打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

大航海時代前史 その5

シャルル・ダンジューの地中海帝国05
    ~シチリアの晩祷~

(発端)
1282年の3月30日、
復活祭の翌日に当るこの日の夕方、シチリア島の北岸にある中心都市パレルモでは、
教会前の広場には多くの市民が夕刻の祈りを捧げるべく集まっていました。
この時、フランス国内から派遣されたアンジュー伯家の家臣の一団が、酒に酔った風情でこの広場を徘徊し始めます。そしてあるフランス兵士の一人がシチリアの女性の一人にちょっかいを掛け出し、当然ながらその女性の婚約者はこらえ切れずにこの狼藉を止めようとします。気の短い事で知られるシチリア男の手にはナイフが握られていたらしく、ちょっかいを掛けていたフランス兵は刺されてその場に倒れるという事態になります。
そしてこのシチリア人に飛び掛かろうとしたフランス兵の一団はここでようやく気が付きます、自分たちが周囲を怒りに燃えたパレルモの市民たちに囲まれている事を・・・。

こうして教会で祈りの鐘が鳴る中、パレルモ市内は駐留しているフランス人に対する一方的な虐殺に発展してしまったのでした。襲われたのは兵士だけではありません。修道院・行政官・民間人・フランス人と結婚した女性も例外ではなく、一戸一戸尋ねて回ったパレルモ市民はその場でフランス人が苦手な発音とされる『チチリ』という様な単語を発音させ、言えなかったりどもった者を容赦なく殺害したと言います。
結局この暴動で、当時2000人以上いたと見られているパレルモ駐留のフランス人はほとんど一夜にして全滅してしまいます。そしてこれが、後に 『シチリアの晩祷』 と呼ばれ、その後の地中海のパワーバランスを一気に揺り動かす事になる事件の発端だったのでした。
その後パレルモでは各ギルドや地区の代表者たちからなる自治政府が組織され、アンジュー家の旗に代わって神聖ローマ皇帝の旗である双頭の鷲が掲げられると共に、代表者が教皇の庇護を求めてローマへ向かうなど、事態は完全に暴動から反乱・独立運動に発展して行きました。

(飛び火)
『遂にパレルモ立つ!』
の報はあっという間にシチリア全島にもたらされ、フランス人の支配に不満を持っていた多くの都市でも暴動となり、瞬く間にシチリア全島に飛び火する勢いを見せます。但し、コンスタンティノープル攻略に向けて大艦隊を集結させるなど、既に軍事基地となっていたシチリア東端のメッシーナ市はこの時まだシャルルの勢力が健在でした。
イタリア南部に居たらしいこの時のシャルル・ダンジューは最初、一地方の暴動としか捉えていませんでした。ところがその後、パレルモから端を発した暴動が各地へ飛び火し、応援として派遣されたシチリア人の反乱者がメッシーナ市内へ潜入し、4月28日になると内部のメッシーナ市民と共に夜襲をかけ、駐留していたシャルルの艦隊が焼き討ちを受けてほぼ壊滅したと言うニュースを聞いて事の重大さに気付いた時には、既に反乱は手の付けられない状況となっていたのでした。

(反シャルル勢力)
いっぽう、コンスタンティノープルへの攻撃を受ける寸前だった東ローマ帝国の皇帝・ミカエル8世は、以前からシチリアへの工作を行っていた事もありこの知らせに驚喜し、直ちにこれを支援する旨の知らせをパレルモの反乱勢力や反シャルル陣営の者たちへと送ったといいます。
そして、シチリア島のパレルモほか周辺都市の代表者は会合を行い、自分たちの王にとある人物に出兵を要請するのでした。
ある人物、それは、当時のアラゴン王・バレンシア王・そしてバルセロナ伯であり、
シャルルに滅ぼされて断絶したホーエンシュタウヘン家最後のシチリア王だったマンフレートの王女コンスタンスを妻としていたペドロ3世でした。
アラゴン王家はもともと、代々その傍流がプロヴァンス伯家の相続をしており、ペドロ3世の先代でシャルルにそのプロヴァンス伯家を奪われた事と、更にアラゴン王家の一族内でバイアレス諸島やモンペリエも領有するなど西地中海でも最大規模の勢力を誇っていた事もあり、反シャルルの陣営では最有力の人物と見られていたのでした。

