打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

オスマン家の肖像 その8

十字軍撃破!


興隆期のオスマン家を見てゆくシリーズの8回目。
全体としては中盤、オスマン朝としては初期最後の君主となる、オスマン第4代の雷光王・バヤズィトの波乱の生涯を追ってゆきます。


(アナトリア制覇)
1389年に父ムラト暗殺の跡を受けて立ったバヤズィト1世。
即位後直ちに動いた辺りはさすがに稲妻と称されるだけの事はありました。
翌1390年に掛けて、セルビアから取って返したバヤズィト1世はアナトリア半島に渡ります。
このアナトリア上陸、まだ服属するか態度を明らかにしていなかった国内の諸侯を平定する目的もあったでしょうが、彼の動きはそれに留まりませんでした。
下に地図を入れて置きますね。
これを見ると明らかですが、遂にアナトリア南西部に残っていたアイドゥン侯国やメンテシェ侯国を支配下に収め、更に東へと遠征して黒海沿岸のジャンダル侯国などわずか1~2年程でアナトリア半島の東側までほとんど制圧してしまったのでした。
この背景としては、アナトリア半島と境を接するシリア・アルメニア方面でマムルーク朝が衰退期に向かいイル・ハン国が滅亡するなど大きく衰えていた事、それからカスピ海の北~西を収めていたキプチャック・ハン国や中央アジアのチャガタイ・ハン国もまた分裂していた事など、14世紀末の中央アジアやオリエント・アラブの諸国が衰退・混乱期に入っていた事が影響しているかもしれません。ただまあ、この中央アジア~オリエントの分裂とバヤズィト1世の東征とが、この頃既にイラン方面にまで進出していたティムールを呼び寄せる直接の原因になっていたのですが・・・。



(十字軍の結成へ)
こうしてアナトリア半島全域に支配の手を拡げ、バルカン方面ではセルビア・ブルガリア・マケドニアも従属下に置いていたバヤズィト1世率いるオスマン侯国。
1390年以降になるとその矛先は既に支配下となっていたビザンツ帝国にも及び、
首都コンスタンティノープルがたびたび包囲されるまでになっていました。

この状況はさすがにヨーロッパ諸国でも危機感を覚えたのでしょう。
なにしろ現在の国名で言うとセルビア・ブルガリア・マケドニア・ルーマニア南部が支配下となってるのですから、残るハンガリー・ボスニア・クロアチアがオスマンの手に落ちたらもうオーストリアや北イタリアが完全にオスマンと隣接する事になります。そもそも先代ムラトの時代に戦場となったコソヴォからウィーンまでは直線で6~700kmそこそこなわけで、既にオスマンは騎兵主体だったらいつでも遠征できる、そんな距離だったのです。実際、この頃のイスラム教の影響力はオスマンの伸張を背景として西はハンガリー・北はドナウ川を越えて黒海の北岸方向にも及び始めており、バルカン~東欧をめぐる情勢は国対国の世俗の争いだけでなく、キリスト教圏対イスラム教圏のせめぎ合いともなっていたのでした。

1393年になると、遂にヨーロッパ諸国が動き始めます。
オスマン支配下に転落していたブルガリア公子の救援要請がハンガリー王ジギスムントに飛んだのをきっかけとして、ジギスムントの正式の要請という形でこの危機的状況を救うべく、数年の準備期間を経て遂に西欧諸国が立ったのです。
この時、対オスマン十字軍に動いた諸国は以下の通り。


ハンガリー王国
神聖ローマ帝国
ポーランド王国
ワラキア大公国
フランス王国
ヴェネツィア共和国
ジェノヴァ共和国
その他
マルタ騎士団
スイス兵
イングランド兵
スコットランド兵


数万にも膨れ上がった連合軍の主将となったのは、後に神聖ローマ帝国の皇帝に選出されるハンガリー王ジギスムント。彼と西欧諸国やイタリアの都市国家との粘り強い交渉の結果、これほど多くの協力者を得る事に成功したのです。何しろ援軍を送った各国の中にはかなりの上級貴族・王侯クラスが含まれていたのですから。特にフランスはこの時の剛勇ぶりから『無怖侯』と呼ばれた後のブールゴーニュ公ジャンみずから1万強を率いて参戦、更に当時著名な武将だったブシコー元帥も参戦するなど、百年戦争の休戦期だった事もあってかなり本気で救援に出ていました。
またこの連合軍にはオスマンとたびたび戦い、火器と騎兵を相手にした戦術に長けていたワラキア公ミルチャという将もおり、ある意味宗派/十字軍をいう枠を超えてイスラム世界と対峙する姿が見て取れます。


(ニコポリスの決戦)
1396年夏、こうしてウィーンを経てハンガリーで合流した十字軍はドナウ川沿いに下って行き、ワラキアに入りつつオスマンの動向を探りつつコンスタンティノープルに接近してゆきます。
一方、それまでコンスタンティノープルを包囲していたオスマン側も、包囲を解いてバヤズィト自ら2万強の軍勢を率いてブルガリア~ワラキア方面へ向かいます。つまり、かなり早い段階で十字軍側の動きはバヤズィト1世に把握されていたのですね。
両軍が遭遇したのは、ドナウ川下流域でブルガリアとワラキア(ルーマニア)の境にある町ニコポリスの近郊。7世紀のヘラクリウス帝によって創建されたこの町は現在では小ぢんまりとした村といった風情ですが、当時では小さいながらも堅固な城壁に囲まれた城塞都市で、ドナウ川と支流のオスム川の合流地点という事もあって物資集積の拠点となっていました。

