打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

オスマン家の肖像 その18

激動のオリエント 後編


興隆期のオスマン家を見てゆくシリーズの18回目。
たった10年でオスマン家とオリエントの勢力バランスを激変させたセリム1世期の後半を見てゆきましょう。
1512年、任地トレビゾントの総督をしていたセリム王子はアナトリアで起きた反乱を機として一気にイスタンブールに迫り、その後イェニチェリ軍団支持を取り付けて父バヤズィト2世からスルタン位を奪って即位した事は前回書きましたね。今回はスルタンとなったセリム1世がオリエントを制覇してゆく模様を追ってゆきます。


(チャルディランの決戦)
1513~14年、セリム1世は主力のイェニチェリ軍団と各諸侯軍・ティマールを授与している騎士階級のものたちを率いてアナトリア東部への遠征を開始します。元々トレビゾントを任地トしていたセリムはこの地域に精通しており、その中で最も脅威と見ていたのは背後に控える新興サファヴィー朝と早い段階から気付いていたのでしょう。アナトリアのテュルク系諸侯や後継者争いをしていた兄弟たちがサファヴィー朝の指導者シャー・イスマイールに助けを求めていたのもあって、国内を固める意味でもこの方面を早い段階で叩く必要があると見ての行動だったのは、後世の者として見ると実に自然に映ります。

こうして1514年、10万の軍を率いて遠征の途についたセリム1世は、サファヴィー朝の領内に当たるヴァン湖に近いチャルディランの平原に到って遂にサファヴィー朝の大軍を捕捉します。
こうして行われた1514年8月23日のチャルディランの戦い、
1525年頃に書かれた絵がトプカプ宮殿に残されています。

この戦いにおける両軍の主力は、
オスマン軍のイェニチェリ軍団に対し、サファヴィー朝のトゥルクマン騎兵たち。
両者の装備の違いが一目瞭然でした。
オスマン軍は一部に騎兵が残ってはいますが、主力は鉄砲を装備して徒歩で構成された常備軍のイェニチェリ兵。これに対してサファヴィー朝はトゥルクマーンの部族集団が基本ですから騎兵主体の編成のままでした。
このチャルディランの戦い、
イメージ的には日本の長篠の合戦図を思い起こしてもらえば一番分かり易いでしょうか。
ヨーロッパではまさにそういう転換期の象徴的な遭遇戦として捉えられていますから。

この戦いの経過は大体以下の通り。
まず騎兵で突撃してくるサファヴィー朝軍に対して、オスマン軍は凹形陣を形成します。
このオスマン軍は左右に大砲を装備した軍団+騎兵団と各国兵、
そして中央の最奥部にイェニチェリ軍団が鉄砲を集中装備して展開していました。
最初にオスマン軍の左右へ突撃したトゥルクマン騎兵は左翼では大砲の砲火に阻まれて撃退されますが、右翼では突撃が成功してかなりの損害を与えるなど当初は一進一退の攻防に持ち込みます。
ところがイェニチェリの火器集団が投入されると形勢は一挙にオスマン優勢へと傾いたのです。
突撃を阻んでいたオスマン右翼はもちろん、攻められて大損害を出していたオスマン左翼も反撃に転じて戦いはもう包囲殲滅戦に転じていました。

結局、わずか1日でこの決戦はオスマン軍の大勝利に帰します。
セリム1世がわざわざ2500km以上を運ばせた野戦砲がその威力を発揮するなど、日本より数十年早く火器の集中運用が行われていたオスマン軍には、もはや旧式の騎馬軍団では平野という騎兵に最も有利な地形でも通用しなくなっていた事を証明したのですね。


(イラン・イラク侵攻)
大軍同士による決戦は物事を一気に決めるという点において、
この時代でもまだ大きな決め手を有していました。
チャルディランの戦いの後、セリム1世は一気に東進して9月には早くも首都タブリーズを陥落させます。この都市は昔から手工業・特に生糸を使用した織物業と貴金属を加工する金細工・銀細工などの製造業が大発展しており、セリム1世がここにいた職人たちを大勢イスタンブールに連れ帰ったため、以後のイスタンブールでは織物業と金属工芸品が大発展する淵源ともなったのです。

結局この年はイェニチェリ軍団の反対もあってセリム2世は一度帰還しますが、もはやサファヴィー朝がオスマン朝にとって敵ではないことが証明されてしまった為、結果としてアナトリア東部の国境付近やアゼルバイジャンだけはサファヴィー朝に残されますが、アナトリア南東部ではもうオスマンの伸張が決定的となっていました。

