分裂の時代を迎えます。(第一次ターイファ時代とも)

この状況では統一した行動どころか内戦に等しいわけですから、この頃力を付けつつあったナバラ王国のサンチョ3世の血縁に連なるカスティーリャ=レオン王国・アラゴン王国やバルセロナ伯などの進出に対してじわじわと浸食を許す事になり、これらキリスト教国に逆に臣従を余儀なくされるようになって行ったのでした。

特にカスティーリャ王国とフランスから乗り込んできた後のポルトゥカーレ伯の南下は著しく、1085年になると半島中央部の最重要都市・トレードが陥落すると言う危機的状況に陥ります。
この情勢からターイファ諸国の有力者は新たな庇護者を求めて外部勢力を招き入れてしまったのでした。なんか西ゴートの滅亡時と良く似てるな・・・。


(ムラービト朝の進出)
そのうちの一つが、モロッコで急速に力を付けていたムラービト朝。
1086年、セビリャ王国の救援要請に応える形でムラービト朝の君主ユースフ・イブン・ターシュフィーン自らジブラルタルを渡ってイベリア半島に乗り込み、トレードを制圧して勢いに乗るカスティーリャ王国のアルフォンソ6世と対決したのでした。

次回、この両者が激突します。



おしまい。

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  1. 2009/01/20(火) 23:36:40|
  2. イスパニア物語
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Core2Quad 安くなったなぁ

価格改定入り?


先週末になって、INTELのCore2Quadが大きく値下がりを始めてますね。
主だったところの1/18時点の最安値では、

Q9650 51,000円→31,000円前後
Q9550 29,000円→27,000円前後
Q9400 26,000円→22,000円前後

こんな感じで2週間前とは全然違う価格帯になって来てます。
先々週にはAMDの新QUADコアCPU、PhenomⅡが出てきた事もあり、
これ旧型QuadコアCPUから対抗させて行こうという戦略なのかも。

PhenomⅡX4-940Black Edition 28,500円

見事にPhenomⅡを上と下とで挟む価格構成になってますね^^
ユーザーとしては、Corei7が爆速な一方でマザーからメモリから全部代えなきゃ行けない関係で初期投資額が最低でも7~8万と大きくなるため、いまだに売れ行きではCore2 Duo/Quadのほうがいいと言う状況下ではかなり嬉しい状況と言っても良いかもしれません。

例えば私がメインに使ってるPCのマザーボードはもう3世代前のP965系なのですが、それでもBIOS更新するだけでCore2Quadの最上位Q9650に差し替える事が出来ますので、費用対効果で当面どっち取るかと言ったらCore2Quad買いますよね。


それとまあ、当面を小規模な改良に留めると言うのは、
OSの事も考えて。
今週になって日本版が出たWINDOWS 7のBeta版があちこちのレビュー見てるとどうもやたら軽いと言うか動きが良いらしく、今度試しにDOL入れてテストして見たいなと思うくらい。
元々VISTAの改良版みたいなOSですから判らなくもないですが、いきなりある程度軽くて完成度高いなら、正規版が出たらSP1が出るのを待つまでもなく、もう早速乗り換えてもいいのでは? とすら思う。
で、このWINDOWS-7の発売が年末から来年初頭になりそうですから、そこも含めると来年はPC環境が大きく変わるんじゃないかと見ています。あとまあ、個人的にも今年は生活環境変わりそうなので無駄な投資は控えようかな、と。



開拓地生産でうまうま


昨日は東南アジアでの海事修行を切り上げて、
午後からトルヒーヨで大砲やら装甲やら2往復ほど生産してました。

巧匠キャノン=18個
巧匠圧延鉄板=25枚
改良ゲルン帆=10枚

18:00頃にヨーロッパ戻ってきて、そこから本読みながらの放置バザーしてましたが、
まあ売れる売れる。

装甲と帆の耐久高いやつは自分用にキープして、それ以外はあらかた完売でした。
売り上げは言うとやばいのでナイショです・・・。
行きに操舵本のクエ受けるのも含めて、
取りあえずなまじっか香辛料運ぶより瞬間風速的には上とだけ言っておきます。
(もちろん定期的に稼ぐ手段としたら交易の方が上ですよ)
それよりなにより作った後で放置バザーに入れるのは楽でいいw
ものぐさな私的にはこっちのほうが向いてますね。

あと巧匠圧延の売れ行きで気付いたんですが、みんな耐久高いやつから買ってくんですね。
耐久上がるほど割り増しの価格設定にしてるのにちょっと面白い。

まあ、目的は金出したからって買えるものではない巧匠キャノン1386の生産だったので、
そちらが1個出来た事の方が嬉しいかな。
これで4個生産できたのであと1個、木曜日までに揃うといいなあ・・・。


おしまい。

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  1. 2009/01/19(月) 07:39:27|
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イスパニア物語 その10

カスティーリャ伯とポルトゥカーレ伯


前々回から書いている、イベリア半島におけるレコンキスタの主役たちの登場話。
最後に登場してくるのは本流と言うべきこの2勢力です。


(カスティーリャ伯)
前回の地図を見ると、北部の中央が空白になっているのが見て取れますよね。
ここに割拠していた小勢力から、その後イベリア半島を2分する新興勢力が登場してきます。
一つはカスティーリャ伯。
西のレオン王国と東のナバラ王国に挟まれる位置にあったこの伯領は、11世紀の初頭には周辺国の干渉を武力と婚姻という形で受け始めます。折りしもこの時代はパンプローナを拠点とするナバラ王国にサンチョ3世という英傑が現れて周辺国を従えて行く、その過程にありました。サンチョ3世はカスティーリャ伯の娘ムニアと結婚して実質的にカスティーリャ伯領を支配下に置くと、更にレオン王国の王アルフォンソ5世を娘婿として迎え、イベリア半島北部は事実上このサンチョ3世が制覇する事になったのです。
その後、サンチョ3世の次男フェルナンドがカスティーリャ伯家を相続し、更にこのフェルナンドが隣接するレオン王国の継承権を持っていたベルムード3世を破ってレオン王位とカスティーリャ伯を合せて相続した為、ここにイベリア半島北部の西半分以上を領するカスティーリャ=レオン王国が誕生する事になったのでした。

その後、フェルナンドの死によっていったんカスティーリャ・レオン・ガリシアの各地方は3人の息子たちによって分割相続され、間もなく兄弟間で争いが起きるのですが、次男のアルフォンソ6世によって再統一され、再び強大な勢力を持つに至ります。ちなみにこのアルフォンソ6世、この後の歴史で再び登場します。それも、レコンキスタの歴史に重要な足跡を残す事になりますのでちょっと覚えておいて下さい。



