打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

続・蒼き狼の末裔たち その9

バヤン登場


前回からだいぶ開いてしまいましたね。
その間にDOL世界はCP2から3へ入ろうとしてますので、
時期的には今回から取り上げる話は丁度リンクしてくることに。

前回までにクビライによる南宋攻略戦は最前線の襄陽が落ちており、
ここからだいたい一直線に南宋は滅亡へと向かいます。
ただ、同時にこの頃、既に後の東アジア史に大きな影響を及ぼす人物・歴史事象が
その兆候を現して来ていました。
そんな訳で今回は当事者であるモンゴルだけでなく、周辺各国の動向も併せて追ってみます。


(足音)
南宋の滅亡について書く前に当時の東アジアについて見ておく必要があるというのは、
日本史を覚えている方なら年号だけでピンと来るかもしれません。
何しろ襄陽が陥落した1273年と言えば、実に蒙古襲来(文永の役)の前年。

実はこれに先立つ1266年の時点で、
既にクビライは鎌倉幕府に最初の通交の書簡を送る準備をしていたのです。
そして実際に最初の使者が鎌倉幕府へ送られたのが1268年。
更に具体的な警告が来たのが1271年と、
正に襄陽攻略戦の最中に日本とモンゴル帝国との接触が始まっていたのでした。

いっぽう1260~1270年までの日本はと言うと、
第5代の名執権・北条時頼が亡くなったあと息子の時宗がまだ若年。
6~7代目の執権は一時的に親族の者が就いて時宗をサポートしていた時代にありました。
そして時宗が当年18歳となった1268年、モンゴルからの最初の使者が送られてきます。

北条時宗と言えば後に蒙古の二度に渡る襲来という国難のなか、全国の御家人たちを指揮統率し之を切り抜けた人物としてかなり高い評価が与えられる事の多いものの、さすがにまだ10代のうちから絶大な権力を振るう人物として見るのは無理と言うもの。むしろ鎌倉幕府成立から80年程が経ち、承久の乱を経てその勢威が西国・九州一帯にしっかり根付いていた事のほうが結果に対する影響としては大きかったかも知れません。


(高麗)
そしてこのモンゴル・日本両国の間で微妙な位置にあるのが、
当時いち早くクビライの庇護下にあった朝鮮半島の高麗。
13世紀の高麗はモンゴルに対する40年程に及ぶすさまじい徹底抗戦の時代のあと、
1259年の崔氏政権の打倒を経てモンゴルに服属。
その後は高麗の太子がモンゴルの宮廷に入朝するようになり、モンゴルと関係の深い人物が次代の王となると両国の関係は大きな変化を迎えてゆきます。
特に1259~60年頃には高麗の太子テン(後の元宗1259-1274)が、クビライがアリクブケと大ハーン位の継承戦争を繰り広げていた際にクビライの近くにあり、恐らくここで人間関係が築かれたのでしょう。クビライが勝利して以後、高麗に戻ったテン(元宗)はその影響力を背景に親モンゴル路線を掲げ、反対勢力を駆逐しつつ朝鮮半島内での地位を固めていました。

更にその子である忠烈王はクビライの公主を妻に迎えます。
忠烈王は親・元政策のもと対日本侵攻に積極的であったと云われ、
実際その後の文永・弘安の役ではそれぞれ1万もの兵を日本に送っています。
当時の世界情勢からして見れば大陸とつながった朝鮮半島で親モンゴル路線を取るのはごく自然な流れだったかとは思いますが、その結果として侵攻される日本にとってはさすがに厳しいものがありました。


(バヤン登場)
さて、こんな感じで緊張の度を深めつつあった極東アジア。
この頃大陸の戦いは終盤を迎えるところで新たな英傑が参戦してきます。
そう、この後クビライ、テムルと続くおよそ20年以上に渡り、
大元ウルスの大黒柱として君臨した名将バヤンが歴史の表舞台に姿を現して来たのです。

バヤンの出身はモンゴル族バアリン部に属する生粋のモンゴル貴族。
バヤン自身は1253年のフレグの征西遠征軍に参加しており、その後フレグ・ウルス(イル・ハン国)が成立する頃には出自の良さもあって若年ながらも既に将軍職にありました。
その後成立したイル・ハン国から使者として送られたバヤンをクビライが見出し、直臣のそれも中書左丞相に任命した(今で言う内閣官房長官に相当する職でしょうか)あたりで南宋攻略戦が開始されたのです。

