打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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オスマン家の肖像 その4

オスマン、海峡を渡る


興隆期のオスマン家を巡るシリーズの4回目。
ここから数回に分けて第3代・ムラトの時代を見てゆきます。
1330~50年代におけるビザンツ帝国内の権力争いに介入する事で、次第にアナトリア北西部で最大の勢力にのし上がってきたオスマン侯国。1340年代後半に優れた海軍力を持つカレスィ侯国を併合して、その勢力はいよいよ対岸のバルカン方面へ向かおうとしていました。


(バルカン上陸)
この機会を与えてしまったのは、この時期になっても身内で争っていたビザンツ帝国。
1340~50年代にヨハネス6世はオスマン家の2代オルハンの長子・スレイマンを傭兵として度々使っており、優れた軍事指導者でもあったスレイマンの活躍もあってこの党派争いを優位に戦っていました。
しかしオスマンは単なる傭兵として使うには危険過ぎる相手でもあったのです。
1352年、オスマン侯国はダーダネルス海峡の出口に当たる対岸の要衝ゲリボルに上陸、ここを占拠します。しかもその後間もなく大地震が起こり、この地方が壊滅的な被害を受けると、これを口実としてオルハンとスレイマン親子は半島全域に兵を送ります。現代の言葉にすると災害救助を目的とした部隊の派遣という所でしょうか。これには当初ヨハネス6世も対立するヨハネス5世も非難を表明するのですが、オスマン家は知らぬ存ぜぬでかわしている内に本当にこの地域を領有してしまったのでした。
そしてこれが、オスマン家がバルカン方面で初めて足掛かりを得た、その第一歩となったのです。

この新たなオスマン領は、確かに面積だけで見たらごく狭い範囲に過ぎません。
しかしダーダネルス海峡を両岸から抑えているその位置は、戦略的に見たら非常に大きな意味を持っていたのです。
何しろ当時のビザンツは帝国とは名ばかりで、西で急速に勢力を伸ばしていたセルビア王国にマケドニアやトラキアの大部分を奪われ、東ではオスマンの伸張を許し、事実上はコンスタンティノープル周辺とテッサロニキ・アカイアなどわずかな地域・都市を保っているだけの小勢力。
オスマン家に貢納を支払い、かつ傭兵として雇うだけの財力を維持していたのは、この海域を各国の船が通行し・コンスタンティノープルで交易する、つまり地中海の通商ターミナル港として機能していたからこそでしょう。また地方に残る小領との連絡や上がってくる収益はここを通過する事でコンスタンティノープルに届くわけで、ダーダネルス海峡を抑えられたらビザンツは干上がる危険性すら含んでいました。
だからこそ対立するヨハネス5・6世ともに非難したのでしょう。しかも所領を奪われて支配下の人口が激減したためたびたび傭兵に頼るようになっていた当時のビザンツでは、軍事的にはオスマンに対抗するだけの力を持っていませんでした。


オスマン1352
※1352年頃の情勢(W800ピクセル)


このままでは早晩ビザンツはセルビアかオスマンに首都を脅かされていたかも知れませんが、このときは幸運にも両国の指導者が倒れる事でビザンツはその危機を回避したのでした。

1355年、セルビア王ステファン・ドゥシャン死去
1362年、オスマン侯国でオルハン死去

マケドニアやアルバニアを奪い、ブルガリアをも従属させるなど、一時期バルカン方面で最強の勢力を誇っていたセルビアは、王ステファンを失った事でこのあと急速にその力を失って行きます。また興隆期にあったオスマンでは後継者争いで数年が消費される事になったのです。ほんの10数年ほどではありましたが、コンスタンティノープルの危機は一時回避されたのでした。



(後継者)
第二代オルハンが1362年に亡くなった後、オスマンは数年に渡る内戦に突入します。
オルハンは数人いた子供達にそれぞれ地域を分担させて統治するシステムをとっており、その中からスレイマン、ムラト、ハリルといった息子達が順調に育っていました。
しかしその中でも生まれ・実績では長男のスレイマンが飛び抜けていたため、そのままスレイマンが後継者となると目されてはいたようです。しかしそのスレイマン、残念ながらどうやらオルハンより先に亡くなっており、1362年にオルハンが死去した時点では、残った息子の中で誰が後継となるか、各々の実力をもって決める事になってしまったのです。
この数年に及ぶ内戦で最終的に勝利したのが次兄のムラト。
兄弟だけでなく有力家門だったトゥラハン家・ミハル家・エブレノス家なども再び支配下に収めたムラトは1360年代の後半になってようやくオスマン家の後継争いに決着をつけ、ムラト1世として再び拡大へと突き進んでゆきます。

次回はオスマンにおける初期の統治システムについて見てゆきます。
個人的にはオスマンが途中挫折しつつもこの地域で覇を唱える事ができたのは他より優れた支配体制を作り上げたからだと見ていますので、次回はこのシリーズでも結構重要な更新になると思います。


おしまい。


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  1. 2009/06/09(火) 23:24:50|
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