打倒ローマは一日にして成らず

大航海時代Onlineでカルタゴ復興に燃える元将軍の記録。

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続・蒼き狼の末裔たち その5

双璧


蒼き狼の血を引くもの同士の抗争が主体となるこのシリーズ、
今回はクビライとアリクブケ、両者によるモンケ死後の後継争いを見て行きます。


(停戦)
1259年秋、長江中流域の大都市・鄂州(現在の武昌・武漢の一帯)に集結したクビライ、タガチャルら中国遠征軍の各司令官たちは、ここへの包囲を行っているうちに南宋軍接近の報に接します。
南宋の本拠地は太平洋に近い杭州・揚州など江南地域ですが、長江中流の要衝・鄂州が落ちれば南宋としては上流や支流の漢水(襄陽や樊城はこの流域にある)への連絡が絶たれるため、ここが事実上の絶対防衛線だったのです。

そしてこの鄂州への援軍の指揮を執っていたのが、当時まだ少壮の政治家・買似道。
クビライと買似道、13世紀の政治家としてはどちらも大物と呼べるこの両者の間で密かに使者のやり取りが行われ、既にモンゴルの前線指揮官の多くが合流し支持を取り付けていたクビライが長居は無用と考えたのか、この停戦協定に合意する事でがく州はいったん救われることとなります。クビライにしてみればモンゴル軍が長江を渡ったのはこれが初めての事ですし、最前線でまだ諸将が合流しきっていない状況。しかも南宋の水軍は当時世界でもトップクラスの実力を有していたでしょうから、無駄に消耗することは避けたいと考えても不思議ではありません。

ただ、両軍合わせて20~30万人規模での停戦と撤収ですから無事に済むはずもありません。
クビライ軍が撤収の準備を進めるなか、南宋側の一部隊がモンゴルへの攻撃を行ったのですね。長江を渡河中に攻撃を受けたのは殿軍としてウリャンカダイ軍との合流を指揮していたバアトルの部隊。この件に関してモンはゴル側は大した被害が出てないし協定合意による南宋側の賠償も受け取ったので反撃することはなかったのですが、『モンゴル軍を破り撃退した』と報告した買似道はその後、救国の英雄として南宋政府において急速にその影響力を増してゆく事となります。


(クビライ、大ハーンを自称す)
さて、こうして中国遠征軍に参加していたモンゴル軍主力の支持を取り付けたクビライ、1259年秋~翌春の冬営地に華北の下流域にある中都を選び、ここまで北上して翌年を待ちます。中都とは滅亡した金国の初めの首都で、つまり現在の北京。この当時は東方三王家や漢人部隊の一大拠点でもありますから、当時のクビライの支持基盤がどこにあるか、かなり分かり易いですね。特に東方三王家とムカリ国王家はこれ以後クビライ軍の精鋭中の精鋭として重きをなし、対アリクブケ戦や南宋攻略戦など多くの戦いに参加してゆく事となります。

1260年春
冬営地の中都から出たクビライとその配下の諸侯はモンゴル高原へ向けて出発し、いったん華北の中心地である開平府近郊の草原に集結すると、クビライは本来首都カラコルムで一族合同で行われるべきクリルタイを自派の者だけで開催し、自ら大ハーン選出を宣言します。


(アリクブケ即位)
クビライが中国遠征に出たままモンケ死後も最前線で頑張っていた頃、モンゴル本国で留守居役を任されていたトゥルイ家の末弟・アリクブケは着々と後継者としての地位を固めつつありました。
元々トゥルイ家の本領を継ぐ予定だった彼は、チンギス・ハーンの直系として見たら末子の家の更に末子ですから、普通にしていてもモンゴル高原の中央~西側に広がるチンギス王家の中枢部を預かる立場として確固たる地位を得たでしょう。
また彼自身かなり優れた人物らしく、モンケの死去が伝わるや早々に本国の旧モンケ政権の幹部たちは彼を後継者と認めていましたし、西側に位置しているジュチ、チャガタイ、オゴデイ各ウルスからも彼への支持が打ち出されていました。
この状況で後継者を決めるクリルタイが開かれれば、そのまま彼が次代の大ハーンに選出されていたと思います。事実、1259~60年にかけて、アリクブケはモンケの葬儀を取り仕切ったあと、各王家へカラコルム参集を呼びかけるべく政府の要人たちが派遣されてましたから、1260年が何事もなく過ぎていれば人脈・軍事力ともに抑えた彼がそのまま選出された事でしょう。

しかしクビライのルール違反ともいえるお手盛りのクリルタイ開催と大ハーン自称により、
この段取りは大きく修正を余儀なくされたのでした。
クビライの大ハーン自称に対抗する形で急ぎクリルタイを招集したアリクブケ、こちらも自派(といってもこちらの方が本国だし面子は揃っていた)のみの選出で大ハーン位に就いたことを宣言し、これによってモンゴル帝国は史上初めて二人の大ハーンが存在するという分裂状態に陥ってしまったのでした。

