打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

フォルモサ資料-5

ゼーランディア城の攻防


1661年4月末、遂にフォルモサ島に侵攻して来た鄭成功。
25,000人もの大軍を引き受ける事になったオランダ東インド会社の拠点ゼーランディア城、
今回と次回で長官フレデリク・コイエット率いる守備隊と鄭成功軍との戦いを見てゆく事とします。


フレデリク・コイエット 『閉却されたるフォルモサ』 (1675)

副題
「東インドにいるオランダ人の怠慢によって
 フォルモサ島が中国のマンドラインにして海賊である国姓爺の奇襲を受けて、
 どのようにして占領され、奪取されたかについての真実の物語」


(緒戦)

・1661年4月30日、湾内に侵入した鄭成功軍はフォルモサ島へ上陸。
・これに対して長官コイエットは対岸のヤン・ファン・アールドルブ大尉がゼーランディア城の対岸にあるプロヴィンシア砦を救援するために200名を率いて迎撃させる。
・アールドルフ大尉はプロヴィンシア砦に取り付いていた包囲網に突入し、60名を入城させることには成功したが大尉以下は撤退を余儀なくされ、城と砦の連絡は絶たれてしまう。
・5月1日、ベーデル大尉率いる250名が出撃して城の北側で陳澤将軍率いる4000名の鄭成功軍と戦闘に入るも、劣勢のため包囲されて撤退。ベーデル大尉は最後まで残って戦っていたため兵士110名とともに戦死する。

・5月1日、近海でオランダ艦隊と鄭成功艦隊とで海戦が始まる。
 ス・ホラーフェランデ号は敵艦30隻からの火砲を浴びながらも湾外へ脱出に成功したが、
 オランダ艦隊の主力艦ヘクトル号は火薬庫が爆発して沈没してしまう。
・5月4日、陸戦と海戦の敗退により完全に包囲・分断されたプロヴィンシア砦はその後残りの水食料が8日分しかなくなり、12000名で包囲していた鄭成功軍に無条件降伏・開城する。
・ゼーランディア城は城外(市街地)にいた住民を避難させて市街を捨て、篭城に入る。
・バタヴィアからの援軍が到着するに最低11~12ヶ月は掛かるだろうと計算していた。


(反撃)
・5月5日に鄭成功軍はゼーランディア市街地を占領し、大砲の設置など総攻撃の準備を進める。
・5月25日、市街地に設置された28門のカノン砲による砲撃が開始される。
・しかしこれらの砲台は城壁からの遮蔽物がなく露出していたため、
 長官コイエットは守備隊の砲手とマスケット銃兵に命じて砲台に射撃を集中させた。
・城内からの攻撃により鄭成功の砲兵隊は1000名近い死者・逃亡者を出して大通りから撤退した。
・この間、鄭成功自身は6~7000名を率いて南から側面の砂丘へ移動して裏へ回ろうとする。
・しかしこの動きも城内から射撃され、射線の外まで移動して待機することになる。
・篭城側から銃兵60名が出撃し、市街に放置されたカノン砲の砲門を塞いで使用不能とする。
・その後、城内では総出撃してカノン砲を収容する作戦についての検討がされるが、
 10箇所以上の拠点守備に最低でも2~300名は必要なため、
 残る7~800名ではまだ4000名以上残っている市街地の鄭成功軍を防ぐことは不可能と判断、
 出撃の提案は否決される。
 (この時出撃しなかった事が、後にコイエットが死刑判決を受ける理由の一つとなった)
・こうして5月26日以降、鄭成功は力攻めを中断して包囲戦に移行する。
・5月28日、6月28・30日には降伏勧告の書簡が送られている。


(急報)
・3月22日、勝手にフォルモサを出てしまったファンデル・ラーンがバタヴィアに到着する。
・ラーンの虚偽報告により、コイエット他フォルモサのNO.2・3は解任される。

・6月22日、新長官ヘルマン・クレンクが任命され、フォルモサ島へ派遣される。
・6月24日の朝9:00、篭城中のゼーランディア城から脱出したマリア号がバタヴィアに到着し、
 鄭成功がフォルモサ島に来襲して来た事がここで初めて報告される。
・6月27日、バタヴィアの総督府で参事会が開かれ、フォルモサ救援が決議される。
・7月5日、ヤコブ・カーウを司令官とする9隻の艦隊が兵士725名を乗せてバタヴィアから出撃する。
 (ただし、司法委員だったヤコブ・カーウの本職は弁護士で戦闘経験がなかった)

・7月5日、フォルモサ島の基隆港から脱出したオランダのフライト船デ・フィンク号に乗った
 170名のオランダ人が長崎に到着する。
・7月20日、フォルモサ島が鄭成功の攻撃を受けている事が日本の長崎から江戸に伝えられ、
 この頃には西国諸大名が長崎の奉行所とオランダ商館に集まり始める。
・7月30日、先に解任決議の書簡を持って出た『新長官』クレンクがタイオワン島に到着し、
 バタヴィア総督の命令が篭城中のコイエットら守備隊に伝えられる。
・8月1日、新長官であるはずのクレンクは結局包囲中のゼーランディア城には入らず、
 水食料がないと言う理由でなぜか長崎に向かってしまった。

・8月12日、カーウ率いる救援艦隊が到着するが、悪天候でその後28日間も上陸出来なかった。
・8月31日、カーウは同時期にアユタヤからゼーランディア城に向けて航行予定だった
 木材輸送船ロースドイネン号への命令を変更し、この船を長崎に送る事を決める。



こうして見ると、ここまでゼーランディア城のオランダ東インド会社の守備隊は20倍近い敵に攻撃されながらもかなり頑張っていたことが分かりますよね。しかも6月という早い時期に報告が届き、7月には早くも最初の救援艦隊が編成されているのですから、陸海の連携さえ取れていれば充分戦えたように見えますし、南風の吹いている季節であることを考えるとバタヴィアが本気で追加の増援を行えば充分間に合うかも知れない状況だったでしょう。
しかし、結局この後ゼーランディア城は翌年陥落しています。
いったい現地で何が起こっていたのでしょうか。


次回は篭城戦から開城に至る顛末を。
この流れを踏まえていまDOL内では安平にあの人物がいるのですから、
予備知識としては結構CP2としても関係深い話かと思います。



おしまい。

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  1. 2010/05/18(火) 23:51:06|
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