(フランスの貴公子)
さてこの頃、アルフォンソ6世が始めるレコンキスタに参加した者の中に、ある貴公子がいました。

アンリ・ド・ブルゴーニュ。

名前から出自が判るように、この人物はフランスのブルゴーニュ公家の出身。
しかもカペー朝第2代の王ロベール2世のひ孫でもあり、兄ユーグはその後ブルゴーニュ公家を継ぐ事になりますから、かなり王家の近親筋といってもいい身分だったのですね。
しかし、そこは末っ子の悲しいところ。
実家に残っていてもしょうがないわけで、叔母のコンスタンスがアルフォンソ6世の妻となっていた関係もあったでしょうが、ここでアルフォンソの援軍要請に応える形でイベリア半島に乗り込みます。

アンリは若くしてけっこう軍事的才能に恵まれていたのでしょう。
イベリア半島西端のガリシア地方を転戦して行くうちに、
イスラム勢力を次第に南へと押し戻して行くのにかなりの功績を挙げたのですね。
1080年代にはガリシア地方から今のポルトガル領となるブラガやポルト付近まで奪回し、
1093年、アンリはアルフォンソの娘テレサと結婚して27歳にしてポルトゥカーレ伯の地位を得たのでした。

アンリはフランス読みですから、そろそろイベリア的にエンリケと読み替えた方がいいかもですね。
エンリケとテレサの間に成人男子はアフォンソという息子しか残らなかったのですが、
彼もまた優秀な人物な成長してゆくことになります。
後にこのアフォンソが大西洋岸のイスラム領を制圧しまくって一気にリスボンあたりまで陥落させ、初代ポルトガル王となるのですが、この話もまたこの先で取り上げる事になりますので今は取りあえずここまで。


スペイン地図1090

アルフォンソ6世がカスティーリャ=レオン王国を再統一し、
ポルトゥカーレ伯家が成立した、1090年代の地図はこんな感じに。

カスティーリャ=レオン王国に黄色を使ったのはワザと取っておいたのではなく、
ただ残っていた色を使ってるだけなのですが、
良く考えたらその後の地図を作るときにレイヤーが掛けやすくていいかもw

こんな感じで、12世紀を迎える頃になると前回見たアラゴン連合王国、そして今回のカスティーリャ=レオン王国とポルトゥカーレ伯領、更にこれらの本家筋とも言えるナバラ王国も含めて、いよいよレコンキスタの主役が揃ってきます。次回はこんな状況のキリスト教勢力の反攻を受けることになる、イスラム勢力側の変遷を見てゆきます。



おしまい。


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  1. 2009/01/17(土) 23:30:04|
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イスパニア物語 その9

反骨のカタルーニャ


前回はレコンキスタの萌芽となるイベリア半島北部に起こったアストゥリアス王国~レオン王国を見ましたので、今回はイベリア半島の東岸のお話を。ここもスペイン史ではかなり重要ですね。
こんな感じで、イベリア半島史を多少でも踏み込んで書くとなると、どうしてもそれは各地方の成り立ちから追わざるを得ません。これは、最終的にスペイン王国とポルトガル王国になるにしても、たどっていくとそれは大きく3~4つの地域が連合して出来ており、それぞれがかなり重要な構成要因になっているからかも知れませんね。前回から次回までの3回分は異なる地域を意図して並列した時間軸で書くことになりますが、時代が多少行ったり来たりしてるのはそんな訳なのでご容赦を。


(スペイン辺境領の成立)
さて、711年にイスラム勢が侵攻して、それまで支配していた西ゴート王国が滅びたところまでは前回・前々回で見ましたよね。北部においてはあんな感じで西ゴート残存勢力と現地住民の融合で反撃に転じるわけですが、その頃地中海側、それも現フランスとの国境に近いカタルーニャ地方の動きはどうだったのでしょうか。

750年、それまで支配していたウマイヤ朝が倒れると、イスラムの属州アル・アンダルスから最も遠い地域となるイベリア半島東部を流れるエブロ川以東の地は、ある意味権力の空白地帯となっていました。
ここに影響力を保持してくるのが、ポワティエの戦いに勝利してガリアを守り切ったフランク王国でした。といっても当時フランク王国は元々の主君筋だったメロヴィング朝から、ポワティエの戦いを指揮した宰相というべきカロリング家のカール・マルテルの系統に実権が移り、751年にはメロヴィング朝の王を廃してカロリング朝を開いていました。

759年、カール・マルテルの子の小ピピン王はローヌ川以西の地中海岸、つまり現在のモンペリエ・ナルボンヌなどがある現フランスの南西部に出兵します。ここを足掛かりとしたフランク王国は更に778年、後世『カール大帝』とも呼ばれる事になるシャルルマーニュがピレネー山脈の東端を越えてイベリア半島東側への侵攻を開始します。
そして新たに興った後ウマイヤ朝やバスク人との一進一退の攻防の末、801年には遂にこの地域の重要都市・バルセロナを攻略することに成功したのでした。シャルルマーニュと跡を継ぐルイはこれを受けてスペイン辺境領を設置します。この地にはバルセロナ伯やヘローナ伯を始めとして沿岸部だけで5箇所、内陸部も含めると10箇所以上の伯爵領が置かれ、イスラム勢力とキリスト教勢力の中間地帯として成立したのでした。


(ローランの歌)
ちなみに、このシャルルマーニュの出兵の際に山間部でバスク兵の奇襲を受けてフランク軍が壊滅したロンスヴォーの戦いの故事がその後、叙事詩『ローランの歌』の題材となります。ロランはシャルルマーニュの甥で名剣デュランダルを携え、イスラム兵の追撃を受けるシャルルマーニュの本軍を逃がす為、親友のオリヴィエや大司教テュルバンと共に撤退戦の指揮を取り、最後の一人になるまで戦い息絶える、確かそんな話だったかと思います。



(カタルーニャの自立)
こうして、フランク王国下で対イスラムの橋頭堡的な位置を占めるようになったスペイン辺境の諸伯領。もともと生産力が乏しい割りに人口増加で苦しんでいたピレネー山麓東側のフランス領から進出して肥沃なカタルーニャ地域を奪回したことで、ある変化が起きます。
それは、人口移動。

南西フランスの山間部から沿岸部の住民、そして新たに小領主となった騎士層、更にこれらの人々に加えて戦乱から避難して来た人々も戻ってくることで、カタルーニャ地方では多くの自作農が育つことになり、爆発的に生産力を上げて行ったのでした。まあ、元々バルセロナの一帯は1000年前からカルタゴ人が目を付けて開発していたくらい、良港と農地に恵まれていましたから、その素地はあったのでしょうね。その後バルセロナやヘローナ一帯は農業だけでなく牧畜も盛んとなり、都市として成長を始めたバルセロナは西ヨーロッパの毛織物や異教徒の奴隷などを輸出する商業の中継基地、そして傭兵や軍船・武具などを集積する基地としての役割も担うようになって更に発展していく事になります。

