打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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オスマン家の肖像 その20

スレイマン出陣す

興隆期のオスマン家を見てゆくシリーズも今回で20回目。
どうも忙しくてこのところ週一連載となって来てますが、
残り数回の記事となりますので宜しければ最後までお付き合い下さい。


(登場)
1520年に即位したスレイマン1世。
実際に接見して彼の人となりを見たヨーロッパ人による記録の多くは『温和で知的、武人には見えない』というイメージを持ったようですが、彼らは個の人間としてのスレイマンとイスラム世界の頂点に経つスレイマンは全く別物だということを思い知る事になります。なにしろ当のスレイマン1世、即位した翌年の春には先代セリム1世が凍結していたヨーロッパ侵攻を再開させたのですから・・。
生涯でおよそ13回の出陣を経験しているスレイマン1世。
その全てに敗れることのなかったと謂われる彼の戦歴のうち、
最も重要と思える1回目と2回目をここでは見てゆきたいと思います。
それからスレイマン大帝の時代で残りの数回をほぼ全て当てる予定ですので、
彼の代における領国統治や外交施策などはまた別の機会を設ける予定です。


(先制攻撃)
1521年、スレイマンはハンガリーの保護下にあったセルビア北部に侵攻します。
このセルビア・ハンガリーへの侵攻、前年にスレイマンに謁見したヴェネツィアの使節が上記のような柔弱な印象をヨーロッパ各国に伝えた為、若い新スルタンを侮ったのか隣国ハンガリーの王ラヨシュ2世がオスマンとの和約更新と貢納の支払いを拒否してきたからと言われています。

こうして即位早々に軍事行動を起こすことになったこの年の標的は、これまでのオスマン家の当主たちが何度も苦杯を嘗めていたドナウ川沿いに立ちはだかる要塞都市・ベオグラードでした。

ベオグラードはドナウ川支流のサヴァ川がドナウ本流と合流する地点にあり、またヨーロッパ中央部とバルカン半島を繋ぐパンノニア平原に位置する事から、それこそ数千年の昔から人が住んでいた文化・交通の要衝。オスマンだけでなく歴史上100回を越える争奪戦が繰り広げられてきた、正にこの地方の最重要都市。
そうした歴史・地勢上の重要性から中世以降のベオグラードは堅固に城塞化されており、
ヨーロッパの人々は今回もまた結局はオスマン軍も諦めるだろうと見ていたかもしれません。
しかしスレイマン率いるオスマン軍は、セルビア人とそれを保護するハンガリーの抵抗が薄かった事、そして火器の集中投入と河川・街道の封鎖により、包囲から比較的短期間に、つまり1521年中にベオグラードの攻略に成功したのです。

こうしてデビュー戦を飾ったスレイマン1世率いるオスマン軍、技術の進歩なのかオスマン朝の充実なのか、このベオグラード戦に始まるスレイマン時代の大規模な軍事行動は、これまでよりはるかに効率よく運用されている印象を受けます。そしてそれが結果として高い勝率を生んでおり、イェニチェリ軍団を中核とした混成軍が大軍として有機的に使用できていたのかもしれませんね。

ともかく、ベオグラードの攻略はオスマン・ヨーロッパ諸国の双方にとって非常に重要な意味を持っていました。まずドナウ川流域を遡って行けばウィーンに到達する中流域の最重要拠点、『ヨーロッパの門』とも称されたベオグラードが攻略された事で、オスマン軍がオーストリア方面へ進出するにもう大きな障害はハンガリー軍くらいしか残ってはいませんでした。

次にこの地域の拠点都市を確保した事で、この後1520年代前半までにオスマン家はセルビア全土の掌握にほぼ成功します。更に隣国ハンガリーへの影響力も強まる事になったため、ベオグラードの確保はこの5年後に起こったハンガリー東部の制圧に向けての足掛かりともなったのでした。そしてこの結果、オスマン軍はこの8年後には様々な政治的な駆け引きの末、遂に内陸ヨーロッパへ侵攻します。後世のヨーロッパ人が『オスマンの災厄』と後々まで語ることになるあの第一次ウィーン包囲へと・・・。


オスマン図1522
※1521~1522年のスレイマン関連図(原寸W800ピクセル)


(第二次ロードス島攻防戦)
そして翌1522年にスレイマンの戦歴の二行目を飾った事績、
これはDOL世界の方にも記憶に新しいでしょう。

第二次ロードス島攻防戦。
大航海時代Online史上でも屈指のLIVEイベントだったあの一連のオスマン戦役、
その中核となるエピソードがここから始まっているのですね。

