打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

オスマン家の肖像 その15

征服王の軌跡


1453年にコンスタンティノープルを攻略し、ビザンツ帝国を滅亡させたメフメト2世。
しかしそれは30年に及ぶ彼の戦いの生涯のスタートに過ぎませんでした。
それからメフメトは戦争以外にも軍制・税制・人事組織・都市開発など、ものすごい多岐に渡って事績を残していますが、これは本シリーズとは別に短編で書きたいと思います
まあそれくらいオスマン史の中では巨人と言っていいのがメフメト2世。
彼の事績を短編で語るには余りに巨大なので箇条書きでいきますね。


(年表)
1453年 コンスタンティノープル攻略、首都を移転。
1453年 大宰相カリル・パシャを不正容疑で粛清し、中央集権への道を開く。
1454年 セルビア侵攻。5万人の捕虜を連行してイスタンブール近郊に強制居住させる。
1455年 ハンガリーのヤーノシュ・フニャディとセルビアで2年に渡って戦う
1456年 ベオグラード攻略戦を敢行するも失敗、
    ヤーノシュの計略にはまったイェニチェリ軍団が敗れて撤退に追い込まれる。
1457年 ヤーノシュが十字軍編成の直前にペストで亡くなる。
1459年 セルビア南部がオスマンの完全支配下に。
1460年 ペロポネソス半島に侵攻し、旧ビザンツ領とアテネを攻略する。
1461年 トレビゾント帝国を滅亡させる。(これで旧ビザンツ系勢力は完全滅亡)
1463年 ジェノバ領のレスボス島を全滅させ、ジェノヴァの衰退が決定的となる。
1463年 ヴェネツィアがオスマンと完全に敵対関係に入り、
    アルバニア・プレヴェザ・レパント方面のオスマン抵抗勢力を支援するようになる。
1464年 ボスニア王ステファンを処刑しオスマン支配下とする。
1464年 ハンガリーの新王マーチャーシュ・コルヴィヌスがボスニア北部を解放。
1467年 ヘルツェゴビナをオスマン支配下とする。
1468年 アルバニアの指導者スカンデル・ベクが死去。
1468年 カラマン侯国を完全併合し、支配領域をユーフラテス川まで拡げる。


ここまでほぼ毎年のように出兵した結果、オスマンの支配領域は西はベオグラード・北はブルガリア・南はペロポネソス半島・東はユーフラテス川まで拡がり、現在の国名ではトルコ・ギリシャ・マケドニア・アルバニア・ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア・ブルガリアに相当する広大な領域にまでなっていました。しかし近隣の勢力をあらかた倒した結果、今度はいよいよ難敵たちが立ちはだかってくる事になったのです。メフメトの軍歴はまだ10年以上残っており、その最大の危機が迫っていました。


(メフメト包囲網)
1468年、危機感を募らせたオスマンの周辺諸国が一斉に反オスマンに立つという密約が成ります。
①アナトリア東端のアク・コンユル朝はカラマン侯国の遺児を迎えてアナトリアへ侵攻
②ヴェネツィアはペロポネソス半島でオスマンに抵抗していた勢力を支援
③ロードス島の騎士団がエーゲ海に軍船を出しトルコ系の輸送船を襲う
④ハンガリー軍はマーチャーシュ王がセルビアへ侵攻
⑤アルバニア軍は自国内に駐屯するトルコ軍を攻撃


5方面からの同時攻撃、これ日本人的には1570年代の信長包囲網を連想させますね。
この密約を裏で糸を引いていたのは恐らくヴェネツィア。
この時のヴェネツィアは拠点だったコルフ島に近いプレヴェザやアルバニアだけでなく遠くアナトリアやキリキア方面のトゥルクマン系の勢力に武器や物資を供給していますから、かなりヴェネツィアも本気だったと思います。またこれは当時相当に火器の導入が進んでいたイェニチェリ軍団に対抗するには旧式のトルコ騎兵では対抗できないとヴェネツィア側が見ていたのかもしれません。
いっぽうメフメトにとっては個々の力はそれほど脅威ではなかったでしょうが、軍事でも中央集権化を固めつつあった彼にとって、この状況は体が1つしかないのはさぞ歯がゆかったでしょう。

