打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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オスマン家の肖像 その22

第一次ウィーン包囲

興隆期のオスマン家を見て行くシリーズの22回目。
今回はオスマン帝国とヨーロッパを巡る数百年の歴史の中でも、
恐らく最大級のトピックとなった出来事について振り返ります。


(ハンガリーの混乱)
1526年に前王ラヨシュ2世がモハーチの戦いで戦死してしまった後、
ハンガリー王位には2人の人物が名乗りを上げていました。

1人はハプスブルク家のフェルナンド。
神聖ローマ皇帝カール5世の実弟で、スペインのマドリード近郊の生まれではありますが、本国オーストリアとの関係でハンガリー西部に多く支援者を持っていました。
もう1人はトランシルヴァニア侯のヤーノシュ。
トランシルヴァニア侯はハンガリー東部では最大規模の諸侯で、代々軍事に秀でた英傑を出してきた事から新興ながらも声望は高い家門でした。

このハンガリーの王位争い、トランシルヴァニア侯ヤーノシュが先に立ったようですが、これまでのラヨシュ王との血縁関係からフェルナンドの支持者も多く(ラヨシュの王妃マリアはフェルナンドの妹、姉マリアがフェルナンドの妻→つまり二重の義兄弟)、この争いはほぼハンガリーを二分する騒乱となってしまっていました。
そして、片方にハプスブルク家が付いている以上、対立するヤーノシュとしては支援者を必要としていました。
それが、当時ヤーノシュ側に手を伸ばしていたオスマン皇帝スレイマン1世。
そもそも1526年のモハーチ会戦以降、ハンガリーでは東部をオスマン帝国が事実上支配下においており、トランシルヴァニア侯は従属する代わりに自治を許されていたのです。
こうして、フェルナンドとヤーノシュが共に立つハンガリー国内の政争は、いつしかハプスブルク家とオスマン家という、ユーラシア大陸西部における最大の支配者同士による抗争に発展して行ったのでした。


(オスマン、再度ハンガリーへ)
1528年、ヤーノシュ側がこの王位争いで劣勢に立たされると、フェルナンドの脅威を除くようスレイマンに要請の使者を飛ばします。そしてハンガリー情勢を注視していたスレイマン1世、要請を受けるや直ちに軍備に入り、翌年5月にはイスタンブールとバルカン方面にいた配下の諸将に命じて再び西進を開始します。

これに対していったんはハンガリー西部で軍を集めていたフェルナンド側ですが、
オスマン側の軍勢が10万人規模にまで達している事を知ると本国オーストリアまで撤退してしまいます。
自国を守らないというのは君主の覚悟としてどうなのかって話は有りますが、ともかくオーストリアまで引いたフェルナンドを追う形で、1529年夏にはオスマン軍もまたドナウ川を遡上するようにしてオーストリアに侵入して行ったのでした。

ところでこのハンガリーの王位争いとそれに絡むオスマン家の進出、ここには当時の国際関係やマルティン・ルターに代表されるドイツ国内の宗教改革も関わって非常にややこしい事になっているのですが、ドイツ国内の話はヨーロッパの話なのでここでは触れません。
ただ可能性としては、この時点で既にフランス王フランソワ1世の策謀が働いていたかもしれません。彼の行動が事象として現れるのはもう少し先ですが、周辺の事を考えると充分ありえるかなと。

こうして、1529年9月23日にはウィーン城下に迫ったオスマン軍により、
史上名高い第一次ウィーン包囲が行われる事になったのです。

16世紀当時のウィーンの人口は調べた所で約2.0~2.5万人ほど、当時既に10万以上に大都市化していたパリやロンドン、それより更に発展していたオリエントの大都市と比べるとそれほど大きな都市ではないかもしれませんが、流石にオーストリア大公の本拠地ですから古いながらも補修が加えられた城壁が巡らされ、街全体が要塞化していました。

12万の軍勢でウィーンを包囲したスレイマン1世に対し、防衛の指揮を執ったのはザルム伯爵・ロゲンドルフ元帥といった有力諸侯。手元の資料ではフェルナンド自身はウィーンに居なかった様に見えますが、こちらの兵力はおよそ1.6万人。これにスペインから送られたペドロ・アルヴァレス率いるマスケット銃兵が約700人と騎馬600頭ほど。

ここで気になるのがこの時のハプスブルク側の対応ですが、国力とウィーンの重要性からすればどうにも少ない防衛する陣容になってしまったのには理由がありました。
まず当時スペインと神聖ローマ帝国は両方面からフランスと対決しており、皇帝カール5世は対フランソワ1世で釘付けになってしまっており、当時の本国スペインからは少数の火力を送るだけでも精一杯の状況。
それでも本来なら、このウィーンには帝国の議会が決定の上で選帝侯フリードリヒ率いるドイツの援軍が送られることになっていたのですが、司令官フリードリヒはウィーンが12万のオスマン軍に包囲されている状況を知るとこちらはあからさまにウィーンを見捨てて遥か手前のクレムスの町で進軍を止めてしまいます。
こんなわけで、ウィーンはオーストリア国内の守備兵と少数の傭兵・増援を得たのみでオスマンの大軍と戦う羽目になってしまったのでした。ヨーロッパ全体を政略レベルで見ると、このウィーン包囲に到るまでのフランソワ1世の動きが如何に重要な役割を果たしていたか伺えますね。


