打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

欠地王ジョン その3

『故郷の地』 大陸を失ったイングランド王 その3


ジョン(欠地王)
  (1167~1216年_イングランド王)

思いがけずアンジュー帝国の当主となり、ある程度の頑張りを見せてその地位を固めたジョンですが、その後は失政に告ぐ失政、撤退に次ぐ撤退といった感じで失意の内に晩年を迎え、後にイングランドの人は彼を『欠地王』・『失地王』と呼ぶことになります。最終回はその辺りの経緯を見ておこうと思います。


(上級君主)
ジョンの立場は、特にフランス王に対して複雑なものでした。もともとアンジュー家はフランスの一諸侯伯ですから、フランス王は上級君主に当たります。また母系のアキテーヌ侯家も同様で、フランスと対等な立場であるイングランド王位は父の母方から受け継いだものですが、それにしても出身はフランス王の権威を認めたノルマンディ公家でした。これではどうみてもフランス王に対して立場が弱い・・・。
(更に後のことになりますが、ドイツの法学者などは神聖ローマ皇帝は西ヨーロッパ世界の、つまりフランス王やイングランド王などの更に上級の君主であると言う概念を提唱してきます)

こうした中で、ジョンは大陸領地を固める上でフランス王の権威を認める必要があり、王位継承の戦いの後に賠償と言うか礼金と言うか、とにかく2万マークもの支払いを約束します。この手続きは一時的なつもりだったかどうか知りませんが、概念上は非常に重要な実績をフランス王家に与えることになってしまいます。つまり、
『フランスの西半分はフランス王家のものであり、イングランド王はそれを知行として受け取っているだけである、と。』
これだけではありません。更に周辺諸侯、例えば同盟したフランドル伯やブーローニュ伯はフランス王を直接の君主とすることも確認していて、結局のところフランスの西部・北部における王家の地位を伸張する事を意味していました。このように動揺激しいアンジュー家の大陸領地で、更にジョンが取った政策が、結局はほとんどの権益を失ってイングランドに追放される契機となるとは誰も思わなかったでしょう。

フランス全体01←フランス全体の地図

(婚姻政策)
アキテーヌの北にアングーレームという土地があります。

フランス_ポワトゥ01←ボルドー~アングーレーム~ポワトゥ付近の地図

ここはボルドー~ポワトゥを結ぶ区間にあたる重要地で、当時アングーレーム伯家が立っていましたが、この家にイザベルと言う娘がいました。この地の安定を図るためジョンはこの女性に婚約者が居るにも関わらずに婚姻を強行してしまいます。当然ながら相手の婚約者はこれを不当として上級君主であるフランス王フィリップ2世に訴えます。フィリップは裁判への出廷をジョンに命じますが、なぜかジョンはこれに従いませんでした。フィリップが絶好の機会と見たのは云うまでも無く、この件を理由に上級君主としての権限をもってジョンの大陸領地の没収を宣言し、更に一部を残してジョンの甥のブルターニュ公アルテュール(アーサー)にこれを与えてしまいます!
そしてフィリップ自身は没収したノルマンディに侵攻する動きを見せ、ここにジョン対フィリップ・ブルターニュ連合の戦いが始まります。


(大陸領土喪失へ)
当初のジョンの動きは迅速果断で、傭兵隊を率いて驚くべき速さで進軍し本拠地ポワトゥにいた母アリエノールを救出して逆にアルテュールを捕らえる事に成功したのでした。ところがここで事件がおきます。なぜかこの直後にアルテュールは撲殺体で発見され、人々はジョンが甥を暗殺したのだと考えました。
こういう突発的な事件が心理的にいい結果に繋がるはずも無く、まず主君を殺されたブルターニュの諸侯は一斉にフランス王側につき、更に他の地域の諸侯もジョンに非協力的になってしまいます。
ここでフィリップ2世は一気に攻勢に出て、ノルマンディ・アンジュー・トゥーレーヌと言った主要地の諸侯はほとんど抵抗せずに降伏し、アキテーヌの中~南部を残して次々とフランス王の元に下っていきました。


(ルーアン陥落!)
北部で僅かに数箇所残っていたイングランドの拠点に、ルーアンという町がありました。ここはセーヌ川の河口にある港ル・アーブルを少し遡った所にあり、セーヌ川からパリにも繋がる戦略拠点でした。更にこの地方には、ジョンの兄リチャード獅子心王が心血注いで大改修して要塞と化していたガイヤール城がありました。ノルマンディの完全征服にはここを落とす必要があり、フィリップ2世は1203年からここを包囲し、半年もの攻撃の末にガイヤール城は遂に陥落します。前衛の城を失ったルーアンは孤立し、守備隊長のピエール・ド・プレオはジョンの援軍をひたすら待っていましたが、既にイングランドに撤退していたジョンの援軍は遂に来る事はありませんでした。1204年6月24日、遂にルーアンは陥落し、フランス王はアキテーヌの一部を除いて西フランスの大部分を手中にします。そしてこの約130年余り後に百年戦争が始まるまで、一時的な点はともかくノルマンディがイングランドの手に戻る事はありませんでした。


(破門)
1209年、カンタベリー大司教の後任を巡る問題でジョンの失政が続き、遂には教皇イノケンティウス3世によって破門されてしまいます。(まあ、イノケンティウスさん自身が他にも色々やらかしたとんでもない大物策士なんですが・・・。)とにかく、これにより諸侯の離反やフランスの介入があってジョンは一転して降参。一旦イングランドを教皇に寄進した上で再度与えられる形で和睦しました。ナニやってんだかねえ・・・


(マグナ・カルタ)
フランスでの度重なる戦争や賠償その他でイングランドの財政は破綻寸前でした。ところがジョンは更に戦費調達のためこの上に税金を掛けようとします。その後の戦争にも敗れ、大陸を完全に失ったジョンを待っていたのは、当然ながら激しい諸侯や民衆の反発でした。この強い圧力の結果、ジョンは王権の制限を設定した様々な条項を承認します。これが所謂マグナ・カルタ大憲章で、現在でもその前文は残り、後に議会が制定される契機となります。そしてこの前後の混乱で一時はロンドンをフィリップの息子ルイ8世に占拠される事態にまでなります。


(失意のうちに)
1216年、この混乱と失意の中、ジョンは赤痢で急死します。後を襲ったのが息子のヘンリー3世で、これによりルイも撤収し、一応は和解する事になったのでした。

※歴史のif
ジョンはイングランド史上でも指折りのダメな王という評価がほとんど定着してしまっているようですが、この人そもそもイングと言うよりフランス人の血の方がよっぽど濃いです。更に1337年に百年戦争が起こり、中盤以降アンジュー朝から傍系のランカスター朝に移る頃にはもうイングランドの王は英語を話すようになったようですが、こうしたイング/フランス的な線引きは実にこのジョンの失政に起因するような気がしてなりません。
もしアンジュー家の大陸領地が健在で、更にフランス国内での党派争いが収束できていなければ、フランスの国境線は全く違ったものになっていた可能性が高く、大きな転機だったといえるかも知れません。

おしまい。

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