そして、もともとシチリアを狙っていたアラゴン王・ペドロ3世は、シチリア市民からの支援要請を機に一気に動きます。6月3日にアラゴン兵を乗せた船団がイベリア半島東端近くのファンゴスから出撃して20日足らずでシチリア島に上陸し、援軍を率いてナポリから到着したシャルル・ダンジューの軍と8月に掛けてメッシーナ攻防戦を繰り広げる事になります。
その後、9月になってアラゴン王ペドロ3世の大艦隊がシチリア島に到着し、パレルモ政府からシチリア王の冠を受けます。
旗色の悪さを悟ったシャルル・ダンジューは、この時ペドロとの決戦を避けてシチリア島から撤退します。翌年以降は残存兵力をもって反撃に転じるのですが、1284年にはプロヴァンスから出撃したシャルルの艦隊がナポリ沖での海戦の結果アラゴン艦隊に惨敗し、シャルルの息子も捕虜に取られるなどしてシチリア王位は完全にアラゴン王家に移ったのでした。

シャルル・ダンジュー_1282年_W1000
(1282年、シチリアの晩祷発生後のシャルル・アラゴン・東ローマの各勢力圏)

(終幕)
シチリアを失い、実現寸前だったコンスタンティノープル攻略軍の計画も完全に頓挫したシャルル・ダンジューは尚もプロヴァンスとナポリを保持し続けたものの、シチリア失陥と海戦での敗北、更に南イタリアでも暴動が起こってカラブリア地方を放棄するという痛手が癒えぬまま、失意のうちに翌1285年に病死します。
また、窮地を切り抜けた東ローマ皇帝ミカエル8世は1282年に、更にシャルルに利用される形で結局は十字軍の権威を失墜させてしまった教皇マルティネス4世、そしてシチリア王位を手に入れたアラゴン王ペドロ3世など、主だった関係者たちはシャルルと同じ1285年中に亡くなり地中海の表舞台から姿を消す事になります。

(その後のシチリアとアラゴン)
シチリア王位は大航海時代が始まる直前の15世紀初頭まで、代々ペドロ3世のアラゴン王家が保持します。そしてアラゴン王位が母系を通じてトラスタマラ王朝に移り、16世紀の初頭になってアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベルが結婚して事実上のスペイン王国が成立すると、シチリア王位もそのままスペイン王家が相続する事となったのでした。更にアラゴン王家は途中でナポリの王位も継いでおり、大航海時代当時のスペインはシチリアとナポリの両王位をも保持していたのでした。

もうだいぶ昔の事になりますが、DOLの開始直後からイスパニアがこの地方に影響度を持っていたのは恐らくこういった背景を考えてなのでしょう。またDOLでナポリにいる国王フェデリーコさんは、アラゴン王フェルナンド2世の叔父で1501年までナポリ王だったフェデリーコ1世あたりがモデルな気がします。(クルス・デル・スール視点だと、1522年当時のナポリ・シチリアの王位は、ハプスブルク家出身のイスパニア王・カルロス1世ですね。)
とまあ、本来は同盟港じゃなくて領土でもいいんじゃないかな?とも思っていましたが、史実どおりに港の設定してたらイスパニアの領地が多くなり過ぎてバランス崩れるから調整したんでしょうし、他にも領地の取り扱いに疑問符の付く港はありますよね。

そしてシャルル・ダンジューの地盤となったプロヴァンス地方は、シャルルの進出などを機にフランス王家の一族による支配がローヌ川の東岸へと伸びた事で次第にフランスの影響が強まり、その後も様々な経緯を経て1498年以降フランス王国内へと併合されてゆきます。また、最も東端に位置するニースなどは15世紀以降、後のイタリア王国の前身となるサヴォイア公国領となっていたものの、これも19世紀の初頭にはフランス王国へ帰属する事になります。

