打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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イスパニア物語 その5

混沌の時代


現代ヨーロッパの各国では、いまだに国内や同じ島などでの地域的な確執が政治問題となっている国って結構ありますよね。イタリアの南北問題などはその典型ですが、今見ているイベリア半島でも結構こうした地域問題がくすぶっています。そして、それらのヨーロッパの政治問題となっている地域の独立性・経済格差などの原因を遡ってゆくと、実にそのいくつかはこれから書く事になる、古代から中世への転換期にその淵源を発している事が結構あったりします。

まあ、現代の問題を探るのに今から1500年以上も昔の事から見てゆくというのは歴史の醍醐味そのものですが、大航海時代という今から500年前の事となると、古代の影響はもっと強く及んでいたのでした。
地中海を制した古代ローマの末期から7世紀に掛けてのヨーロッパ、
とりわけイベリア半島の動きはどうだったのでしょうか、これから見てゆくことにします。


(フン族の出現とゲルマン民族の大移動)
『紀元4世紀末にヨーロッパの東端に出現したフン族が西に移動を開始し、それに押される形でヨーロッパの北~東方にいたゲルマン系の部族が次々と玉突き現象的に大挙してローマ帝国内に侵入して来るようになり、そしてそのゲルマン民族の大移動によって古代ローマ帝国は蛮族の脅威に晒され、遂には西ローマ帝国の滅亡に至った』
というのはまあ一般的に説明する際に用いられるこの時代の主な流れ。

端的に書くと確かにそういう部分は大きいのですが、実際はその2~300年前からローマ帝国はライン川流域~ドナウ川流域の諸部族と境を接して侵略・討伐・均衡・通商など様々な形で付き合って来ており、ローマの危機といわれた3世紀には既にローマ領内の属州ガリアなどでは、紀元375年以前からゲルマン系の民族が領内で生活するようになっていました。
が、そうした中にあってもやはりフン族とそれに押し出される形で侵入してきたゴート族はローマの許容範囲を超え、歴史を動かす契機となるだけの力を持っていたのでしょうか。

フン族が登場してくる紀元375年~450年頃までの話については、既に以前書いた草原の興亡シリーズの中で結構詳しく見ているのでそちらを押さえておくと良いかもしれません。


ヨーロッパ地図_5世紀前半01  
※当時作った400年代の地図がこれ。(拡大して見て下さい)


草原の興亡シリーズURL
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-category-12.html

(関連記事)
その24 東方からの脅威-その1

その25 東方からの脅威-その2

その27 大移動の余波

その28 カタラウヌムの戦い-前編

その31 カタラウヌム以後




(西ゴート王国の時代)
こんな感じで、ローマ帝国(西ローマ)末期の紀元5世紀、
イベリア半島に近接する現フランス南西部のボルドーを中心とするアクィタニア(アキテーヌ)には、カタラウヌムの戦い以後も西ゴート王国が生き残り、その勢力を南へと伸ばし始めてゆきます。

462年、西ゴート王テオドリックの跡を継いだトリスモンド王子を倒して王となった弟のテオドリック2世は、ローマ帝国の内紛に乗じてナルボンヌ(マルセイユを含むフランス南部)の割譲を受けます。
更に西ゴート王国は次のエウリック王の時代にローマの穀倉だったイベリア半島へ進出を図り、ピレネー山脈を越えて度々遠征を繰り返し、この王が在位していた466~484年頃にその最大版図を築く事となったのでした。
このエウリック王の時代、西ゴート王国はゲルマン法を成文化した法典『エウリック法典』が編纂され、王国内のゲルマン人に適用される事となります。これはゲルマン系の部族による国家としては初となる法典であり、ラテン語で書かれていました。更にその後506年にはアラリック王の時代にはローマ人に適用されるローマ法典の縮刷版『アラリック法典』も編纂されるなど、西ゴート王国は他のゲルマン系部族の国家とは一線を画す法治国家としての歩みを見せていたことが伺えるのですね。

そしてこの先進国西ゴートの侵攻をまともに受けることになったのが、ヒスパニア北西部の属州ガラエキアを中心に勢力を張っていたスヴェヴィ族でした。後にブラガンサ公の由来ともなる現ブラガの町に拠点を置いたスヴェヴィ王国は、浸食を受けつつも西ゴートの侵入以降も100年近くこの地に割拠し続けたのでした。

そして476年、このエウリック王の時代に遂に西ローマが滅亡します。
傭兵隊長オドアケルが皇帝ロムルスを廃位させる形であっさりと政権移譲が成されてしまいますが、この結果東ローマ帝国を除く西ヨーロッパ世界は東ゴート族・オドアケルの王国・フランク族・ブルグンド族・西ゴート王国・スヴェヴィ王国といったゲルマン系の部族国家による抗争と混沌の時代に入ってゆくのでした。



(フランク王国対西ゴート王国)
西ローマ滅亡後の481年、フランク族のクローヴィスによりフランク王国が成立し、ガリア北部を拠点としてその勢力を急拡大させてゆきます。当然ながら南フランスに割拠する西ゴート王国とは険悪な状態となり、遂に507年、両者はヴイエで大規模な会戦が行われるに至ります。このヴイエの戦い、結果はフランク王国の圧勝。西ゴート王アラリック2世が戦死するなどして、西ゴート王国はガリア中西部のほとんどを奪われて南フランスの一部とヒスパニアを領する国にほぼ確定する事になったのでした。しかもこの体勢はおよそ200年後にイスラム勢力が侵入してくる8世紀まで続くのですから、非常に大きな一戦だったといえるでしょう。
そして後世、これにより南フランスの中でも南西部、特にローヌ川以西のモンペリエ周辺などはフランスというよりむしろ隣接しているイベリア半島の影響を受け、ある意味独自の政治・文化を有するようになるのですが、その淵源もまたやはりこの5~6世紀にまでさかのぼる事になるのですね。いっぽうフランク王国はその後ガリアの大半を手中にして、後世のシャルルマーニュの時代にはその勢力をイタリア半島へも伸ばしてゆく事となります。
(ちょっとここでこの時代の地図を作ってみましたので、俯瞰しながら話を進めます。)


