打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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オスマン家の肖像 その6

オスマンの人的資源は


興隆期のオスマン家を見てゆくシリーズの6回目。
第三代ムラト1世期で現れて来るようになるオスマン統治体制の萌芽を引き続き見てゆきます。

オスマン家には、アナトリアの一軍事集団だった頃から奴隷による少数の直轄部隊やオスマン家の統治活動を支える奴隷の集団が存在していました。
彼らカピクル軍団(カプクル軍団)と呼ばれたその奴隷集団は、軍事集団の盟主、つまりオスマン家の所有物なのですが、逆に言えば対外的には誰にも仕える義務は無いので、外部から見ればある種特権的な集団として存在していました。このオスマン初期からあった制度というか集団の存在が、後に奴隷出身の大政治家・官僚を輩出したり、最精鋭と恐れられるイェニチェリ軍団が創設される源流となってきます。
ちなみにこのカピクル(Kapikulu)軍団の呼称ですが、カピ(カプ/綴りを見るとプでもピでもなくプィ→ィはほとんど発音しない/くらいなのかも/とりあえず日本語ではトルコ語の『頭がないi』に適当な表記ができないのでどっちでもいいか・・)はトルコ語で『門』を意味しており、クルは『奴隷』の意。つまり『門=家門』と考えれば『オスマン家の奴隷』と言う意味になるでしょうか。そういやイスタンブールにあるトプカピ(トプカプ)宮殿も同じ『門=Kapi』を含む土地の語源からですね。
なんかかなり脱線した・・・。


2.中枢機構の整備
デヴシルメ制への萌芽
前回で見たように、拡大期のオスマンは新たに支配を狙う地域に対しては、まず略奪を目的とした騎兵を派遣して村・集落を襲い、人や物を奪って治安面から脅かすようにしていました。そしてある段階で従属を迫り、属国・直接支配下へと繋がるプロセスを取っていたわけです。
で、この一連の過程の中で確実に生まれてくる『あるもの』がありました。
それは、捕虜・奴隷・人質などといった言葉で表される人的資源の入手。
特にムラト1世や次のバヤジット1世の代になってバルカン方面へ一気に進出して以降は、ギリシア系・スラヴ系の多くの若者が、こうした自由を奪われた状態でオスマン侯国に流入して行ったのです。

いっぽう、先に書いたようにオスマン家では奴隷身分の者をただ単純作業や労働に使役するのではなく、兵として・また学問を身に付けさせて現場と言うか政軍問わず第一線で働けるよう教育し、組織化する習慣をもっていました。そして、初期から元々あったこうした習慣と、大量に入手されてくるキリスト教徒の奴隷・捕虜の存在が、奴隷による官僚機構と直轄軍団の成立に繋がってくるようになったのです。
ムラト1世の頃は、まず侵略の過程で得た人的資源=奴隷・捕虜の若い者を改宗・教育・訓練する事で、オスマン家直属の官僚や兵士に育てるようになります。この一連の流れにより、先に上げたカピクル軍団は一気に1000人単位の大集団へと発展してゆくようになったのですね。

そしてこれ、更に進んで後に息子のバヤジットの代になると、オスマンはこれを徴税制度の中に組みこんでゆきます。つまり一定割合で支配下にある壮健・聡明・秀麗なキリスト教徒の少年を徴発=奴隷としてオスマン家の親衛隊や小姓として育てる様に・・・。つまりこれが、後に『デヴシルメ制』と呼ばれた、オスマン家の人的資源の入手における中核となる制度に発展したのです。

こんな感じで、実際のオスマンの中央集権化はこのあと15世紀の中期になって明確になってくるのですが、制度というか習慣的にはこのムラト1世時代で既にある程度の効果を上げていたと見るべきでしょう。
なにしろ、次代のバヤジットの時にオスマンは一度崩壊しているのです。
それが、わずか20年程度で再生し、この地を制する大帝国として再び成長し始めているのですから、オスマン家の核となる部分は既にある程度整備されていたからこそ、スムースに再征服と支配下への組み込みが成されていったのだと思えるのです。

直轄軍の事は次項に書きますので、ここでは官僚と行政機構の成立について。
オスマンにおける行政面をみると、直轄地では中央から派遣された上級官僚・軍人(郡の長官でもある)による一種の軍政が敷かれていました。そしてこの者が、ティマールを与えられた騎士たちや、登録した士族であるアクンジュを統括して納税・裁判・軍役の管理を行なっていました。後にティマールの授与はスルタンによる一元管理に変わりますが、15世紀くらいまではこうした直属の上級軍人が地方を管理していたのですね。
彼ら上級軍人は同じカピクル軍団の出身者の中でも支配下に入った地方領主や貴族・騎士階級など身分の高いものが人質的にオスマン家の小姓として送られたものが多く、奴隷ではありますが宮廷内で教育をうけるなど最初から出世の道が開けていました。そして地方職を勤め上げた者は宮廷に呼び戻され、今度は中央官僚として帝国全体の統治に携わるようになってゆきます。最終的に大宰相という最高位にまでこの出世の道は開けていたのですから、ここまでくると奴隷という言葉は形式的なものに過ぎませんね。
ちなみに、16世紀までに宰相職に就いたもののおよそ70%前後がギリシア系・ビザンツ系から出ており、これは地方の管理職まで同じような比率だったでしょうから、オスマンはもう実質トルコ系の統治国家とは言えなくなって来ていたのが伺えます。


イェニチェリ01  
※ジェンティーレ・ベッリーニ作のイェニチェリ像 (大英博物館蔵)


3.常備軍の創設
これも先ほどから出ているカピクル軍団の一部が発展したものと考えられるでしょうか。
いわゆるイェニチェリ軍団の創設です。
ムラト1世の代ではまだデヴシルメ制による税の一環としての徴発は行われていませんでしたが、拡大期に伴ってギリシア・スラヴ系の若者が大量に奴隷として入ってきており、ムラト1世は自分の取り分からこの者たちをオスマン家の親衛隊として組織したのですね。設立当初のイェニチェリ軍団の人数は約2000人。後に8000→12000→20000→50000人と拡大を続けるこの軍団ですが、14世紀の時点では2000人でも充分中核部隊として機能したでしょう。後に火器が導入されてくるようになると彼らもまた銃火器を携え、砲兵隊などの諸編成とともにオスマンの最精鋭として恐れられる存在となってきます。
イェニチェリの発展についてはまた別の回で書きますのでとりあえずここまでに。


イェニチェリ02



こうして見ると、2と3は源流ではほぼ同一のものですね。
ムラト1世の代でバルカン方面へ拡大した結果、オスマンはトルコ系の軍事集団としての色合いはどんどん薄くなり、どちらかというとギリシア系・ビザンツ系としてもいいような人材が豊富に出てくるようになります。
次回はムラト1世期の拡大してゆく様子とその戦いについて。



おしまい。


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  1. 2009/06/12(金) 07:45:19|
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