打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

イスパニア物語 その20

最終回


昨年の暮れから書き始めたこのシリーズも今回で一区切り。
時代区分としてはいよいよ大航海時代の初期に直接繋がってきます。
最終回なのにやたらドロドロ或いは殺伐とした話を書く事になりますが・・・


(対ポルトガル戦争)
カスティーリャ王国でエンリケ2世に始まるトラスタマラ王朝が、前王ペドロ1世に対してクーデターを起こして成立した話は前回見ました。トラスタマラ王朝は彼と共に蜂起した貴族たちの支持の元に成立した為に王権そのものは低下して不安定になっていたわけですが、この内戦で敗れたペドロ派の貴族たちの動きもまたカスティーリャの不安要素となってきます。そしてそれは周辺国を巻き込むイベリア半島のカトリック教国同士の戦争に発展して行ったのでした。

さて、内戦に敗れたペドロ派、
彼らがどこへ行ったかと言うと、実はポルトガル王国。
当時のポルトガル王国はカスティーリャと非常に関係が近く、1357年まで在位していたアフォンソ4世の王妃はカスティーリャ王サンチョ4世の娘ですし、その王女マリアはカスティーリャ王アルフォンソ11世の王妃となっています。更にアフォンソの息子で1367年まで在位していたペドロ1世は王女マリアの弟で、内戦に敗れた同名のカスティーリャ王ペドロ1世はマリアの息子ですから甥に当たります。
しかもこのポルトガル王ペドロ1世(混在してて紛らわしいですね)の王妃もまたカスティーリャ王家の親族から迎えており、内戦が終結した1369年時点でポルトガル王となっていたフェルナンド1世は両者の息子ですから、当時のポルトガル王家では3代続けてカスティーリャ王家から王妃を迎えていたことになります。

こんなわけで、500名にも及ぶカスティーリャ貴族がポルトガルに亡命していった先には、その体の半分近くにカスティーリャ王家の血が流れているフェルナンド1世がいました。んでまあ当然ながら亡命してきたカスティーリャ貴族たちはクーデターによって成立したトラスタマラ王朝に正統性がないことを訴え、逆にポルトガル王フェルナンドにはカスティーリャの王位継承権があることをそそのかしたのですね。

これ以後、カスティーリャとポルトガルの間で数度に渡って互いの王位を巡る戦争が始まります。
まず1369年、ポルトガル王フェルナンド1世がアラゴンとグラナダ王国と同盟を結んでからカスティーリャ北部のガリシア地方に攻め込んで来ます。しかしカスティーリャ軍がこれを撃退するとフェルナンドはあっさりコインブラまで軍を引いたため、カスティーリャ軍は逆にポルトガル領内に攻め込んでミーニョ・モンテス地方などを襲うなど完全に立場が入れ替わり、海上でもサンルカル沖海戦でカスティーリャ海軍がポルトガル海軍を破った事でこの最初の戦いはカスティーリャの勝利に終わります。
これにより1371年、両者はローマ教皇の仲裁でアルマウィン条約を結び、カスティーリャ軍が撤収する事とフェルナンドがカスティーリャ王女レオノールと婚約する事でいったん決着します。

ところがフェルナンドはこのカスティーリャ王女とは結婚せず、代わりにバルセロス伯だったメネーゼス家出身のレオノール(ダ・クーニャというポルトガル貴族の人妻だった)と強引に結婚してしまったため、これを非難したリスボンの手工業者など3000人が暴動を起こすという混乱を招いてしまいます。しかもこの暴動は強引に鎮圧されて首謀者は処刑されると言うかなり荒っぽい収め方をされた為、ポルトガルでは王妃レオノールとその一派への反感が根強く残り、これが後にフェルナンド1世が亡くなったあとで彼の異母弟ジョアンが人気を集める遠因となって行ったのでした。


