打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

オスマン家の肖像 その25

プレヴェザの海戦

興隆期のオスマン家を見てゆくシリーズも残り2回。
春から始めてもう秋になる所まで引っ張ってしまいましたね。
今回は拡大路線を続けたスレイマン大帝のひとつのトピックとなる出来事を見て行きます。


(1538年夏・イオニア海にて)
この年、イオニア海ではヨーロッパ諸国の連合艦隊とオスマン艦隊が激突したプレヴェザの海戦が起こります。双方合せて300隻以上・兵員合せて8万人という、16世紀の前半では最大規模のこの戦い、そこに至るまでと経過に焦点を合せて見て行きます。

この前年にオスマン帝国は陸と海からイオニア海沿岸の諸島、特にヴェネツィアの要衝コルフ島を攻略すべく、大宰相アヤース率いる陸軍と大提督に昇進していたハイレディン率いる艦隊とで荒らし回っており、数千人の捕虜と莫大な財貨を得る成果を挙げていました。この年彼らはコルフ島側の反撃があるや無理せず兵を引いていた為、翌年の再侵攻はほぼ確実な情勢と言えたでしょう。

一方これに脅威を感じたのが神聖ローマ皇帝カール5世以下のヨーロッパ諸侯。
ローマ教皇パウルス3世を動かして今まで非協力的と言うか独自路線を取っていたヴェネツィアをも動かして同盟を結び、オスマンの脅威に備えたのです。

翌1538年、各国の艦隊がシチリア島のメッシーナからコルフ島へと向かいます。
数にして200隻・6万人以上の大艦隊がハイレディンを迎え撃つべく集結したのですね。
そしてこの神聖同盟の艦隊司令官となったのが、当時もう71歳にならんとしていた老将アンドレア・ドーリア。ジェノヴァの名門ドーリア家から傭兵に転身し、1520年代以降はフランスからスペインの傭兵となっていた当時ヨーロッパ世界最高の海将というべき彼が、この同盟と言えば聞こえはいいですがその実雑多な寄せ集めに近い連合艦隊の指揮を取る事になったのでした。


(プレヴェザ)
イオニア海に面したギリシアの西海岸側。
ここは特徴として海上に大小の島が浮かんでいるだけでなく、
いくつかの湾を含む天然の良港が点在しており、古来より幾多の争覇戦が行なわれてきた地でも有りました。例えばBC31年9月のアクティウム海戦では、ユリウス・カエサルの後継者オクタヴィアヌス配下のアグリッパとマルクス・アントニウスによる決戦が行なわれており、この海戦に勝利したオクタヴィアヌスはカエサルの後継争いに勝利して後の帝政ローマの礎を築くに至っています。
そして今回ヨーロッパの連合艦隊とオスマン艦隊の焦点となったのが、コルフ島のやや南にあるアルタ湾とその出口近くに有るプレヴェザの一帯だったのですね。

1538年9月、ドーリア率いる神聖同盟艦隊はコルフ島から南下してこのプレヴェザ攻略を目指しに掛かります。この時の神聖同盟側には既に一部の船に大砲が搭載されており、ガレー船だけでなく帆船も参加しての混成艦隊となっていました。
その後、プレヴェザに迫ったドーリアの元へ一報が入ります。

『ハイレディン率いるオスマン艦隊接近中』 と。

アルタ湾は非常に狭く、また水深が浅い為に帆船が取り回しをするにはやや不向きな地形で、
これを嫌ったドーリアは一度包囲を解いて一旦コルフ島方面へと艦隊を動かし、オスマン艦隊をかわします。しかしこの結果、ハイレディン率いるオスマン艦隊は何の抵抗も受けることなくアルタ湾内に侵入、喫水の浅いガレー船主体の艦隊の為悠々とこの湾内で待機することに成功したのでした。


9月25日、ドーリア率いる神聖同盟艦隊は再びアルタ湾に接近しますが、
またしても湾内へ侵入できずに撤退。
この情勢を受けてのオスマン艦隊内、優勢なヨーロッパ艦隊がいるうちはプレヴェザ防衛に専念するべしという意見が多かったようなのですが、司令官ハイレディンは逆に撃って出ることを決断します。元々常に少数でのゲリラ戦術に長けた海賊出身の将らしく、ハイレディンはヨーロッパ艦隊にも隙は有ることを見抜いていたのでしょうか。

そして9月28日に掛けてのこと、数十隻の哨戒艇を出していたハイレディンの元に、撤退した神聖同盟艦隊をアルタ湾の南にある島の付近で発見したとの報が入ります。
この報を受けたハイレディン、ガレー艦隊約120隻を率いてアルタ湾を出撃するや、
天候が悪化していたのも構わず直ちに南下して神聖同盟艦隊を風上から急襲したのです。
これが、後世プレヴェザの海戦と呼ばれた戦闘となります。

とは言えこの時の神聖同盟艦隊、主力のヴェネツィア艦隊はけっこうやる気になっていたようですが、豪雨の中を先手を取られて風上から急襲された事もあってか、肝心の司令官であるアンドレア・ドーリアがどうにもその気を見せず、最初の衝突で拿捕船が出てしまったあたりで早々と撤退の指令が飛んでしまいます。(この時ドーリアには雇い主であるカール5世から積極的には戦わないようにとの密命を受けていたとも言われますが真相は不明)
結局、神聖同盟艦隊はコルフ島まで撤退しつつ戦わざるを得なくなった主力のヴェネツィア船を中心に、結構な損害を出して敗退。なんだかややアッサリではありますが、これがわすか数日で終わった海戦の顛末でした。


(戦後)
動員した規模のわりにガチでやり合わなかったこのプレヴェザの海戦。
たいした損害は双方とも出てなかったようですが、
一方でその後の影響は途轍もなく大きな物を残す事になります。

まずこの戦いでカール5世に見切りを付けたかのように、2年後の1540年にヴェネツィアがさっさとオスマン帝国と和平/通商条約を結んでしまって同盟離脱。更に元々反スペインであるフランスはこの直前にオスマンとの同盟関係が公となっており、ヴェネツィアとオスマンの和平の仲介をしたりイスタンブールとの通商が始まるなど、短期間ではありますが実質オスマンの影響下に入ります。

そして海戦の勝者であるハイレディンはというと、戦果以上に得た名声・そしてその名の持つ影響力は絶大なものがありました。また実質的に西地中海の制海権を得た事もあって、これまで以上に根拠地であるアルジェから悠々と海賊業に精を出すようになります。
更に1541年頃にはフランス王からマルセイユ近傍のトゥーロン港に招聘?され、その後長い事居座った挙げくに手を焼いたフランス王から莫大な保証金をせしめ、今度は東のニースに移動してプロヴァンス~イタリア沿岸を襲いまくったのですからもう、それこそ手が付けられませんでした。

その後、アルジェ攻略を目指したカール5世の征討軍がアフリカで惨敗するなど、ハイレディンが存命だった1540年代までは西地中海が、そしてレパントでヨーロッパ側が雪辱する1570年代までは地中海中央~東部がイスラム勢の海であり続けます。地中海に暮らすヨーロッパの人々にとっては16世紀の後半になってもまったく安心して暮らせるようにはなっていなかったのですね。

しかしこの間外洋では、大航海時代の到来によるヨーロッパ勢の拡大に続く拡大で世界は多くの地域が海でつながり、文化・流通上の革新が起こり、地中海でもその流れは押し寄せようとしていました。
恐らく次回はシリーズ最終回、オスマンを帝国巡るこうした世界情勢などを見る予定です。


おしまい。

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  1. 2009/10/08(木) 06:57:31|
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