打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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蒼き狼の末裔たち その22

モンゴル 対 マムルーク 対 十字軍

(混乱)
大ハーン・モンケ死す。
この頃モンケは弟フビライが行っていた中国攻略の支援に当たっており、南宋攻略の陣中での急死でした。赤痢と言われていますが、毒殺もしくは暗殺だったという説を唱える研究者もいるくらい突然な出来事でした。この知らせは翌1260年には遠くシリアにいてアレッポを攻略したばかりのフレグの元にも届き、驚いたフレグは自らを含めて殆どの部隊をいったんタブリーズまで引き上げるよう命じます。最高権力者が亡くなった後は跡継ぎ問題が発生するのは明らかでしたから・・。
こうして、ほとんど制覇寸前だったシリアには当面のところ先鋒を務めていたキド・ブカが残り、単独でダマスクスを制圧するもののその保有兵力は精々2万前後と言うところまで縮小されていました。
それでもモンゴルはその攻勢を止めてはいません。キド・ブカはアレッポからイスラエル方面に出て沿岸諸都市を攻略しつつ港町アッコンを目指します。この町はその数年前にルイ9世がエジプトに敗れた後留まっていた地であり、フランスへ帰還する際に100騎の騎士団を残して守備に当たらせていました。
ところでこの頃のモンゴル軍は、指揮官はキリスト教徒、主力のモンゴル&中国兵は仏教徒が多く、参加している諸侯はイスラム教とキリスト教の混成軍であり、もはやこの時点ではキリスト教だのイスラム教だの仏教だのと言った宗教視点での争いではなくなってるのがよく分かります。

(新生マムルーク勢)
ところで先にダマスクスを出ていたバイバルスはと言うと・・・、
いったん別の都市に留まった後、本国エジプトの反応を待っていました。
その本国エジプトでは1259~1260年頃まで抗争を経るうちに、前後してエジプトでは政変が起こってスルタンのアイバクが亡くなり、更に紆余曲折を経てクトゥズがスルタンの地位に就きます。この政変と迫りくるモンゴルの脅威のなか、争っていたバイバルスとクトゥズの両者が和解する事で国外へ逃れていたマムルーク勢は帰参し、比較的若い世代へとマムルーク朝は指導者層が一新される事となったのでした。

さてこのマムルーク勢、その出身はもともと黒海~カスピ海北岸などに住んでいたテュルク系の遊牧民が多く、エジプトで組織された彼ら騎兵隊の主力は1240年前後に行われたバトゥのヨーロッパ遠征の際に捕虜となったのをイスラム世界に奴隷として売り渡された人たちが多く含まれていました。奴隷と言ってもイスラム社会では解放後は比較的自由な身分であり、才能のある人は軍事・行政面でそれなりに活躍する余地が与えられていたのはちょっと面白いところです。彼らの多くは遊牧民、つまり本質的には騎馬民族であり、子供の頃から馬には慣れ親しんだ人々が多く、長じて優秀な騎兵を輩出する存在でもありました。彼らが連れて来られたアラブ~トルコ地方は後にイギリスで生まれたサラブレッドへ大きな影響を及ぼすほどに優秀な軽種馬を産出する地域ではありますが、その中でもマムルークたちは自然に軍ではエリートとして有力な騎兵集団を形成するようになってゆきます。このエジプトのマムルークが実戦の場を与えられて頭角を現したのが東地中海沿岸に度々攻め込んできたキリスト教徒、特に1249年以降の十字軍との戦いなどであり、これ以後はシリアなど他のイスラム勢力へも盛んに使われることで精鋭騎馬集団として鍛えられてゆきます。

中東地図_フレグ03
1260年夏の中東情勢 (W500/500)

(転機)
1260年春~初夏、
クトゥズとバイバルスが和解し再構成されたマムルーク勢は、孤立していたシリアに残存するイスラム領主を救援するべく、エジプト国境付近から出動してモンゴルの部隊と小競り合いが起こります。この小規模な戦いは相変わらずモンゴル勢が勝利し、更にシドンのユリアヌスとベイルートのヨハンネスという2人の十字軍領主がモンゴル領に侵入しますが、これもキド・ブカに撃退され、逆にシドンの町とベイルートのテンプル騎士団は反撃を受けて壊滅します。
ところがこの数度の戦いにより、モンゴル軍は自分たちの勢力が既に弱体化し、シリアに残っているのは分遣隊に過ぎない事も知られてしまったのでした。

(マムルーク立つ!)
マムルークのスルタン・クトゥズはこれを好機と見て直ちに動きます。
自ら主力を率いてカイロから北上し、現イスラエルの沿岸地域へと進みます。その兵力はおよそ5~6万で、この際バイバルスは先遣隊として数千ほどの部隊を率いていました。
そしてここからがクトゥズの非凡な所で、同時に彼はシリアの沿岸部にいた十字軍領主に使者を送り、『対モンゴルで同盟を組まないか?』と持ち掛けたのでした。キリスト教徒側としてはイスラムは間違いなく敵ですが、同時にモンゴルもまた先日の戦いもあって味方とは言い切れないと判断したのでしょう。結局この時、シリアの十字軍領主はマムルーク勢との同盟は見送ったものの、代わりにその進路を妨げない事を選択したのでした。残念ながら後にこれが重大な結果に繋がるとは予想できなかったのですが・・・。

9月になり、キド・ブカはおよそ15000人を率いてヨルダン川を渡ります。
その狙いは十字軍とマムルーク勢が集結しつつあったアッコンだったのかも知れません。
一方バイバルス率いる先遣隊とクトゥズの本隊は逆にアッコン付近から出撃します。
それにしてもアッコンは先年まで聖王ルイ9世が要塞として整備した要衝であり、この地方で防衛体制を築いていれば自然と十字軍との連携も図れたかも知れず、そこをわざわざ打って出るあたりにマムルーク勢の士気の高さが伺えます。
9月3日、パレスティナにあるガリラヤの丘陵地帯の狭間を流れる小さな川の源流部に近いある村落のあたりで、遂にバイバルスはキド・ブカ率いるモンゴル軍と遭遇します。

そこはかつてダヴィデがゴリアテを倒したとも云われる渓谷地帯で、
当時この小さな川の名は 『ゴリアテの泉』 を意味するアラビア語、
『アイン・ジャールート』 と呼ばれていました。


おしまい。

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次回は決戦です!

テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム

  1. 2008/01/27(日) 10:23:39|
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