打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

続・蒼き狼の末裔たち その10

文永の役-1


またしても久々に書く事にしたモンゴル帝国編の続きです。
そろそろ中国実装が近づいてきたのでちゃんと書こうかと・・・。

前回までに中国では1276年に南宋が滅ぼされており、今回書く元寇についての記述は正にその前後の事となりますね。


(陸/海複合国家への変貌)
さて長いこと書いてきたこのモンゴル編ですが、クビライの大元ウルス(元朝)が国号を定めた1271年前後から、モンゴルは陸の巨大連合国家から海上へ、東アジアのあらゆるものを飲み込んだ陸海複合国家へとその性格を変えて行きます。モンゴル帝国を単なる草原の大帝国と認識していると、東方見聞録に出てくる超巨大ジャンクを建造して西アジアまで繋がる航路を開発している、まさに世界屈指の海洋国家としての姿にだいぶ違和感を覚えると思います。そしてその海洋国家としての矛先が最初に向けられたのが、日本・そして鎌倉幕府だったのはかなり注目すべき点な気がしますね。


(対南宋戦略?)
ところで今回の元寇編、つまり1274年の文永の役と1281年の弘安の役の詳細そのものについては日本史の範囲で結構知られている部分ですので、ここでは概略程度に留めるつもりです。できれば「アジア史/モンゴル史視点での日本侵攻」という事象として見れたら良いかなと。そもそも資料が少なすぎるし定説すら固まってなかったりしますので。

で、まず文永の役について東アジア情勢全体でみると、これはどう見ても対南宋を意識しての行動としか思えなかったりします。例えば対南宋攻略戦の最終段階となる1274年、クビライは正月に10万人の追加動員令を出しており、左丞相バヤンに出征の命令を出したのが同1274年の3月。ヒンドゥと洪茶丘に日本遠征の命令を出したのは、バヤンへ命令が出た実にその前日でした。

この一連の命令、時期的にはどう見てもどちらかに関連しての戦略ですよね。
ではどちらが主なのか?
それはまあ、どう考えても攻略戦が一番重要な時期に来ている対南宋戦略でしょう。

そもそもアジア全体での情勢を見ると、中央アジアで一門との対立が続いて主力を草原に振り向けていた1270年代のクビライには、本気で日本を攻める余裕など全くありませんでした。この時期、クビライの王子のほとんど、それからバヤンより上位となる右丞相はモンゴル高原から回廊一帯の前線に張り付いていたのですから。

次に文永の役の遠征メンバーを見ても、それほど高位のモンゴル人指揮官はおりません。主将のヒンドゥはともかく、副将の洪茶丘は元々は高麗出身でモンゴルに仕えた将軍、水軍の主力である高麗軍の司令官・金方慶は当然ながら現役の高麗軍人でした。

しかもクビライというか当時のモンゴルは相当に情報収集能力に長けていましたから、日本と南宋とはかなり前から文化・経済両面で交流があった事は承知していたでしょう。高麗もやる気だし南宋と同時に日本へ攻撃を掛けることで側面から南宋を圧迫する事になる、クビライがそれくらいの事を考えていて不思議ではありませんね。

日本がそれなりの人口がいる(少なくともモンゴル人の数倍はいる)島国で、資源的にも金属・鉱石の産出が豊富、そしてそこに軍人の政権が生まれていた事くらいは把握していたかなと思います。(まあ、東方見聞録の記述全てをそのまま信じていたらえらい事になりますがw)
そうですね、東方見聞録については次回か次々回で抜粋します。
あれの前半はそれなりに資料として読める物になっていますので。


(日本遠征計画)

さてこうして命令が下された対日本遠征軍。この時の日本向けの陣容はというと、蒙古、満州(女真族を含む)と漢人兵を合わせて兵15000~25000人。これに支配下に置いていた高麗から兵6000~8000人+水夫が数千人、合計3~4万人と言われる大規模な遠征軍だったのです。

ちなみに、遥か後代となる1588年のスペイン・アルマダ艦隊は、規模で言うと精々130隻・2~2.7万人くらい。
陸上で待機していた兵も合わせれば5万人規模ですが、3万と言うのは13世紀当時としては相当な大艦隊という他ありませんでした。こうして見ると南宋艦隊が如何に強大だったか分かりますね。

この遠征軍の進発はクビライによって1274年7月と定められ、高麗では軍船・輸送船・小型船、計900隻を突貫とも言える建造で完成させます。このように元寇において高麗の果たした役割はかなり大きく、船だけでなく陸上戦力でも後の旧南宋艦隊などより日本にとっては余程強敵でした。これは特に高麗の忠烈王がこの作戦に積極的だった事も大きく影響しているでしょう。

遠征軍の侵攻拠点となったのは、朝鮮半島南部の月浦(現在の合浦)。大航海時代ONLINEで実装されている釜山から西へ50kmほどにある港で、現在では馬山市の一部。まあ合浦または月浦のほうが歴史上の地名としては知られた存在と思います。ともかくここから進発したモンゴル・高麗の混成軍、対馬海峡を渡って諸島部から北九州へと押し寄せつつありました。しかしこの 「モンゴル襲来近し」 という情勢そのものは、実は当時の日本でもそれなりの精度でキャッチしていたのでした。


次回は実際に侵攻してきたモンゴル軍と、応戦した鎌倉幕府の御家人たちの模様を。


おしまい。

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  1. 2010/09/23(木) 16:55:37|
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