打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

オスマン家の肖像 その23

オスマン対ポルトガル


興隆期のオスマン家を見て行くシリーズの23回目。
今回は舞台をインド洋に移しての彼らの動きを見ます。


(ペルシャ湾到達!)
ヨーロッパ方面でハプスブルク家との和議が成立した1533年、
その一方でオスマン帝国は東で既に動き出していました。

この年からオスマン帝国により3次に渡る対サファヴィー朝戦役が始まったのです。
スレイマン自身は翌1534年からこの戦役に参加。
1535年までのあいだにオスマン軍はイラク南部にまで達し、
首都タブリーズを始め、バクダッド、バスラなどの主要都市を手中にしたのでした。
この第一次遠征では大宰相イブラヒム・パシャの功績が大きく、スレイマン1世が参加する前年から軍を率いて先行してサファビー朝の主要都市を叩くなどした結果がわずか2年での終結に繋がっていました。結果としてスレイマンはこの遠征で遂にペルシャ湾にまでその勢力を到達させており、これは1530年には手にしていたスエズと併せて紅海・ペルシャ湾の双方に出口を得た事になりますね。

ただ、この遠征を成功させた立役者のイブラヒム・パシャですが、
帰国して早々になぜか死を賜っています。
天地ほどの開きはあるものの事実上のオスマン帝国ナンバー2の失脚、
これ未だにその真相が不明なんですよね。
そして結果としてスレイマン期の、いやオスマン朝の拡大は、
このイブラヒム・パシャが失脚したこの時を持って終息に向かいます。
この後もいくつか小さいところの領土拡大はありますが、
明らかにそのペースは興隆期のそれでは既になくなっていました。


(インド洋の激突)
1530年代にスエズとバスラを取った事により、
オスマン帝国の伸張はインド洋へも伸びようとしていました。
しかしこれは、
当時既にいち早くこの地域での海路を切り開いていた勢力との衝突をも意味していたのです。
そう、ポルトガルですね。

この大航海時代初期の雄というべきポルトガル、
1500年代初頭に早くもホルムズ・マスカット・ジェッダやアデンなどを攻撃しています。
そして1520年代の時点では既にインド洋に確固とした拠点を設けており、
ホルムズ・コチン・ゴアなどは東方への前線基地としてポルトガル艦隊が集結したり、
また交易品の一大センターとして機能を始めていました。

これに対してオスマンは1530年よりスエズで造船を開始。
紅海ではジェッダの後背に控える聖地メッカの守護を行うなどその活動を始めていました。
そして数年後、遂にオスマン艦隊がインド洋を渡る時が来ます。

1538年、インド西部の港町ディヴに70隻以上のオスマン艦隊が姿を現します。
当時この地域を治めていたグジャラートの王はポルトガルの攻撃を受けて港町ディヴを失っており、
現地からオスマン帝国へ救援要請が飛んでいたのですね。そしてこの救援要請に応えるべく、スエズ港より提督ハーディム・パシャが72隻の艦隊を率いて遠征する事になったのでした。

結果、オスマン艦隊はディヴを一時包囲するものの、その後現地のグジャラート王が亡くなった事を受けてハーディム・パシャはディヴの包囲を解き、救援に向かっていたポルトガル艦隊の主力が到着する前に撤退したのでした。

ともあれこの遠征で見せたように70隻もの艦隊がこの方面に存在する事は、
この海域におけるオスマン帝国の地位の向上を促しました。
特に帰国の途中で立ち寄ったイェメンの主要港アデンがオスマンに降っており、
以後オスマンはこのアデンを前線基地としてインド洋沿岸を荒らしまわる事になります。

そしてもうひとつ、1538年と言う年を考えるとこれはちょっと興味深いところ。
何しろ地中海では同じ1538年にプレヴェザの海戦が発生しているのです。
次回からここへ向けて書いてゆきますが、こちらではハイレディン率いる約120隻のオスマン艦隊がドーリア率いるヨーロッパの連合艦隊を破っており、オスマン帝国はこの時期、協力していた海賊衆も含めると地中海とインド洋方面の両方に100~150隻前後のまとまった艦隊を有していた事になります。
1530年代と言う時代を考えると、これはちょっと他の国との国力差を感じずにはいられませんね。


オスマン図1534-52
※1534~52年頃のインド洋での動き


(その後のインド洋)
この後、オスマン艦隊は1552年にはポルトガルの拠点ホルムズを攻撃に出ますがこれは失敗。
この作戦でなにより痛かったことは、敗戦そのものよりも艦隊を率いていた当時世界最高の航海者・地図製作者でもあるピリー・レイス提督が、この敗戦の責任を問われて死罪となったことかも知れません。
以後のオスマン帝国はアラブ方面では陸上重視の戦略に移っていきますが、それでも1560年代には東アフリカに遠征してモガディシオを攻略しモンバサも支配下とするなど、ポルトガルとの対決姿勢を崩しませんでした。
これ背景としては香辛料の買付けを抑えられたオスマンの東方交易の収支が赤字に転落したのも大きな理由となっているでしょうが、ポルトガルの東方交易もまたその後イギリスやオランダの登場で衰退期に入る以前から少なくない被害を受けていたのでした。



おしまい。


FC2ランキング02
 
↑最後に押してってくださいな。

テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム

  1. 2009/09/20(日) 12:31:33|
  2. オスマン家の肖像
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
<<天道プレイ2日目。 | ホーム | 議会と開拓地の野望>>

コメント

インド香辛料に関して

ポルトガル、オスマンのどちらもが胡椒貿易の独占を獲得できない状況が続いたことで胡椒の価格が下がり、貿易自体の利益が逼迫したという話も聞きますね。
  1. 2009/09/21(月) 01:58:14 |
  2. URL |
  3. R SCHMITT #-
  4. [ 編集]

R SCHMITTさん>>
こんにちは。
貿易に関してはあとでちょっと書く予定ですが、この頃になってくるとグローバル的なお金(貴金属)の動きがオスマン帝国にも関係してきて、ここは調べると結構面白いですよ。買い付け・流通経路の実力での確保と価格競争だけで捉えられなくなってきてる辺り、なにやら金融戦争っぽいものを感じますし。
  1. 2009/09/22(火) 11:53:52 |
  2. URL |
  3. ハミルカル #-
  4. [ 編集]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://hamilcar.blog64.fc2.com/tb.php/891-68708c56
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

このブログはリンクフリーです。

ハミルカル・バルカ/メルカルト

Author:ハミルカル・バルカ/メルカルト
サーバー:Eos
所属  :イスパ
商会  :たまごのしろ/世界の船窓から
Twitter :hamilcar_notos

FC2カウンター

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
オンラインゲーム
238位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
大航海時代オンライン
7位
アクセスランキングを見る>>

最近の記事

カテゴリー

最近のコメント

月別アーカイブ

リンク

このブログをリンクに追加する

最近のトラックバック

ブログ内検索

RSSフィード

RSSリンクの表示

著作権について

大航海時代 Online』に関わる著作権、その他一切の知的財産権は、 株式会社コーエーテクモゲームスに帰属します。 このホームページに掲載している『大航海時代 Online』の画像は、 『大航海時代 Online』公式サイトにおいて使用許諾が明示されているもの、もしくは『大航海時代 Online』の有効なアカウントを所有しているユーザーが株式会社コーエーテクモゲームスから使用許諾を受けたものです。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。