ここに、山間地で地道に抵抗運動をしていたアストゥリアス王国との違いが見て取れます。なにしろ生産力の向上と自作農の育成は、その地を守る軍事力も強化されることを意味します。カタルーニャ地方はフランク王国全体から見れば面積こそ小さくとも、自力でイスラムの脅威をある程度排除できるだけの実力を付けつつあったのでした。レコンキスタ初期の主役だったアストゥリアス王国が10~11世紀になると伸び悩み、最終的には併合されたのに対して、10世紀以降のカタルーニャ地方はレコンキスタの主役の一方として飛躍を始めるようになったのでした。

985年、そんな中、後ウマイヤ朝の英傑アル・マンスールの軍勢がこのカタルーニャに侵攻してきます。本来ならフランク王国は臣従している諸伯の救援要請があればこれを守る所なのですが、この頃のフランク王国は事実上解体し、東・西フランク・イタリアと分かれており、985年当時の西フランク王国はその後フランス王家となるカペー家の時代となっていた為、事実上このカタルーニャを見離したのでした。
結果、イスラムの大軍によりバルセロナ一帯は占領され、破壊と略奪を許すことになってしまいます。その後なんとかカタルーニャ諸伯軍の抵抗で撤退させることに成功するのですが、この時カタルーニャに対して何らの援助もしなかったフランスとの主従関係も結局途絶える事になったのは当然の流れだったでしょう。
カタルーニャ地方ではこの後、主要な5伯領が互いに同じ祖先を持つ親族であった事から団結を強め、10世紀頃には最も力を持つバルセロナ伯がヘローナ・ウルヘルなど2~3の伯家を兼ねるなどしてだいたい3~4伯家まで統合が進んだのでした。
しかし、これまで見てきたように領主も住民も元々南フランスから進出してカタルーニャに移住した者が多い為、言語的には同じロマンス諸語系でもフランス系に近い語彙・発音が残っており、カタルーニャ地方はイベリア半島でも特殊な言語が残存する事になります。
しかも彼らは早い段階からイスラム勢の支配から抜け出て独立し・更には反攻を始めるまでになっている為、イベリア半島の他の地域とは文化的にも思考的にもちょっと隔絶したものがあるのは想像に難くないですね。この辺なんとなく、現在でもカタルーニャ人が持っている独立独歩・反骨の気風の源流を見る感じで、ちょっと面白い。

スペイン地図AD11世紀
 
だいたい西暦1000年前後の状況。
まだ次回書く予定の勢力を書き込んでないので空白地帯が残ってますね。


(アラゴン王国の誕生)
さてこの頃、
カタルーニャ地方から内陸に入った所にあるアラゴン伯領に新たな勢力が生まれます。
1035年、イベリア半島北部を制覇したナバラ王サンチョ3世は遺産相続の際に諸子ラミロにアラゴンの地を与え、王位を名乗ることも許したことで、アラゴン王国が誕生したのでした。
地図を見ると判りますがこのアラゴンは完全に内陸国。
後世、地中海屈指の海洋国家に転身するのがちょっと不思議ですがまあ後ほど。

その後、アラゴン王国とバルセロナ伯家は何代かに渡って婚姻関係を結ぶようになり、1137年にはこの両家の連合王国が成立します。このイベリア半島東岸を領するアラゴン連合王国が、12世紀に本核化するレコンキスタでは地中海沿岸を西進する重要な役割を担うようになるのでした。


段々とレコンキスタの主役たちが揃って来つつありますね。
次回は残る2勢力を紹介してゆきます。
そう、ポルトガルとカスティーリャ王国の成立までの経緯を。



おしまい。

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  1. 2009/01/15(木) 21:46:17|
  2. イスパニア物語
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またひとり

まにあっくなお人が船窓商会に。
あの筆致は他の大航海ブロガーさんに見られないものがあり、
個人的にはかなりおススメしたいひとり。

教授ようこそ~!

しかしこれだけ歴史系ブログの書き手が揃ってくる所もそうそう無いだろうなあ・・・。


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  1. 2009/01/13(火) 21:56:05|
  2. 活動日誌
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大投資戦ってなんだっけ・・・

異常事態?


NOTOSではそろそろ、もう結構な人が意識してる事でしょう。
昨年の9月22日以降、NOTOSでは4ヶ月近く大投資戦が起きていない という、
今までにない事態となっています。
年明けに各国合同で運河勅命祭りをやったのも
その辺の事を踏まえてだったでしょうか。

まあ、大投資戦の発生条件を満たしていないから起きないだけなのでしょうが、
他3鯖ではこの間、年末年始を挟みつつもだいたい2~4回ほど、
つまり1~1.5ヶ月くらいの頻度で発生しているだけに余計目立つ状況です。

大投資戦が普通にプレイヤー間で行われる投資戦と決定的に異なるのは、
もちろん金額・時間など他にも多くの相違点がありますが、
結果としては投資した報酬として国家貢献勲記が大量に手に入る点。
それこそヨーロッパの安全海域で発生して3~4時間フルに続けたら、
2000枚3000枚って単位で一般プレイヤーでも入手可能です。
(資金が許す限りにおいてだけど)

そして国家貢献勲記は一定金額で売ることが出来る。
相場では勲記1枚が180~220Kくらいでしょうか?
大投資戦1回の投資金額MAXが20Mで、これで100枚の勲記が貰えますから、
つまり投資した資金をある程度(と言うかほとんど全額)回収する事が可能。
ここが一般層が参加してくるかなり大きい動機付けになってますよね。
しかも投資は爵位を授与される要素でもありますから、
ほとんど元金回収できる上に爵位も貰えるとなれば、
これはまあやらない手はないって訳です。


勲記071223


さて、一般層にとって参加する一つの目的とも言える国家貢献勲記。
他にもこれを入手する方法はありますが、
個人的な経験での入手性の良さはこんな感じ

BC      ☆
勅命     ☆☆☆☆
開拓地納品 ☆☆☆☆☆☆
大投資戦  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

自分のペースで出来るって事では開拓地納品はかなり優秀ですが、
瞬発力というか爆発力では大投資戦には及びません。
いわんやBCにおいてをや・・・。 (まあBCは稼ぐ為より戦闘楽しむイベントと見るべきでしょうか)
いやまあ、運河勅命の報酬だけは結構おいしいなーと思いますよ。
近いし原価あんまり掛かりませんしね。
でも開拓地納品は数時間1セットで1キャラ200~300枚くらいは稼げますし、
大投資戦は時間500~1000枚って単位なのでねえ・・。

