打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

草原の興亡 その23

匈奴時代の終幕

およそ3ヶ月掛かった匈奴編も今回が最後です。
東アジアから中央アジアの草原に強大な支配権を確立していた匈奴、
漢との戦いの後はどうなったでしょう。


(東匈奴と西匈奴)
紀元前85年、それまで単于の地位に就いていた匈奴の狐鹿姑という者が亡くなり、
その後継を巡って単于の兄弟と妃だった者の一族との間で争いが起こります。
この時は結局単于とその妃の息子だった壺衍鞮単于が立ったものの、
これを不満に思う者は単于の下に出仕しなくなります。
更に実権を握った単于の母親が不公正な統治を行った為に人心が離反し、
この頃には匈奴は漢へ侵攻するどころではなくなっていました。

そして紀元前71年、漢と烏孫は合計20万もの軍をおこして匈奴へ総攻撃をかけます。
この年の戦いで匈奴は4万人・家畜70万頭という大損害を出して大きく衰弱します。
更に報復として烏孫へ行った出兵にも失敗して9割以上の損害を出してしまいます。
この状況、周辺諸国が見過ごすはずもありませんでした。
間もなく烏桓・烏孫・丁零といった諸国が匈奴へ攻め込み、
更に最後まで匈奴と同盟関係にあった車師国も西域諸国の攻撃を受けて降伏します。
このような状況のなか、
紀元前68年には壺衍鞮単于が亡くなり、弟の虚閭権渠単于が後を継ぎます。
更にその後の握衍朐鞮単于は非常に強権的な統治を行った為、
ここで匈奴の内部では一種のクーデターが起こります。

紀元前58年に立った呼韓邪単于ですが、実は他にも親族5人が単于を称していました。
結局この数年に及ぶ内部での争いにより、
匈奴は呼韓邪単于率いる東匈奴と兄の郅支単于が興した西匈奴に分裂します。
紀元前54年に行われた両者の決戦は兄の郅支単于が勝ったとされますから、
実質的には西匈奴が後継と見るべきでしょう。

さてこの両者、敗れた東匈奴の呼韓邪単于は漢へ接近して和親を願うようになり、
『藩臣』を名乗るようになったとされます。
その後、東匈奴の系譜は前漢が滅んで後漢の時代には更に北匈奴と南匈奴に分裂し、
三国志の時代に登場する呼廚泉単于までおよそ250年に渡って存続します。
呼廚泉単于の名は某月刊マガジンの三国志漫画にも登場してきますよね。

この呼廚泉の兄の於扶羅(おふら)は、董卓亡き後の大混乱に陥った長安から逃げた献帝を救出し、
しばらく護衛していたと言うのはあまり知られていませんがほぼ事実です。
中国人にとっては異民族に皇帝が保護されたなどと言うのは不名誉な事でしょうから
なるべく残したくない気持ちは判らなくもないですが・・。
ただまあ、この事はその後の中国史で再び関わってきます。

於扶羅の一族はその後は劉姓を名乗り、
子の劉豹は後漢の大学者蔡邕の娘の蔡琰を妻としていますし、
三国時代には蜀に仕えて蜀漢成立時には推挙人の一人として名を残しています。
そして劉豹の子、於扶羅の孫である劉淵は西晋時代に自立して『漢』を興し、
これにより後の東晋十六国時代が幕を開ける事となったのでした。
そう、これは中国本土に異民族の小国家が成立して来た事になります。

中央アジア図04

(西匈奴と北匈奴のその後)
さて、東匈奴→南匈奴の系譜はここまでとしますが、
もう一方の西匈奴を率いていた郅支単于はどうなったでしょう。
更に東匈奴のうち、南北に分裂したもう一方である北匈奴のその後は?
実はこれが、このシリーズの次のテーマとなってきます。

