打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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オスマン家の肖像 その12

終わりの始まり


興隆期のオスマン家を見てゆくシリーズの12回目。
予定の半分まで来て、いよいよこの回から復活したオスマン帝国の再拡大が始まります。
副題とした『終わり』はいったい何に対しての事だったのでしょうか。
ここから数回でその辺りの動きを見てゆくとします。


(ヨーロッパ東西の変化)
1421年、帝国を再統一したメフメト1世の後を受けて即位したのはメフメトの子ムラト2世。既にヨーロッパではその6年前にポルトガルのセウタ攻略が成り、エンリケ航海王子による西アフリカ事業が動き出した事で1419年マディラ再発見から西アフリカ探検へと乗り出してゆく、そんな時期に当たっていました。
ヨーロッパの西端ではこうして外洋に乗り出す勢力が現れていた一方で、その東端ではイスラム勢力による攻撃により内陸ヨーロッパまで危機に晒されるという、東西でなんとも真逆な状況にあったのはちょっと興味深いですね。個人的には、オスマンなどイスラム勢の伸張で変動した東地中海の交易争いで脱落したジェノヴァ人によるリアクションが、エンリケの西アフリカ事業にも多少影響を与えていた気がします。
まあそんな西ヨーロッパの情勢とは関係なく、恐らくここから数代続くオスマン帝国のスルタンたちは、ヨーロッパ人にとって災厄以外の何物でもないと思う位の軍事的成功を収めてゆきます。



(ムラト2世)
さてこの即位したムラト2世、彼がその生涯の主戦場としたのは東ヨーロッパでした。
まず即位直後の1420年代、先代メフメトの兄弟だったムスタファを詐称した人物をビザンツ帝国が後押しした事による内乱が勃発します。ムラトは大軍を率いてこのムスタファを討つや、その後1424年には同盟していたビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに迫り、この時ビザンツ皇帝ヨハネス8世はムラトに臣従し、莫大な賠償金を支払う事でなんとか滅亡を逃れたのでした。
続く1425年、アナトリアに出兵したムラトは西アナトリア諸侯を平定、アナトリア中部の地中海側にあってマムルーク朝との国境にあたるカラマン侯国を除いてバヤズィト時代の旧領をほぼ取り戻します。こうして即位から数年の内に東を平定したムラト2世、翌1426年以降その治世のほとんどをヨーロッパ側に振り向けてきます。

1425年、アナトリア再征服
1428年、セルビアを再び属国とする。
1430年、テッサロニキ(サロニカ)攻略。
1438年、セルビア~アルバニア遠征、首都スメジェレヴォ攻略

これにより、バルカン方面ではセルビア・アルバニアがオスマンの勢力圏に組み込まれます。この両国はこの後ふたたびムラトに反旗を翻すのですが、ともかくこれでドナウ川流域で残ったのはハンガリー以西の国しかなくなった事を意味していました。


(ハンガリー立つ)
その後、救援を請うビザンツ帝国に応えたのか、東ヨーロッパの情勢が動き出します。
1440年までにセルビア・アルバニア・ブルガリア・ワラキアまでその勢力を拡げていたムラト2世に対し、
ようやくこの時代でも知られる強国と優れた指導者が立ち向かってくるようになったのですね。
その国の名はハンガリー。
誇り高きマジャール人の末裔であるハンガリー人は元々当時のヨーロッパでは最大の騎馬民族であり、
かつては最盛期のモンゴル帝国ですら一目置いていた強国でした。
そしてこの時代に登場した一指導者により、
ハンガリーは再びオスマンと正面から激闘を繰り広げる事になります。
その人の名は、ヤーノシュ・フニャディ。
このヤーノシュの息子が後にハンガリー王からオーストリア大公を兼ね、ここでも人物伝で取り上げたほどの偉大な業績を挙げるマーチャーシュ・コルヴィヌスですから、15世紀当時のハンガリーは東ヨーロッパ屈指の強国としての片鱗を見せ始めたといっても良いかもしれません。



(ヴァルナ十字軍)
これ、1440~43年までの前哨戦と、そこから発生して大規模な会戦となった1444年のヴァルナの戦いをまとめて呼称する事象と見るべきでしょうか。
オスマンが久々に外敵と正面から戦い、西へと前進する決定的な結果を得た重要な戦いです。そしてまたその10年後に起こった、中世を終わらせる事件の直接の契機のひとつにも・・・。

ワラキアから父ヴォイクの代でハンガリーに移住した新興領主であったフニャディ家のヤーノシュ。父ヴォイクが近衛騎士だった事から幼いときからハンガリーの宮廷で育ち、1437年にハプスブルク家の王が亡くなるとポーランドから迎えた新王ウラースロー1世の元で昇進を重ね、その後トランシルヴァニア領やテメシュの侯領を預かるようになるなど、一躍ハンガリーの有力諸侯として頭角を現してきます。
更に1440年代になるとトランシルヴァニア公となってゆくヤーノシュ、40年、42年、43年と続けて進入して来たオスマン軍と対峙し、これと互角以上に戦います