ってことで話を戻してNOTOS鯖での長期にわたる不発状況。
これ流石にそろそろ起きるだろなあ、
とかなりの人が待ち構えている気がします。
って事で今のNOTOSはかなりの金あまり状況にあるわけですね。
逆に言うとそれだけ大投資戦ってイベントは、
運営側が幅広い層に金を使わせるための手段ともいえるんだけどねw


さてさていつになる事やら・・・。
そういえばアカデミー大会も大分前にやったきりだったなあ・・・。




おしまい。

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  1. 2009/01/12(月) 18:12:19|
  2. 雑学
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イスパニア物語 その8

混沌の8世紀


現在(大航海時代)に至るまでのイスパニア史を振り返るシリーズもこれで8回目。
古代が終わり、中世も前期から中期に差し掛かる頃でそろそろ現時点に繋がる勢力が現れ始めます。


(ウマイヤ朝倒れる)
711年にイスラム勢力が侵入して、それまで支配していた西ゴート王国が滅亡したイベリア半島。ジブラルタルから侵入したウマイヤ朝の司令官ターリク率いるイスラム軍がイベリア半島北部を除く地域を制圧したのは前回書きましたね。
ウマイヤ朝はその後、750年代に東で勢力を伸ばしたムハンマドの近親家の出身であるアブー・アル・アッバースにより倒されたため、その最西端の属州となっていたイベリア半島は一時混乱状態に陥ります。
この混乱を収束させたのはウマイヤ朝の血を受け継ぐアブド・アッラフマーンという男でした。アッラフマーンはウマイヤ家の庇護民や他のアラブ族の要請を受けて北アフリカからイベリア半島に乗り込み、当地の総督アルフィリンを破ってアル・アンダルスの総督を名乗り、コルドバを首都として立ったのでした。これが後ウマイヤ朝となり、軍事力と政治機構・財政を再編することで再び北部や東部に残るキリスト教徒の勢力と抗争を続ける手ごわい存在となったのでした。


(レコンキスタの萌芽)
そして今回は、その後ウマイヤ朝と戦う事になる北部の西ゴート残存勢力のお話から。
イスラム勢の侵入と西ゴート王国の滅亡により、それまで支配者だった西ゴート人の一部はイスラムの支配から逃れるべく北へ逃げ込みます。そこは、古代ローマの時代から独自性を維持していたいくつかの先住民の血を受け継ぐ少数部族がいまだに健在な、イベリアだけでなくヨーロッパ全体で見ても希少な土地となっていました。

この当時のイベリア半島の地図をちょっと出しておきましょう。
半島北部の地域と勢力範囲はだいたいこんな感じ。

スペイン地図AD8世紀

ガリシア地方
アストゥリアス地方
カンタブリア地方
バスク地方
ナバラ地方

現在でもそれぞれスペインを構成する自治州となっていますが、これらの地域はガリシア語・アストゥリアス語・バスク語など、独自の言語をいまだに保存している貴重な地域だったりします。
ちなみに、クルス・デル・スールのオープニングとなった世界周航イベントで登場するエルカーノという人物、いましたよね? マゼランの艦隊で世界周航を成した人物としてプレイヤーの邪魔をしてくるあの人、確か実はバスク人だったりします。

そして、8世紀初頭に滅亡した西ゴート王国の貴族の一部はこのイベリア半島北部の各地域に逃げ込み、西ゴートの血脈を保って亡命政権とまでは行かなくとも復活の機会を伺う根拠地としたのでした。そしてここから、後にレコンキスタ運動を成し遂げる勢力が生まれてくる事になったのです。

718年、西ゴート貴族のベラーヨはイベリア半島北西部カンタブリア地方の山麓に逃げ、在地のバスク系住民であるアストゥリアス人の支援を受けてこの地に定着し、そこの族長と親戚関係となる事でアストゥリアス王国を建国します。そして722年、前年にアキテーヌ遠征に失敗して勢いの無かったイスラム軍をコバドンガの戦いで破り、この地域での支配権を確立したのでした。そしてこれが、後のレコンキスタ運動の源流となるアストゥリアス王国の拡大へと繋がっていったのでした
更に739年、西ゴート貴族のペドロという人物の息子で国王ペラーヨの女婿でもあったアルフォンソ1世が後を継いで即位します。ペドロは元々カンタブリア地方で勢力を蓄えていた人物であった為、これはイベリア半島北部の中央にあるアストゥリアスとカンタブリア地方が反イスラム陣営として連携したことを意味していました。

アストゥリア王国はその後、791年に即位したアルフォンソ2世(791~842)の時代には版図を拡大し、西のガリシア地方をも併合するまでに成長を遂げます。そしてこのアルフォンソ2世、ガリシア地方にサンティアゴ・デ・コンポステーラという都市を建設し、ここに聖ヤコブを守護聖人とする大聖堂を建設します。後世、このサンティアゴ教会の大聖堂はキリスト教徒の一大聖地としてヨーロッパ中から巡礼者が集まるまでになって行ったのでした。


(アストゥリアスからレオン王国へ)
更に後を継いだアルフォンソ3世(866~910)は、大規模なレコンキスタ運動を展開してその勢力をドゥエロ河流域へも伸ばしてゆきます。ドゥエロ河はイベリア半島の5大河川の一つで、オポルト付近を河口として東にさかのぼって行き、現バリャドリードやレオンなどの内陸都市へも通じる、イベリア半島を北部と中央部と隔てる位置にありました。
そしてアストゥリアス王国は次のガルシア1世(910~914)の時代、首都をヒホンのすぐ南にあるオビエドからより南のレオンに移し、更に南下と東進の姿勢を鮮明にしてゆくことになります。

これ以降、アストゥリアス王国はレオン王国と呼称を改める事にします。
だんだん現在のイスパニアに近くなってきましたね。
うん、イメージつかむ為にちょっとこの先の事を書いちゃいましょうか。

レオン王国は後にカスティーリャと連合してレオン・カスティーリャ王国となり、
カスティーリャに併合されてカスティーリャ王国と呼称を改めます。
更に大航海時代の直前には東のアラゴン王国と同君連合を結び、
イベリア半島に最後に残ったイスラム勢力のグラナダを1492年に陥落させます。

最終的にこれがスペイン王国(イスパニア)となるわけですから、
アストゥリアスは間違いなく現在のイスパニアを形作る一方の源流ですよね。
という事で、次回は源流のもう一方となる、バルセロナ周辺の中世前半にかけてのお話などを。


おしまい。


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  1. 2009/01/10(土) 23:55:15|
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イスパニア物語 その7

西ゴート王国の滅亡



(ターリクの山)
711年、遂にイベリア半島にイスラム勢が侵入してきます。
この時のイスラム勢(ウマイヤ朝)の司令官はアラブ人ではなく、
被征服者であるベルベル人のターリク・イブン・ジヤードという男でした。

