打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

続・蒼き狼の末裔たち その7

襄陽・樊城包囲戦


(両面作戦)
1268年より再開された、南宋攻略戦。
この戦いにおいてクビライは最精鋭であるモンゴル族の騎馬軍団をほとんど動員していません。
むしろ主役は華北・華南の漢人軍閥や周辺諸民族の混成部隊だったのです。

これは前回書いたように長江流域での作戦に騎馬兵は向いておらず、むしろ水軍や歩兵・工兵主体の構成の方が水上戦や攻城戦には向いていたというのは確かにあるでしょう。事実、この戦いを決したのは土木建築と工作の技術力、そして兵站でした。

しかし実際のところクビライには、南宋に騎馬軍団を投入する余裕は有りませんでした。
何しろ1260年代以降、中央アジアでは事実上のモンゴル宗家であるトゥルイ家に反目する勢力が後を絶たず、クビライの王子たちは皇太子チンキムを除いてほぼ全員が北・西・南西方面の守備を担当しており、モンゴルの支配・軍制単位であり、モンゴル騎兵の供給源である千戸集団をそれぞれ統括していました。

彼らが相手にしていたのは同じモンゴル王家のアリクブケであり、チャガタイ家のアルグであり、そして台頭しつつあったオゴデイ家のカイドゥらでした。そして抗争の地となったのはモンゴル~中央アジアの草原地帯やオアシス帯なのですから、どう考えてもここにはモンゴル騎兵を投入さざるを得ません。
そんな訳で西と南の両面作戦を常に強いられていたクビライには、政治的にも軍事的にも南宋へモンゴル兵の主力を振り向けることが出来なかったのですね。

そういう条件下での最良の初手が、この襄陽・樊城包囲戦だったのかも知れませんね。


(樊城の攻防)
1268年9月、主将・アジュ、副将・史天沢が率いる10万ものモンゴル軍は、開封から河南平原を進んで漢水の左岸にある樊城に迫り、まず双子都市の北側にあるこの樊城を包囲します。
樊城と言うと、三国志ファンならかつて曹仁が水攻めに遭いながらも関羽の猛攻を退けた地といえば、
あー、と思い当たるでしょうか。

いっぽう、このモンゴル軍の動きはかなり早い段階から南宋側に察知されていました。
そもそも数年をかけた準備ですから、相手にもその時間がある事になりますよね。
モンゴル軍を迎え撃ったのは、この地方を守る荊湖制置司という職にあった軍閥の首領・呂文徳。
呂文徳は当時の南宋で独裁政権を築いていた賈似道と親しく、
最前線になると予想された襄陽に弟の呂文煥を派遣したのでした。

こうして襄陽の守備に着いた呂文煥、この城塞都市へ呂家が集めた最精鋭の手勢と膨大な物資装備を積み上げてモンゴル勢の来襲に備えたのですが、ここで彼はモンゴル軍の思わぬ動きを目の当たりにすることに成ります。

樊城に着いたモンゴル軍が始めたこと、それは土木工事そのものでした。
城のはるか外周で土を掘り返し・壕を作っては手前に積み上げて土塁とする、そんな単純な作業を延々と続けたのです。しかしそれをやっているのが10万もの大軍ですから、仕事は早い。守備兵が気付いたときには既に樊城だけでなく南岸の襄陽城までもが周りをモンゴル軍が築いた土塁で囲われてしまっていました。

しかも後の資料で『環城』と呼ばれたこの土塁、囲いが完成したところで完了したわけでは有りませんでした。更に土塁の所々に守備用の保塁と付け城のような拠点施設が設けられ、そこから更にこの土塁を二重に構築して行き、総延長が100kmにも達したのですから呆れるほどの大工事でした。
また漢水には水中に杭と鉄鎖が張り巡らされて船による物資の供給も遮断したため、篭城中の樊城と襄陽の両都市は水陸共に完全に外界と遮断されてしまったのです。

個人的にはこの戦い、紀元前1世紀のガリアで行われたユリウス・カエサルとウェルキンゲトリクスによるアレシア攻防戦を思わせるものがあります。
どちらも拠点を包囲中に長大な壕を築いた点、包囲中に相手の大軍が増援に来たところ、それから包囲した方が勝ったという結果、そして歴史に与えた影響などなど、かぶる所が多いのです。
ただまあ、恐らく規模としては襄陽戦の方が遥かに大きかったでしょうが、カエサルの方は包囲した更に外側を逆包囲されても尚勝ったところ、それから後の歴史に与えた影響の度合いという点では彼の方が偉大だったかも知れませんね。


(持久戦)
さてこうなるとモンゴル側の意図は明らかでした。
完全に持久戦です。
守備側が時おり兵を出して戦闘を仕掛けようとしてもこれに応じず、逆に環城に拠って守りを固めているのですからこれではどちらが攻め手なのか分かりません。とは言え、いくら襄陽が膨大な物資を貯め込んでいても限界がありますから、ただ守っているわけにも行かなかったでしょう。しかも司令官の呂文煥はたびたび臨安の南宋政府に援軍を要請するのですが、これを宰相の賈似道はなぜかほぼ黙殺して少数の部隊しか送ろうとしませんでした。

しかしこの戦いが始まって3年目の1271年、遂に南宋本国が動きます。
賈似道の親族に当たる将軍・氾文虎を司令官とする南宋の水軍・陸軍混成の機動部隊10万が、長江から漢水へと遡上して襄陽城の南側近郊に現れたのでした。

しかしこの敵増援の到着こそが、モンゴル軍が待っていた本当の狙いだったのです。



おしまい。

FC2ランキング02
 
最後にぽちっ と。

テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム

  1. 2010/04/24(土) 07:24:42|
  2. 蒼き狼の末裔たち
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<トルヒーヨにて | ホーム | 続・蒼き狼の末裔たち その6>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://hamilcar.blog64.fc2.com/tb.php/1023-93472637
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

このブログはリンクフリーです。

ハミルカル・バルカ/メルカルト

Author:ハミルカル・バルカ/メルカルト
サーバー:Eos
所属  :イスパ
商会  :たまごのしろ/世界の船窓から
Twitter :hamilcar_notos

FC2カウンター

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
オンラインゲーム
255位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
大航海時代オンライン
7位
アクセスランキングを見る>>

最近の記事

カテゴリー

最近のコメント

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

最近のトラックバック

ブログ内検索

RSSフィード

RSSリンクの表示

著作権について

大航海時代 Online』に関わる著作権、その他一切の知的財産権は、 株式会社コーエーテクモゲームスに帰属します。 このホームページに掲載している『大航海時代 Online』の画像は、 『大航海時代 Online』公式サイトにおいて使用許諾が明示されているもの、もしくは『大航海時代 Online』の有効なアカウントを所有しているユーザーが株式会社コーエーテクモゲームスから使用許諾を受けたものです。