打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

イスパニア物語 その14

今回は大西洋岸を南下するレコンキスタの話。

大航海時代のポルトガルに直結する、かなりの重要人物が登場してきます。


(ポルトゥカーレ伯領の成立)
1064年、カスティーリャのフェルナンド1世が現ポルトガルの町ブラガを攻略し、
西部におけるレコンキスタ(再征服運動)はドゥエロ川付近にまで達していました。
その後1080年代になると、フランスからレコンキスタに参加したアンリ・ド・ブールゴーニュがイベリア半島北西部のガリシア地方を転戦してイスラム勢の侵攻からこの地域を防衛する任に当たります。1093年、カスティーリャ=レオン王アルフォンソ6世の娘テレサと結婚していたアンリ(エンリケ)は、これらの功績によって当時王国の最西端の町ポルトを領するガリシア地方南部及びポルトゥカーレ伯領を与えられます。
この辺までは以前書きましたね。

さて新たに最前線の領主となったアンリ(エンリケ)、その統治方法はガリシアとポルトゥカーレ両地域で異なるものを採用していました。
まず、領内の北側に位置する古くからレオン王国の領域だったガリシア地方では、旧来の地主・貴族層の影響力が強かった為、ある程度各領主たちの権限を尊重する形で旧来の封建的な統治を進めます。
その一方で、新しい征服地である南のポルトゥカーレ伯領内では植民活動を奨励し、このまとめ役としてレコンキスタに参加した民衆から生まれた新しい騎士層を重用して都市ごとに自治権を強化するという、都市の自立と支持層の育成を促す政策を取ったのでした。アンリは同時にローマ教皇との関係強化にも努めていたため、ポルトやブラガなど主要都市の機能と教会内での地位は着実に向上して行ったのでした。
アンリのこうした政策はレコンキスタの進展もあって近隣地域からも注目され始め、その支配地域は次第南へも伸びてゆく事になりました。アンリがなくなった1112年の時点でブラガは司教座都市に昇格していますし、その支配地域に現ポルトガル中部のコインブラ伯領も含まれるようになるのですから。

その後、アンリはたった1人、アフォンソという息子を残して亡くなります。
しかしこのアフォンソが父にも負けない英傑に育っていくのでした。


(アフォンソ1世)
1112年、わずか3歳でポルトゥカーレ伯を継いだアフォンソ、当初は若年のため母テレサの摂政下にあり、ポルトゥカーレ伯領の統治は母と親族のガリシア貴族・トラバ伯によって独占された状態にありました。しかも母テレサとトラバ伯は北部ガリシア地方をポルトゥカーレ伯領から分離させようと図っており、トラバ伯が軍の指揮権を握ってさえいたのです。
この状況に不満を持ったのが、先代アンリによって保護され成長しつつあった伯領南部の新興貴族たち。1120年、これら両派の抗争の結果新興貴族・騎士層に支持されたアフォンソは一時宮廷から追放されるものの、アフォンソが成長して行くにしたがってその支持層はどんどん増えて行き、最終的に1128年にアフォンソがサン・マメーデの戦いでテレサとトラバ伯の軍を破り、ポルトゥカーレ伯領の政権を奪回したのでした。
そしてアフォンソは同時に首都を南のコインブラに移し、ポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領を統合して南北の貴族双方を支持基盤とする独立国を築いてゆく方針を明確にし始めます。

こうしたアフォンソの強大化と独立化は当然ながら宗主国であるカスティーリャ=レオン王国を警戒させるものでした。いくらローマ教会の後ろ盾があったとは言え、アフォンソが独立を果たすにはまだもう一押し必要だったでしょう。
1137年、アフォンソはカスティーリャのアルフォンソ7世とトゥイで条約を結び、臣従を確認する代わりにポルトガル北部における領地の境界線を確定させる事に成功します。
このポルトガルとカスティーリャによる国境線、実はこれ現代にまで続く事になる、ヨーロッパでは最も古い時期に成立した国境線となったのでした。
現代ヨーロッパの主要な枠組みが決まることになるのは大航海時代も終わりに近付いた17世紀の30年戦争終結時のウェストファリア体制以降ですから、12世紀中盤での国境確定が現代にも残ると言うのはそれだけポルトガルの国としての確定の早さを物語っているかもしれません。


 ←ポルトガル王国の国旗 (中央にある5個の盾に注目!)


 ←現在のポルトガル共和国の国旗 (盾はまだ残ってる)




(オーリケの奇跡)
さて、1137年に北側の国境を安定させたアフォンソはいよいよ南へと打って出ます。
1139年、南へ進撃したアフォンソの軍はムラービト朝支配下のターイファ諸王連合軍と遭遇します。相手より遙かに少ない軍勢で戦う事になったこのオーリケの戦い、戦闘前に聖ヤコブが現れて勝利を約束したという奇跡が起きた事でも知られています。とにかくレコンキスタの守護聖人でサンティアゴ・デ・コンポステーラに墓があるこのヤコブの加護によるものか、アフォンソはイスラム勢の指揮官アリー・イブン・ユースフを破り、タイファ諸王5人を討ち取る大勝を挙げたのでした。(聖ヤコブの墓所、さんちゃご~!と叫んで突撃するのはイベリア的にはお約束。あと島原の乱でも叫ばれてるというメジャーな掛け声だったりもする・・・)

そういえばポルトガルの国旗を見ると5つの盾が描かれているのが見えますが、
これはそのオーリケの勝利を記念した事に由来するとも云われていますね。
その後、大きく南へと領域を拡げたアフォンソはその直後に取って返してガリシア地方に侵攻し、
宗主国であるカスティーリャのアルフォンソ7世に独立の承認を求めます。


スペイン地図1150年
※前回作った、リスボン攻略時点のポルトガル王国です。
既に北と東の国境線は現代のそれと全く同じ。


(ポルトガル王国の成立とリスボン攻略)
1143年、両者の間でサモーラ条約が結ばれてポルトガル王国が成立し、アフォンソはポルトガル王国の初代・アフォンソ1世として即位します。そして1147年、第二回十字軍の一環としてイベリア半島にも十字軍の分隊が派遣され、この援軍によりアフォンソ1世はテージョ川河口の町リスボアを攻略します。もちろんこれが現在ポルトガルの首都となるリスボンですが、これらの実績により1179年になるとローマ教皇庁が正式にポルトガルの王位を承認するようになったのでした。

さて、こんな感じでポルトガルが担当する事になった大西洋岸のレコンキスタは、この12世紀後半の時点で南部のアルガルヴェ地方などを残して大部分が完了していました。他の地域よりかなり先行していた事で後にポルトガルはいち早くアフリカ探検に乗り出す事に成功するわけですが、ここから先の話は去年書いたエンリケ物語に続くので割愛します。

次回はいよいよ13世紀、
足踏みを続けていたカスティーリャの猛攻が始まります。




おしまい。

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  1. 2009/01/30(金) 00:27:49|
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