いっぽう侵入を受ける側となった西ゴート王国のこの時の情勢はこんな感じ。
西ゴートの前王ウィティザが死去した後、後継者候補となったのはウィティザ王の息子で共同統治していたアキラという人物だったのですが、これに対して祖先に西ゴート王を輩出した家系の有力者でロドリーゴという男が反乱を起こし、アキラから王位を奪います。これに対し、反ロドリーゴ派はロドリーゴがスペイン北部のパンプローナ方面でバスク人の鎮圧に出ている隙を狙って北アフリカの先端にまで進出していたイスラム勢に支援を求め、この要請に応える形でイスラム勢は大した抵抗も無くイベリア半島に侵入する事が出来たのでした。
まあ、内紛に乗じて外部勢力が侵入するというのは、
国家が滅亡する時の一つのパターンですね・・・。

こんな感じで司令官ターリク・イブン・ジヤード率いるウマイヤ朝イスラム軍は、ギリシャ人の言うところの 『ヘラクレスの柱』 、つまりジブラルタルに上陸します。イスラム勢はこの海峡にそびえる岩というか山を 『ターリクの山』 と名付けますが、これアラビア語で発音すると 『ジャバル・ターリク』 で、これが実はジブラルタルの語源だったりします。

ターリクの山= Jabal Ţāriq(アラビア語)→Gibraltar(英語)→ジブラルタル

さて、ジブラルタルから侵入したイスラム勢は瞬く間に有数の港であったカディスを落とします。これに驚いた西ゴート王ロドリーゴは急いで南下し、カディスの東にあるヘレスでこれを迎え撃つ体勢をとったのですが、このグアダレーテ河畔・ヘレスの戦いはイスラム勢の完勝におわり、ロドリーゴもここで戦死してしまいます。
勢いに乗るイスラム勢はここで二手に別れ、司令官ターリク率いる本隊がセビリア→メリダと陥落させる一方、北アフリカから増援されたもう一隊がコルドバを落とし、その後この2隊が西ゴートの首都トレド近郊で合流すると、ここもあっさり攻略してしまいます。イスラム勢はこの後も続けて東部の重要都市サラゴサをも攻略してしまいますが、西ゴートのもう1人の有力者アキラはその後も北部に逃げ込んで抵抗を続けていたと言います。ただ、国王が戦死し首都も陥落した711年を持って西ゴート王国は事実上滅亡とするべきでしょう。


(アル・アンダルスの誕生)
イスラム勢は当初セビリア・トレド・サラゴサという内陸の重要都市から攻略して行ったわけですが、その後北アフリカから送られた増援軍は地中海岸沿いに北上してゆき、マラガ・グラナダ・バレンシア・バルセロナ・リスボアといった港や海岸近くの町もイスラム勢の支配下となるのに時間は掛かりませんでした。
こうして、内紛が続いていた西ゴート王国の旧領は北部を除いてほとんどがイスラム勢であるウマイヤ朝の支配下に組み込まれる事となります。以後、イスラム支配下のイベリア半島はウマイヤ朝の属州アル・アンダルスと呼ばれるようになったのでした。

被支配層となった旧西ゴート王国の住民は次の区分で呼ばれるようになります。
①モサラベ(キリスト教徒)
②ムワッラド(イスラムに改宗したキリスト教徒)

このうちキリスト教徒であり続ける事を選択したモサラベと呼ばれた人々は、ウマイヤ朝への服従と人頭税を支払う代わりに信仰と自治権の自由を保証されてそのまま居住を許されることとなります。その代わり、積極的にイスラムへ改宗したムワッラドと呼ばれる人々のようにイスラム社会で出世する道はなかったのですね。
しかし、支配層となったイスラム勢も実は一枚岩と呼べる団結力はありませんでした。
特に原イスラムの支配層であるアラブ人と、あとからアラブ人に征服されてイスラム教徒となったベルベル人・ムーア人との確執は激しかったのです。
イベリア半島に進出したのが中間支配層であるベルベル人やムーア人であったことから、この地の総督はベルベル人が就くことが比較的多かったのですが、その在任期間は平均2年と極端に短く、属州アル・アンダルスの政治的・社会的な不安定さはその後ウマイヤ朝の弱体化が顕著になると一気に火を吹くこととなります。


(フランク王国の迎撃)
こんな感じで元々不安定さを持っていたイスラム勢によるイベリア半島の征服ですが、
彼らの拡大路線はなおも続くこととなります。720年代にはそれがピレネー山脈を越え、
遂に現フランスであるフランク王国の領内ガリアへ侵入するようになったのでした。
しかし、彼らの進撃もここで止まります。
721年、アキテーヌに進出したイスラム軍はアキテーヌ公ウードの軍勢の前に敗退。
732年、アンダルス総督アブド・アッラフマーン自ら率いる大軍がウードのアキテーヌ勢を破り、更にトゥール方面に北上するのですが、ここでフランク王国の宮宰であったカール・マルテル率いる重装騎兵に史上名高いポワティエの戦いで破れ、総督自身が戦死する大敗を喫したのでした。
これ以後もイスラム勢はガリアへの侵入を繰り返すのですが、740年代にアル・アンダルス自体で内乱が起きると外征どころではなくなり、更に759年にモンペリエの西にある拠点ナルボンヌをフランク王ピピンに奪還されると、国内の紛争が絶えなかったこともあってその活動はピレネー山脈の西側に封じ込められることとなりました。。


ところで、イスラム勢はイベリア半島のすべてを支配下に置いたわけではありませんでした。
元々北部のガリシア・カンタブリア・バスクといった地方は独自性が強かったのもありますがイスラムの支配が及ばず、ここに逃げ込んだ旧西ゴート貴族はこの地で現地の人々に受け入れられ、一部は同化しつつも西ゴートの血脈を保存し続けることが出来たのでした。
これが、後年のレコンキスタ運動の源流のひとつとなって来ますが、それはまた後ほど。



おしまい。


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  1. 2009/01/08(木) 23:08:16|
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イスパニア物語 その6

イスラムの西進


【徒労】 苦労して成し遂げた事がすべて無駄に終わる事。無駄な労苦。


全く、7世紀初頭の地中海世界ほどこの言葉を思わずにいられない時代はそうそう無いかも知れません。 
東では長年にわたるササン朝ペルシアの脅威をなんとかしりぞけた、東ローマ帝国の皇帝ヘラクレイオス。
西では東ローマ・スヴェヴィ族・フランク族・ヴァンダル族など周辺の諸勢力を排除してようやくイベリア半島を統一した西ゴート王国。
紀元620年代は東ローマと西ゴートがそれぞれの勢力を確立させて、フランク王国も含めてヨーロッパ・地中海世界を三分する形勢を見せていた時期なのですが、いったい誰が、このわずか数十年後には両者がそのほとんどを失ってしまうと予想できたでしょう。