先にニコポリスに着いたのは十字軍側。
ニコポリスの前面に馬防柵を設置した十字軍は前段にブルゴーニュ公率いるフランス騎兵、後段にハンガリー王ジギスムント率いるドイツ・ハンガリー・ポーランド兵と並び、左右にワラキア公やスイス兵・イングランド兵・マルタ騎士団他を、更にニコポリス後方のドナウ川にジェノヴァとヴェネツィア海軍を配置した3段の横隊という布陣で臨みます。
これに対してオスマン側は正面の馬防柵を避けるように向かって左にセルビア騎兵・アナトリア騎兵らの騎馬隊を並べ、馬防柵のある中央に砲兵隊とイェニチェリ軍団、その後方にルーマニア騎兵、そして最後方にバヤズィトの本陣が控えるという、大きく2列の縦隊に布陣してこれに臨みます。

1396年9月25日に行われたこの戦い、結果はというとオスマン軍の圧勝。
詳しい経過は不明ですが、馬防柵を迂回したオスマン軍左翼のセルビア・トルコ・ルーマニア騎兵が左から回り込んで十字軍の側面を衝くいっぽう、正面のオスマン砲兵が前面のフランス騎兵に砲撃してこれを動揺させた後にイェニチェリ軍団とトルコ兵というオスマンの中核部隊が圧迫するという包囲攻撃を行うことで、十字軍の左右を壊走させたと見られています。

しかしこの段階ではまだ勝負は付いていませんでした。
正面にいたフランス騎兵というかブールゴーニュ公ジャンがまだ頑張っていて、左右の諸国兵が逃げてしまっているにも関わらずフランス兵だけはイェニチェリの猛攻を凌いでいたのですね。
まだ若かったブールゴーニュ公ジャン、剛勇なのか引き際を知らなかったのか、結局総大将のハンガリー王が離脱した事を見届けてからオスマン軍に降伏し、配下のフランス兵と一緒にいたイングランド兵合わせて1万近い捕虜となって大敗したのでした。

この戦い以降、ヨーロッパの諸国はオスマン軍と平地で正面切って戦う事を避け続けます。
ハンガリーが落ち、ウィーンがオスマンの攻撃を受けるようになるのはこの約135年後、スレイマン大帝の時代となってからですが、既にこの14世紀末の時点で東ヨーロッパの形勢は決していたのかもしれません。またブルガリアは完全にオスマンの支配下となり、以後の500年にわたって独立国として甦る事はありませんでした。またニコポリスで十字軍を破り多くの捕虜を得たバヤズィト1世は、この功によりスルタンの称号を得ます。オスマン初期の最大版図を築いたこの時期をもって侯国というよりオスマン帝国と呼ぶべきかも知れませんね。


オスマン1396
※1396年のオスマン関係図。(W1000) 
  勢力圏が拡がって来てるので地図の原寸もだんだん大きく切り取っていく事にw


(東方の狼現る)
こうしてヨーロッパ諸国の救援軍を退けたバヤズィト1世。
セルビア・ブルガリア・ワラキアの支配権を固めたあと、アナトリア半島の東端にあるカラマン候国などイスラム系・モンゴル系の諸侯をも支配下におさめつつ、いよいよコンスタンティノープルを落とすべく再び包囲に向かいます。
このままではビザンツ帝国の命運も尽きたと誰もが思ったかも知れません。

しかしこの時、遥か東方では異変が起きていました。
それまで中央アジアに割拠していたチャガタイ・ハン国を事実上制圧するや、そこからイランへ侵入したのちわずか数年という凄まじいスピードでイラクのバグダッドまで落とし、ニコポリスの戦いがあった1396年時点では既に黒海東岸のキプチャク・ハン国をも下してアナトリア半島と隣接するグルジア・アルメニアまで進出していたある勢力、いや一人の英傑が・・・。
そう、モンゴル族が生んだ最後の大物とも言うべきティムールが、
この頃にはオスマンと境を接する寸前にまで到達していたのです。


バヤズィトとティムール、
テュルク/モンゴル族という草原の民から生まれた2人の英傑による直接対決という、
中世ユーラシアにおける屈指の決戦がもうすぐそこまで迫っていました。



おしまい。


FC2ランキング02
 
↑次回は、決戦!

テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム

  1. 2009/06/21(日) 18:31:30|
  2. オスマン家の肖像
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<オスマン家の肖像 その9 | ホーム | ION対Yukon、決戦の夏>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://hamilcar.blog64.fc2.com/tb.php/823-86b4e2a3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

このブログはリンクフリーです。

ハミルカル・バルカ/メルカルト

Author:ハミルカル・バルカ/メルカルト
サーバー:Eos
所属  :イスパ
商会  :たまごのしろ/世界の船窓から
Twitter :hamilcar_notos

FC2カウンター

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
オンラインゲーム
372位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
大航海時代オンライン
13位
アクセスランキングを見る>>

最近の記事

カテゴリー

最近のコメント

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

最近のトラックバック

ブログ内検索

RSSフィード

RSSリンクの表示

著作権について

大航海時代 Online』に関わる著作権、その他一切の知的財産権は、 株式会社コーエーテクモゲームスに帰属します。 このホームページに掲載している『大航海時代 Online』の画像は、 『大航海時代 Online』公式サイトにおいて使用許諾が明示されているもの、もしくは『大航海時代 Online』の有効なアカウントを所有しているユーザーが株式会社コーエーテクモゲームスから使用許諾を受けたものです。