アルタイ山脈付近を拠点に西匈奴を興した郅支単于はその後、烏孫との戦いに臨む事となります。
そして同じく烏孫と敵対していた西の康居国と同盟して婚姻関係を結んで烏孫を討つなど、
一時は西域一帯に強大な勢力圏を確立するまでになっていました。
しかしその後、郅支単于は同盟関係にあった康居国の姫を殺して川に流したり、
南の大宛や奄蔡を威圧して貢納を要求するなど尊大な振る舞いが目立つようになり、
次第に漢にとっても捨て置けない存在となっていました。
そして紀元前36年、
漢の西域都護府の副司令官だった陳湯という者が4万の兵を集めてこれを攻撃します。
不意を突かれた西匈奴は既に同盟相手の康居が寝返っているのではないかと疑っていたのか、
脱出する道を選ばず篭城の末に滅亡する事となります。

一方、呼韓邪単于の孫の世代で東匈奴から分裂した北匈奴、
その後は西匈奴の滅亡でやや空白地帯となっていた西域へ進出してゆきます。
ただしこの北匈奴、西域では北の草原を支配するまでに成長していた一方で、
東方では鮮卑族と漢に接近した南匈奴との両面から押される形にありました。
またこの頃のモンゴルは天候不順が重なっていたとも言われ、
こうなると自然、北匈奴は力を持っていた西域に流れて行くことになります。
2世紀にはかつて奄蔡国のあったカザフスタン付近まで到達しており、
その活動地域は完全に西域となっていました。
そして後漢が滅ぶ2世紀末~3世紀頃になると、
彼らの足取りはカスピ海北部の草原地帯で途絶えてしまいます。
恐らくその勢力の一部はカスピ海を越え、
黒海の北に広がるキプチャック草原の西端にまで到達していたとも考えられますが、
まあ想像の域を出ません。
これは中国が再び内乱時代となったこともあり、
遠い西域の情報まで記述する事ができなかったという側面もあったでしょう。
最終的にこの北匈奴がどこへいったのか、もう史書では追うことはできません。
この地域で2~3世紀頃の遺跡でも見つかると面白いんですけどね。



(謎の騎馬遊牧民の登場)
そして3~4世紀、
ある謎の騎馬遊牧民の集団が黒海の北岸に姿を見せます。
375年、
それまでローマ帝国の北辺を悩ませていたゴート族がこの謎の遊牧民によって突如征服され、
東ゴートに続いて西ゴート族も彼らによってドナウ川流域から追い出されるという事件が起こります。
この情勢に驚いた当時のローマ皇帝ヴァレンスは西ゴート族が領内へ入ることを許可するのですが、
こんな感じで相当にドラマティックに登場してくるこの騎馬遊牧民は 『フン』 と呼ばれていました。
次回以降、彼らがこのシリーズの主役となってきます。


おしまい。

FC2ランキング02
 
押してってねー。

テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム

  1. 2008/09/04(木) 07:28:47|
  2. 草原の興亡
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<ちっこいPCを作りたい | ホーム | 草原の興亡 その22>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://hamilcar.blog64.fc2.com/tb.php/621-b6d6bebf
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

このブログはリンクフリーです。

ハミルカル・バルカ/メルカルト

Author:ハミルカル・バルカ/メルカルト
サーバー:Eos
所属  :イスパ
商会  :たまごのしろ/世界の船窓から
Twitter :hamilcar_notos

FC2カウンター

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
オンラインゲーム
362位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
大航海時代オンライン
14位
アクセスランキングを見る>>

最近の記事

カテゴリー

最近のコメント

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

最近のトラックバック

ブログ内検索

RSSフィード

RSSリンクの表示

著作権について

大航海時代 Online』に関わる著作権、その他一切の知的財産権は、 株式会社コーエーテクモゲームスに帰属します。 このホームページに掲載している『大航海時代 Online』の画像は、 『大航海時代 Online』公式サイトにおいて使用許諾が明示されているもの、もしくは『大航海時代 Online』の有効なアカウントを所有しているユーザーが株式会社コーエーテクモゲームスから使用許諾を受けたものです。