(預言者ムハンマド)
ちょっと年代を整理します。
610年、東ローマのヘラクレイオス帝が即位。
622年、同ヘラクレイオス帝がイッソスの戦いでササン朝ペルシアを破り反攻開始。
625年、西ゴート族がイベリア半島を統一。
この625年の時点では、地中海近辺は西ゴート・フランク・東ローマの三大勢力と、
イタリアに割拠したランゴバルト族やササン朝ペルシアくらいにほぼ集約されていました。
そして東地中海では、東ローマ皇帝ヘラクレイオスとペルシア王ホスロー2世という、
名君同士の攻めたり攻められたりの激闘が繰り広げられている最中にありました。

しかしこの頃アラビア半島のメッカでは、
ムハンマドと呼ばれる男が新たな宗派を興しつつありました。
そう、イスラム教の誕生がまさにこの時代だったのです。
年代を更に比較してみましょう。

610年、ムハンマドがアッラーの啓示を得てメッカでイスラム教を説き始めます。
622年、ムハンマドがメディナに移動してこの地で再び布教を開始します。(いわゆる聖遷=ヒジュラ)
627年、ヘラクレイオス帝がニネヴェの戦いでペルシア王ホスロー2世を破る
628年、ヘラクレイオス帝がペルシアの首都クテシフォンに迫り、講和が成立。
630年、イスラム勢がメッカを奪回。
632年、イスラム勢がアラビア半島を統一。同年ムハンマド死去。

こんな感じで、
東ローマ皇帝ヘラクレイオスと宿敵ササン朝ペルシアとの戦いと、イスラム教の興隆とは、
奇しくもほとんど同時期に成されていたのでした。
そして東ローマがなんとか勝利を手にしてシリアは安泰かと思われた頃、アラビア半島を統一したイスラム教は、その新興ゆえの宗教エネルギーをアラビア半島の外にも向けてゆき、シリア・ペルシアに侵攻を開始したのでした。



(シリアよさらば!)
634年、イスラム勢、死海南岸の東ローマ軍を破りダマスクスを占領。
この情勢に驚いたヘラクレイオス帝は自ら大軍を率いてシリアへ急行します。
636年8月、シリアのヤルムーク河畔の戦いで両者は激突します。
結果は東ローマ軍の惨敗。

苦労の末にシリア・パレスティナを失ったヘラクレイオス帝は、
『シリアよさらば』
の有名な言葉を残して失意のうちにこの地を後にします。

更にイスラム勢は東ローマとの戦争で疲弊しきっていたササン朝ペルシアにも侵攻を開始します。
641年、ネハーヴェントの戦いに敗れたササン朝ペルシア帝国は翌年あっけなく滅亡し、
その後イスラム勢は北・西・南へと拡大を続けます。

北ではアルメニア・イラン高原を制圧し、中央アジアにまで進出。
サマルカンド・ブハラを占領して、
最終的に751年には中国の唐帝国が派遣した遠征軍とタラス河畔にて戦う所まで進みます。

西ではシリアを制圧した後、トルコ~エーゲ海にまで進出。
654年には東ローマ艦隊をロードス島沖の海戦で撃破し、
673~678年に掛けてコンスタンティノープルを包囲するところまで東ローマを追い詰めたのでした。


(イスラムの西進と西ゴート王国)
そして、南に向かったイスラム勢が今回のシリーズの焦点になってきます。

642年、イスラム勢がアレクサンドリアを占領。
シリアとエジプトを失った東ローマの国力はこの時点で半減したといえますが、
そのままトリポリ~チュニジア~アルジェリアと北アフリカを西進したイスラム勢は、697年にはこの地方最大の都市カルタゴを陥落させ、北アフリカ全域にイスラムの半月旗が翻るまでになります。

こうして、わずか100年前のユスティニアヌス帝の時代には地中海のほぼ全域を再征服した東ローマ帝国に代わり、地中海の支配者となったのは勃興して100年足らずの新興勢力イスラムでした。(東ローマ帝国にはなおシチリア島とイタリアの一部などが残されているのですが、シチリア島はその後831年にパレルモが陥落するとイスラム勢の侵攻が本格的となり、878年にはシラクサが陥落して完全にイスラム勢の支配下に入ります)

700年までに地中海の東~南半分を制したイスラム勢。
そしてその矛先は地中海の先端部にまで及び始めます。
711年、第6代カリフ・ワリード1世(705~715年)の時代になると、
遂にイスラム勢はジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵入してきたのでした。

この頃イベリア半島を支配下においていた西ゴート王国では、選挙制による国王選出という、いわば実力主義の弊害からか、数年に一度のペースで王位を巡る争乱が続き、カトリック司教による公会議も巻き込んだ混乱のさなかにありました。一方で法体系が整備され、政治面では混乱が続いてはいても国内の治安・生産などは割と安定しているのが西ゴート王国の面白い所なのですが。
ただ、支配層で勢力争いが絶えないという事は、一致団結して外敵に立ち向かう勢力を結集、
などという方向にはまず向きませんよね。
しかも悪い事に、イスラム勢がジブラルタルを渡る711年当時、西ゴート王国では前国王ウィティザが亡くなった直後で、跡目争いでロドリーゴとアキラという二人の有力者が共に王位を主張して対立している最中だったのでした。


次回は激変するイベリア半島の模様を。
※時間があれば後で地図をいれます。


おしまい。


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  1. 2009/01/06(火) 23:27:45|
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2009年の目標設定

朝6:45出社。

メールが1000件超えると読む気がしなくなりますね・・・。
仕事始めからいきなり出張なので今年は飛び回ることが多くなりそうな予感。
さて、表題にした件。

【2009年のDOLでの目標】
①海事を65・貫通をR15にする
②侯爵になる

③造船カンスト

④鋳造・工芸・縫製・調理をR16にする
⑤別キャラで生産スキルを2個カンスト
⑥発見数900→1300以上
⑦どこかの港のランカー1位になる(一瞬だけ)

①と②を主目標にして、
このうち4つ以上の達成を目指して行きたいです。



①は頑張れば今月中に達成できると思うけどまあ、
ぼちぼちやってればそのうち行くでしょう。

②はきっついですね。
いまLV53-65-62で名声が10-22-21万なのであと17万・・。
これ実際に達成しようとすると必然的に冒険を相当に上げて行かないと届きません。
となると発見物も増やしてって動きに収束していくんじゃないかと思う。
しかしこれLV上限が70まで解放されると全然違う話になっちゃいますね。

③は、ひょっとしたら今年仕事の方で動きがあるかもなので、その場合の目標。
先日久々に船大工になっためけさまに船作ってもらいましたが、
マニアックな船はやっぱり自分で作りたいなと。
しかし私が造船屋になるととんでもなく変な船作りに凝りそうなので注意かも・・。