そして1273年に襄陽が陥落して実質的な掃討段階に移ったところで、
クビライは左丞相のバヤンを南宋攻略の総司令官に任命して襄陽に送り込んできたのですね。
襄陽が落ちた時点で趨勢は大きくモンゴル側に傾いていたとは云え、
そこは流石に東アジアの超大国・南宋。
いまだ残存戦力は兵20万余、水軍に至っては数千隻が残されていました。
これに正面から当たってはいくら精強なモンゴル軍でも消耗は避けられなかったでしょう。
しかも当時のクビライは背面の草原地帯に強敵(同族ですが)を残しており、
バヤンには丞相という立場からもこうしたモンゴル全体の戦局を見据えた対応が求められる局面でした。
後にカイドゥの乱、ナヤンの反乱、シリギの乱と続くモンゴル高原周辺での内戦で正に獅子奮迅の働きを見せるバヤン、この南宋攻略戦においてもその優れた智謀と統率力の片鱗を見せる事になります。


(勝敗分岐点)
1274年、長江と漢水との合流点に位置する南宋の大都市・武漢に迫ったバヤン。
ここには残存していた南宋の艦隊が集められており、
これを見て取ったバヤンは自ら中央で南宋艦隊と対峙しつつ、アジュ率いる騎馬主体の陸戦隊を組織して陸地を迂回させる事で挟撃の動きを見せるとともに、襄陽城の守将で降伏してきた呂文煥を使って後方にあった武漢周辺の諸城を調略してしまいます。

この結果、包囲された南宋艦隊は次々に離脱・壊走してしまい、更に長江中流域に残っていた武漢守備隊を含む南宋の残存戦力も抵抗する気を失って降伏しまったため、バヤンはこの後ほとんど無傷で長江下流に至る一帯を制圧することが出来たのでした。

恐らくここが南宋攻略戦の勝敗分岐点だったのでしょう。
まだ南宋は経済でも人口でも周辺を圧倒していた江南地域を保持してはいましたが、
長江の南岸にまでモンゴル軍が至った事が結局抵抗する人々の気力を失わせてしまったのです。
またこの南宋攻略戦では後背地となる各地域に一斉にモンゴル軍が展開しており、四川方面にはカラ軍が、黄河下流~淮水方面からはボルゴン率いる漢人混成の部隊が一斉に楊州・臨安(現・杭州)に向けて進んでおり、完全に点(都市)の攻略から面(領土)での征服戦となっていました。

この状況で最後に立ちはだかったのが、
賈似道自ら率いる南宋で最後に残っていた戦船2500隻にも及ぶ守備艦隊。
数だけで言えば開戦当初のモンゴル軍とほぼ互角だったのですが、この時点までにバヤンは南宋側から降伏した将兵・水軍をほとんど処罰せずに味方に加えていたため、賈似道率いる南宋軍の将兵にはもうほとんど戦う気力は残っていなかったのでしょう。


(南宋の滅亡、そして・・)
1275年3月、賈似道率いる南宋艦隊は建業の上流にある蕪湖まで迎撃に出ます。
しかしこの艦隊もモンゴル水軍が開戦の銅鑼を鳴らして砲撃を始めるや、
ほとんど抵抗することなく逃走を始めてしまったのでした。
賈似道は戻った所で処刑されてしまいますが、もはや余禄の事象と言うべきでしょうか。

翌1276年1月、南宋の首都臨安はバヤンの前に無血開城します。
南宋そのものはここを脱出した一部の軍人と王子たちによって亡命政権があと3年ほど続きます。
しかし事実上この1276年をもって南宋滅亡とするべきなのでしょう。

そしてこの戦役の結果、
またしてもバヤンはほぼ無傷で南宋の艦隊戦力を手中にします。
数千隻・十数万人もの南宋艦隊がその造船技術と共に消耗することなく残存していた事が、
この後の東アジア史に大きな影響を及ぼすことになるのですが・・・。


次回から、
いよいよ鎌倉幕府とモンゴル軍の攻防が始まります。

この東アジアに誕生していたもう一つの軍事政権が、
これまでほとんど他を圧していたモンゴル帝国とどう相対する事になるのか、
周辺情勢も絡めて見てゆく事とします。



おしまい。

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  1. 2010/07/12(月) 08:08:03|
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