打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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エンリケ物語 その14

アフリカ王の登場


エンリケ航海王子の晩年となる1450年代に入り、西アフリカの探検事業の南下速度は目に見えて低下していました。1444年の時点でヴェルデ岬を発見してから、エンリケが亡くなる1460年までに到達したのはシエラレオネまでですから、17年間でその距離約1000km。いっぽう1415年のセウタ攻略から1443年のヴェルデ到達までが28年でその距離約3000km。1年あたりの南下速度で言うと59対107kmですから6割弱に留まっています。それも、最終的にシエラレオネに到達したのが1460年ですから、交易面の活発化とは裏腹に探検面での動きはかなり鈍かった事になりますね。

では、摂政ペドロの死後、ブラガンサ公が政権を掌握してからエンリケが亡くなる1449~1460年まで、ポルトガルは一体どういう動きをしていたのでしょうか? ここに、エンリケの甥に当たるポルトガル王アフォンソ5世が関係してきます。


アフォンソ5世
1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国の攻撃により陥落すると、教皇は直ちに十字軍の呼びかけを行います。ポルトガル王アフォンソ5世も即座にこれに反応するなどいったんこれは実現しそうな気配を見せるのですが、熱意を持っていたのはポルトガル王とイングランド王くらいで、結局このときの直接的な反撃は立ち消えになってしまっていました。事実上、もはや十字軍の名の元にヨーロッパ諸国が結束するなど中世期に見せた突発的な行動力はもう政治的にも実力的にも困難になっていたのでしょうか。

一方、そんな動きの鈍いヨーロッパ諸国を尻目に、
20代に成長していたアフォンソはこれと前後して目に見える外交成果を挙げてゆきます。

まず1452年、アフォンソの妹レオノールが神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世と結婚します。そしてこの両者から後の皇帝マクシミリアン1世が生まれます。この人はアフォンソの叔母イザベルが結婚したブルゴーニュ公フィリップの息子であるシャルル突進公の娘と結婚しますから、この頃からポルトガル王家はブルゴーニュ公家・ハプスブルク家と二重三重の婚姻関係を結んでゆく事になりますね。
そして1456年、教皇より西アフリカにおけるポルトガルの権益が確定する勅書が出されます。ボジャドール岬以南におけるポルトガルの領有権・裁判権・宗教的な権益・交易や漁業などの経済権益・更には航行の独占権など、かなり大きな影響力を持つ決定でした。
またこれはモロッコに対して触手を伸ばし始めていたカスティーリャに対しての外交上の勝利を意味していました。
これを受けて、アフォンソはボジャドール岬に至る地域の権益を確実なものとするため、東地中海への十字軍の代わりにモロッコ方面への攻略作戦を提案します。
1450年代から1470年代に掛けて行われたポルトガルのモロッコ方面への軍事的な動きはこのあたりの政治情勢が深く関わっていたんじゃないかと思います。

1458年、アルカセル・セゲールを攻略
1474年、アルジラ、タンジールを攻略

このうちアルカセル・セゲール攻略にはエンリケも出陣しておりますが、元々小都市ですから攻略自体は準備の整っていたポルトガル軍にとってはそれほど困難ではなかったようです。しかし、セウタ、タンジール、アルカセル・セゲール、アルジラというジブラルタル海峡からモロッコ沿岸の諸都市を攻略したポルトガルは、こうして西アフリカに至るルート上の拠点を得る事になり、上の3都市の攻略を成功させたアフォンソ5世は『アフリカ王』の異名をもって呼ばれたのでした。
アフォンソの死後、その息子ジョアン2世の時代でポルトガルはいよいよアフリカ南端~インドへの道を切り開いてゆく事になりますが、その下地となる部分は探検事業が停滞していた1450~70年代に整えられつつあったと見るべきなのかも知れませんね。



ポルトガルの強み
こうしてみると、ヨーロッパ辺境の小国に過ぎないポルトガル一国だけがなぜ大航海時代の初期に突出した成果が出せたのか、なんとなく伺える気がします。15世紀前半の時点では、ポルトガルだけが、『時期・地勢・人材』 の各面でそれを満たすだけの要件が揃っていたんじゃないかと。

まず時期としては、競合となる可能性のあったヨーロッパ各国では、百年戦争を始めとした長期の対外戦争や王位争いなどの内戦など紛争が絶えませんでした。これに対してポルトガルはレコンキスタが完了し、同時に強い王が立って国内が安定し、更に唯一の仮想敵であるカスティーリャとの和平が実現した事でその国力・活力を外洋に向けるだけの余裕がありました。

地勢面ではもちろんアフリカ・大西洋に最も近いヨーロッパの西端であった事、そして南と北の経済圏が交差する関係で、もともと中継港として海運が発展する潜在的な優位性があった事でしょうか。また、大航海時代序盤の最優秀船というべきキャラベル船を開発できたのも、こうした経済圏の交差する所に位置していたのも大きいと思います。

そして人材面では、この時代には珍しく、ポルトガル王家の人々が優秀で、かつ比較的に皆長寿だったことでしょうか。王位に就くものが短命だったり突然死んだりしますと、当然ながら王位相続の争いや政権交代後の混乱で活力を損ねたり政策に一貫性を欠いたりする事になりがちですから。
この点、ポルトガル(アヴィシュ朝)の歴代の王を見ると、1・3・4代目のジョアン1世、アフォンソ5世、ジョアン2世の3人だけで在位年数が実に105年を数えます。しかもジョアン1世の息子で2代目のドゥアルテだけがやや若死にしていますが、これも弟の摂政ペドロとエンリケ航海王子という優秀な兄弟によって完全にサポートされていました。
まだ中央集権化する前の、官僚機構などのない中世末期の事ですから、指導者は直接臣下の揉め事・相談などに携わる必要があります。必然的に人と人の関係が重要であり、王様が長命な事はそれだけで長所となりえたでしょう。人口100万そこそこの小国ポルトガルで指導者が優秀かつ長命というのは実際かなり大きかったと思います。国王が短命で後継者を決めないで亡くなってゆく16世紀後半のポルトガルの運命をみると余計にそう思わずにいられませんね。


なんだか脱線気味の回なのにまとめに近い事を書いちゃってますね。
次回は新たな冒険者の登場と西アフリカ事業の到達点を見てみます。
たぶんあと2回。



おしまい。


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  1. 2008/11/27(木) 17:26:57|
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