④・⑤は生産関係の目標。
それと今度の新職業アルティザン、だったでしょうか。
複数の生産スキルを使いこなしてどーのというからには、
これは生産屋としてはやるしかないw
いま他のキャラで工芸と鋳造と保管上げをそれぞれ同時にやってますが、
メインの方もまだ錬金術にしても余地残してますし、
あと言語学あたりもどれかのキャラで取らせていこうかなと。

⑥はまあ、②で侯爵目指す以上は冒険LV上げていかないと名声上限に引っ掛かってしまうので、普通に発見数を増やして行く事になりそうと言う事で指標的に。LV上げるだけなら他にも手段あるでしょうが、単純に地図読みを延々とやるようなのはどうにも、ね。ジャンル的には生物ほとんどやってないのでここ主体で。

⑦は、これまで生産屋やっててそこそこ資金貯まってきたので、
そろそろどこかで使っちゃおうかとw


目標ってやつは立てて他人に表明するとなぜかそれに向かって達成しようと言うパワーになってくるのが不思議ではありますが、とりあえず言っちゃったものはやるのです、はい。
あとまあ、当ブログの目標は特にありませんが、
中期的にやりたい事は既に先月書いてるのでその方向で進むと思う。
あとはこの世界の行く末次第ですねー。



おしまい。


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  1. 2009/01/05(月) 18:56:46|
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イスパニア物語 その5

混沌の時代


現代ヨーロッパの各国では、いまだに国内や同じ島などでの地域的な確執が政治問題となっている国って結構ありますよね。イタリアの南北問題などはその典型ですが、今見ているイベリア半島でも結構こうした地域問題がくすぶっています。そして、それらのヨーロッパの政治問題となっている地域の独立性・経済格差などの原因を遡ってゆくと、実にそのいくつかはこれから書く事になる、古代から中世への転換期にその淵源を発している事が結構あったりします。

まあ、現代の問題を探るのに今から1500年以上も昔の事から見てゆくというのは歴史の醍醐味そのものですが、大航海時代という今から500年前の事となると、古代の影響はもっと強く及んでいたのでした。
地中海を制した古代ローマの末期から7世紀に掛けてのヨーロッパ、
とりわけイベリア半島の動きはどうだったのでしょうか、これから見てゆくことにします。


(フン族の出現とゲルマン民族の大移動)
『紀元4世紀末にヨーロッパの東端に出現したフン族が西に移動を開始し、それに押される形でヨーロッパの北~東方にいたゲルマン系の部族が次々と玉突き現象的に大挙してローマ帝国内に侵入して来るようになり、そしてそのゲルマン民族の大移動によって古代ローマ帝国は蛮族の脅威に晒され、遂には西ローマ帝国の滅亡に至った』
というのはまあ一般的に説明する際に用いられるこの時代の主な流れ。

端的に書くと確かにそういう部分は大きいのですが、実際はその2~300年前からローマ帝国はライン川流域~ドナウ川流域の諸部族と境を接して侵略・討伐・均衡・通商など様々な形で付き合って来ており、ローマの危機といわれた3世紀には既にローマ領内の属州ガリアなどでは、紀元375年以前からゲルマン系の民族が領内で生活するようになっていました。
が、そうした中にあってもやはりフン族とそれに押し出される形で侵入してきたゴート族はローマの許容範囲を超え、歴史を動かす契機となるだけの力を持っていたのでしょうか。

フン族が登場してくる紀元375年~450年頃までの話については、既に以前書いた草原の興亡シリーズの中で結構詳しく見ているのでそちらを押さえておくと良いかもしれません。


ヨーロッパ地図_5世紀前半01  
※当時作った400年代の地図がこれ。(拡大して見て下さい)


草原の興亡シリーズURL
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-category-12.html

(関連記事)
その24 東方からの脅威-その1

その25 東方からの脅威-その2

その27 大移動の余波

その28 カタラウヌムの戦い-前編

その31 カタラウヌム以後




(西ゴート王国の時代)
こんな感じで、ローマ帝国(西ローマ)末期の紀元5世紀、
イベリア半島に近接する現フランス南西部のボルドーを中心とするアクィタニア(アキテーヌ)には、カタラウヌムの戦い以後も西ゴート王国が生き残り、その勢力を南へと伸ばし始めてゆきます。

462年、西ゴート王テオドリックの跡を継いだトリスモンド王子を倒して王となった弟のテオドリック2世は、ローマ帝国の内紛に乗じてナルボンヌ(マルセイユを含むフランス南部)の割譲を受けます。
更に西ゴート王国は次のエウリック王の時代にローマの穀倉だったイベリア半島へ進出を図り、ピレネー山脈を越えて度々遠征を繰り返し、この王が在位していた466~484年頃にその最大版図を築く事となったのでした。
このエウリック王の時代、西ゴート王国はゲルマン法を成文化した法典『エウリック法典』が編纂され、王国内のゲルマン人に適用される事となります。これはゲルマン系の部族による国家としては初となる法典であり、ラテン語で書かれていました。更にその後506年にはアラリック王の時代にはローマ人に適用されるローマ法典の縮刷版『アラリック法典』も編纂されるなど、西ゴート王国は他のゲルマン系部族の国家とは一線を画す法治国家としての歩みを見せていたことが伺えるのですね。

そしてこの先進国西ゴートの侵攻をまともに受けることになったのが、ヒスパニア北西部の属州ガラエキアを中心に勢力を張っていたスヴェヴィ族でした。後にブラガンサ公の由来ともなる現ブラガの町に拠点を置いたスヴェヴィ王国は、浸食を受けつつも西ゴートの侵入以降も100年近くこの地に割拠し続けたのでした。

そして476年、このエウリック王の時代に遂に西ローマが滅亡します。
傭兵隊長オドアケルが皇帝ロムルスを廃位させる形であっさりと政権移譲が成されてしまいますが、この結果東ローマ帝国を除く西ヨーロッパ世界は東ゴート族・オドアケルの王国・フランク族・ブルグンド族・西ゴート王国・スヴェヴィ王国といったゲルマン系の部族国家による抗争と混沌の時代に入ってゆくのでした。



(フランク王国対西ゴート王国)
西ローマ滅亡後の481年、フランク族のクローヴィスによりフランク王国が成立し、ガリア北部を拠点としてその勢力を急拡大させてゆきます。当然ながら南フランスに割拠する西ゴート王国とは険悪な状態となり、遂に507年、両者はヴイエで大規模な会戦が行われるに至ります。このヴイエの戦い、結果はフランク王国の圧勝。西ゴート王アラリック2世が戦死するなどして、西ゴート王国はガリア中西部のほとんどを奪われて南フランスの一部とヒスパニアを領する国にほぼ確定する事になったのでした。しかもこの体勢はおよそ200年後にイスラム勢力が侵入してくる8世紀まで続くのですから、非常に大きな一戦だったといえるでしょう。
そして後世、これにより南フランスの中でも南西部、特にローヌ川以西のモンペリエ周辺などはフランスというよりむしろ隣接しているイベリア半島の影響を受け、ある意味独自の政治・文化を有するようになるのですが、その淵源もまたやはりこの5~6世紀にまでさかのぼる事になるのですね。いっぽうフランク王国はその後ガリアの大半を手中にして、後世のシャルルマーニュの時代にはその勢力をイタリア半島へも伸ばしてゆく事となります。
(ちょっとここでこの時代の地図を作ってみましたので、俯瞰しながら話を進めます。)


