打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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蒼き狼の末裔たち その15

第2・第3勢力の動きは・・

1246年、いったんアルメニアからトルコまでを制圧したモンゴル軍の動きがアラブ方面、今のイラク南部・サウジ・ヨルダン・シリア・パレスティナ、更にイスラエルやエジプトに当たる地域を前にして政治的混乱により止まった頃、この方面ではモンゴル以外による新たな動きが起こりつつありました。
まず西からは、わずか2年後の1248~50年にフランスの聖王ルイ9世を総大将とする第7回十字軍が発せられます。この時の経緯は外伝1と2で述べていますから割愛しますが、そこにはモンゴルの新軍事総督エルジギタイによる外交的な働きかけも影響していたと思われます。結果としてキプロス島に集結していた十字軍はエジプトを攻め、ナイル川の河口付近の町を攻略したものの、エジプトのアイユーブ朝で近衛隊を組織していたマムルーク騎兵達に迎撃されて敗退します。
この後、エジプトでは元々モンゴルから奴隷として売られてきたマムルークたちが、スルタンが急死したアイユーブ朝を倒して(正確にはスルタンの前妻を迎えることで後継となる)マムルーク朝が興ります。新たにスルタンとなったアイバクの力量はもとより、反目しつつも有力な将軍に育ちつつあったバイバルスやクトゥズらの力もあり、マムルーク勢は次第にエジプトに留まらずシリア・パレスティナ方面へとその影響力を強めてゆきます。この地域にはまだダマスカスなどアイユーブ朝の血を引くスルタンたちが健在であり、マムルーク朝はこれらと戦争状態に突入することになったのでした。

一方、ルイ9世のほか若くして参戦していた王弟シャルル(後のシャルル・ダンジュー)ら敗れた十字軍は、身代金を払った後に撤退して東に向かい、イェルサレム王国の数少ない拠点として残っていた港町アッコン(アクレ/アッコとも)に辿り着いて再起を図っていました。
数こそ激減してはいたものの、ルイの配下にはまだ騎士だけでも500騎以上(歩兵その他も含めると1万以上になる)が残っており、この数字は在住するキリスト教系の領主たちを上回る兵力でしたから、ルイがその気ならアッコンから南南東にわずか150kmの地点にあるイェルサレム攻略を検討する余地は充分に残されていました。最終的にルイはアンティオキアも含めてこの地のキリスト教系の勢力を糾合して再度攻略の軍を起こすことはありませんでしたが、ルイはその後4年間・1254年までこの地に留まり活動を続けます。例えばアッコンからモンゴルとの連携を模索するべく、ギョーム・ド・ルブルクという男をモンゴル宛に送り込み、伝道とともに内情を探らせたのもその一環でしょう。

しかし残念ながら1254年、ルイは国政を任せていた母の死と、モンゴルとの連携の見通しが暗いことから、最終的にフランスへ撤退します。ところがその前年こそ、ユーラシア大陸にすさまじい衝撃をもたらす2つの決定がモンゴル本国で成された年だったのでした。
新たに大ハーンとなったトゥルイ家の長男モンケによる2つの決定、それは
①2番目の弟フビライを総司令官とする中国方面の征服、
②3番目の弟フレグを総司令官とする西アジア方面の征服 でした。
それにしても、フレグ率いるモンゴル軍はルイが撤退する2年後にあたる1256年にはイラン高原に到達しており、更に早くも2年後にはバグダッドのアッバース朝を滅亡させるところまで至っている事から、もしルイがそれまで駐留していられれれば・・と言うのはちょっと考えさせられるものがありますね。

実際の所、ルイのもとへモンゴルから報告書を持ち帰ったギョーム・ド・ルブルクからは絶望的な見通ししか見えなかったのですが、実はルブルクがモンゴル本国に逗留し情報収集に当たっていたその期間こそ、カラコルムではクリルタイが開かれ大規模なペルシャ・シリア・エジプトにまで至る大遠征計画が討議されていた真っ最中だったのでした。この点ではルブルクのスパイ能力よりもモンゴルの機密保持が上だったわけですね。そして後にこの遠征計画が発表された後も、ルブルクにはこれがシリアに留まる十字軍を利する可能性のあるものとは捉えていなかったらしく、こうした報告をルイのもとに送っていません。ルブルク自身はカラコルムで行われた仏教・儒教・イスラム教その他の同席した宗教論争に勝利したりモンゴル人の生活習慣に鋭い観察記録を残すなど、それなりに優れた人物だったようなのですが、政治的感覚・戦略家としての才能には乏しかったという事なのでしょう。そして運も。

ルブルクがぎりぎりまで帰国を延ばした後にモンゴル本国を去ったわずか数ヵ月後、従属していたアルメニア王・ヘトゥムがカラコルムを訪れ、大ハーン・モンケから重大な約束を取り付けます。『全帝国・そしてまだ征服されていない地域も含めて、キリスト教徒および教会には自治権を与える』という・・。このアルメニア王はモンゴルの遠征がキリスト教徒に大きな利益をもたらすと即座に気付いた訳ですね。『この遠征軍がキリスト教徒による十字軍を名乗るなら、かの地で遠征軍は確実に同盟軍を得られるだろう』そうモンケに説き、特許状を受けたのでした。

結局、ルブルクによる情報不足で政治的感覚に乏しい報告書は、ルイ9世だけでなくヨーロッパ全域の聖俗諸侯を落胆させます。彼らはまだどこかで『東方のキリスト教徒の王・プレスタージョン』の伝説を信じていましたし、対イスラムで同盟できるとの望みを抱いていましたから。
まあ、これは受け取る側の国際的な感覚も乏しい、そういう気がしないでもないのですがw



さて次回は、遂に沈黙を破って動き出すに至ったモンゴルの内情、そしてフラグ率いる征西軍の始動までを見てみます。それと、だんだん登場人物が多くなって来ていることもあり、ちょっとここら辺で整理するために、ちょっと懐かしいアノ名作を使ってみようかと思います。



おしまい。

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毎回毎回長くてすまんです・・・。

テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム

  1. 2007/12/08(土) 08:37:49|
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  1. 2007/12/08(土) 21:34:15 |
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  1. 2007/12/08(土) 21:39:11 |
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あんちゃさん>>
ありがとですー。
ここって携帯で見ること想定して画像とか作ってないんですよね。しかも今じゃ1つ500KBくらいの画像も送れちゃうんで加工とか深く考えないでやってるし・・。
見づらいでしょうけどよろしくです!
  1. 2007/12/09(日) 08:49:52 |
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