1440年、
城塞都市ベオグラードをムラト2世が10倍の兵力で包囲するも攻略に失敗し撤退。

1441~42年、
トランシルヴァニアに侵入したオスマン軍、ヤーノシュのハンガリー軍に撃退される。

1443年、
ヤーノシュが逆にブルガリアまで進出、ソフィアまで攻略したあとオスマンと和睦。


こんな感じで、それまで敵無しの勢いで周辺国を従えて来たムラト2世が、ハンガリーに至って初めて強敵とぶつかり足止めどころか反撃を受けている様子が伺えます。
そしてここで、ムラト2世はなぜか最初の退位を行い、オスマン家の家督とスルタン位を息子でまだ12歳だったメフメト2世に譲ります。この1回目の退位はメフメト2世を副王とした共同統治だったとする説もありますが、結果としてオスマン家の退潮と見て取ったヨーロッパ諸国はこれを好機として遂に再び十字軍が動き出したのでした。

1444年、
ヤーノシュを実質の軍事指導者とする東ヨーロッパの連合軍が結成されます。

ハンガリー王国
ポーランド王国
ワラキア大公国
ボヘミア
セルビア
神聖ローマ帝国
クロアチア
リトアニアなど、合計約2万



ここでは書きませんが、1410~1430年代に東ヨーロッパで起きていたフス戦争の影響が何故かこの陣容ではもう見られませんね。但し、この戦争で登場した装甲馬車を使ったワゴン陣地と火器を集中運用する戦術はここでも活かされ、資料では数百台もの装甲馬車がこのヴァルナ十字軍とその後の戦いに投入されていたとされます。
ハンガリーの技師がこの時代では特に優れた大砲を製造・運用していたこともありますが、既に戦争が銃と大砲をもって争われるものに変化していたのはちょっと注目点でしょうか。

このヨーロッパ連合軍、いわゆるヴァルナ十字軍ですが、ハンガリーで集結した後ドナウ川沿いに下って行き、現在のブルガリアで黒海沿岸にあるヴァルナ近郊まで進出した所でムラト2世率いるオスマン軍と激突します。
この当時のオスマン軍ではこの頃既にギリシア系諸国へ少年たちを徴発して育てたイェニチェリ軍団が再興・拡大しつつあり、その数はこの時代で10000人を超えようとしていました。
そして、ヨーロッパ勢が侵攻してくる情報は事前にメフメト2世と退位していたムラト2世のもとに伝わっており、ムラト2世はここで息子の要請で復位することになります。



(ヴァルナの戦い)
約2万を集めたヨーロッパ連合軍に対し、ムラト2世はイェニチェリ軍団1万を主力に砲兵隊・アナトリア兵・バルカン諸兵などあわせて5万前後の軍を持って迎え撃ちます。
この戦いの経過についての詳細は書きませんが、ヤーノシュの巧みな指揮により当初かなり優勢だったヨーロッパ連合軍が、なぜかイェニチェリ軍団に正面から突撃したポーランド王の戦死を契機としてポーランド軍が撃破されると、戦局は一気にオスマン優勢へと傾いたとされます。
結局、両軍ともにかなりの損害を出してこの戦いは終結するのですが、勝敗を付けるとすればオスマンの勝利とすべきでしょう。オスマン側が防衛に成功した事、騎兵主体の相手から多数の奴隷・戦利品を獲得して東ヨーロッパ諸国の騎兵力が大きく落込んだ事を見ると、その後の戦いに対しても大きな影響を与えていたのですから。


(戦後)
この後、東ヨーロッパ諸国は再びオスマンの支配下に降ってゆきます。

1446年、ムラト2世再び退位する。
1448年、ヤーノシュ率いる5万のハンガリー軍をコソヴォで撃破
1449年、反乱を起こしたアルバニアを平定。
1451年、ムラト2世が死去

中にはオスマンの宮廷に育ちながらアルバニア独立のために反抗したスカンデル・ベグのような存在もいましたが、1451年に死去するまでにムラト2世はバヤズィト1世が築いた15世紀初頭の最大版図をほぼ取り戻すところまでオスマン帝国を復興させる事に成功します。
そしてこのムラト2世、2度に渡って次世代のメフメトに跡を継がせた事で、オスマン家でこれまで当主の死後に必ず起こっていた後継争いを回避し、若い当主がその治世の最初から外征に乗り出すお膳立てをしたのでした。

これが、その後で起こる世界史上の重大事件に直接繋がってくる事になります。
長くなってきたので続きは次回に。




おしまい。


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↑次回は遂にあの国が・・・。

テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム

  1. 2009/07/07(火) 07:26:16|
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