打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

草原の興亡 その19

疲弊

中国や中央アジアの地名については、現代まで残ってる地名・有名な都市もあれば、
いっぽうで古代でしか登場しない地名もありますよね。
匈奴編ではこういう古名が結構多いので書いてるほうも地図確認しながらやってます。
で、三国志とかに親しんでる人ならある程度分かる部分もありますが、
資料読んでる書き手の方はともかく読み手からすると本来これは説明なしじゃちょっと不親切・・・。

いままで時間的な都合で地図はあまり出して来なかったのですが、
さすがにちょっとこのままでは書いてる内容が把握しづらいですね。
という事で今回からちょこちょこ中国~カスピ海あたりまでの地域を、
随時書き込みしつつ出してゆきたいと思います。


ブラウザの大きさ的にはW500~550がいいのですが、
それだと粗すぎて書き込み切れないのでやや大きいのを縮小表示にします。
詳しく見る場合は地図をクリック→ウィンドウ化して原寸表示にしてください。

①ユーラシア大陸の白地図をダウンロード(フリー地図サイトは結構ある)
②海・湖などを青系に着色
③あとは適当に資料見つつ古代の地名を書き込みするだけ

こんな手順でまずこの時代の有力な国、
それから登場してくる地名を入れるとこんな感じに・・。

中央アジア図BC-2-01

これを参考にしつつ、前回の続きを。

 



紀元前120年、
匈奴が定襄と北平にそれぞれ数万騎で侵入し、千余人を殺害して去る。
前年に大きく勢力を損ねたとはいえ、まだまだ匈奴も余力を残しているのが分かりますね。

 

紀元前119年、
この年になって漢は今までと違う動きを見せます。
10万人規模の編成は前2年と同じなのですが、

①衛青と霍去病に各5万人を指揮させる。
②この2軍団をそれぞれ別の方面から出撃させて匈奴の本拠を目指す。
③長距離の遠征を想定して予備の武装・馬を調達し、補給部隊も増員する。

そう、今まで多くの場合は匈奴の侵入に対応する形か国境付近での争いだったのが、
この年の戦いの主導権は漢の側にありました。
前年に西部の有力者を寝返らせる事に成功していたのも大きかったのでしょう。
最初からこの年の目標は、
漢から寝返った趙信の助言によって北に移していた匈奴の本拠地にあったのでした。

といっても実際にこの時の匈奴の本拠地がどの辺にあったかは良く判りません。
なぜかと言うと、
普通に 『北へ』 だとモンゴル高原の北へという意味に取るのですが、
史記・匈奴伝だとこれが 『沙漠の北』 という表現を使っていて、
これだとモンゴル高原の東にあるゴビ沙漠の北側の森林地帯(つまりバイカル湖の南あたり?)
とも取れてしまいます。
まあ想像でアレですが、モンゴル高原の南東寄りにあった本拠地が、
やや北西へ動いていったと見るのが妥当な気がします。
ただまあ、その後の漢のアクションを考えると史記の記述も正しい気がするけど・・・。

さて、
定襄から出た衛青と、定襄の北東にある代から出た霍去病は、
ともに匈奴の本拠があると思われる場所を目指して二方向から進んでゆきます。
一方、漢軍が到着するより早くこの情報を掴んだ匈奴の単于は、
保有する物資などをさらに後方へ移した上で、
自ら精鋭を率いて沙漠の北で待ち構えていました。

先に匈奴の軍とぶつかったのは大将軍の衛青の方でした。
最初はともに正面から近接戦を演じてた両者ですが、
ある日の夕方になってたまたま大風が起こります。
この混乱に乗じて攻勢を仕掛けたのは衛青のほう。。
左右から兵を展開させ、匈奴の本隊を包囲する事に成功したのでした。
こうして戦況が一気に不利となったのを見て取った匈奴の単于は身の危険を悟り、
配下の数百騎を率いて囲みを突破して北西へと逃走します。
総崩れとなった匈奴の本隊を追撃する衛青の軍は単于を捕らえることは出来ませんでしたが、
首級・捕虜の数は19000にも及び、
匈奴側は単于も一時行方不明となるほどの惨敗を喫したのでした。

一方、衛青より東寄りから出撃していた霍去病は、その頃匈奴の左賢王と戦っていました。
以前書きましたが左賢王とは匈奴の太子が就くナンバー2の地位で、
南に向かって左、
つまりモンゴル高原の東側~満州一帯がその領域となるため、
東から出撃した霍去病の軍は自然とこの左賢王を相手にする事になったのでしょう。
結果、霍去病率いる5万の漢軍は、
この戦役で最大規模の戦果となる7万余もの首級・捕虜を得ます。
匈奴側はこの大敗で左賢王及び配下の将軍がほとんど逃走し、
遠く西へと逃げ去ってしまったのでした。
わずか22歳くらいでこれほどの大功を上げた霍去病ですが、
この勝利の後
封(山上で盛り土して天を祭る儀式)と
禅(山を掃き清めて地の神を祭る儀式)を行い、
最終的に匈奴の拠点であった翰海 (バイカル湖付近かゴビ沙漠付近のどちらか) まで
遠征してこれを掃討して帰還します。

衛青と霍去病によるこの年の勝利の結果、
匈奴は黄河の南側(オルドス地方のこと)だけでなく、
そこから西に延びる北の草原と南の沙漠の間にある回廊地帯(河西回廊のこと)においても、
その支配領域のほとんどを失ってしまいます。

漢にとっては長いこと抑えられていたこの地域の安全が確保されたことで、
この回廊地帯には拠点の設営と殖民が進み、
その後新たに敦煌や酒泉などの4郡を設置する事となったのでした。
そしてこれは、かつて張騫が派遣された西域への道が開かれた事を意味していました。
この後、漢と匈奴の戦いは東から西に移ります。

しかしこの紀元前119年の戦いは両者に大きな爪跡を残します。
匈奴は8~9万もの大損害を出して勢力を大きく削られたのはもちろんですが、
漢の側でも数万人の犠牲者と馬も10万頭以上の損失を出していたのでした。
そして、10年以上にも渡るこの戦役で、
さしもの漢もこの頃には既に国庫は底をついてしまっていました。
文帝・景帝の時代にはうなるほどの備蓄があったにもかかわらず・・・。
武帝が塩や鉄などの物資を専売にし、
更に均輸法や平準法といった増税策を行って戦費を調達しだすのはこの年以降からです。

結局、このあと数年間は漢も匈奴も目だって大きな軍事行動は起こしませんでした。
両者の疲弊による奇妙な休戦期間とでもいうのでしょうか。
多少なりとも余裕があったのはもちろん漢の方でしたが、
その漢の側でも痛すぎる損失が発生して軍を起こすどころではありませんでした。
この最初の戦役で最も大きな功績を挙げ、
戦後は大将軍の衛青と共に大司馬に任じられていた霍去病が、
わずか24歳で亡くなったのです。

このあと、
漢は南越への攻撃で数年を費やし、
匈奴もまたこの間に新たな後継者が立つなどしており、
両者が目だった動きを見せるのは更に10年ほど経ってからとなります。

小康状態が動き出すのは衛青と霍去病による遠征からおよそ15年後。
漢が西域への遠征軍を派遣した事から始まったのでした。
次回、舞台は西域諸国へと移ります。

で、次回のサブタイトルは、
このシリーズが構成書きの段階だった頃から決めてたものを使用します。
やや気合を入れて書く回になるんだろうなあ・・。

 

おしまい。

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  1. 2008/08/12(火) 20:06:49|
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