打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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オスマン家の肖像 最終回

オスマン家の系譜

およそ半年に渡って書いてきたオスマン家の話もこれが最終回となります。
征服活動によって地中海沿岸のほぼ2/3を、更に海賊たちの支援と海戦の勝利によって地中海のほぼ全域を制圧するに至ったオスマン帝国、その興隆期の終わりはどのような物だったのでしょうか。
今回はその後も含めて確認してゆく事とします。


(充実と転機)
1530~40年代に地中海の覇権をほぼ確立したスレイマン1世。
その後もクレタ島やキプロス島・チュニスへの攻撃を企図するなど相変わらず軍事行動は見せていましたが、これ以降の彼には他にもやる事が数多く残っていました。
そう、彼の跡を継ぐ者たちが円滑にオスマン帝国を運営するための国づくりという大仕事が。
40年以上に渡る彼の治世の後半は、こうした基盤整備で次々とその成果を挙げて行きます。

まず最も大きな事業は、国家と人民の活動の基本となるイスラムの法整備だったでしょう。
そして官僚機構の整備や人材登用の仕組みを完成させるなどのオスマン帝国の中央集権化。
更には中央を強化する事で必要となって来る首都イスタンブールの整備など。

このうちのどれか1個を取っても大事業なのですが、
これを主導・実現させたスレイマンのこれはもう本領発揮というべきでしょう。
元々思慮深く文人肌と見られていた彼でなければ、
恐らくこれを成し遂げられる者はオスマン家に居なかったと思います。
1566年に彼が亡くなった時、その成果は既に明らかでした。
首都イスタンブールのこの当時の人口は少なく見て20万、多くて40万人とも言われ、
現代にも残存している大バザールの原型も既に始まっていたのですから。

そして彼が亡くなった際に後継のセリム2世が速やかに統治を引き継ぐ事の出来たのも、
彼が残した大宰相をトップとする官僚機構がそのまま活かされたからだったのですから。
しかしこれらの国家機構の整備、
オスマン帝国としては大成功というべきでしょうが、
片やオスマン家として見た場合は微妙なものを孕んでいたのです。


(官僚と傀儡)
法整備を行ない、中央集権化が成功して強固な官僚組織ができる。
これは統治者の資質によらず国の運営が安定化する近代化の傾向とも見えるのですが、
その一方でこれは最高権力者に依存する比重が劇的に低下することも意味していたのです。
そびえ立つオスマン帝国という巨大な山で頂点だけが陥没する、そんなイメージでしょうか。

実際1566年の第10代スレイマンの死後、
オスマン家のスルタンは極端に言えば官僚機構の上に立つ血統保存役に変化します。
時折英明な資質を持ったスルタンも登場するのですが、
中には全く政務をかえりみないでハーレムに篭もってしまう異常者の時代すら現れるのですから。
それでもオスマン家そのものを保存しようとする姿勢は代わらなかったものの、
これ以後たびたびスルタンが臣下によって廃位させられるようになるのはその現れでしょう。

そして官僚主導による統治活動は、
これは個人的感想ですがある意味で意思決定の硬直化にも繋がっていた気がします。
ちょっとスレイマン以後の主な年表を上げて見ます。

1570 キプロス島征服
1571 レパント海戦に敗戦
1572 オスマン艦隊再建
1573 ヴェネツィアと和約・キプロス確保
1574 チュニス奪還
1578 カフカス戦役の開始
1590 カフカス戦役の終結(アゼルバイジャン征服)
1603 タブリーズ失陥
1607 カフカス・アゼルバイジャン完全撤退

この年表で見ると、1571年のレパント海戦に破れた事は別として、スレイマンの死後も息子のセリム2世が健在だった1574年までは順調に成果を挙げていた事が分かりますね。特にレパント海戦で壊滅的な打撃を受けたオスマン海軍が翌年の夏には再建されてキプロス島を含む東地中海の制圧に派遣されているのですから、その活力が衰えて居なかったことがよく分かります。

しかし1578~1590年のカフカス戦役あたりから雲行きが怪しくなって来ます。
この1578年はスレイマン1世・セリム2世・ムラト3世と3代に渡って大宰相であった名臣ソコルル・メフメト・パシャが暗殺された年にあたり、スレイマンの黄金期を知る彼が亡くなった後のオスマンは完全に軍事国家から官僚国家へと変容していました。

そして1590年まで13年も続いたペルシアとのカフカス戦役、これは一応勝利してこの地域を割譲させる事には成功しますが、戦費の増大によってこの時期のオスマン帝国の財政が赤字に転落する原因の一つになってしまいます。更にこの方面の統治に気を取られたオスマン帝国はこの後1603年にタブリーズを失陥し、更に1607年にはカフカス・アゼルバイジャンから完全撤退をするのですから、莫大な戦費と時間を投入したこの戦いは完全に徒労に終わったのでした。

恐らくカフカス戦役は途中から労多くして得るものの少ない、割に合わない行動である事が誰にでも分かる状態になっていたでしょう。それでもオスマン帝国の官僚たちは完全撤退に追い込まれるまで止めようとしなかったのです。決断力が掛けていたのか、軍人の行動を止めるだけの力がなかったのか分かりませんが、動き出した歯車を止めるのが容易でないのは現代にも通じる所があってちょっと考えさせられるものが有りますね。