現在のヨーロッパの枠組みそのものは17世紀の30年戦争後に行われた1648年のウェストファリア条約でほぼ固まったと見られますが、先進地域である地中海においては中世に分類される13~14世紀当時には相当に現在への道筋が見えつつあったように思われ、今後このシリーズでも大航海時代までの北と南・そして東ヨーロッパの体制比較とかの視点を持っても面白いかなと思いますね。

予定よりちょっと長くなりましたが、シャルル・ダンジューを巡るお話はこれで終わります。


おしまい。

FC2ランキング02
 
↑応援クリックもよろしくねー
  1. 2007/11/10(土) 14:52:58|
  2. 歴史ネタ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5
<<日々雑感 | ホーム | 大航海時代前史 その4>>

コメント

非常に興味深く拝見させていただきました
また別の話題を楽しみにしています

Z鯖在住者より^^ノ
  1. 2007/11/11(日) 18:02:55 |
  2. URL |
  3. アーチャー. #-
  4. [ 編集]

正直この時期にビザンツをヨーロッパ勢力が支配することができていれば、歴史は大きく変わったと思われ。
西欧諸国が遊牧民族(ロシア含む)、イスラム勢力を抑えきれるとは思わないので、どうなっていたか・・。
  1. 2007/11/12(月) 08:59:59 |
  2. URL |
  3. めけ #-
  4. [ 編集]

アーチャー.さん>>
前シリーズに引き続きありがとうございます。
次はなんだろう、、普通に教科書に書いてあるような題材だと、視点変えるか掘り下げないと記事にする意味ないですしねえ、ちょっと考え中です。

めけさん>>
一時的になら落とす事は有り得るのでしょうが、後が続かないのはそれ以上にありがち・・。
あと、東西の教会がどう合同できるか、また異民族へも影響力を及ぼすことが出来るかどうかも意外に鍵になるのでしょうか。
  1. 2007/11/13(火) 22:43:54 |
  2. URL |
  3. ハミルカル #-
  4. [ 編集]

ヨーロッパ史を見ていると時々こういう虐殺事件がありますよね。今回もフランス人に反感を持っていたとはいえ、執拗に皆殺しにしようとする理由が分かりません・・。ヨーロッパ人は恐いなと思ったり。
  1. 2007/12/11(火) 23:37:10 |
  2. URL |
  3. アルディ #-
  4. [ 編集]

アルディさん>>
異質なものは皆殺しってのは、日本人の感覚だと狂気を感じますねえ。命令してやるのではなく、その場の集団の空気がそうなってしまうからなってしまうんでしょうけど、それが異常ではないという感覚が当時のヨーロッパ人の底流にあるのかも知れませんね。(すいません、これ以上書くのがなんかちょっとつらい・・・)
  1. 2007/12/14(金) 08:48:06 |
  2. URL |
  3. ハミルカル #-
  4. [ 編集]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://hamilcar.blog64.fc2.com/tb.php/460-295171a1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

このブログはリンクフリーです。

ハミルカル・バルカ/メルカルト

Author:ハミルカル・バルカ/メルカルト
サーバー:Eos
所属  :イスパ
商会  :たまごのしろ/世界の船窓から
Twitter :hamilcar_notos

FC2カウンター

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
オンラインゲーム
342位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
大航海時代オンライン
9位
アクセスランキングを見る>>

最近の記事

カテゴリー

最近のコメント

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

最近のトラックバック

ブログ内検索

RSSフィード

RSSリンクの表示

著作権について

大航海時代 Online』に関わる著作権、その他一切の知的財産権は、 株式会社コーエーテクモゲームスに帰属します。 このホームページに掲載している『大航海時代 Online』の画像は、 『大航海時代 Online』公式サイトにおいて使用許諾が明示されているもの、もしくは『大航海時代 Online』の有効なアカウントを所有しているユーザーが株式会社コーエーテクモゲームスから使用許諾を受けたものです。