打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

草原の興亡 その16

李広と李陵 その2


(李家の俊英)
李陵(字は少卿)は前漢の名将・李広の孫として生まれたものの、
成長するころには既に父・叔父たちは早世しており、
頼るもののない状態からのスタートでした。
これを見たある者が武帝に奏上します。
『李家は弓馬に優れ、漢に貢献してきた武人の名家ですから、
 後に残された李陵をぜひ引き立てて下さい』 と。

こうして早い時期に取り立てられ、間もなく騎兵800の指揮官となった李陵は、
果たして李家の血がなせる業か、若くして騎射に優れるなど非凡な才を見せます。
武帝に命じられて匈奴の領内への強行偵察を行った際などは、
約2千里もの深くまで侵入しながらほとんど無傷で帰ってくるという豪胆さも示していました。
若年ながら李陵が知勇豊かな将である事を知った武帝は彼を騎都尉に任命し、
今度は一気に騎兵5000の将、それも精鋭部隊の指揮官に抜擢したのでした。
このように、武帝の人事は相当に縁故採用も目立つ一方で、
実力主義で年齢に関係ない抜擢採用もあるなど、なかなか面白いものがあります。


(西域戦線)
その後、李陵は西域に派遣されます。
李陵が出仕した紀元前100年代以降の前漢は、張騫が西域より帰還して情報をもたらした事もあって匈奴との戦いも北よりも西部に主眼が置かれつつあり、その領域も敦煌や酒泉といった重要拠点が築かれるなど河西回廊にまで伸びつつありました。
紀元前104年にはこうした動きが遂に匈奴だけでなく西域諸国にも及ぶ事になります。
名馬の産地として知られた大宛(フェルガナ)を攻略するべく、李広利が遠征する事になったのでした。

そして紀元前99年、
甘粛省の酒泉で5000の兵を率いて守備に当たっていた李陵は、天山山脈方面の匈奴を討つため3万の兵を率いる西域遠征軍の総大将となっていた弐師将軍・李広利の援軍として出陣します。
実はこの時、武帝は李陵に騎兵5000の代わりに輜重隊(補給部隊)5000の指揮官にして援軍に向かわせようとしたのですが、李陵がこれに反対して、『私は匈奴と出会えば必ず打ち破る覚悟があるから、補給隊ではなく騎兵5000の将として援軍に向かわせて欲しい』 と奏上したといいます。
これに対して武帝は、 
『もうお前にやれる騎兵はないが、そこまで言うなら歩兵と弓兵の精鋭5000で行くが良い』 
と言って送り出したのでした。
これが李陵にとってどういう結果に繋がるかは誰にも予測できなかったのですが・・・。

ところで、なぜ最前線の守備に当たっていた李陵が、
わざわざ別の編成を受けて西域遠征に行かねばならなかったのでしょうか。
実は李広利は武帝の寵姫の兄で、出陣した彼には手柄を立ててもらうためにも少しでも優秀な中級指揮官を付けてやろうという武帝の思惑もあったかも知れません。実際問題として、紀元前104年に最初に遠征に出たときの李広利軍は、遠く西域まで進行したまではいいものの現地でまともな成果を挙げる前に消耗してしまい、敦煌まで撤退して武帝に援軍と補給を要請するという失態を演じ、
『戻ってきたら斬る』と、
こっぴどく叱られたという経緯がありました。
李陵が最初に参加したのはこの後に編成された第二次遠征軍だったのです。
この遠征軍は後方支援も含めて25万人規模で行われた為にさすがに成功し、
李広利は大宛を陥落させて名馬1000頭を持ち帰るという成果を挙げます。

ところが、紀元前99年の第三回遠征では、
李広利の援軍として出発した李陵指揮下の5000人はその途中、
単于みずから率いるおよそ3万騎以上の匈奴の本隊に遭遇してしまったのでした。

当然ながら戦闘に入った李陵と匈奴の単于ですが、
驚くべき事に李陵率いる5000の漢軍は6倍もの匈奴の騎兵を相手に激闘を繰り広げます。
李陵は突撃してきた匈奴の騎兵を1千丁もの弩の一斉射撃で足止めしたところで逆襲に出て、
後退したところを更に追撃して数千人を倒したと言います
これに驚いた匈奴の単于は更に近隣からも援軍を呼び寄せて李陵を攻めます。
さすがに追い込まれた李陵は東南にある拠点を目指しつつ後退し、
匈奴はこれを追尾するという撤退戦となったのでした。
そしておよそ8日間もの激闘の結果、李陵の部隊は匈奴の兵を併せて10000人以上も討ち取るのですが、最後は矢も武器も尽き、李陵はやむなく匈奴に降伏します。それにしてもこれ漢書の李陵・蘇武伝にある記述そのまま書いてますが、6倍以上の騎兵を相手に撤退戦を繰り広げて相手の1/3以上を戦闘不能にすると言うのは只事ではありません。

結局、李陵が降伏したあと戦場から逃れて帰還できた漢の兵は後を託した陳歩楽以下400余りで、
報告を受けて李陵の降伏を知った武帝は激怒したのでした。
目を掛けてきた俊英に裏切られたと思ったのでしょうね。
またこの頃の武帝は既に即位から40年が経って中高年期に入っており、
若い頃の柔軟な思考は後退してやや頑固で聞く耳を持たなくなって来たとも思われます。

そしてこの時、ほとんどの群臣が武帝に迎合して李陵の罪を言い立てる中、
ひとり李陵を弁護した者がいたのでした。
それが、後に史記を完成させることになる、
太史令の職にあった司馬遷その人だったのです。
長いですがここは漢書・司馬遷伝にある李陵弁護の記述を要約します。

『李陵は親に仕えては孝、友人には誠実。
 常々奮い立って身命を顧みず国難に殉じようというのが平生からの願いでした。
 今ひとたび不運にあったものの、命の危険もなくのうのうと暮らしてる者が、
 この時とばかりに有る事ないこと悪口を申すのは李陵が可哀想でなりません。
 それに李陵の率いる兵は5000にも満たないのに胡馬の地に深く攻め入り、
 数万の敵に立ち向かったのです。
 家来にかくも命惜しまぬ働きをさせたのは古の名将も及ばぬ所。
 その身は負けたとは言え、匈奴を打ち破った手柄は天下に披露するに足る物です。 
 彼が死ななかったのは折を見て漢に恩返ししようとしての事でしょう』
 
これを聞いた武帝は司馬遷を宮刑に処したのですが、
その後、武帝は李陵に援軍を送ってやらなかったことを後悔し、
生き残った兵たちには褒美を下した上で李陵を迎えようと使者を派遣します。
しかしこれが、李陵の運命を大きく変える出来事に発展したのでした。

長くなったので続きは次回に。



おしまい。

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  1. 2008/08/02(土) 07:31:26|
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