ビザンツとオスマン興隆期のオスマン家を見てゆくシリーズの第三回。
アナトリア北西部で勢力を伸ばして地域の有力諸侯に成長するまでになった彼らが海峡を渡るまでを見てゆきます。そこには、後に自らの手によって滅亡させる事になるビザンツ帝国の動きが密接に関係していました。
前回の最後で、ビザンツ正規軍を破って自立したオスマン家がアナトリア西端にあった有力諸侯のカレスィ侯国を併合したのは既に書きましたよね。
実はそれ以前に、オスマン家はビザンツ皇帝との接触を受けていました。
というのも、1330年代のビザンツ帝国では、再興したパレオロゴス家のミカエル8世(1261〜1281)→息子のアンドロニコス2世(1282〜1328)と来て、その次の代で後継争いに悩まされるようになっており、その政治闘争の過程でビザンツでは外国勢力であるオスマン家に接近する動きが出てきたのです。(ちょっとそこまでの経緯を整理してみます)
まずアンドロニコス2世の息子のミカエル9世は、暗愚で残虐な長男アンドロニコス3世による心労から早世(1320)。
この影響でアンドロニコス3世は祖父アンドロニコス2世の逆鱗に触れて廃嫡。
しかしこれに対抗してアンドロニコス3世は盟友のヨハネス・カンタクゼノスと共同戦線を張り、帝国内部は祖父アンドロニコス2世対孫アンドロニコス3世+ヨハネス・カンタクゼノス陣営による7年もの内乱に突入します。一方オスマン家はこうした帝国内の騒乱に乗じてアナトリア北西部の軍人・名家を取り込んで勢力を拡大してゆきます。
1328年、内乱は孫のアンドロニコス3世陣営が勝利し、盟友ヨハネス・カンタクゼノスはビザンツ軍総司令官職に迎えられます。
1329年、ヨハネス・カンタクゼノスはオスマン家に浸食されつつあったアナトリア方面の領地を再復しようと軍を率いて海峡を渡りますが、これがペレカノンの会戦でオスマンに大敗、逆にアナトリア北西部のほとんどをオスマン家に奪われてしまいます。
1333年、アンドロニコス3世が自らアナトリアに渡ってオルハンと会談、両国の同盟と貢納の支払いに同意します。
1341年、アンドロニコス3世が死去して息子のヨハネス5世がわずか10歳で即位。ヨハネス・カンタクゼノスは内部の政治闘争から共同皇帝を宣言してヨハネス6世として即位。これによってビザンツ帝国はヨハネス5世(パレオロゴス家)対ヨハネス6世(カンタクゼノス家)による2派に分裂して再び内乱に突入。
そしてここで、両派は周辺諸外国に協力者を求める動きに出たのでした。
ああもう、なんて国家滅亡フラグだろう・・・。
数年にも及ぶ内戦の過程でアナトリア半島へもこの政治的な接近が行われ、
ヨハネス5世パレオロゴス派はサルハン侯国と、
ヨハネス6世カンタクゼノス派はオスマン侯国・アイドゥン侯国と、
それぞれ同盟者を選ぶようになってました。
※1340年代のオスマンの出兵。この直後にオスマンはバルカンへ領地を獲得してゆきます。
これが、オスマン家がカレスィ侯国を併合して海軍力を手に入れる1345年までの動向です。さらに翌1346年、ヨハネス6世カンタクゼノスはオスマン家の2代当主オルハンに自らの娘テオドラを嫁がせ、その兵力をコンスタンティノープルの背後に広がるトラキア地方へ向けるよう要請したのでした。
既に1330年代に同盟を結んだ頃からオスマン侯国は大陸側へ傭兵的にビザンツの内部抗争に関与するようになっていましたが、この婚姻関係を結んで以降、はっきりとオスマンは大陸への足掛かりを摑んでゆく事になります。
そしてこの傭兵活動で大活躍するのが、既にアナトリア西北部の制覇行で武名を挙げつつあったオルハンの長男スレイマン。たびたび騎兵を率いてアドリアノープル(エディルネ)方面へ出兵していたスレイマンの働きはめざましく、ヨハネス6世派は次第にこの内戦で優位になってゆく事になります。14世紀前半におけるビザンツの内戦の動向が外国勢の、それもイスラム教国の力で強く影響を受けていたというのはちょっと興味深いですね。
そして1350年代に入り、遂にオスマン侯国はダーダネルス海峡を渡ったバルカン方面へと進出する機会を得てゆきます。この100年後にビザンツ帝国は当のオスマンによって滅亡させられますが、ここまでの流れを見ているとその遠因を作ったのは紛れもなく彼ら自身の政治判断の結果だったと言っても良さそうですね。
次回は大陸側へと勢力を伸ばすオスマン家、第三代ムラトの時代を見てゆきます。
おしまい。
↑ぽちっと。
テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム
- 2009/05/29(金) 07:38:11|
- オスマン家の肖像
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0