(イングランドの介入)
こうしてポルトガル王がカスティーリャの王位継承権を放棄した翌1372年、今度はイングランドのランカスター公がペドロ1世の娘を妻としていたことからこの王位継承戦争に参加してきます。ランカスター公はフェルナンドと亡命したペドロ派貴族を誘ってポルトガルを同盟を結び、ガリシア地方に侵攻してきたのでした。
当然ながら、ローマ教皇の裁定で結んだ条約をわずか1年で破棄されたカスティーリャ王エンリケ2世は激怒します。先手を打ってポルトガルに侵攻したカスティーリャ軍はリスボンを包囲し、海上でもフランス王シャルル5世の要請もあってビスケー湾に海軍を出動させるとラ・ロシェル港でイングランド艦隊を撃破し、以後ドーヴァー海峡からビスケー湾に至るまでの制海権を掌握したのでした。リスボンを包囲され、海上も封鎖されたポルトガル王フェルナンド、翌1373年にまたしてもローマ教皇に仲裁を頼んで講和条約を結びます。
これでいったん数年間は両国の間で小康状態に入るのですが、1381年になるとまたしてもポルトガル王はランカスター公と手を結んでカスティーリャに侵攻してきます。なんかもう節操が無さ過ぎるのですが、またしてもこの裏切りはカスティーリャに撃退され、逆に国内に逆侵攻されると共に海軍もサルテスの海戦で敗退するという同じ結果にw
ただ、今回はカスティーリャ側も厳しい条件を突きつけます。

1)ポルトガル王女ベアトリスとカスティーリャ王フアン2世の結婚
2)フェルナンド1世に嫡出男子がない場合はベアトリスが女王となる
3)フェルナンド・ベアトリス両者に子孫がいない場合はカスティーリャが王となる。
など、事実上ポルトガルの独立性は大きく奪われる事になったのでした。


(アルジュバロータの決戦と新王朝)
さてここまで見たように、ポルトガル王フェルナンド1世は3度にわたるカスティーリャへの侵攻すべてに失敗した事により最終的にポルトガルの独立そのものも危うくした上、嫡出の男子もいないまま1383年には亡くなってしまいます。
その後、上の条約に基づいてポルトガルの王位に就いたのはカスティーリャ王妃のベアトリスでしたが、摂政に就いた母レオノールが女王ベアトリスを排除して専横を始めた為、戦乱により国内を荒廃させた元凶としてポルトガル国内の貴族・民衆の支持を全く得られませんでした。更にカスティーリャがこの条約違反を理由としてポルトガルに侵攻してリスボンを包囲したため、レオノールは摂政職をカスティーリャ王フアン1世に譲渡してしまいます。

この危機的状況の中、ポルトガルの国内の民衆の間ではアヴィス騎士団長で庶子のジョアン王子に人気が集まりつつあり、1383年12月には遂に民衆がジョアン王子を担ぎ出して内乱が始まり、ジョアン王子が包囲されていたリスボンを開放する事でこの内乱に勝利し、彼がアヴィス朝の初代ジョアン1世として即位したのでした。
即位したポルトガル王ジョアン1世ですが、カスティーリャ王国は当然認めていませんから、再びカスティーリャとポルトガルの間で戦争となります。

この戦争、ジョアン1世がイングランドのランカスター公に援軍を頼んでいた事、民衆がジョアンの指揮下に結束して防衛に動いた事、そしてジョアン自身の軍事的才能によりポルトガルの勝利に終わります。
特に1385年8月14日のアルジュバロータの戦いはその帰趨を決める重要な会戦となります。この日、コインブラとリスボンの中間地点にあるアルジュバロータでポルトガル・イングランド連合軍6千とカスティーリャ・フランス連合軍3万が遭遇し、わずか1/5のポルトガル側が騎兵主体のカスティーリャ・フランス軍の動きを封じる堀と長弓兵を使用した戦術により大勝をおさめ、カスティーリャ側は1万以上の損害を出して撤退したのでした。

この結果、ポルトガルは独立を守ります。
その後ジョアン1世は港湾都市として発展しつつあったリスボンの整備と北海・地中海方面の交易活動を加速させ、これが彼の息子であるエンリケ航海王子の代になって大洋へと乗り出してゆく礎となってゆきます。

もしこのアルジュバロータの戦いでポルトガルが敗れていれば、ポルトガルはカスティーリャに早い段階で併合されていたかも知れません。そうなると当然ながらジョアン1世の息子であるエンリケ航海王子の西アフリカ事業は行われませんから、ヨーロッパが西アフリカ開発に乗り出すのは更に100年近く遅れていたかも知れず、この戦いの結果は人類史全体に大きな影響を与えていたのかも知れませんね。