この結構危機的な状況に対し、メフメトはかなり割り切った対応を見せます。
③ロードス騎士団・④ハンガリーは半放置で荒らされるに任せ、セルビア南部だけ防衛。
②ペロポネソス半島の勢力もヴェネツィア海軍の補給を止められないので現地のパシャに命じて防衛だけに専念。
⑤アルバニア軍へは在地のイスラム騎士階級に任せて制圧と要塞攻略を続行。

こうしておいてから、メフメト自身はイェニチェリ軍団を率いてアナトリア半島へ渡りトゥルクマン勢力の掃討に掛かります。つまり当面の強敵と思われるハンガリーの陸軍とヴェネツィアの海軍、それから小なりとも堅固に要塞化されたロードスの騎士団は避けつつ、彼らに支援を受けた勢力へは防衛と掃討に、そして同じトルコ系勢力の反攻のみ徹底的に叩くという各個撃破に出たと言えましょう。
そして実際、メフメトはこれにより包囲網を破って危機を脱します。
1468年にトゥルクマン勢力を撃破し、ユーフラテス川までの国境を確保。

ここからメフメトの反撃が始まります。
そしてそれは、かつて大航海時代Online上でも屈指の評価を得た、
あの一連の歴史LIVEイベントの遠因ともなったのです。


(ネグロポンテ陥落!)
オスマン包囲網を打ち破ったメフメト2世。
残る強敵たちとの戦いでは自ら指揮を取る彼の姿がありました。

1470年、ペロポネソス半島を南下した10数万の軍勢と250隻もの艦隊からなるオスマン軍はエーゲ海最大の島でヴェネツィア海軍の一大拠点となっていたネグロポンテ島(エボイア島)に襲いかかります。
ネグロポンテ島はアテネのすぐ北東にある巨大な島で、面積3885平方kmは日本で最大の沖縄島の3倍以上で、埼玉県とほぼ同面積ですね。
この時代のヴェネツィア海軍は全軍では100隻近い軍船を保有していたと見られますが、この時援軍として送られた30隻の艦隊、それからクレタ島・コルフ島などの拠点に散在していた数十隻の艦隊はまだネグロポンテには到着しておらず、地元兵を入れても2000人程度の守備隊しかいない状況では、その数十倍ものオスマン軍に対抗できるだけの戦力は整っていませんでした。

ただ、ネグロポンテ全島の防衛は不可能でも、拠点となる港湾施設を含んだ城塞都市を防衛することはできたのです。1470年の6月に上陸したオスマン軍はメフメトの直接指揮の下でこの城塞に総攻撃をかけますが、なんと16000名もの犠牲者を出してこの第1次攻撃は失敗。7月上旬になって行われた第2次・第3次の総攻撃も耐えたネグロポンテはヴェネツィア海軍の到着を待っていましたが、その間メフメトはギリシャ本土との海峡に小船を並べてその上にはしけを掛けて兵士が直接城壁まで渡れるようにする力技にでます。
大砲も直接投入されたこの第4次以降の戦闘の結果、遂にネグロポンテの総督は7月12日に開城。同じ日にようやく70隻ものヴェネツィア海軍が到着するのですが時遅く、守備隊が全滅したヴェネツィアの拠点ネグロポンテは陥落したのでした。
このネグロポンテの陥落を持ってヴェネツィアとオスマンの対決は決定的なものとなります。その後一時的にヴェネツィア側が通商条約を結ぶ密約がなる時期もありますが、海の上での対決はこの100年後に起きた大海戦まで連綿と続く事になるのです。