約40年前に曽祖父メフメト2世が失敗していた聖ヨハネ騎士団の本拠への再攻撃、オスマン帝国にとってはエーゲ海の出口~東地中海のアナトリア沿岸を扼す彼らを追い払う事は、その後の戦略にとって重要な意味を持っていたのでしょう。
これに対して防衛側となるヨハネ騎士団、古来から学問の地として栄えていたロードスは実の所それほど大きな島ではないのですが、その中心であるロードス城は1520年の時点で大改修を施されて一大要塞となっており、彼らもいずれオスマン軍の侵攻あることを既に予測していました。
そしてここに、スレイマンは何と10万以上の兵員と200隻以上の海軍を動員したのです。

1522年6月、
ヨハネ騎士団への降伏勧告が拒否されたスレイマンは、直ちに海軍の提督に任じた宰相ムスタファ・パシャに命じて235隻の艦艇と1万強の兵員をもって先発させます。そして自らは主力のイェニチェリ軍団と砲兵・支配下の諸兵併せて10万以上を率いてイスタンブールを出発、アナトリア半島の西岸を抜けてロードス島の対岸目指して進撃を始めたのでした。その後、6月末には海軍が、7月には主力がロードス島に上陸したオスマン軍は、1522年の8月1日をもってロードス城への攻撃を開始します。

一方のロードス島に拠る聖ヨハネ騎士団はというと、防衛戦の開始時点で守備に就いていたのはリラダン騎士団長以下、約600名の騎士を始めとして一般兵・非戦闘員併せても5000~7000名程度。純粋な戦闘要員の比較で1/40以下の戦力ではかなり絶望的としか言いようがありませんでした。

しかし、後世の歴史家・著述家・詩人が膨大な作品を書き上げる題材となるほど、
このわずか600騎を中心とした聖ヨハネ騎士団が脅威的な粘りを見せるのです。

1522年8月末、既に数度の攻撃を受けていたロードス城の城壁は、大砲の砲撃や坑道掘りなどの攻略を受けてボロボロになりつつ有りました。そういえば過去記事に城壁の写真貼ってあったの思い出したので出しておきますね。

ロードス騎士団長の宮殿

その後、スレイマンの元にはオスマンの支配下となっていたエジプトからの増援軍も到着。
12万以上のオスマン勢で包囲されたロードス城に立て篭もった者たちは、援軍の見込みの無い戦いを続けるのですが、
そんな状況でも現場にいた騎士マルティネンゴたちの指揮はいささかも乱れず、9月下旬には遂に精鋭イェニチェリ軍団を主体とする総攻撃をも撃退。この失敗で宰相ムスタファ・パシャは罷免させられてますから、攻撃側のオスマン軍にも相当な被害が出ていたのでしょう。最終的にオスマン軍は4万人近い被害を出していますからかなりの無茶攻めしてたのかもしれませんね。
しかし、10月を迎える頃、さすがのロードスの騎士団にも疲れが見え始めます。
疲労と精神的なプレッシャーは内部の分裂を生み、10月の末には副団長のダマラルという騎士が内通を疑われて処刑される、更に地元の住民でオスマン軍に降伏するものが出始めるなど、一気に苦境に立たされる様になって行きます。

それでもまだ、ロードス城は落ちませんでした。
最終的にこの攻防戦の決着が図られたのは12月20日。
力攻めによる落城ではなく、降伏勧告を受諾しての開城・退去だったのです。
この時点で生き残っていた聖ヨハネ騎士団員は200余名、兵士併せて1600名ほど。
しかしそこは気骨ある勇者なら敵でも称える気質のある草原の民の末裔・オスマン。
如何に大量の犠牲者を出したとはいえ、
いったん降伏を受諾したスレイマンには彼らを勇者として遇するだけの度量が有りました。


(陥落)
こうして、1523年1月1日の退去をもってロードス島は陥落します。
その際、騎士たちの武器を持っての堂々とした退去にスレイマンは感嘆を覚えたといいます。

その後、聖ヨハネ騎士団はクレタ島からローマ近郊へと数年の放浪生活の後、1530年にスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)によりマルタ島を貸与され(マルタ島の賃料は毎年皇帝へ鷹を一羽納入する事だったらしい)、新たにマルタの騎士団として地中海の中央に浮かぶ空母のごとく再び活動を再開することが出来たのでした。その後の彼ら聖ヨハネ騎士団によるマルタ島の要塞化までの苦難と攻防戦の物語とかも題材としては面白いので機会が有ればご紹介したい所ですね。

ちなみに、このマルタ島に拠った聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の今の紋章はこれ。



DOL世界でも全く同じ物、ありますよね。
はいそこ、四ッ矢サイダー紋章とかいわない!

さてこうして東西の障害を取り除いたスレイマン1世、奇しくもというか恐らく狙っての行動という気もしますが、偉大なメフメト2世が落せなかったベオグラードとロードス島を征服したことでその声望/脅威は広く地中海~オリエント一帯に鳴り響く事となります。そしてそれは、この後続く国際紛争へも大きく影響を与える事となったのでした。


おしまい。


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  1. 2009/08/30(日) 11:43:01|
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