打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

オスマン家の肖像 その11

混沌


興隆期のオスマン家を見てゆくシリーズの11回目。

1402年夏のアンカラの戦いに敗れ、当主バヤズィト1世を失ったオスマン家。
これによりオスマン帝国は一時的ながら瓦解し、それまで支配していた諸侯の多くはオスマン家から離反するという、興隆期の中ではほとんど唯一の停滞を経験する事になります。
ところで、前回の時点で既に登場しているように、バヤズィトには成長した息子たちがいましたが、彼らはその後どうなったでしょう。今回はそんな、歴史の本流では普段あまり語られる事のない停滞期におけるオスマン再統一の動きを見てゆくことにします。


(肖像)
長男スレイマン
アンカラの戦いでセルビア王ステファンに守られて無事戦場から離脱したスレイマンは、その後バルカン地方へ渡り首都エディルネを拠点として再起を始めます。
長男であり、首都に居を定めたスレイマンは当然のように後継者としてスルタンを称しますが、アンカラでの敗北と確固とした当主の不在はそれまで支配していたバルカン諸侯の離反を招いており、スレイマンは兄弟達との戦い以前にまず周辺諸侯を再度支配下に置く事から始めなければならなかったのでした。
ただこの再征服活動、盟友となったセルビア王ステファンの支援もあり、数年の内にスレイマンはバルカン諸地方のある程度をその影響下に置く事に成功しています。記録では温和な人物でやや覇気と決断力に乏しく、それでいて奢侈なものを好む指導者だったとされているスレイマンですが、セルビアの支援以外にもまだそれまでのオスマン家の威光は残っていたのかもしれませんね。まあこの辺はスレイマンの実力というより地と人の利を得ていただけな気がしないでもないけれども・・。


次男ムサ
アンカラの戦いで捕らえられたムサ、ムスタファ両王子のうち、末っ子のムスタファ王子はバヤズィトの死去と前後して捕虜のまま亡くなった、もしくは行方不明になります。生き残ったムサ王子は外見が父に似ていたように武勇は優れていたようですが、一方では粗暴な行動が目立ち父の生存中にはたびたび支配地での問題を起こしていたとされています。このムサ王子が拠ったのはアンカラの西南西にあるキュタヤの町。ただし彼が支配を進めるべきアナトリア南西部は最後までオスマン家の支配を拒んできた地域ですから、そこから兄弟たちとカチ合わないように勢力を広げるのはちょっと大変だったかもしれません。


三男メフメト
兄弟の中では一番軍人らしくないのがこの人。ただし知性と冷静な性格に基づく判断はほとんど間違いがなく、また人となりも破綻がなく周囲の者を信頼させる性格をしていたようで、父の在世中からアナトリア中~北部地方の統治を任されていた事からも政治家・外交家としての資質を見せていたのがこのメフメトでした。軍事面ではアンカラの戦いでは周囲の諸侯が次々と裏切る中で自分の周囲はしっかり固め、兄が離脱するのを見届けてから撤退した辺り、武人では無いにしろ度胸と言う点では侮れない物をもっていたようです。
彼が根拠地としたのはアナトリア半島の北東部。首都エディルネからは最も遠い場所になりますが、ティムールが去った後のこの地域は逆に安全圏となった事もあり、地勢的には意外に悪くなかったかも知れません。なにしろ結果を先にいえば、彼がこの10年に及ぶ兄弟間の抗争で最終的な勝利を収めるのですから。


四男イサ
アンカラの戦いで中央の本隊にいながらオスマン家で唯一無事に離脱できたイサ王子。
奮戦していた父親をほっぽり出して逃げたことはともかく、ティムール戦役後にブルサ周辺に拠って再起を図っていた彼の元にはティムールから送り返されたバヤズィトの遺体が届けられたとも云われ、旧都ブルサを守る彼は旧オスマン領の真ん中というそれなりに重要なポジションにいたとも云えそう。但しこのイサ王子、上の3王子の抗争の中では見るべきところなく、いつの間にか姿を消していますからこの先の抗争で特に記述する事はありません。


オスマン1405


(経過)
さて、生き残ったこの4人の王子たち、やや意外ながら独立して以後は互いに争いつつも着実に周辺の諸侯を再び従えて行きます。これはオスマン家が確立していた支配から統治までのプロセス構築が他の諸国・諸侯より優れていたのが原因なのかちょっと不明なのですが、結果としてバルカン~アナトリアは2度支配を受ける過程を経たことになり、かえってその後のオスマン家の支配は固まった気配があるのはちょっと面白いなと思います。さて、そんなこんなで2~3年もすると結構勢力を拡大していたオスマン家の兄弟たち。
1405年頃になるとある動きが見られるようになります。

まず、ブルサに拠っていたイサ王子はメフメトによりブルサを落とされて脱落。
次に勢力を拡大したメフメトに対してスレイマン陣営が出兵。
アンカラの近郊にまで進出してきた兄スレイマンに対して、メフメトは武勇に優れた次兄ムサ王子と手を組み、スレイマンをアナトリアから撤退させます。
これが第一段階。

この後ムサ王子はメフメトの支援の下にダーダネルス海峡を渡り、この頃から不穏になっていたブルガリア・ワラキア方面へ出兵します。
ブルガリアに至ったムサ王子、不服従を示した一部のブルガリア貴族を破るやドナウ川も渡ってワラキアへ侵攻。黒海沿岸をどんどん北上して行き、わずか2年ほどでワラキア東部を支配下に置くようになります。ムサはワラキアの王女と結婚してワラキア諸侯を参加に収めると今度は南に進路を転じて兄スレイマンのいるエディルネ目指して軍を動かしたのでした。
そしてこれに呼応するかのようにメフメトはアナトリア西部への侵攻を開始し、スレイマンとムサが争っているうちにアナトリア半島の中部~西部を押さえることに成功します。その後、ヨーロッパ側で起きたムサとスレイマンの対決は1411年に次男ムサが勝利し、スレイマンはムサに殺されて生き残ったのはヨーロッパ側にムサ王子、アナトリア側にメフメト王子という2強体制に集約されます。
これが抗争の第二段階。

そして1413年、マケドニア地方で勢力を持っていた有力家門のミハログル家がムサを裏切ったのを契機として、メフメトはセルビアやビザンツ帝国も動かしてムサを孤立させた上でバルカン方面に出兵。ムサを追い詰めたメフメトが1413年の7月にソフィアでムサを倒し、ここにメフメトが10年に及ぶ内戦に勝ち残ります。
これにより彼がオスマン5代目・メフメト1世となったのでした。


(再生)
オスマン家を再統一したメフメト1世、その後何回か起きた反乱を鎮圧する過程でかつてのオスマン家の支配地域を取り戻して行き、1421年に死ぬまでにアナトリア東部やバルカン西部を除くかなりの地域をオスマン家の旗の下に収めることに成功したのでした。
こうした速やかな再統一が成ったあと、彼の息子ムラト2世の代でオスマン帝国は更に拡大路線へと向かってゆく事になります。




おしまい。


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  1. 2009/07/03(金) 07:28:50|
  2. オスマン家の肖像
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
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コメント

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
  1. 2013/11/26(火) 11:30:18 |
  2. URL |
  3. 職務経歴書の書き方の見本 #-
  4. [ 編集]

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