打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

オスマン家の肖像 その17

激動のオリエント 前編

興隆期のオスマン家を見てゆくシリーズもそろそろ後半へ。
16世紀に入ってヨーロッパでは大航海時代の相次ぐ冒険航海が始まっている時、
地中海の東端でもオスマン家が東に立ちはだかる強敵を迎えての試練が始まろうとしていました。


(15世紀のイラン・イラク・アルメニア)
2回ほど前に書いたメフメト包囲網の段で、アク・コンユル朝(白羊朝)という名をちょろっと出したのを覚えているでしょうか。
この白羊朝、オスマン家とも結構近いテュルク系の部族で形成されたイスラム教徒(トゥルクマーン)の連合政権とも言うべき集団で、ユーフラテス川の上流部分に拡がるアルメニアの一帯でかなりの支配領域を拡げていた有力国家でした。
また同時期に当たる1460年代まではそのすぐ東の現アゼルバイジャン~イラン西部一帯(この地域の主要都市はタブリーズ)には同じくテュルク系のカラ・コンユル朝(黒羊朝)という同じくイスラムの部族政権もありました。しかも当初は黒羊朝がイランの南部やバグダッドを含むイラクの一部まで勢力を拡げて白羊朝を支配下に置くなど隆盛を極めており、その後白羊朝の拡大もあってオスマン家がメフメトの治世の頃は互いに合い争っている状況だったのです。

その後、白羊朝は1469年に黒羊朝を併合した上イラン・イラク方面にまで勢力を伸ばしますが、1470年代にメフメト2世によりアナトリアでは敗れ、更にこの拡大を指導した英主ウズン・ハサンが亡くなると一気にこの地域は内紛・分裂へと向かってしまいます。


オリエント図1460-1510  


(サファヴィー朝の台頭)
そしてその混乱の中から抜け出したのが、同じトゥルクマーンのなかでもイスラム教・シーア派の流れを汲むイスマイールという男でした。イスマイールはトゥルクマーンの部族集団をどんどん取り込んで同じ白羊朝の血を引く有力者たちを倒して行き、1501~1510年くらいまでにはほぼアルメニア・アゼルバイジャン・イランを支配下に収め、タブリーズを首都とする新王朝・サファヴィー朝を開くまでになっていました。

トゥルクマーンの部族は現在のイランやアゼルバイジャンの人々の構成にそれなりの影響を及ぼしていますし、いまのイランで国教となったシーア派が大多数を占めているのはこのサファヴィー朝の存在を抜きにしてはありえませんから、サファヴィー朝の誕生は歴史的にもこの地域の大きなトピックだったと思います。
そしてこのサファヴィー朝、新興国としての拡大のエネルギーを向けたのが、東ではモンゴル系の流れを汲むシャイバーン朝、西では同系部族にあたるオスマン朝とアナトリア諸侯たちでした。
このパワーバランスの中で不安定要素となっていたのがオスマン朝とサファヴィー朝の中間にいたアナトリア東部の諸侯。彼らもまた同じくトゥルクマーンの部族が大多数でしたから、彼らアナトリア諸侯からすれば東に新興ながらも部族社会としての色合いの濃いサファヴィー朝と、どんどんビザンツ色を強くしてしかも中央集権化が著しかったオスマン家のどちらを支持したいかと言ったら、それはオスマンの軍事力の縛りがなかったらサファヴィー朝になびくのは自然な流れだったでしょう。
そして1510年代に入ると、アナトリア諸侯の動向を巡ってオスマン朝とサファヴィー朝のぶつかり合いが深刻な状況となって現れてきたのです。


オリエント図1510


(セリム1世の登場)
1510年頃、アナトリア半島西部でシャークルという宗教指導者の1人がオスマン家に反旗を翻し、これに多くの不満分子が同調する動きが顕在化します。彼らはアナトリア西部の重要都市ブルサを目指して勢力を拡げて行き、これに対応するべく動いていたバヤズィト2世の息子コルクト王子の軍を破ったことで反乱は一気に火が付きます。
その後、オスマン家の有力後継者と見られていたアフメト王子が鎮圧に動き一応これに成功するのですが、その過程でアフメト王子は配下だった大宰相の1人を戦死させてしまうなどの不手際が目だった為、このアフメトはイェニチェリ軍団の信頼を失ってしまう事態となります。

こうした状況の中で突如動いたのが、
当時トレビゾントの軍管区を任地としていたまだ若いセリム王子。
セリムはトレビゾントを離れて一気にイスタンブールの近郊に迫り、
父バヤズィト2世にイスタンブール近い場所での任地を要求したのです。

オスマン家は伝統としてスルタンが亡くなると息子達の間で後継争いが起こるのですが、中央に常備軍であるイェニチェリが数万単位の集団で存在している以上、この頃になると実質的にはイェニチェリを味方に付けたものが圧倒的に優位に立つのは目に見えていました。そしていち早く動く為には首都に近い場所に任地を得ている必要があったのですね。
このセリム王子の動きに対し、アフメト王子を支持していたと思われるバヤズィト2世はこれを拒否。仕方なくセリムはこの時カッファまで一時退いて様子を見るのですが、その後アフメト王子が同じくイスタンブール入りを要求してイェニチェリ軍団に拒絶されると、再びイスタンブール入りを目指して進み、今度はバヤズィト2世ではなくイェニチェリ軍団の支持を取り付けてこれに成功します。

こうして1512年、バヤズィト2世の息子セリムが父からスルタン位を奪ってオスマン家の第9代当主セリム1世となります。父とは違い非常に積極的な資質を持っていたセリム1世は、これまでの政策でほぼ国境が確定しつつあったヨーロッパ側から一転し、アナトリア半島から更に東に目を向けるようになります。
そして、そのセリム1世の視界で非常に邪魔な存在に映ったのが、前述したアナトリア諸侯を取り込もうとしていた新興サファヴィー朝だったのはごく自然な流れだったでしょう。

こうして1510年代になると、オスマン朝、サファヴィー朝、そしてエジプト・シリアにあるマムルーク朝も含めてイスラム教の3ヶ国がオリエント一帯で相争う事になってゆきます。そしてそれは、オリエントに大航海時代に負けないほどの激変をもたらす事になるのですが、長くなってきたので続きは次回に。



おしまい。


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  1. 2009/08/10(月) 01:03:50|
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