ウィーン地形01

(3週間の包囲戦)
1529年9月23日に始まったウィーン包囲戦。
北東~北北西にかけてドナウ川が流れるウィーン周辺の地形から、
その主戦場は南東~西側のほぼ2面に限られていました。

このためスレイマン率いるオスマン軍は南に主力を置き、東に大宰相イブラヒム・パシャ(この人はエジプト支配を成功させるなどで知られたスレイマン時代を代表する名宰相です)の率いる前衛部隊と諸国兵を、西に砲兵主体の火力兵を置く半包囲の体制で臨みます。つまり包囲と言っても事実上は南側での正面対決に近かったのですね。

これに対して当時70歳になろうかという老将ザルム伯、事前にウィーン城外の家屋を撤去させた上で臨んでいましたから、オスマン軍が主力を南に集結したのをみるや、主力となるスペインのマスケット兵を南のケルンテン門に集結させて射撃の遮蔽となるものの無い状態での応戦を狙いつつ、寡兵ながらも時折城外に出ての反撃を試みる積極的な戦術に出ます。
そして実際、9月末には東の門から2500の守備兵が打って出て大宰相イブラヒム・パシャの陣を後退させたといいますから防衛側の士気は高く、たとえ長期に包囲してもウィーンが容易に落ちない気配を漂わせ始めていました。

10月1日、オスマンの砲撃が始まります。
300門の大砲による間断ない砲撃により砦や城壁の一部が破壊される損害を出しますが、守備側はこの砲撃の精度が聞いていたほど高くないことに気付きます。その後ウィーンの防衛側は西側の砲撃は少数の守備兵を残してほぼ放置して南側での狙撃に集中しつつ、10月6日には8000の兵で打って出て地下に坑道を掘って進んでいたオスマン兵を襲撃するなどして、3週間目に至っても徹底抗戦の姿勢を全く崩しませんでした。

そして10月12日、この日以降なぜか寒波が来てウィーンに雪が降り始めます。
10月17日にはかなりの大雪となっていたといいますからちょっと異常気象みたいですね。
バルカン半島~トルコでも雪は降るでしょうが、オスマン側は5月という夏場の出陣ですから防寒対策など全くしておらず、アラブから連れてきたラクダの荷駄隊などは気の毒なほど。
こんな状況に加えて、オスマン軍にはこの長距離遠征で大軍を数ヶ月維持するだけの兵站というものが存在していなかったため、というか基本的に現地調達がこの時代の常識って話もありますが、10月14日、およそ3週間の包囲をもってスレイマンは無理せず軍を引いてしまいます。

こうして終了した第一次ウィーン包囲戦、開放されたウィーンは勝利を祝いつつその時の脅威をヨーロッパ中に触れ回った為に大事件として扱われたという側面はあるでしょうが、政治的・政略的にはスレイマンはもっと大きな物を手にしていました。


第一次ウィーン包囲01


(その後の情勢)
ウィーン包囲後の1533年の和約により、ハプスブルク家はハンガリーの西半分を、
トランシルヴァニア侯がハンガリーの東半分の王となる事が取り決められます。
事実上のハンガリー分割ですね。

そしてこの東ハンガリー、取り決められた当時はトランシルヴァニア侯の支配下なのですが、実質はオスマン帝国の属国であり、その後1541年に国王ヤーノシュが亡くなってフェルナンドがハンガリー全土の王となろうとした時には既に時遅しだったのです。
東ハンガリーに西ハンガリー王フェルナンドが侵攻して一時的にハンガリーを統一するのですが、最初から狙っていたフシのあるスレイマンの反撃を受けて東ハンガリーをあっさり放棄、そのまま従属下に置いていたオスマン帝国がさっさと直轄地に組み込んでしまっていたのですから・・・。

こうして見ると、1521年のベオグラード攻略に始まるスレイマンのヨーロッパ侵攻ですが、1526年のモハーチの戦い、1529年のウィーン包囲、1533年の分割支配と属領化を経て、最終的には1541年に直轄地とするに到るまでの流れを見ると、以前書いたオスマン家の支配体制の進め方のプロセスである 『略奪→侵攻→従属化→直轄化』 これ全くそのままな事に気付きます。

ヨーロッパ側からしたらウィーン包囲は勝利なのですが、その後の和約で西ハンガリーもオスマン帝国に貢納を支払っていた事、更に150年に渡って東ハンガリーがオスマン帝国の支配下にあったことを考えると、これいったいどちらがより大きな物を手に入れていたか、ちょっと考えさせられるものがありますね。


おしまい。


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  1. 2009/09/11(金) 10:14:13|
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