(カスティーリャとアラゴン)
さてここまで見たように10年以上に渡ってポルトガルと争っていたカスティーリャ王国、一方でこれと並行してアラゴン王国とは緊密な婚姻関係を結んでいました。エンリケ2世の跡を継いだフアン1世はアラゴンから王妃レオノールを迎えており、この両者から生まれた2人の兄弟がカスティーリャ王エンリケ3世とアラゴン王フェルナンド1世となってきますから、後にカスティーリャとアラゴンが同君連合を結んでその後スペイン王国が成立する以前に両国が血縁的に非常に近い関係になっていたことが分かります。両国が後に同君連合からスペイン王国を形成してゆく背景として同じ一族となっていたことは大きく影響していたでしょう。ちなみに、ここで出てくるアラゴン王フェルナンド1世の王女2人が、後にエンリケ航海王子の長兄ドゥアルテ1世と次兄ペドロの妃となっています。


(大航海時代の幕開け)
こうした動乱がようやく終結した15世紀初頭、そのうちの一国ポルトガルはいち早く混乱を乗り越えて大航海時代の扉を開いて大洋に乗り出してゆきます。カスティーリャの圧力をはねのけてアビシュ朝を興したジョアン1世の息子・エンリケ航海王子がその先鞭をつけて西アフリカ航路を開発してゆく経過は以前シリーズ組んで見ていった通りです。

一方でカスティーリャは国内の争いと英仏百年戦争への関わり、そして東方で急成長してきたオスマン朝の影響もあって海洋事業の開始が大幅に遅れる結果となります。ようやく1469年カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンド2世の結婚、1479年カナリア諸島の正式領有と連合王国の発足、更に1492年のグラナダ制圧とクリストバル・コロンによる西インド諸島発見で追いついてくるのを待たなければなりませんでしたから、今回見た14世紀末の動乱は中世末期の分岐点と言うべき重要な出来事だったのかも知れませんね。



さて、予定より50年ほど早くなりますが、
イスパニアを巡るイベリア半島史の記述はここでいったん区切りとします。
フェルナンド2世と女王イサベル以降の話は後日また書くかも知れませんのでとりあえず
 
『第一部・完』

って事で。



おしまい。

FC2ランキング02
 
お疲れ様でした(ペコリ

テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム

  1. 2009/02/22(日) 22:12:43|
  2. イスパニア物語
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4
<<大航海時代っていつからだろう | ホーム | 最終型へ>>

コメント

おつかれさまでしたー。

(途中まではまとめてですが)全部、楽しく読ましていただきました!
ある意味、自国の歴史を勉強する感じでおもしろかったです。
  1. 2009/02/22(日) 22:34:40 |
  2. URL |
  3. psycho #-
  4. [ 編集]

psychoさん>>
どもども。
スペイン史ってかなり日本人と縁遠いんですよね。
それにスペインは地域・時系列もバラバラなので把握しづらく、いっしょくたに書くのはけっこう無謀だったかもしれません。とりあえず最後まで読んでもらってありがとん。
  1. 2009/02/24(火) 08:39:50 |
  2. URL |
  3. ハミルカル #-
  4. [ 編集]

ポルトガルのペドロ1世は「死せる王妃」の話の
人ですよねー。あの話もなかなか面白いと思いま
す。
  1. 2009/02/25(水) 05:05:08 |
  2. URL |
  3. アーカントス #-
  4. [ 編集]

提督>>
王様が愛に生きたおかげであとあと後継者の扱いがえらいことになるわけですが、この人のそういう「行動がなかったらその後のアヴィシュ朝が誕生する事もなかったんですよねー。
  1. 2009/02/28(土) 08:32:11 |
  2. URL |
  3. ハミルカル #-
  4. [ 編集]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://hamilcar.blog64.fc2.com/tb.php/746-9426f804
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

このブログはリンクフリーです。

ハミルカル・バルカ/メルカルト

Author:ハミルカル・バルカ/メルカルト
サーバー:Eos
所属  :イスパ
商会  :たまごのしろ/世界の船窓から
Twitter :hamilcar_notos

FC2カウンター

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
オンラインゲーム
372位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
大航海時代オンライン
13位
アクセスランキングを見る>>

最近の記事

カテゴリー

最近のコメント

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

最近のトラックバック

ブログ内検索

RSSフィード

RSSリンクの表示

著作権について

大航海時代 Online』に関わる著作権、その他一切の知的財産権は、 株式会社コーエーテクモゲームスに帰属します。 このホームページに掲載している『大航海時代 Online』の画像は、 『大航海時代 Online』公式サイトにおいて使用許諾が明示されているもの、もしくは『大航海時代 Online』の有効なアカウントを所有しているユーザーが株式会社コーエーテクモゲームスから使用許諾を受けたものです。