打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

蒼き狼の末裔たち その11

プラノ・カルピニの大旅行

(その後のヨーロッパ世界は・・)
モンゴルの襲来が去って2年後の1244年、
再びヨーロッパ世界は教皇と皇帝の争いが激化していました。
攻撃を再開した神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世により身に危険が迫った教皇はフランスの
聖王ルイ9世の庇護によりイタリアからリヨンに移り、翌年この地で公会議を開催します。
この、皇帝との対決姿勢を鮮明にした史上有名な1245年のリヨン公会議で決議された事の一つに、当然ながらモンゴル対策も含まれていました。

一方、これに先駆けて東ヨーロッパからモンゴルに関する情報を集めていた教皇イノケンティウス4世は、公会議の前後にモンゴルへ調査を兼ねたいくつかの使節を派遣しています。
いくつかのグループは海上ルートでレパント方面を通って東に向かいますが、その内の一つのグループだけは陸路で東ヨーロッパを横断してモンゴル領へ至るルートを取りました。

(プラノ・カルピニのジョヴァンニ)
実は、その中の一人が後に報告書『モンゴル人の歴史』を書いたプラノ・カルピニ出身の修道僧ジョヴァンニだったのです。後に単に出身地をとって 『プラノ・カルピニ』 と呼ばれるこの老修道僧は教皇の書簡を預かっていて、『なんとしてもこの書簡をモンゴルの王へ直接手渡すこと』 という最も困難な使命を受けていました。(以後ここでもカルピニと呼びますね)
このカルピニは元々外交官で、更に東ヨーロッパへのフランチェスコ会の布教もしており、
この方面の君主や聖職者たちとのかなりの人脈を持っていたともいわれます。
さて、リヨンを出たカルピニは、ポーランド→ワラキア→旧キエフ公国という、モンゴル軍の通った東ヨーロッパを逆に横断するルートを通り、この地の惨状を目撃したといいます。そして途中みやげ物とする毛皮など仕入れつつ(モンゴルでは遠来の使節はみやげ物を持って行くと行かないとでは対応が全然違ったらしい)、何度も誰何を受けながらバトゥの本拠地サライへ赴き、遂に彼と会見して親書を手渡す事に成功したのでした。、
教皇からの親書を見たバトゥは、『彼らはカラコルムへ赴いて大ハーンに謁見すべし』と判断したのか、わざわざ護衛部隊を付けてモンゴルの首都カラコルムへ送り出します。
この時既にモンゴル帝国は宿駅制度を設立しており、帝国中を移動する者の利便を図るため馬の乗り換えや食事・宿泊・移動に必要な物資の補充が出来るよう各所に施設を整えつつありました。こうして、1日平均50km以上と言うかなりのハイペースで5000km以上もあった中央アジアを横断し、カルピニらの一行はカラコルムに到達します。

(カラコルム)
1246年の夏、
折りしもカラコルムはグユクの大ハーン即位の式典の真っ最中でした。
この式典に列席したカルピニ達は、かなり待たされ・しかも相当にぞんざいな扱いを受けた挙句にようやく大ハーン・グユクと面会し、教皇からの親書を手渡すことができたのでした。
(どうやらみやげ物の毛皮は既にバトゥに渡してしまって手ぶらだったらしい)
ところが何を考えていたか、この時の教皇の文面は、
『きみたち野蛮なモンゴル人が攻撃をやめるならキリスト教の洗礼を受けさせてあげるよ!』
という態度のでかいものだったらしいのですが、
大ハーン・グユクは特に激怒することも無く、余裕しゃくしゃくでこう答えます。
『それはそうと、お前らおとなしくこっちに出向いて臣従したほうがえーよ?』
どう見てもかみ合ってません・・・。

さて第一の目的を達することの出来なかったカルピニですが、彼らの目的は他にもありました。
ほとんど謎だったモンゴル人の実情、特に政治と軍事の動きを掴む事、更にモンゴル人の風習・宗教などの観察も重要な情報収集でしたから、この滞在は実に貴重な時間だったでしょう。
ところで、キリスト教そのものは既にモンゴル人社会に既にある程度受け入れられていました。
但し、広まっていたのはローマが大昔に異端としたネストリウス派の流れを汲むものだったのです。例えば、かつてテムジンとモンゴル高原の覇を競ったケレイト部族の長トオリル・カンの妻は熱心なネストリウス派キリスト教の信者だったとも言われますし、その後その娘を側室に加えたのがチンギス・ハーンなのですから、宮廷にキリスト教を否定する雰囲気自体は少なかったでしょう。
そして、グユクとの面会を段取りしてくれたチンカイという人物、
元は耶律楚材の副官だった大臣クラスのこの高官もキリスト教徒だったといいます。

(報告書)
結局ここでのカトリックへの布教活動は上手くいかなかったカルピニたちですが、
なんだかんだでかなり詳細なレポートを書き上げて帰国し、史上最初のモンゴル帝国からの書簡を受け取って教皇へ届けられ、この書簡は現在でもバチカンに保管されていると言います。
特に、チンギス・ハーンはプレスター・ジョンでもダヴィデ王でもなく異教徒の帝王であること、
モンゴル軍が十・百・千・万という単位によって編成され・高度な戦術を身に付け訓練された集団であること、他にも宗教面や民族の特徴などなど、これまでヨーロッパ人がほとんど知らなかった詳細な情報を持ち帰って現実を突き付けたことは非常に大きな功績だったでしょう。
そしてカルピニはモンゴルの脅威についてこう結論付けます。
『もし再度モンゴルの侵攻を受けるなら、その時は全ヨーロッパが一丸となって立ち向かわなければ到底撃退は出来ないでしょう』と。

こうしてプラノ・カルピニが報告書として書き上げた『モンゴル人の歴史』は、第一級の資料として今も高い評価を受けるだけでなく、当時のヨーロッパ世界に伝わっていた間違ったモンゴルの見方を大幅に修正するものとなったのでした。

これ以後、他の使節や旅行者等の持ち帰った情報も次第に集まり始めます。
そしてこのヨーロッパの東に誕生した巨大な帝国への交流が本格的に始まり、
世界はモンゴルという枠組みを受け入れて動き出したのでした。


次回はDOLにも関係の深い人物が登場する予定です。
まだまとまらないけど、ようやく大航海時代に繋がってきたかなぁ・・。



おしまい。

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