ヨーロッパ地図AD530年代
※紀元490~530年代における西ヨーロッパの動き(原寸800×584)


さて、5世紀末~6世紀にはいると、
地中海世界は東ゴート族の王国が強大な勢力を持ってきます。
ドナウ川~ライン川一帯に大きな勢力を持つに至った東ゴート王国はその矛先を東ローマ帝国の領内へも及ぼし始め、490年代には西ローマの旧領ラヴェンナを制圧してイタリア全域を手中にするなど大きな脅威となりつつあったのでした。

そしてイベリア半島にもこれは大きな影響を及ぼし、王族内の内紛が続いた西ゴート王国では姻戚関係のあった東ゴートのテオドリック王が511~526年まで摂政として支配するまでになっていました。その後、それまで西ゴート族を支配していたバルト家が途絶えると、554年までの間に西ゴート王国では東ゴート人を含む7人の王が立つという不安定な状況に陥っていました。
不安定な政治状況の中でも西ゴート王国の支配体制はそれなりに機能しているのは結構不思議なのですが、これは西ゴート族が実力主義の選挙制で王位を決めていたから、というのが大きく影響しているでしょうし、もう一方では彼らが導入していた統治システムも結構機能していたのでしょう。

イベリア半島における西ゴート人の絶対数の少なさはけっこう特徴的で、西ゴート王国における西ゴート人の総数はおよそ20~30万人。一方、被支配層となった旧ローマ属州ヒスパニアの人口は400~600万人で、更に少数民族のガリシア人やバスク人、カンタブリア人なども合わせると、西ゴート人の比率はわずか3%程度だったと試算されています。こうした状況の中、西ゴート人は自らの血統を重んじ、他民族との結婚を禁止したり西ゴート人限定・ローマ人限定の各法典や慣例を導入するなどして、二重三重の支配体制を確立していました。
そしてもうひとつ、西ゴート族は比較的早くからキリスト教を受け入れていました。
彼らが当初から信仰していたのはアリウス派で、礼拝はゴート語で行われていた為これもゴート語の保持という点では貢献していたでしょう。いっぽうヒスパニア人の大多数が信仰しているのはカトリックで、両者はまあ相容れない存在ですがアリウス派は他宗派に対して比較的慣用でしたから、これも不思議と二重支配体制の中ではそれなりに機能していたようですね。支配側がカトリックだったらこうは行かなかったでしょうから。




(ユスティニアヌスの再征服、そして・・。)
その後6世紀も20数年が過ぎた頃、
地中海世界ではかなり大きな変革の波が来ていました。
527年に東ローマ帝国ではユスティニアヌス帝が即位すると、先に上げた東ゴート王国や他のゲルマン系国家に対抗するかのように活発な征服活動を始めたのでした。
まず533年に北アフリカのヴァンダル王国で起きた内紛に乗じて名将ベリサリウス率いる遠征軍を送ると翌年にはヴァンダル王国を滅ぼし、翌535年からは強敵東ゴート王国との20年に渡る激しい戦争に突入し、イタリア各地での戦闘の結果553年にこれを滅ぼします。
北アフリカとイタリアを再征服し、東方のササン朝ペルシアの動きも封じたユスティニアヌスが次に目標としていたのは、イベリア半島の旧ローマ属州ヒスパニアでした。

554年、東ローマ軍がイベリア半島南部に上陸します。
このとき西ゴート王国では国王アギラに対立する有力者アタナギルドが兵を挙げたところで、西ゴート族同士の内戦に突入するという最悪の状況だったのです。そして東ローマ軍はこのアタナギルドの援軍要請に応える形でのイベリア遠征だったのですからこの侵攻作戦は容易に進んだのは言うまでもありません。そしてアギラを討ったアタナギルドが引き入れた東ローマ軍を撃退しようとしてももはや手遅れだったのも・・・。
こうして、イベリア半島南部では東ローマ勢が割拠するに至ります。
その支配地域はだいたいバレアレス諸島からカルタゴ・ノヴァ、そしてマラガ、カディス、ヒスパリス(セビリア)など、イベリア半島南西部の最も豊かな穀倉地帯の大部分が含まれていたのでした。

これ以後、イベリア半島では数十年に渡り、
西ゴート王国・スヴェヴィ王国・東ローマ帝国による分割支配が続く事になります。
そしてこの状況を打破したのは、内紛を抱えつつもやはり最大勢力の西ゴート王国でした。

585年にはスヴェヴィ王国を滅ぼし、
625年にはイベリア半島南部の東ローマ勢力を駆逐します。
これによってイベリア半島はローマ帝国時代にゲルマン族が侵入して以来、
約200年ぶりに西ゴート王国によって統一される事となったのでした。

しかし、この統一体制はその後1世紀も経つことなく崩壊します。

この頃、
遙か東のアラビア半島では、
預言者ムハンマド(マホメット)に下った啓示に始まるイスラム教が産声をあげ、
瞬く間にアラビア半島を席巻していたのでした・・・。




おしまい。


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  1. 2009/01/03(土) 10:56:56|
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