打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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オスマン家の肖像 その7

勝利と挫折と


興隆期のオスマン家を見てゆくシリーズの7回目。
先代のオルハン時代にダーダネルス海峡を渡り、橋頭堡となる地を獲得して以降、
ムラト1世時代のオスマンはバルカン/アナトリア両面へ拡大してゆきます。


(遷都)
まず1362年、恐らくまだ兄弟間での争いに決着が付いていなかった時期になりますがムラト1世はバルカン方面の拠点、エディルネを攻略します。
このエディルネ、古代ローマの皇帝ハドリアヌスが建設したハドリアノポリスに遡る古都で、その後アドリアノープル→エディルネと多少呼び方は変わっていますが古代から中世に移ってもこの地方ではテッサロニキと並んでコンスタンティノープルに次ぐ重要都市でした。
ここをわずかな期間で落としたムラト1世、恐らくかなり地政学的なセンスに優れていたのでしょう、直ちにここエディルネをオスマン侯国の首都としてブルサから移転させたのです。確かにバルカン方面へ進出していく過程において、海峡のこっち側に拠点がある事で速やかな行動に移れる様になるのでしょうが、それ以上に同じ内陸でも山地のブルサと平野部で河川に隣接したエディルネとでは交通上の利便性が全く違っていました。またエディルネは古代ローマ帝国が建設した都市である以上、ここを通るローマ街道網は1000年が経過したこの時代でもまだ相当に機能していたと思われます。

実際、エディルネへ進出して以降のムラト1世はすさまじい速度でバルカン諸国を攻略して行ったのでした。まず1371年までに北と西で隣接するブルガリアとセルビアの諸侯を破り、ムラト1世はこの周辺諸侯たちを服従させます。
その後、この従属させたセルビア・ブルガリア系の諸侯たちにオスマン軍へ参加させることで戦力を強化すると、現在のブルガリア西部、マケドニア、ギリシア方面へ侵攻し、およそ10年ほどのあいだにこの地域をほぼ制圧してしまいます。さらに東のアナトリア半島では南に隣接するゲルミヤン侯国・ハミド侯国を服属させ、アナトリア方面の版図は遂に地中海側へ達するようになって行きました。


(サロニカ攻略!)
そして1384年頃からバルカン方面のもう一つの重要都市の攻略戦に着手したのです。
そう、現在の大航海世界ではサロニカと呼ばれている重要港、テッサロニキを。
このテッサロニキ、かつてはビザンツ帝国の保持していた数少ない拠点でしたが、1381年の時点でビザンツはオスマンに属国として服従していますから攻略戦の時にはもうほとんど放棄される事になったのでしょう。一部でイタリア諸都市の支援が試みられたもののほとんど孤立無援の状況の中、テッサロニキはよく守ったのですがそれでもおよそ4年に渡る攻防戦で落城し、ここにオスマンはエーゲ海の北側をほぼ制圧する事になったのでした。


オスマン1389
※1389年当時の情勢(800×628)


(勝利と終幕~コソヴォの衝撃)
テッサロニキを落として南を固めたムラト1世、その後は北へと進路を移します。
現在のマケドニア・セルビア・アルバニア・ボスニアといった地域ですね。
もともとこの地域は1340~50年代に急速に勢力を伸ばしていたセルビア王国が周辺諸国を従属させるほどの勢威を誇っていましたが、1355年に英傑ステファン・ドウシャンが亡くなるとその影響力は急速に衰え、その跡をムラト1世が率いるオスマンが急伸した状況にあったのですね。
とは言えセルビア南部やボスニア東部といった地域は彼らが勢力を拡大する以前からの旧領であり、1388年からこの地域への出兵を開始したオスマンに対し、流石にまだセルビアとボスニアは抵抗する姿勢を崩していませんでした。
1389年、この両者のあいだでこの時代としては最大規模の会戦が行われます。
後世、コソヴォの戦いと呼ばれたこの会戦、参加諸国は以下の通り。


オスマン側/オスマン侯国
セルビア側/セルビア王国、ボスニア王国、ワラキア大公国


この戦いの詳細はありませんが、結果としてオスマン側が大勝。
しかもこの戦い、オスマンはここで大砲を用いていた可能性が指摘されています。
確実に大砲の使用が確認できるのは1420年代からですが、セルビア・ハンガリー経由で既に1380年代から主に攻城戦での大砲はその存在が確実視されており、13世紀にマグリブで既に使われていたことを考えるとあっても不思議じゃありません。
後世オスマンは大砲の使用でトピックとなる運用実績を示しますが、それはまた後ほど。

いっぽうセルビア連合軍はヨーロッパ諸国やイタリアの諸都市からの救援が見込めないまま戦いに臨み、結果としてその対応の悪さから敗北を喫したともいえます。
しかもこの戦いでセルビア王ラザル自身が捕らわれるなどして多くが降伏し、連合軍は壊滅します。この戦いの後、ワラキアとセルビアはオスマンの属国となり、それ以前から多くの諸侯が服従していたブルガリアやマケドニアもまた支配を受け入れるようになって行っただけに、ヨーロッパ史として見ればこの戦いの影響は少なくなかったでしょう。

しかし、この戦いはこれで終わりませんでした。
1389年6月の戦いのあと、投降した諸将や捕虜たちを謁見していたムラト1世が、セルビア貴族のミロシュ・オビリッチという男に刺殺されてしまうという事件が起きたのです。
これまでオスマンでは当主が亡くなるとその跡を巡って兄弟間で数年に渡る争いが起きていただけに、この事件はオスマンだけでなく周辺諸侯にも直ちに広まって行ったかもしれません。しかしこの時、オスマンの陣幕には既に父と共に従軍して大きな功績を立てていた若者の姿がありました。


(バヤズィト登場)
そう、それがまだ20代後半だったと思われるバヤズィト。
父ムラトが暗殺された後、バヤズィトは直ちに即位を宣言します。
その果敢で迅速な行動ぶりから 『稲妻』 とあだ名されたバヤジット1世、
父が暗殺されるという衝撃からいち早く立ち直った彼が鮮やかな処理を見せたのでした
まずセルビアへの報復として、捕虜としていたセルビア王ラザルを処刑。
更に争いの原因となりそうな弟たちをも殺害し、その上でオスマン家の後継者としての地位に就いたのです。
これが、オスマン初期の最大版図を築いた英傑・バヤズィト1世即位の瞬間でした。
オスマン家ではこのあとの代でも即位後のスルタンが兄弟親族を粛清するというのはよく見られるのですが、争いが起こる前に処理するというのはこのバヤズィト1世が初めてだったかも知れません。

次回はこのオスマン初期に現れた英傑・バヤズィト1世の波乱の生涯を追って行きます。



おしまい。


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  1. 2009/06/14(日) 10:49:30|
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