打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

草原の興亡 その15

李広と李陵 その1

今回は、農耕民族な漢では珍しい騎馬と弓に長けた一家のお話です。
この一家の片方の人物については本にもなっていますし、
史記の編者である司馬遷にとっても非常に大きな影響を及ぼした人物でもあります。
あまり漢側の人物ばかり取り上げるのは遊牧民を描きたい本シリーズの趣旨からはややそぐわない気もしますが、匈奴と漢の戦いを語る上では避けて通れないこの一家はこの後書く予定の人物と共にちょっと別格として記述してみます。まあ、書きたくなったものを優先して書いていたら、当初このシリーズを始めた頃の構成から多少ずれて来ていますので、中国史書の影響は仕方ないにしてもちょっとこの先修正掛けてはいきたいと思います。


(飛将軍・李広)
李広は隴西郡、つまり現在の甘粛省天水出身で、
紀元前170~160年代、文帝の時代から漢に出仕します。
李家はもともと秦に属し、戦国時代に李信という将軍を排出してからは秦でも武門の名家として知られる存在となっていました。特に李家のものは代々弓術に優れた才を示したとされ、この李広もまたその生涯で数々の弓術の逸話を残します。
それから、出身地の隴西といえばもう当時の漢の領土でもかなり西に位置する地域で、
西域諸国との交流も自然多かったでしょう。
騎乗が特殊技能だった古代では、騎馬の習慣に親しむ地域がそのまま優秀な騎兵の産地であったのは以前書いたとおりですね。李広が騎乗と騎射に長けていたのはそういう地域で武人の子として生まれたという環境も大きく影響していた気がします。

さて、最初は現地で仕官した李広は騎射に優れて見る間に頭角を現し、
その後文帝に見出されて武騎常侍、つまり側近を警護する騎兵となります。
更に景帝の時代でも順調に出世して驍騎都尉、
つまり近衛騎兵隊長というような職に任じられ、
呉楚七国の乱においては梁国に出向して功績を挙げます。

実際、優れた騎兵隊の指揮官としての李広の才能は光っていたのでしょう。
上谷の太守となって毎日のように匈奴と戦っていた李広を見て、
その才を知るある者は泣いて皇帝に訴えたといいます。

『李広の才気は天下無双です。いま彼は自らの力をたのんで匈奴と戦っていますが、
 これでは恐らく彼を無駄に死なせてしまうでしょう』

これを聞いた景帝は、李広を上谷から上郡の太守に移します。
その後、兵の訓練などをさせていたこの上郡にも少数の匈奴が進入してきます。
これを知った李広は100騎ほどを率いて追いかけた所、
その先で数千騎の匈奴兵に遭遇してしまったのでした。。
ところが李広は配下の騎兵が恐れて逃げ帰ろうとしたにもかかわらずこれを止め、
逆に

『進め』

と号令します。
そして、

『ここで逃げれば追いかけられて殺されてしまうだろうが、
 少数の兵がここに留まれば逆に囮と見るだろうから』

こういって更に下馬して鞍も外してしまったのでした。
これを見た匈奴兵は果たして攻撃をしてきませんでした。
更に、様子を見に来た白馬に乗った匈奴の指揮官を見つけた李広はおもむろに馬に乗って突撃し、この指揮官を射殺してからゆうゆうと元居た場所に戻ってきます。これを怪しんだ匈奴は背後に大軍が潜んでいると見たのか、遂にそこから撤退したと言います。

その後も隴西・北地・雁門・雲中など、
西から東まで匈奴との国境に近い各地の最前線での太守に次々と任じられ、
李広はいつしかその武勇機略に優れた指揮振りから、
『飛将軍』 と匈奴から恐れられる存在となって行きました。
後にこの異名は三国志でも最強の武将として扱われる呂布にも付けられる事になりますよね。
弓馬の技術と勇猛さはいい勝負でしょうが、まあ機略の点で李広には全然及ばない気がします。

そして武帝の時代、
衛尉に昇進した李広は馬邑の作戦に驍騎将軍として参加しますが、
匈奴の単于に作戦が見破られて功を立てられなかったのは前回見ましたね。
そして紀元前129年、匈奴の大軍に遭遇した李広は敗れて捕まってしまいます。
匈奴の単于は李広を非常に高く買っており、
捕虜として連行されそうになったのでした。
このとき李広は見張っていた少年から馬と子供用の弓を奪って逃走し、
追っ手をこの子供用の弓で射殺して帰還したといいます。
騎馬民族より優れた騎射の使い手、
匈奴の単于が高く評価していたのも頷ける逸話ですね。

帰還した李広は敗北の罪を問われて一時平民に落とされますが、
時代は彼を放って置きませんでした。
匈奴との戦争が激化する中、李広は郎中令・右北平太守に復帰します。

このように長年匈奴との戦いに参加し誰もが認める将となっていた李広ですが、
同僚や年少の指揮官のように侯となり領地を貰うような大功を立てる機会には恵まれず、
落胆する事も多かったといいます。
こうした中、時代は新たな局面に入りつつありました。
匈奴が徐々に劣勢となってゆく中で、漢に次世代の将が登場してきたのです。


紀元前119年、
武帝の寵姫となっていた衛子夫の弟で、
将軍として功績を挙げて大将軍となっていたのは衛青でした。
この衛青がその年の侵攻計画を立てた際、
既に老将となりつつあった李広はその陣容から外されそうになります。
これを聞いた李広は猛抗議し、前将軍(前衛軍の将)として参戦が許される事となります。
ところが実際のところ、衛青は李広を後詰めや迂回路の将に回してしまったのでした。
衛青は前漢でも屈指の名将ではありますが、この時はかつての同僚でいまだ功績を立てられなかったある将軍の為に陣容を変えたとも、既に老齢となった李広に最前線の指揮は無理と見たとも言われていますね。とにかくこの結果、李広は別の方面から匈奴侵攻するのですが、現地の不案内もあってこの年の戦いに大きく遅れてしまうと言う失態を演じてしまったのでした。

戦後、遅参の理由を咎めようとした衛青に対し、李広はこう答えます。

『私は元服してからこのかた、匈奴とは大小七十数回も戦い、今回は幸運にも大将軍に従って出撃し単于と兵を接する所ながら、大将軍が私の部署を移したため、道に迷って遅れてしまった。これが天命でなくてなんであろうか。またもう60歳を超え、何で今更小役人の詮議など受けなければならないのだ!』

こう叫んだ李広はそのまま自ら首を刎ねて自殺してしまいます。
これを伝え聞いた李広の将兵はもちろん、
民衆も長年匈奴と戦ってきた老将の悲運を嘆き老若男女の区別なく涙した、
史記はそう伝えます。

ところで、李広には当戸・椒・敢という三人の息子がいました。
長男の李当戸は武帝にも見込まれるほど有能な軍人でしたが幼い子を残して早世し、
次男の李椒もまた二人の子供を残して早世してしまいます。
三男の李敢は父に対する衛青の仕打ちを恨んで酒宴の際に衛青を殴り、
その後彼の一族によって殺されてしまいます。
こうして李広の死後、李家に残されたのは数人の孫たちでした。
このうち早世した長男の李当戸の遺児、
つまり李広の嫡孫の名は陵といいました。
そう、この遺児こそが、
後に司馬遷が弁護して宮刑を受ける原因となる李陵だったのです。


おしまい。

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  1. 2008/07/30(水) 12:48:31|
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