ヨーロッパ地図AD530年代
※紀元490~530年代における西ヨーロッパの動き(原寸800×584)


さて、5世紀末~6世紀にはいると、
地中海世界は東ゴート族の王国が強大な勢力を持ってきます。
ドナウ川~ライン川一帯に大きな勢力を持つに至った東ゴート王国はその矛先を東ローマ帝国の領内へも及ぼし始め、490年代には西ローマの旧領ラヴェンナを制圧してイタリア全域を手中にするなど大きな脅威となりつつあったのでした。

そしてイベリア半島にもこれは大きな影響を及ぼし、王族内の内紛が続いた西ゴート王国では姻戚関係のあった東ゴートのテオドリック王が511~526年まで摂政として支配するまでになっていました。その後、それまで西ゴート族を支配していたバルト家が途絶えると、554年までの間に西ゴート王国では東ゴート人を含む7人の王が立つという不安定な状況に陥っていました。
不安定な政治状況の中でも西ゴート王国の支配体制はそれなりに機能しているのは結構不思議なのですが、これは西ゴート族が実力主義の選挙制で王位を決めていたから、というのが大きく影響しているでしょうし、もう一方では彼らが導入していた統治システムも結構機能していたのでしょう。

イベリア半島における西ゴート人の絶対数の少なさはけっこう特徴的で、西ゴート王国における西ゴート人の総数はおよそ20~30万人。一方、被支配層となった旧ローマ属州ヒスパニアの人口は400~600万人で、更に少数民族のガリシア人やバスク人、カンタブリア人なども合わせると、西ゴート人の比率はわずか3%程度だったと試算されています。こうした状況の中、西ゴート人は自らの血統を重んじ、他民族との結婚を禁止したり西ゴート人限定・ローマ人限定の各法典や慣例を導入するなどして、二重三重の支配体制を確立していました。
そしてもうひとつ、西ゴート族は比較的早くからキリスト教を受け入れていました。
彼らが当初から信仰していたのはアリウス派で、礼拝はゴート語で行われていた為これもゴート語の保持という点では貢献していたでしょう。いっぽうヒスパニア人の大多数が信仰しているのはカトリックで、両者はまあ相容れない存在ですがアリウス派は他宗派に対して比較的慣用でしたから、これも不思議と二重支配体制の中ではそれなりに機能していたようですね。支配側がカトリックだったらこうは行かなかったでしょうから。




(ユスティニアヌスの再征服、そして・・。)
その後6世紀も20数年が過ぎた頃、
地中海世界ではかなり大きな変革の波が来ていました。
527年に東ローマ帝国ではユスティニアヌス帝が即位すると、先に上げた東ゴート王国や他のゲルマン系国家に対抗するかのように活発な征服活動を始めたのでした。
まず533年に北アフリカのヴァンダル王国で起きた内紛に乗じて名将ベリサリウス率いる遠征軍を送ると翌年にはヴァンダル王国を滅ぼし、翌535年からは強敵東ゴート王国との20年に渡る激しい戦争に突入し、イタリア各地での戦闘の結果553年にこれを滅ぼします。
北アフリカとイタリアを再征服し、東方のササン朝ペルシアの動きも封じたユスティニアヌスが次に目標としていたのは、イベリア半島の旧ローマ属州ヒスパニアでした。

554年、東ローマ軍がイベリア半島南部に上陸します。
このとき西ゴート王国では国王アギラに対立する有力者アタナギルドが兵を挙げたところで、西ゴート族同士の内戦に突入するという最悪の状況だったのです。そして東ローマ軍はこのアタナギルドの援軍要請に応える形でのイベリア遠征だったのですからこの侵攻作戦は容易に進んだのは言うまでもありません。そしてアギラを討ったアタナギルドが引き入れた東ローマ軍を撃退しようとしてももはや手遅れだったのも・・・。
こうして、イベリア半島南部では東ローマ勢が割拠するに至ります。
その支配地域はだいたいバレアレス諸島からカルタゴ・ノヴァ、そしてマラガ、カディス、ヒスパリス(セビリア)など、イベリア半島南西部の最も豊かな穀倉地帯の大部分が含まれていたのでした。

これ以後、イベリア半島では数十年に渡り、
西ゴート王国・スヴェヴィ王国・東ローマ帝国による分割支配が続く事になります。
そしてこの状況を打破したのは、内紛を抱えつつもやはり最大勢力の西ゴート王国でした。

585年にはスヴェヴィ王国を滅ぼし、
625年にはイベリア半島南部の東ローマ勢力を駆逐します。
これによってイベリア半島はローマ帝国時代にゲルマン族が侵入して以来、
約200年ぶりに西ゴート王国によって統一される事となったのでした。

しかし、この統一体制はその後1世紀も経つことなく崩壊します。

この頃、
遙か東のアラビア半島では、
預言者ムハンマド(マホメット)に下った啓示に始まるイスラム教が産声をあげ、
瞬く間にアラビア半島を席巻していたのでした・・・。




おしまい。


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  1. 2009/01/03(土) 10:56:56|
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書初め

皆さま本年もどうぞ宜しく。


昨日は船窓商会メンツでハンゲの麻雀3やってたら
みるきちゃんが四暗刻ツモるわお茶やんがリーチドラ7とかぶつけてくるわでひどい目にあいました;;
とりあえずメンバーは揃うようなので今度大会でもやろうかなと思ってマス。

さてニューイヤーイベント、
WIKI見ずにヒントだけで○○○○に到達できる人は結構博識と言っていいかもですねえ。(一応伏せた
あとはマルセイユのおばちゃんがやたら話が長いとか
ロンドンの造船屋は年末年始も仕事が切れずにあってむしろいいなあとか
アムスのおばちゃん過保護じゃないのかとか
そういうどうでもいい所が妙に琴線に触れるので意外に面白かった。
その後のバレンタインイベントにも続く?
のはさすがに引っ張り過ぎだろうと思わないでもないけど。


さて次回からはちゃんと書くか・・・。
とりあえず酔っ払ってるので内容がめちゃくちゃだw


おしまい。


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  1. 2009/01/02(金) 00:16:24|
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