打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

大航海時代前史 その4

シャルル・ダンジューの地中海帝国04

カペー朝・フランス王家の直系とはいえ、一介の伯家の相続者に過ぎなかった聖王ルイ9世の末弟シャルル・ダンジューが、教皇と皇帝の争いに乗ずる形で南イタリア・シチリア王となった所までは前回書きましたね。今回は、いよいよ地中海世界に覇を唱えようかと言うところまで成長していくシャルルの活動について引き続き追ってみます。

(十字軍)
1270年、
兄の聖王ルイ9世と共に十字軍に参加してチュニスを攻撃し、一定の権益を獲得します。
シチリア島の対岸部分に自分の影響を及ぼすことは経済的・軍事的・政治的にも自領の安全に繋がる事ですから、ここは信心深い兄を促す形で十字軍の名の下に参加した側面もあるでしょう。この時の結果は病気が蔓延したり兄のルイ9世が亡くなったりで途中で和睦して主力は撤退する事になります。とは言え、シチリア王国としてはキリスト教徒の保護や貿易権の確保などは取り付けることが出来たため、シャルルは安心して自国の軍事力を他へ振り向ける事が出来るようになったのでした。

(東地中海での活動)
地中海全域で精力的に活動を始めている為に時代は前後しますが、
シチリア王国を手にした1267年以降、シャルルは婚姻による勢力拡大も狙っていきます。
まず後継ぎのいないギリシャのアカイア侯国の娘と自分の長子を結婚させ、次いで娘をラテン帝国の最後の皇帝だったボールドヴァン2世の息子に嫁がせて後にラテン帝国の相続権を手に入れます。更に先程のチュニスへの攻撃の後で和睦したシャルルを含む十字軍は、エルサレム目指してアッコン方面へと移動しています。そして、かつて倒したホーエンシュタウヘン家(の皇帝フリードリヒ2世に嫁いだエルサレム王女)がエルサレム王国の相続権を持っていた事を理由に、『勝者の権利』と称してエルサレム王位も主張し、後にこれも手に入れています。
更に実際の軍事行動としてはバルカン半島西部のアルバニア・エピルス一帯へ兵を送り、コルフ島を含むアドリア海沿岸部を制圧してアルバニア王位を手に入れます。
またハンガリーやイル・ハン国へも婚姻を持ち掛け、セルビアとブルガリアへは使節を派遣して対東ローマの共同戦線を張る協定を結ぶなど、10年以上に及ぶ東地中海方面での活動の結果、シャルルはバルカン半島一帯における一大勢力へとのし上がっていたのでした。

(アルル・ブルグント王国)
また、この頃から自領プロヴァンスも属するアルル・ブルグント王国内への干渉を強めます。
まず1257年の時点で、シャルルはアルル王国内の有力諸侯であるドーフィネ伯領の一部を支配し、その後アルル王国自体の摂政位も獲得しています。この前後の時代は本来の主君である神聖ローマ皇帝が長く空位となっていた時期でもあり、元々帝国への帰属意識が薄かったアルル・ブルグント王国はシャルルにとっては進出するのに都合の良い情勢でした。
そして1273年になってハプスブルク家のルドルフが皇帝となり、アルル王国への宗主権を主張して来た時は、交渉によってプロヴァンス伯領そのものは守りつつ、臣従を誓う事・相続権を持つ両家で婚姻を結ぶ事などを協定して、北イタリア方面を放棄する代わりにアルル王国内で一定の権益を保持する事に成功したのでした。法的に不利な情勢でも、相手の思惑まで読んで交渉によって実利を見い出すあたり、シャルルの政治・外交力・そしてバランス感覚はかなり鋭敏だったのかも知れませんね。

シャルル・ダンジュー_1281年_W1000
(1280年代初頭までのシャルルと東ローマの勢力図) ※W600/1000に縮尺

(シャルルの地中海帝国構想)
さてここまで来ると、シャルルの構想は次第に明確な形を持ってきます。
恐らく彼の頭には、アンジュー伯領・プロヴァンス伯領・アルル王国・両シチリア王国・アルバニア王国・アカイア侯国・ラテン帝国の旧領、更にエルサレムやチュニスなども合わせた地中海全域に割拠する、いわば地中海帝国とも呼べるようなビジョンが見えていたでしょう。
実際、シャルルは1267~1270年あたりには教皇や兄の聖王ルイ9世も動かして十字軍を起こさせ、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを再奪還する計画を実行に移そうとしていたのです。
しかし兄ルイの十字軍は2回ともコンスタンティノープルへは向かわず、北アフリカのイスラム勢力への十字軍も失敗してルイは死去し、更に1274年のリヨン公会議で東西キリスト教会はローマ教皇を全キリスト教徒の長とする決議が成されてシャルルの目論見はいったん頓挫したかに見えました。またバルカン半島における東ローマ皇帝ミカエル8世の切り崩し工作も激しく、1270年代の後半にはシャルルの東地中海への影響力は相当に低下させられていました。
ですがシャルルはまだ諦めていません。
現実として東西キリスト教会の合同は遅々として進まず、その間に親シャルル派の新教皇が選出されて東ローマ皇帝ミカエル8世は破門を申し渡されます。

(最終段階へ)
そして1281年には教皇の仲介でシャルルとヴェネツィアとの同盟関係が成立し、これを受けて1282年の春、シャルルはシチリア島のメッシナ港に大艦隊を集結させつつありました。
この艦隊にはヴェネツィア・ピサ・アカイア・エピルスなどの海軍が参加予定となっていて、同時にセルビアやブルガリアもシャルルに付く事を表明して北からコンスタンティノープルを目指しており、更に同時に小アジアからはトルコ人勢力も侵入しつつありました。
シャルルの狙いは東ローマ帝国にあるのはもはや誰の目にも明らかで、
いっぽう東ローマ帝国のミカエル8世は反シャルル勢力との共闘を模索すべく各地に使節を派遣していたといいますが、有効な手は何ら見出せないまま。
また同年初頭、シャルルはマルセイユに大艦隊を集結させます。
狙いはローヌ川を遡ってのアルル王国全域への軍事活動による支配確立にあり、
対東ローマ帝国同様にその準備もほとんど整いつつありました。
こういった2方面同時の軍事行動を企図している事からも、既にこの頃のシャルルはヨーロッパ最大の君主と言っても過言ではなかったのでしょう。

こうして正にコンスタンティノープルの運命は風前の灯か・・・という時、
歴史上でも稀なくらいにちょうどいいタイミングで『ある事件』が起こります。
そしてこの事件の結果は、後にDOL開始時の設定にまで恐らく影響していたのでした。
(だからこうして長々と書いてるわけですw)
まあ、有名な事件ですから知ってる人は知ってるでしょうが、長くなったので続きは次回に。


おしまい。

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  1. 2007/11/08(木) 07:00:28|
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