翌1515年、セリム1世は再びみずから遠征を行い、アナトリア南東部とユーフラテス川の上流域までの進出に成功します。イラク北部にいたクルド族や旧白羊朝系の有力者を懐柔した事もあってオスマンの勢力圏はイラク北部に進出、更にこの結果アナトリアに最後まで残っていた君侯国ドゥルカディルもこの年オスマンにより滅亡してしまいます。残るラマザン君侯国はオスマンに従属していた為、これによりオスマン家はもう一つのイスラム系の大国・マムルーク朝へ直接境を接することになり、翌年以降両者の戦いが始まる事となったのでした。


(シリアへ!)
1516年の遠征先は早くもマムルーク朝の勢力圏だったシリアに対して行われます。
この地域では北部にアレッポという有力都市があり、マムルーク朝から派遣された総督が置かれていたのですね。しかもこのアレッポは当時最高級の品質を誇っていたイラン産の生糸が地中海方面へ運ばれる一大集積地であり、ここをセリム1世は単に政治の中心都市としてだけでなく経済面も考慮した戦略の要地として捉えていたのでしょう。

1516年8月、アレッポ近郊のマルジュ・ダービクでマムルーク朝からの派遣軍に圧勝したセリム1世はそのままアレッポを降伏させ、更に南に進んでダマスカスをも陥落させたのでした。そしてこのマルジュ・ダービクの戦いもイェニチェリ軍団の火器装備がマムルークの騎兵を圧倒した戦闘でした。こうしてシリア南北の主要都市を攻略したオスマン軍はわずか1年でシリアを手中にしたのですが、この年の戦いはまだ終わっていませんでした。


(マムルーク朝の滅亡)
2年前の遠征では冬季の残留に不満を漏らして反乱を起こす寸前だったイェニチェリ軍団ですが、この年の遠征ではセリムの権威を認めていたのかそのままオスマン軍は南下を続けます。
そして1516年末にオスマン軍はエジプトに侵攻、カイロ北部のライダーニヤでマムルーク朝最後のスルタン・トゥマンベイを破って翌年1月にはカイロを陥落させることに成功したのでした。
その後もエジプト南部ではマムルーク朝の残党による抵抗運動は続いていましたが、1517年3月にはスルタン・トゥマンベイが処刑されたことでおよそ270年続いたマムルーク朝は滅亡したのでした。


オスマン図1517
1517年、マムルーク朝滅亡後のオリエント関連図



こうして、即位からわずか5年でアナトリア・イラク北部・シリア・エジプトを攻略したセリム1世、領主としてだけでなくマムルーク朝が保護下に置いていたメディナ・メッカの保護も引き継いだ為、単にスルタンの1人としてだけではなくイスラム社会全体の保護者としての立場を引き継いだ事になります。
そしてそれは、オスマン家を単なる軍人国家から精神的な支柱としての役割を負わせることにもなり、オスマン家がこの頃から少しづつ変容してゆく一つのきっかけともなったのでした・・。



おしまい。


FC2ランキング02
 
↑最後にぽちっと。

テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム

  1. 2009/08/16(日) 13:59:56|
  2. オスマン家の肖像
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<夏・トルヒーヨにて | ホーム | 本日のイスパ議会と商会イベント>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://hamilcar.blog64.fc2.com/tb.php/862-066d7095
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

このブログはリンクフリーです。

ハミルカル・バルカ/メルカルト

Author:ハミルカル・バルカ/メルカルト
サーバー:Eos
所属  :イスパ
商会  :たまごのしろ/世界の船窓から
Twitter :hamilcar_notos

FC2カウンター

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
オンラインゲーム
309位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
大航海時代オンライン
15位
アクセスランキングを見る>>

最近の記事

カテゴリー

最近のコメント

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

最近のトラックバック

ブログ内検索

RSSフィード

RSSリンクの表示

著作権について

大航海時代 Online』に関わる著作権、その他一切の知的財産権は、 株式会社コーエーテクモゲームスに帰属します。 このホームページに掲載している『大航海時代 Online』の画像は、 『大航海時代 Online』公式サイトにおいて使用許諾が明示されているもの、もしくは『大航海時代 Online』の有効なアカウントを所有しているユーザーが株式会社コーエーテクモゲームスから使用許諾を受けたものです。