打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

オスマン家の肖像 その21

ヨーロッパ世界とオスマン

興隆期のオスマン家を見て行くシリーズも残り数回。
予定よりちょっと回数が増えそうかなあ、
今回は即位早々にヨーロッパを震撼させたスレイマン大帝のその後を追って行きます。


(ハンガリー侵攻)
1526年、その5年前に要衝ベオグラードを落としてヨーロッパの門をこじ開けたスレイマン1世、その先には強敵ハンガリーとハプスブルク家の本拠地オーストリアが既に視界に入っていました。

この年のスレイマンは春になると早くも軍の召集と大砲の製作を命じる通達を出し、4月にはイスタンブールを進発してセルビア方面へと向かいます。
道すがら軍を増強して行ったスレイマン率いるオスマン軍は6万ほどに膨れ上がっており、ドナウ側沿いの各地方を平定しつつ西進して行った8月初頭にはベオグラードからセルビア/ハンガリーの国境を越えて肥沃なパンノニアの平原地帯にまで到達します。

一方のハンガリー側、オスマン来たるの情報は相当に早くから掴んでいたようで、同じく8月の時点で国王ラヨシュの騎兵団は既に召集済み、更に有力諸侯のトランシルヴァニア侯ヤーノシュからも増援が来ておりその数合わせて3万ほど。
この他にもボヘミアの諸侯からは騎兵と戦車兵を、ハプスブルク家からも火器武装した援軍の約束が届いており、これらが到着すれば数の上では互角に近い目算が立っていました。
しかし、ハンガリー王はここでオスマン軍の姿が平原部の中央にあるモハーチ一帯に迫るや、援軍を待たずにハンガリーの全軍を率いてスレイマンに挑戦してしまったのです


(モハーチの戦い)
さてこうして激突したオスマンとハンガリー。
6万対3万では元々からしてハンガリー側に分が悪いのですが、
結果はというとやや驚くべきものがありました。

この戦い、最終的にハンガリーは国王ラヨシュ2世が戦死し、全体で50%以上もの損害を出して壊滅してしまうのですが、さすがにマジャール人の国ハンガリーはヨーロッパ最強の騎兵の国だけあって、勝ったオスマン軍も只では済みませんでした。

オスマン側の損害、約15000人。
騎兵を誘い込んで大砲や銃などの火器で殲滅する戦術はサファヴィー朝やマムルーク朝のトルコ/アラブ騎兵に対して取ったものと基本的には同じなのですが、この時の戦闘では誘い込まれたはずのハンガリー騎兵はそこから下がらずに反撃してオスマン軍の一部を突き崩すほどの突破力を見せたのでした。

単純計算なら、6万対3万なら実質36対9で損耗後の計算は相手が全滅するまでやってもオスマンの損耗は精々8000程度。しかも装備ではオスマン側のほうが優れていたと思うのですが、この結果は戦術的には火器の精度と騎兵の力がまだ均衡するものが有った時代のブレ幅を見るようでちょっと面白い所。

まあそんな訳で、スレイマンの生涯の軍歴には最終的に撤退したことこそあれども会戦での敗北は記載されていないのですが、この時は実際のとこ勝ったと言ってもかなり冷や冷や物だったのですね。
とは言え、この後は首都のブダに入城しハンガリーの東半分をほぼ制圧することに成功したスレイマン。
しかも国王のいなくなったハンガリー、一応トランシルヴァニアのヤーノシュが国王に選出されはしますが、これに対してハプスブルク家からも対立君主が出るなど後継争いで混乱の極地にありました。
ここでちょっとこの当時のハンガリーを巡る血縁関係を整理しておきましょうか。

まず、国王ラヨシュ2世の妹アンナはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世の弟フェルナンド大公の妻となっています。そして同じく妻マリアはこのカール5世の妹で、後にオランダの総督になる人物です。またラヨシュ2世の母アンナはフランスのフォワ伯家の出身で、幼少の頃から成人までフランス王宮で育ち、当時のフランス王シャルル8世・ルイ12世の妻でブルターヌ女公だったアンナに育てられておりました。しかもこのブルターニュ女公アンナの娘はフランス王フランソワ1世の妻となってますから、当時のハンガリーはフランスとハプスブルク家の双方とかなり近い関係に有ったのですね。

そしてこのハンガリー王位を巡ってのハプスブルク家とトランシルヴァニア侯家の2人の対立君主の構造、これが反ハプスブルクの国王ヤーノシュをオスマン帝国が支援するに到り、数年後にヨーロッパの大国同士の争いとも連動してオスマンによるハプスブルク家への攻撃に繋がって行くのでした。そしてここには、後にもう1人の大物の影がちらつき始めるのですが・・・。



(フランソワ1世の蠢動)
オスマンがハンガリーに侵攻した1526年、この頃のフランスは前年にイタリア北部パヴィアでの戦いでハプスブルク家に敗れた国王フランソワ1世がスペインに幽閉状態にありました。
同年、マドリードでの条約に調印して開放されたフランソワ1世は、『ミラノ・ナポリ・フランドル・ブルゴーニュの権益を放棄すること/皇帝に臣従すること』などの条約内容をほぼ反故にして反攻を開始します。
そしてこの時期以降、フランソワが反ハプスブルクで密約を結んだのはイングランド・イタリア諸都市・教皇庁などだったのですが、その中に密かに第三勢力も加える画策が成されつつあったのです。
1526年以降、地中海を東に西に往復する連絡船が飛び交っていたでしょう。
それも極秘裏に。
これの結果が公けのものとなるのは1537年頃からなのですが、それにヨーロッパ世界は仰天する事になるとはこの1520年代後半の時点では、まだほとんど誰も気付いていませんでした。



おしまい。


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  1. 2009/09/07(月) 22:38:16|
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