ただこの状況、中国史的な扱いだとクビライを正統とするかも知れませんが、当時の認識、それから実際の史書における記載からすると、正統な大ハーンはアリクブケの方なんですね。あくまで『クビライが反乱を起こした』という扱い。
まず史書の扱いでは、クビライ寄りの元朝秘史ではアリクブケは記載せず(恐らくこの扱いが影響している)、次にラシード・ウッディーンの『集史』はアリクブケを歴代大ハーンと同じ項目にクビライのすぐ後ろに記載、更にペルシア語の『五族譜』では完全に大ハーンの一人として記載しています。そして何より、先に書いたように当時の認識でアリクブケが正統とする見方が一般的だったのは、彼を支持した勢力を見れば明らかでした。
ちょっとここで内戦開始当初における両派の支持基盤をみてみましょう


(継承戦争)
アリクブケ派
・アリクブケ
・モンケの遺児(及び旧モンケ政権の要人たち
・ジュチ家
・オゴデイ家
・チャガタイ家
・フレグ

クビライ派
・クビライ
・東方三王家(テムゲ家、カサル家、ベルグタイ家)
・ムカリ国王家(ムカリ家及びチンギス縁戚衆の五投下)
・ウリャンカダイ(スブタイ家)
・漢人軍閥(華北・華南のモンゴル支配下にあった軍閥たち)

この中で注目は、何と言っても両者の兄弟であり、クビライと同程度の軍事力を持っていたフレグの動向でしょうか。ただしこの時フレグはシリア遠征中であり、連絡がついても直ちにモンゴルへ帰れる状況には無いためアリクブケが開いたクリルタイ出席には間に合わず、代わりに嫡男のジュムクルを参加させていました。しかしこのジュムクルもクビライ優勢が明らかとなるとカラコルムを脱出してイランへ落ち延びてしまってますから、どちらにしてもフレグの軍事力はあてに出来ませんでした。そんな訳でアリクブケ・クビライ両者ともに当面のところフレグに対しては西アジアにいる彼の地位・行動について不問とするほかなく、この状況がフレグが西アジアで独立、イル・ハン国を建設するのを許した直接の要因になったのは明らかですね。

さてこれ以外での両者の抗争はというと、政治的な影響力はあっても軍事力の裏付けに乏しいアリクブケ派は実戦部隊を擁しているクビライ派に対して劣勢を余儀なくされます。遠く離れた各王家も彼への支持は表明していても実際にまとまった援軍を送るまではしなかったのです。更に効いたのが、中国からモンゴルへの物資輸送の停止。既に首都カラコルムは消費社会になっていて中国からの輸入がなければ干上がってしまうほどで、これを止めたクビライの戦略によってアリクブケ派は物資面でも苦しめられるようになったのです。

そして次の動きはと言うと、チャガタイ家の離反でした。
1261年にアリクブケはチャガタイ・ハン国に同家傍流のアルグを新当主として送り込み、それまでチャガタイ家を取り仕切っていたオルクナという女性を支援するとともに、豊かなマー・ワラー・アンナフルから物資を送るよう命じたのですが、このアルグが反アリクブケで反乱を起こしてしまい、しかも多くのチャガタイ家の者が彼を支持してしまったのです。元々チャガタイ家はモンケによって多くの一族が粛清されており、彼の流れをくむアリクブケ派に対しては反感が高まっていたのでしょう。

こうしてクビライ圧倒的優勢が明らかとなる中で両者はモンゴル高原の至るところで大小の抗争を繰り広げるものの、東西両方面から攻められた結果1262年頃になるとアリクブケはカラコルムの維持も難しくなり、その活路を西に求めるようになります。
首都を脱出したアリクブケ、いったんはチャガタイ家の本領であるイリ渓谷に攻め込んで再起を図りますが、事実上はもうすでに勝負あり。1264年中にアリクブケはクビライに降り、わずかな支配地を与えられてモンゴル内で余生を送ることとなります。(当時の慣習でモンゴル人によるモンゴル人の処断は基本的になされないことが多い)
こうして4年に渡るモンゴル王家同士の内戦はクビライの圧勝で幕を閉じることとなりました。
この内戦で登場したチャガタイ家のアルグが次なる抗争の火種として残ってはいますが・・・。


(クビライ政権の成立)
さてこの継承戦戦争で最も活躍したのが、東方三王家と五投下たち。
以後彼らはクビライの政権内で大きな発言力を有するようになります。
この後つづくハイドゥの乱においてもこれらの諸王家の力はクビライを助け、クビライが中国に入って大元ウルス(元朝)を建国してからも重鎮として最も頼られる存在であり続けました。

そうして成立した大ハーン・クビライの時代。
既にクビライはこの頃50代に差し掛かっていたと思われますが、なんとこの後30年余に渡ってモンゴル帝国の王者であり続けます。一般に騎馬遊牧民の王国は長続きしないものですが、モンゴル帝国、特に大元ウルスがその後130年以上も続くのは、ひとえにこのクビライの時代で作り上げた政策・統治システムが大きく働いていたでしょう。
王者が長生きするのはそれだけで長所になりうると前に書いた覚えがありますが、クビライはヨーロッパ史におけるシャルルマーニュのような一代の英傑に留まらなかったのですね。彼が亡くなった後に起きた内乱においてその成果は如何なく発揮されてきますがそれはまた後ほど。

さて、モンゴル宗家の後継争いに決着を付けたクビライ。
政治権力と軍事力を統合した彼の次の狙いは、いまだ彼の宗主権を認めない各王家ではなく、
中断していた南宋への攻撃再開でした。
次回から、10数年に及び、恐らくモンゴルが最も苦戦したと思われる南宋攻略戦をみてゆきます。



おしまい。

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  1. 2010/03/09(火) 23:36:17|
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