(破綻と再生)
1580年以降、オスマン帝国の収支は赤字に転落します。
一つにはヨーロッパ勢の進出でインド洋方面の貿易が競争力を失っていった事もあるでしょう。
またこの時代、先ほど見たように戦費を浪費し続けたペルシアとの戦争だけでなく、
西でもヨーロッパ勢・特にスペイン・オーストリアとの戦争は続いており、
火器の大量投入・長期戦が恒常化した近代型の戦争は莫大な戦費を必要としていました。
同時代のスペインが何度も破産したのを見ても負担が大きすぎたのは明らかなのですが、
オスマン帝国は実は全く別の所からも経済面の打撃を受け始めていました。

その一つが、新大陸からの銀。

16~17世紀当時、ペルーやメキシコでは大規模な貴金属鉱山が発見され、
莫大な量の金銀がヨーロッパに流入するようになります。
これによってヨーロッパではかつてない規模のインフレが発生して経済面・政治面共に大きな変動の時代を迎えるのですが、この波は当然同じ地中海の経済圏を抱えるオスマン帝国にも押し寄せていたのです。
中でも特に大きな影響を受けたのが銀の流入。
オスマン帝国時代の貨幣を見ると良く分かるのですが、
彼らは自国の通貨以外にもヨーロッパの主要通貨をそのまま通用させていました。

この銀貨が大量にイスタンブールの大バザールに流入したのですから、
ヨーロッパ諸国と同じくインフレに見舞われたのは想像に難くありませんね。
これ以外にもこの時代は黒海沿岸の異常気象・不作が発生しており、
経済面では黒海の不振も大きく影響していたでしょう。
こうして経済・財政状況が悪化した結果、
オスマン帝国はある古典的な打開策を取ります。

それは、貨幣の改鋳。
それも、高品位の銀貨を集めて含有量を落とした劣悪な銀貨を増やすという・・・。

当然ながら市場でこのオスマン銀貨の価値は暴落します。
しかもスルタンはこの貨幣で軍人の給与をそのままの俸給で支払ったのです。
この措置によって実質的な大幅収入減となった軍人たちからは不満が噴出。
特に常設されていた騎兵団では暴動すら起こり、
州の軍政官と財務長官を処刑することでなんとか治まったほどの深刻なものでした。

この後、オスマン帝国では、税制の改革と徴税方法に大きな変更が見られるようになります。
これは貨幣をいじるような表面的な策では財政赤字を改善できないと気付いた彼らが、
なんとか財政を再建するために取った措置だったのでしょう。

具体的には、
1.人頭税の台帳整備(国勢調査)とそれに伴う人頭税の強化・増額
2.旧来のティマール制に代わって徴税請負人制度を導入
3.戦費調達用の臨時税を恒久化

このあたりでしょうか。
台帳整備は古代中国の国勢調査や日本の検地も同種の狙いがあったでしょうし、
徴税請負制度は古代ローマでもありましたから実際それなりに効果は上がりました。
しかしこの17世紀の税制改正、オスマンの身分制度そのものも変容させることに繋がります。


(変容と終末)
まず、在郷の騎士たちを地域の徴税役、兼軍事奉仕者としていたティマール制度の崩壊。
これによって在地の騎士階級は徐々に没落したり官僚機構の中に取り込まれたり、はたまたイェニチェリ層へと転身するようになります。またイェニチェリ層が徴税請負人に割り当てられたり新規参入者が大幅に拡大されるようになり、今度はイェニチェリ軍団そのものがスルタンの奴隷から、世襲化されたイスラム教徒のトルコ人が流入する、政治的な影響力を持った軍事集団に変化してゆきます。
17~18世紀に4人のスルタンがイェニチェリによって廃位されたのはその変化の現れでしょう。
しかし17世紀中盤以降、30年戦争を経て大幅に近代化されたヨーロッパの諸国兵に対し、
イェニチェリ軍団は徐々にその優位性を失って行きます。
1683年の第二次ウィーン包囲は成功していても不思議ではなかったものの、
司令官の無能さもあって敗退。
以後もイェニチェリ軍団は政治的な影響力を持った集団として君臨し続けますが、1826年6月16日、マフムット2世は別に創設した近代装備の砲兵隊でイェニチェリの兵舎を急襲。
かつてオスマン興隆期に最強を誇ったイェニチェリ軍団は遂に壊滅したのです。


(オスマン家の系譜)
さて、最終回もかなり長くなってきましたね。
最後に現代のお話を。

実はオスマン家は現在も存続しています。
先月オスマン家に関してあるニュースが流れましたが、
お気づきの方いましたでしょうか?

2009年9月23日・ニューヨーク。
ここに在住していたオスマン家の第43代家長、
エルトゥールル・オスマン氏が死去されました。
彼は1912年生まれで、
オスマン家がまだ帝国の統治者だった時代に生まれた最後の人物でした。

それにしてもエルトゥールルという名前、初代オスマン1世の父の名であることに、このシリーズを読み続けてくれていた人は気付いたでしょうか。日本でエルトゥールルと言えば明治中期に紀伊半島沖で座礁したトルコ海軍の同名艦を指す事もあり、結構身近だったりもしますが(エルトゥールル号事件の話をどれだけの日本人が知っているのか不明ですが)両国の歴史においては相当に重要な名前なのは間違いないでしょうね。



2009年10月13日、
草原の民トゥルクマンより生まれし偉大なるオスマンの血脈に思いを馳せつつ。





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最後までお付き合い頂き、ありがとうございました(ペコリ

テーマ:大航海時代Online - ジャンル:オンラインゲーム

  1. 2009/10/13(火) 21:16:21|
  2. オスマン家の肖像
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