(第一次ロードス島攻防戦)
メフメトが攻略目標に選んだのはヴェネツィアだけではありませんでした。
ネグロポンテ島が陥落した10年後、今度はロードス島がその目標となったのです。
1480年、メフメト2世は10万の兵を送り聖ヨハネ騎士団領となっていたロードス島の攻撃を敢行します。しかしこの攻撃は城塞都市ロードスの騎士たちによる頑強な抵抗の結果、3ヶ月もの攻撃を耐え切った聖ヨハネ騎士団の粘り勝ち。
後に1522年のスレイマン大帝の攻撃により陥落するロードス島ですが(大航海世界ではLIVEイベントの結果PC側の防衛が成功して生き残ってるみたいですが^^)この時はキリスト教勢力の勝利に終わったのですね。


オスマン1480
(1480年頃のオスマン勢力図)



こうしてメフメトの30年に及ぶ戦争の時代、オスマン帝国は勝ったり負けたりを繰り返しつつも徐々にその支配領域を拡げ、メフメトが死去した1481年にはイタリア上陸に成功したり黒海北側のクリミア・ハン国も支配下に置くなど、その勢力は最大にまで拡がっていました。

さてこの頃になると、オスマンの相手がこれまでのティムールやハンガリーのような陸上の大国だけでなく、ヴェネツィアのような海洋都市国家やロードス騎士団など海上戦力や島嶼に根を張る勢力も相手となってきている事に気付きますね。そしてそれは、元々が草原の民であるオスマン家の得意とするところではなく、海の人材が必要となっていた事を意味していました。
という事で、次回からちょっとオスマン家以外の人物を取り上げてゆきます。
このシリーズもいよいよ1480年代まで書いてきていますから、
中には大航海世界に直接関係している人物も出てきますよ。



おしまい。


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テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム

  1. 2009/07/23(木) 07:23:54|
  2. オスマン家の肖像
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
<<無事発売されるのだろか | ホーム | 錬金実装メモ その1>>

コメント

四方に次々と勢力を拡大し、その反動で大包囲網が敷かれれば各方面で柔軟に対応して切り抜ける。
さらにそこから再び攻勢に出ようというのですからまさに征服王の面目躍如ですねぇ。
メフメト2世の才能もさることながら、それを実現させられるオスマン勢力のバイタリティには驚かされるばかりです。
で、この勢いはまだ数代に渡って続くんですよね? 新たな局面を迎えてどんな人物が登場するか楽しみです。

(ところで年表の1454年のとこであれ?と思ったんですが如何でしょうか)
  1. 2009/07/24(金) 01:33:26 |
  2. URL |
  3. サラバント #9RWFGrvA
  4. [ 編集]

サラバントさん>>
直しました、セビリアなんか侵攻してないわね・・。

それからコメントの中段部分はかなり重要な指摘と思います。
メフメト2世の事跡については今回までなのですが、本来なら30年も戦争ばっかりしてたら絶対に必要な部分の記述をしてませんね。

そう、戦費の調達をどうやっていたのかという部分。
10万規模の軍を連年動かすとなると、ヨーロッパだと中央集権化が相当に進んだ18世紀末になってようやく実現している数字です。
メフメト2世は治世の初期に得たイスタンブールを首都として都市と市場の形成、貨幣の鋳造、徴税システムの完成など様々な内政策を行っています。またこれを支える人事組織の構築も含めてほぼ1代で完成形まで持っていっています。
メフメト以降のスルタンが彼以上の領域へ乗り出して行けたのもそうした軍事以外の部分での充実が他の国より優れていたからと言ってもたぶん間違いじゃないと思います。
まあこの辺はいずれ単発の歴史ネタとして更新すると思いますのでその時にでも。
  1. 2009/07/24(金) 07:00:18 |
  2. URL |
  3. ハミルカル #-
  4. [ 編集]

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